それでも僕はシスターズ・ルームのボーカルであることをやめなかった。どうしてだろう? 姉さんとの繋がりを断ちたくなかったから? 奏純さんの前ではロックスターでありたかったから? 度胸がなかったから……。理由はいくらでもある。

 ただ一つ言えることは、僕は結局なんの決断もできずに、ダラダラと怠惰に過ごしてしまったということだ。むせかえるような吐き気には、空を仰ぎ見て耐えて。どうしようもない孤独さは、密かに涙を流すことで発散した。いつか、この気持ち悪さも晴れるだろうと、そう信じて。

 ――そう信じ続けて、約一ヶ月が経過していた。


 十二月二十七日。クリスマスを過ぎ、師走の雰囲気を帯びてきた街は、徐々に白み始めていた。

 雪が降り始めたのは、前日の夜遅くからだった。積もったのは今年初めてだったと思う。クリスマスイヴからクリスマスにかけても降っていたけれど、そのときは雪というよりみぞれだった。幻想的なホワイトクリスマスではなく、単純に煩わしいシャーベット状の雪に過ぎなかったのだ。

 その日、朝から道路は雪と融雪剤とで白んでいた。歩道は除雪車が通ったあとのようで、排気ガスを吸った黒い雪が山のように積もっている。小学生たちがそんなミニチョモランマを越えて、公園へと遊びに向かっていた。

 僕はそんな銀世界を、朝から一杯のコーヒーとともに見ていた。リビングの窓からは、山際が真っ白になっているのが見える。純白の無垢な光景は、幻想的と言うよりほかになかった。毎年見慣れているはずなのに、初雪というのは心を躍らせる。

 しかし、そんな興奮も束の間。僕は喉の奥に酸っぱさを覚えた。

 十二月二十七日は、ただの休日ではない。僕らシスターズ・ルームにとっては、年内最後のライブの日だった。織田さんたちサフラゲット・シティの前座。そんな大役を与えられた、今年最後の大仕事だ。

 僕は昨日から気持ち悪さを覚えて、よく寝付けなかった。結局床についたのは二時過ぎで、しかも目が覚めたのは六時前。ろくに寝ていない僕は、かといって二度寝する気力も起きず、朝から母さんに言われて雪かきにかり出された。

 そしていまは、雪かきを一段落終えてゆっくりしているところだった。カウンターを挟んだ向こう側、キッチンでは母さんが朝ご飯を作っている。

 僕は味噌汁の匂いをかぎながら、ソファーに腰を下ろし、あたたかいコーヒーを飲んでいた。砂糖多めのミルク入りだ。ただ、そのコーヒーを飲むとき僕は、まるでブラックコーヒーを飲んでいる時のような苦さと酸味を覚えた。それがコーヒーの苦味ではなく、僕自身のストレスに由来するものとは、自分が一番よくわかっていた。

 でも僕は、それを決して顔に出そうとは思わなかった。

 胃がキリキリと痛んで、喉は手で捕まれたように違和感がある。でも、それを表に出してしまったら終わりだった。姉さんにも、奏純さんにも失望されてしまう。そう思っていたから……。


     *


 開場が午後六時。開演が午後七時。そして七時から八時までが、僕らシスターズ・ルームのステージだった。八時以降からは、サフラゲット・シティの独壇場となる。

 隣町にあるライブハウス・オーバーチュアは、今日も妙な熱気に包まれていた。薄明かりに照らされる客席は、BGMとアルコールを楽しむ上客に埋め尽くされている。年内最後ということもあってか、客入りは上々という話だった。

 僕らは控え室にいた。といっても、大したものではない。ステージ裏にある簡易的なもので、スタッフ用のロッカールームも兼任している。シスターズ・ルームとサフラゲット・シティ。二つのバンドのメンバーが入れば、もうそれでいっぱいいっぱいという感じだった。

 午後六時半。リハーサルを終えた僕らは、控え室で開演の時をいまかいまかと待ちわびていた。

 僕らシスターズ・ルームの格好はと言えば、姉さんたっての希望でみんなでモッズコートだった。このあいだのように学生服を着て、その上からモスグリーンのロング丈のコートを着ている。衣装を初めて合わせたとき、姉さんはプレゼントをもらった子供のようにはしゃいでいた。

 そしてそんな姉さんはいま、武者震いのように体をわななかせて、落ち着かない様子でいた。円さんと保志さんは、見かけは落ち着いていたけれど、きっと二人も緊張しているに違いなかった。

 そして僕はといえば、緊張どころの騒ぎではなかったと思う。胃がキリキリと痛んで、ことあるごとにグゥ……と獣のような音を発した。おなかが空いているわけでもなければ、トイレに行きたいわけでもないのに。精神的な痛苦が現実に痛みを伴って表出しているようだった。

 控え室の端っこで痛みに耐えていると、スマートフォンがふるえた。奏純さんからのLINEの通知だった。

 パスワードを入力して開くと、スタンプが送られてきた。「見てるよ」というメッセージとともに、「がんばれ」の四文字が記されたかわいい動物のスタンプ。彼女にもそんな女の子らしい一面があった。

 僕はそれに、もっともらしいスタンプを返した。敬礼をしているような、そんな顔文字みたいなスタンプだ。

「お友達、今日も来てるの?」

 スマホをいじっていると、不意に姉さんが問うてきた。顔をのぞかせて、姉さんは画面見ようとする。

 別に隠さなくてもいいのに、僕はとっさに画面の電源を落とした。姉さんは、少しガッカリしたような顔をした。

「来てるって」

「そう。じゃあ、前を越えるライブにしないと。用意できてる?」

「うん、大丈夫」

 胃がムカムカする。頭がフラフラする。気持ち悪い。吐きそう……。そんなこと、口が裂けても言えなかった。

「よし。じゃあさ、最後にみんなで円陣組まない?」

「円陣?」

「そうそう。ステージにあがる前にさ、『ファイト、オー!』って感じで」

「運動会じゃあるまいし」

「でも、気合い入れなきゃ始まんないよ? そうでしょ?」

 言って、姉さんは視線を僕から円さんたちに移した。

 円さんはいつもの澄まし顔でうなずいている。さらに隣の保志さんが「賛成っす」と続けた。

「ね? だから最後にみんなで、さ」

 ――最後に?

 僕は一瞬、姉さんの言ったことに違和感を覚えた。

 だけど次の瞬間、舞台袖からスタッフの人から呼びかけがあった時には、もう忘れていた。もう開演が近づいているらしい。「シスターズ・ルームのみなさん、お願いします」と若いスタッフが叫んでいた。


 舞台袖までやってきたとき、僕ら四人は暗がりの中で輪になった。そして互いの手を重ね合い、罰印を描いた。

「それじゃあ、いくよ」

 姉さんの声に合わせ、僕らは手を上にあげる。

 重なった声は、しかし客席からくるざわめきにかき消されてしまった。さらに続けざまにやってきた、司会者の紹介の声にも。

「それでは、どうぞ。シスターズ・ルームです」

 スピーカーが叫び、それを合図にして僕らは光の中へ。再びステージの煌めきの中へと飛び出していった。

 スポットライトの光は、今度は僕の目を眩ましてはくれなかった。客席に並ぶ二つ眼が、波のようになって押し寄せている。すぐ目の前には奏純さんもいて、壇上の僕らを見上げていた。

 いつもの通り、姉さんと円さんが左右に立ち尽くし、後ろのドラムセットに保志さん。中央前方に僕が立った。そのときも僕は吐き気を催していて、天井を仰ぎ見ていた。

 姉さんが司会者からマイクを譲り受ける。そして僕の後ろに立ったまま、観客めがけて話し始めた。

「こんばんは。わたしたちはシスターズ・ルームです。もしかしたら、初めましてじゃない人もいらっしゃいますかね」

 客席から声があがった。奏純さんの声に近い、女性の声だった。姉さんにうなずくような、言葉にならない声のざわめき。

 姉さんはそのざわめきに応えて、さらに続けた。

「ありがとうございます。実は、今日はスペシャルゲストもいらっしゃるんです。ご紹介します、サフラゲット・シティの織田新斗さんです」

 瞬間、割れんばかりの拍手と叫声が響いた。驚嘆するサフラゲット・シティのファンたちが、早くもロックスターの登場に興奮を隠せないでいる。

 織田さんは軽く右手を振りながら、壇上にあがってきた。そして姉さんの立ち位置から一歩下がったところにあるシンセサイザーを前に立った。

「今日はスペシャル・コラボということで。織田さんを交えてこの曲を。オアシスで『フォーリング・ダウン』」

 姉さんが言った、次の瞬間だった。

 織田さんの無骨な指が、鍵盤へと振り下ろされたのだ。そしてその刹那、何重にも歪められた旋律がスピーカーから吐き出された。


      ♪


 夏の太陽、それが僕の心を燃やしていく

 僕の知るすべてが落ちていく

 時間は世界にさよならのキスをして

 落ちていくんだ……


 僕は何とか歌い上げた。天井を見上げて、吐き気を押し殺して、どうにかして歌いきった。

 僕は、決して気分の悪さを顔には出すまいと誓っていた。それが果たしてどれほど達せられているか、自分の顔が見えないからわからないけれど。でも、少なくとも観客が気づいていないことだけは分かった。彼らは曲の余韻に浸って興奮したままだ。少なくとも僕のことなんて微塵も気にしていないようだった。

「ありがとうございました。織田新斗さんでした!」

 姉さんがまたマイクを手にして言った。

 織田さんが軽く手をあげて挨拶し、舞台袖にはけていく。それからスタッフが入れ替わりに入ってきて、彼のキーボードを回収していった。

「それでは、サフラゲット・シティのみなさんの用意が整うまで、わたしたちシスターズ・ルームの曲をお楽しみください。まずはわたしたちの初めてのオリジナル曲、『シスターズ・ルーム』です」

 言って、姉さんが後ろを向いた。保志さんに合図を送ったのだ。

 それからすぐに保志さんはスティック同士をぶつけてリズムを取った。

 三……二……一……姉さんのギターが入る。『ホワットエヴァー』とか『ドント・ルック・バック・イン・アンガー』みたいなイントロ。でも、それでよかった。僕らの音楽はそこから始まったはずなのだから。



 天井のシミがボクらを見てる

 ボクらが歌い出すのをシミは見てる

 使い古した人形も見ている

 ボクらが歌ってるのをじっと見てる



 ――そのときスポットライトが僕の視界を阻んだ。ちょうど天井に吊されたライトが、僕の視線と交錯したのだ。僕はそのまま目線を反らしてもよかったのに、目を半開きにしたまま上を向いて歌い続けた。じゃないと、余計なモノや余計な音が入ってきてしまうように思えたから……。



 役目を終えて吊された制服

 真っ赤なリボン、シュルリと抜けて

 カミの甘い香りひとつだけ手にして

 ふと出た言葉を詩にして歌おう



 ――姉さんのギターがいったん止まって、円さんのベースにバトンタッチ。それから一瞬だけ間があって、サビのメロディに入る。



 五月の桜に落ちていく

 桃色のなかへ沈んでく

 五月の桜に落ちていく

 花のかおりへ沈んでく


     ♪


 一言一言を発するたびに、脂汗のようなものが額を通り抜けていった。きっとそれは照明を反射して照り輝いているのだと思う。

 僕はモッズコートの裾を翻して、後ろで手を組んだ。そしてもう一度天井を見上げた。

「……イカロス」

 後ろで姉さんがつぶやく。次の曲へ移る合図だった。

 直後、姉さんのギターソロが始まって、再び照明が僕らを照らし出した。

 僕は思いがけず、はじめの歌詞をトチった。焦りからか唾をうまく飲み込めず、「午後」という言葉がにごってしまったのだ。きっと「ぎょぎょ」というふうに間抜けに聞こえたに違いない。

 姉さんたちは、それを気にも止めなかった――もしかしたら気づいてない――けれど、僕は気にしていた。喉元が気持ち悪さで熱くなって、全身から汗が噴き出したのだ。

 あらゆるものが、僕を押し潰そうとしているみたいだった。僕はあえて客席を見ないようにしていたけれど、それでも観客のなかに奏純さんがいることはわかっていた。彼女の前では、僕はロックシンガーでいなきゃいけない。

 姉さんたちの視線も、僕を押しつぶそうとした。みんな、このステージに立つのを楽しみにしていたのだ。それを僕が台無しにしたら、みんなを悲しませることになる。

 聴衆の熱狂ぶりもそうだ。彼らはこの場を楽しんでいる。僕がそれをなし崩しにするわけにはいかないんだ。

 僕のまわりにあるありとあらゆるものが、僕を押しつぶそうとしている。吐き気は段々とこらえ切れなくなって、胃がキリキリと痛み出した。喉が腫れたような違和感を覚える。違和感は唾をせき止め、口の中に滞留させる。口の中からモノがあふれ、喉が詰まり、息が苦しくなった。胃液ともども唾を吐き出したくなる。

「キミが弾いて、曲が生まれ。キミを見つめ、言葉ができて。キミは進み、ボクはついていく――」

 姉さんが思いきり腕を振り回し、弦を弾いた。姉さんが考案したコード進行は、いまもこうして僕の後ろで響いている。だけどどうしてだろう、そのギターの音と僕の声は、いつまでたってもお互いにそっぽを向き合っているようで、近づこうとはしない。ただでさえ気持ち悪いのに、僕は妙な違和感を覚えてたまらなかった。

「You just play. And I'll sing for you.」

 もう息が続かない。言葉が尻すぼみに消えていく。

 キミ《You》という言葉が、段々と僕から離れていくよう。そのたびに僕の首は真綿で締め付けられ、ゆっくりと苦しみへ近づいていく。苦痛は、それが手遅れになったときにようやく気づく。苦しくて、歌うことがままらなくなってきて、えずく直前になって……。

 二番が終わり、姉さんのギターソロに入ったときだった。僕はあまりの倦怠感で、ついに顔をうつむけた。いまのいままで、決して下は向かないと決めていたのに。苦しさに負けて、どうしようもなくなった。

 マイクスタンドを杖代わりにして、体を支えた。もう上を向いているだけでは、吐き気は押さえられなくなっていた。頭がガンガンと痛み、足下が覚束ない。息苦しくて窒息しそうだ。めまいがする……。

 すると、姉さんもようやく気づいたのだろう。モッズコートとスカートを翻し飛び上がったかと思えば、姉さんは急に動きを止めた。そしてギターソロも、このあいだのライブよりずっと控えめになった。

 そのとき、僕は久々に姉さんに見てもらえた気がした。ようやく姉さんの視界の中に入れた気がした。

「……大丈夫?」

 ――聞こえた。

 たしかに聞こえた。小声で姉さんがそう問うているのが。姉さんの唇がそう言っている。僕を心配している。

 でも僕は、首を縦に振った。とても小さな動きだったけれど、たしかにうなずいた。そして「大丈夫」と口にしてから、顔を上げた。

 ギターソロが終わり、最後のサビに入る。でも、僕は倒れる寸前だった。

「キミが弾いて、ボクが聞いて。キミが弾いて、ボクが歌って。キミはそこに、ボクのそばにいて。……You just play. And I'll sing for you.」

 ――ボクはキミのために歌うから……。


 『イカロス』が終わった直後だ。

 本当は、ここで姉さんがもう一度しゃべる予定だった。だからマイクが姉さんのところにもあった。だけど、それは本来の用途とは違った意味で使われた。

「すいません、ちょっと待っててもらえますか」

 突然、姉さんはそう口にした。客席にはざわめきが起こり、不安の空気が流れ始めた。

 舞台袖にいたスタッフが姉さんに何か叫んでいる。でも、僕はもう限界だった。なにを言ってるか聞こえない。

 ただ僕が感じられるのは、空気感だけだった。

 マイクスタンドを杖代わりにして立つ僕。その手を、誰かが取った。その人は僕に肩を貸して、ゆっくりと舞台袖に向かっていく。僕の足は動かず、ほとんど引きずられていた。

 光が消えていった。引きずられてどこかに進んでいくたび、目の前から輝きが失せていった。スポットライトの光は暗幕に覆われた。夜に消えていった。

 そうして僕は、舞台袖にあるパイプイスに座らされた。

 僕を運んできたのは、姉さんだった。……いや、それだけではない。スタッフの人たちもいた。

「雄貴、どうしたの? 体調悪いの?」

「……気持ち悪いんだ」

「歌えそう?」

 その問いに、僕はしばらく黙りを決め込んだ。

 次の曲は、姉さんが書いた曲、『マイ・グッド・ラック・ソングス』だ。とてもじゃないが、僕はそれを歌える気はしなかった。それこそ、今度こそ吐いてしまうかもしれない……。

「たぶん、無理だと思う」

「そっか……」姉さんは残念そうに言った。「……わかった。雄貴はここで休んでて。あとはお姉ちゃんがやるから」

「あとって……?」

「最後の一曲ぐらいなら、わたしが代役でギターボーカルするからさ。だから、雄貴はここで待ってて。わたし、すぐ戻ってくるから」

 姉さんはそう言うと、肩からさげていたギターを構えなおした。そしてスタッフの人といくらか言葉を交わした後、またステージへと戻っていったのだ。

 舞台袖にいたスタッフの人たちも、まもなく持ち場に戻っていった。みんな、自分がすべきことを持っている。僕だけが取り残されていた。


「すみません、お待たせしました。ちょっとトラブルがありまして。本当にすみません」

 ステージに戻った姉さんは、真っ先にマイクに向かって言った。姉さんが謝ることでもないのに。

 姉さんは釈明を続けた。僕が体調不良を訴えたこと。そして次の新曲は、自分が歌うということ。でも客席は盛り上がっていた。僕は、その場にいないのに。

 僕は舞台袖にいることにさえ、罰の悪さを感じ始めた。それは吐き気が減退するのに反比例して増加し、僕の心を惑わせた。逃げたことで、僕は内心ほっとしていたのだ。なのにそれに罪悪感を覚えている。

 結局、居ても立ってもいられなくなった。

 僕は舞台袖を飛び出して、一人客席のほうへと逃げていった。


 客席は興奮の中にあった。保志さんがリズムを刻んでから、姉さんのギターが入る。『マイ・グッド・ラック・ソングス』のイントロ。そこから、姉さんがギターボーカルに入った。

 姉さんの歌は、正直なところそこまでうまくはない。そのうえギターを弾きながらだから、少なくとも僕よりも下手だ。だけど、聴衆はそれでも喜んでいた。姉さんの歌に熱狂していた。

 僕は客席の一番後ろまで来て、ふと足を止めた。そしてそのとき、ステージが視界の中に飛び込んできた。

 着古した制服の上にモッズコートを羽織った姉さん。中央に立って、ギターをかき鳴らしながら歌っている。

「まだ涅槃のときじゃない。Nevermind そうでしょ? 屈折する星屑じゃない。Definitely maybe そうでしょ?」

 いつのまにか、僕は姉さんの歌声に引き込まれるようにして、足を止めてステージを見つめていた。姉さんの歌声が、僕を呼んでいるように……。でも、それがまた罪悪感を加速させ、一方で吐き気を減衰させていった。僕はたまらなくなった。

 するとそのとき、モッズコートのポケットが震えた。スマホがLINEのメッセージを受信したと、液晶を光らせ告げている。画面を見ると、送信者は南奏純とあった。

 そのとき、僕はようやく客席に目がいった。そして、気づいてしまったのだ。前列にいる一人の少女。ほかの観客が手を突き上げたり、体を音楽に合わせて揺らしたりするなかで、彼女だけは挙動不審にもキョロキョロあたりを見回していた。そして彼女が首を振るたびに、もみあげから伸びる青いエクステが風になびくように揺れた。

 ――奏純さんが僕を探している……。

 見れば彼女からのメッセージは、非常に簡素なものだった。

『大丈夫?』

 たったこの四文字。

 しかしたった四文字だけれど、いまの僕の心にガソリンをそそぎ込むには十分すぎる言葉だった。

 奏純さんの前では、僕はロックシンガーでいたかった。ロックスターでいたかった。いまの僕はただの高校生。泉家の気弱な弟。そんな姿を彼女に見せたくはない。

 なぜだろう。目には涙が浮かんでいた。僕はコートの裾でそれを拭うと、出入り口めがけて駆けだした。

 逃げたのだ。進んだのではない。

 姉さんの声と演奏と、奏純さんの視線を背に受けながら、僕は逃げ出した。

「まだ大丈夫だから。うまくやってくから……」

 姉さんの歌声を、僕はかき消してしまいたかった。

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