3
姉さんの大学が始まったのは、バー・セヴンでのライブを終えた三日後のことだった。それを期に、徐々に夏休みの名残も消えていって、秋めいた陽気になり始めた。高校でも衣替えが始まって、僕は毎朝ネイビーの上着を羽織るようになった。
風は冷たくなり始めた。かつて五月の葉桜を見せていた木は、段々と色を変え、葉を落とし始めていた。僕の部屋から木は見えなかったけれど、姉さんの部屋からは確かに見えたはずだ。あの五月の桜は、ゆっくりとその姿を失い始めていたのだ。
バンドの練習も、さすがに回数が減り始めていた。夏休み中は毎日のように練習していたのに、いまでは週に一度あればいいほう。僕も中間テストが迫ってきていたので、正直そんな暇はなかった。
ただ、僕には一つ気がかりなことがあった。
それは、姉さんのことだ。
姉さんはいつも夕方になると、僕の部屋のドアをノックして「ちょっと付き合って」と声をかけた。それが僕らの練習の合図で、その言葉を皮切りに姉さんはギターを弾き始める。それがいつもの習慣だった。ギターを始める前だって、姉さんが何かにハマっていたときはいつだってそうだったのだ。僕の部屋のドアを叩いて、僕を巻き込みにくる。それが姉さんのクセだった。
それがここ数日、まったくないのだ。はじめはただの偶然だと思った。けれど、何日も何日もそれが続くと、さすがの僕も必然を疑わずにはいられなくなった。
――もしかして、ギターに飽きたのかな?
一瞬だけそう思った。
姉さんは飽き性で、今までだって趣味を取っ替え引っ替えしてきた。プロレスに映画にドラマ、将棋や囲碁、読書や野球、サッカー、テニス……いままで姉さんが惚れては、フってきた趣味は多い。ついにバンド演奏もその一つになったのだろうか?
そう思ったけれど、しかし違った。姉さんは僕に声をかけなくなっただけで、確かにギターは弾いていたのだ。夕方、耳を澄ませば聞こえてくる。隣の部屋から壁伝いに響くエピフォン・カジノの生音。ぽろん、ぽろん、とこぼれ落ちるかすかな音たち。それが姉さんの奏でる音だとはわかった。
ただ、その音には聞き覚えがあったけれど、メロディに聞き覚えはなかった。どうにも姉さんが作った曲ではない。かといって、姉さんが普段聞いているような曲でもない。それに練習しているというよりも、音を探しているように聞こえる。
――姉さん、どうしたんだろう……。
僕はそうぼんやりと思いながら、肌寒くなりつつある夜を過ごした。布団に潜り込むと、あのとき――ライブの後に触れた姉さんの手の感触が額によみがえる。そんな気がした。
*
ある土曜日。中間試験最終日だった僕は、半日だけで帰ってきた。最後の世界史の試験は、正直ろくに穴を埋められなかった。赤点を覚悟しなければならないだろう。
しかし、僕は赤点よりも危惧していたことがあった。姉さんのことだ。
家に帰ると、母さんが台所で洗い物をしていた。そしてキッチンカウンターを挟んだ向こう側では、姉さんがソファーに横になっていた。テレビには、オアシスのライブ映像が映されていた。『アイム・アウタ・タイム』が流れている。
「お帰りなさい、ごはんなら机の上に出てるから」
母さんがそう言って、急ぎ気味に手をタオルで拭った。汚れた食器は食洗機に投げ込まれていて、あとはスイッチが押されるのを待つだけとなっていた。
「お母さんこれから仕事だから、あとよろしくね。物足りなかったら、冷蔵庫に昨日の残りの肉じゃがもあるから、チンして食べて」
「うん、わかった」
僕が応えると、母さんは脇を通ってリビングから出ていった。廊下にあるハンドバッグをとって、母さんはそそくさと家を出る。まるで逃げ帰るみたいに。
昼食はチャーハンだったらしい。小エビの入ったパラパラのご飯が深皿に盛ってある。付け合わせにタッパーに入ったたくあんの漬け物もあった。
僕は冷蔵庫から肉じゃがのタッパーを取り出すと、それを電子レンジの中に入れた。加熱時間を二分に設定すると、次に食器棚からスプーンとコップ手に取った。
姉さんは黙っていた。黙って、ライブ映像に魅入っていた。バンド趣味は終わってないらしい。
なんだかとても気まずかった。姉さんは機嫌こそ悪そうに見えなかったけれど、まるで僕は口を利いてもらえないみたいに思えたのだ。被害妄想といえば、そこまでかもしれないけれど。でも僕は、姉さんがずっと黙ってるような気がして。それが怖くて、僕のほうから口を開いた。
「ねえ、姉さん」
ちょうどそのとき、電子レンジがチンと音を鳴らした。
「なあに?」姉さんはリモコンを操作して一時停止する。
「いや、見てていいよ。大したことじゃないから」
「そう。で、なに?」
「いや……。姉さん、最近なに弾いてるの?」
「なにって?」
「ほら……前みたいに一緒に練習しなくなったじゃん。だからギター飽きたのかと思ったんだけど、姉さんの部屋から音は聞こえてくるからさ……。いま、何の曲弾いてるの?」
「何の曲って……」
言葉を濁す。姉さんの口がへの時に曲がる。いつも自分に正直な姉さんには、珍しい表情だった。
「答えたくないならいいよ。でも、ちょっと気になって。……シスターズ・ルーム、せっかく結成宣言したのに、どうするの?」
僕はそう言って、肉じゃが片手に席についた。テーブルにおいてあったポットから麦茶を注いで、スプーンを手にする。母さんのチャーハンに手をつけた。
しばらく、沈黙があった。そしてそれをかき消すみたいに、オアシスが『ショック・オブ・ザ・ライトニング』を歌った。
カニかま、ツナ。
残念ながら、昼食にはそのどれも入っていない。
僕はチャーハンのふた口目を放り込んで、肉じゃがに手を出そうとした。そのときだった。
「あー、もう。ごめん雄貴、やっぱりわたしウソつくのダメだね。……あのね、実はね、円ちゃんと一緒にこっそり曲作ってたの。わたしが歌詞考えて、曲は円ちゃんと一緒につくって」
「円さんと……?」
「うん。ほら、このあいだ雄貴に作詞ノート見させてもらったじゃない。アレみたら、詞書くのもおもしろそうだって思って。ためしにやってみたの。でもまあ、雄貴みたいにいろいろ思い浮かばないから、大学の友達に聞きながら書いてるんだけどね。日文科の友達に作家志望の子がいてね、その子に聞きながら書いてるの」
「日文科の友達って……?」
「ああ、雄貴の知らない人だよ。それでね、雄貴や保志くんには完成するまで内緒にして、ビックリさせようと思ったんだけど……ダメだね、わたしってば昔からウソつくの下手くそだから。だから、雄貴気づいたんでしょ?」
「気づいたって……」
気づいてなんかない。
ただ姉さんがどこか遠くに行きそうな気がして、だから手を出しただけなんだ。いつも差し伸べてくれる手が、どこかへ行ってしまいそうな気がしたから。
僕はジャガイモにスプーンを突き刺した。煮込み過ぎなのか、少し触れただけで崩れてしまった。
「そうそう。それでね、もう一つ伝えることがあったんだった。あのね、もう一度ライブしようと思うんだよ」
「もう一度?」
「うん。このあいだバーで演奏したじゃん? そのときのお客さんにね、隣町のライブハウスのオーナーさんがいたんだって。それでね、来月末にある若手バンド限定のライブコンテストに参加しないかって電話がきてさ。参加費がちょっとかかるけど、そこはわたしのお小遣いから出すから、みんなで出てみない? シスターズ・ルームの四人でさ」
「僕ら四人で?」
「そう。ちなみにコンテストで入賞すると、賞金がもらえるみたい。やってみない?」
「賞金目当て?」
「違うよ。ただやってみたいだけ。どう?」
「いいけど……。さっき言ってた円さんと作ってるって曲は、そのとき演奏するの?」
「それがね、作曲がうまくいってなくってね……。とりあえずバーの代役だったときと同じで、カバー曲が一つと『シスターズ・ルーム』、『イカロス』の三曲でエントリーしようかなって思ってる」
「……じゃあ、いいよ」
「じゃあって、どういうこと?」
刹那、姉さんの瞳の色が少しだけ変わった。それは我の強い姉さんが出たときの鋭い目だった。僕はそれに見つめられると動けなくなってしまう。蛇に睨まれた蛙のように。口に運ぼうとしていた米粒が、深皿の中へとこぼれ落ちた。
「……特に意味はないよ」
「そっか。じゃあ、また練習ね。カバー曲さ、オアシスの『アイム・アウタ・タイム』がいいんだけど、どうかな?」
「いいよ、練習する」
「オッケー。じゃあこのあと、わたしの部屋で練習しよっか」
姉さんはそう言うと、ディスクのイジェクトボタンを押して、ケースにしまった。それからなにも言わずに、姉さんは二階へと戻っていった。
僕は一人、こぼしたチャーハンをすくい上げていた。
*
中間試験後の学校なんて退屈なものだ。授業の半分はテスト返しで終わって、残り半分はその解説で終わる。それどころか、授業時間より早めに切り上げる授業まであったりして、休み時間がよけいに長くなるほどだった。
僕は休み時間が嫌いだ。これは普通の高校生には当てはまらないかもしれないけれど、少なくとも僕は嫌いだ。なぜって、ノートを開けないからだ。作詞用のノートを広げて、そこに文字を書き込んでいられなくなる。授業中なら、「ああ、ノートをとっているんだな」という程度にしか見えないけれど、休み時間となれば違う。休憩の時間にまでペンを走らせていれば、なにをしているのかと気になるはずだ。
だから僕は、休み時間が嫌いだ。
授業終わりの昼休み。僕は母さんの作ってくれた弁当を食べ終えてから、一人本を読んでいた。僕の席は窓際の一番後ろなのだけれど、ちょうど日差しがあたって心地いい。読書には最適の場所だった。
僕はぼんやりと本を見ながら、その一字一字に注意を払っていた。読んでいるのは、ピート・タウンゼンドの『四重人格』。円さんから借りた本だ。
「作詞に使えるかもしれない。これは、ザ・フーのメンバーが書いた本なんだ」
彼女はそう言って、僕にこれを貸してくれた。しかし、正直内容はサッパリだった。
パラパラとページを繰りながら、周りの音を聞く。環境音。廊下を駆け回る音。女子の談笑。男子が紙屑のボールで遊ぶ音。そんな、雑多な音たち。
しばらく僕はいろんな音に耳を澄ませながら、言葉を目で追っていた。しかしあるとき、とある声が僕の興味を惹いた。
「
「そうそう。ぜったい楽しいからさ」
男子二人が、一人の女子にそう話しかけている。
一人は毛先を茶色く染めた男で、頭からワックスに浸かったみたいにツンツンしていた。もう一人は真っ黒い髪を長く伸ばして目を覆っている。まるで卵の殻でもかぶってるみたいに。
その二人には見覚えがあった。たしか、軽音部の部員だ。僕もバンド活動をしている身であるから、他人のそういう話はいやでも気になる。だから、顔だけは覚えていた。たしか黒髪のほうがベーシストで、茶髪のほうがギターボーカルだった。
「えー、でもさ、アタシそういうアマチュア興味ないってか。アンタら邦ロックのカバーでしょ? アタシ、どっちかって言うとUK好きなの。USも聞くけどさ」
対する彼女はそう答えた。
彼女は、男二人に対してずいぶんと横柄な態度だった。立ったままの二人に、彼女だけはイスに座ってふんぞりかえっている。
――南奏純。
名前と顔だけは知っていた。クラスでも一、二を争う美少女で、長い黒髪と切れ長の瞳、そして人形のように白い肌が特徴的だった。身長もそこそこ高くて、モデル体型。クラスでは高嶺の花扱いだが、その一方で音楽好きということで軽音部の男にはしょっちゅうチョッカイをかけている。だから、僕も覚えていた。僕もこれでもバンド活動をしているはしくれだったから。
「UKって……ああ、ニルヴァーナとか?」
「ニルヴァーナはUS。グランジでしょ。アタシが好きなのは、アークティック・モンキーズとかそういうの。まあニルヴァーナも好きだけど」
「アークティック・モンキーズ……?」
言って、軽音部二人は互いの顔を見合わせた。どうやら二人とも知らないバンドらしい。
南さんはその様子を見ると、深く嘆息した。
「もういいよ、別に。ところでさ、来月アタシがよく行ってる隣町のライブハウスで新人バンド限定のコンテストがあるんだけどさ、アンタたちそういうのには応募しないの? もしそれに出るんだったら、見に行かないでもないんだけど」
「コンテストって、どれ?」
「これよ。ちょっと待って……」
南さんはブレザーのポケットからスマホを取り出す。それから何か画面を出して、軽音部二人に見せた。
正直、そのときは僕もそこまで三人の会話を気にかけてなかった。ただ、このあとの話で、僕は南さんに興味を持たざるを得なくなった。
「ライブハウス・オーバーチュア、新人バンドコンテスト出場者募集……って、これ?」
「そう。アタシが追ってたバンドのキーボーディストが新しくバンド組んでね、これに出るっていうの。だからこれは絶対見に行くつもりなの。アンタたちも出てみたら?」
「えー……奏純ちゃんの追ってたキーボーディストって、たしかセミプロの人じゃなかった? 勝ち目ないじゃん」
「勝ち目ないからって応募しないの? それってロックじゃなくない? いまんとこの出場者とか、だいたい新人ばっかりだし。アンタたちも出てみなよ。いいとこまで行くかもよ。ほら今のところ参加バンドは……えーっと、『サフラゲット・シティ』、『サージェント・チェリー』、『コミュ力欠乏症候群』、『時速60マイル』、『シスターズ・ルーム』だって」
「……ま、まあ、考えとくよ」
茶髪の男が言葉を濁す。
しかし、僕はそれどころではなかった。
南さんは確かに言った。『シスターズ・ルーム』と。
彼女は、僕と姉さんのライブを見に来るというのだ。いや、もちろん彼女の目当てがシスターズ・ルームでないのはわかっている。けれど、僕はとたんに動悸が止まらなくなった。心臓を摘まれて、熱せられた鉄を押し当てられたような気持ちになった。
大急ぎで水筒を取り出して、お茶を口に含んだ。熱を下げるみたいに。でも、下がることはなかった。
クラスメートが見に来る。
それは、まったく想像していなかった。
――でも、見られてもいいんじゃないか?
僕の中の虚栄心が言った。でも、僕はそれに対して首を縦にも横にも振れなかった。
南さんがシスターズ・ルームを見たらどう思うだろう……。期待半分、不安半分。いや、不安九割。胸を締め付けた。
学校が終わると、僕は一目散に姉さんの部屋に行った。姉さんはもうすでに帰ってきていて、ギターではなく勉強机に向かっていた。机上には、読書灯に照らされる『教育学概論』があった。
「どうしたの、そんな切羽詰まって」
「ちょっと……相談したいことがあって」
「相談? まあ、とりあえず落ち着いてよ」
姉さんはそう言うと、教科書を閉じてイスごと振り返った。
僕は姉さんのベッドに腰を下ろした。上がっていた息を整え、頭を整理する。
「実は、クラスメートが僕らのライブに来るかもしれないんだ」
「どういうこと?」
「その……たまたま、クラスの人が好きなバンドが、今度僕らの出るコンテストに出るみたいで、それで……このままだと僕がバンドのボーカルだってバレるっていうか、なんていうか……」
「なに、雄貴ってばバンドのことクラスの友達には黙ってたの?」
「黙ってたっていうか……」
僕は言葉を濁す。
誰かに言う必要もないと思ってたし、言う相手もいなかった。それに、この趣味もすぐに終わると思っていた。
「いいじゃん。クラスの人にカッコいいとこ見せてやれば。それってもしかして女の子? あのね、雄貴。女の子って、バンドやってる子に弱かったりするんだよ。悪いようには思われないって」
「そうなの……?」
「そうだよ。こないだの雄貴だって、ちょっとカッコよかったし」
言って、姉さんはイスから腰を上げた。
それから姉さんは、ふすまを開けてタンスに首を突っ込んだ。つっかえ棒にかかったハンガー。そのうちの一つを取り上げる。
「それよりさ、今度のライブ、ちょっと衣装とか考えてるんだけどさ」
「衣装? 前はみんな私服だったじゃん。円さんとか保志さんはバンドTシャツだったし……」
「そうそう。統一感ないでしょ? だからさ、ちょっといろいろ考えてて……っと、これなんてどう?」
ハンガーに掛かった上着を取り上げる。
モスグリーンのミリタリーコート。いわゆるところのモッズコートだった。姉さんはそれを上から羽織って見せた。袖を通さずに、マントみたいに。
「どう? これにさ、高校時代の学生服とか合わせたらいいかなって思ったんだけど。オシャレじゃない? モッズコートっていったら、ビートルズやオアシスも着てたし。円ちゃんも、『モッズはザ・フーのシンボルでもあるからいいぞ』って言ってたし。ちょうどいいと思うんだ」
「いいと思うけど……まだコートには暑くない? それにステージって、照明だらけだし、動き回って暑くなると思うんだけど……」
「あー……たしかに。……じゃあさ、とりあえず次のライブは学生服だけってことで! コスプレでいこうよ!」
「僕は現役高校生なんだけど……。でも、いいんじゃない、姉さん制服まだ着れる?」
「雄貴、その質問は女の子に失礼じゃないかな? わたし太って見える?」
「いや……そういうわけじゃ……」
「ならいいけどさ」
姉さんはハンガーにモッズコートを戻した。よく見れば、中古品だからか汚れが目立った。本当に戦地を駆け抜けてきたみたいな汚れだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます