第三章 マイ・グッド・ラック・ソングス

 あの日以来、姉が音楽の話に触れたことは一度としてなかった。テレビで音楽番組をやっていたら黙り込むし、ほかの話題を振ってくる。アイポッド片手に出かけるようなこともなくなった。有名なアーティストが亡くなっても、知らんぷりをした。バンドのことなんて何の興味もないような素振りをした。まるで、シスターズ・ルームというバンドは初めからこの世に存在しなかったとでもいうみたいに……。

 姉さんの趣味が一つの終わりを迎えたのだ。そうだとしか考えられなかった。別に納得できない話でもなかったけれど、僕はどこか寂しさを覚えていた。姉のバンド趣味の終焉を望んでいたのは、他でもないこの僕だったというのに……。


 突然の解散宣言から一週間と少し経ったころ、姉さんは新しい趣味を見つけてきた。

 正月気分を過ぎたある日のこと。食卓に並んだのは、スクランブルエッグのようなオムレツが乗ったチキンライスだった。それもチキンライスは、米の一粒一粒が妙に水気があってねっとりとしていた。不味くはないが、いまいちピンとこない味だった。

 食卓を囲む中、スプーンで卵をすくい取りながら僕は首を傾げた。

「これ、母さんが作ったの?」

「いいや。舞結が作ったのよ。あんまり出来はよくないけど」

「姉さんが?」

 そう言うと、机のすみで縮こまっている姉さんがいた。

「実はさ、料理始めてみようと思ってね。今日お母さんに教わったり、本読んだりしながら作ってみたの。でもまあ、初めはうまくいかないよね」

 姉さんはそう言って笑ったけれど、母さんはあまりいい顔はしていなかった。

「これじゃダメよ。しっかり覚えて、せめてちゃんと人前に出せるものが作れるようにならなくっちゃ。これから結婚したりしたら、どうするのよ」

「いやあ、大丈夫だって。これから覚えるから」

 水気の多いチキンライスをさらにケチャップをかけて食べる。まずくはない。でも、母さんのオムライスには劣る。味としては純粋にそう思った。

 これが姉さんの新しい趣味の始まりであり、バンドとの決別の現れだった。姉さんは、バンドに関わることを拒絶するようになり始めたのだ。


 姉さんはもう音楽の話をしなくなった。それはいいことなのかもしれないし、悪いことなのかもしれない。

 僕は、豹変した姉さんの態度について二つの感情があった。安堵感と物足りなさだ。

 姉さんがむかしみたいに趣味をとっかえひっかえして、かつまた僕を呼びつけて趣味に巻き込むことに僕は安心していた。料理趣味に転向して以来、姉さんは僕を味見役として使っている。僕は、それに満足していた。

 しかし一方で物足りなさも覚えていた。姉さんが音楽について一切口にしなくなった。その事実が僕に与えたものというのは、口惜しさだ。もうあの感覚――姉さんの歌と僕の声との距離がゼロになる――が味わえないと思うと、残念な気持ちになったのだ。舞台に上がれないと思うと、寂しく思えたのだ。

 もちろん、僕自身都合のいいことを言っているとはわかっていた。肥大化する姉さんの趣味、シスターズ・ルームを見て、嫌悪感を覚えていたのは僕だ。そしてあげく逃げ出したのも僕だ。姉さんから音楽の趣味を奪ってしまったのも、きっと僕だ……。

 だけど、僕は、それでも物足りなさを感じていた。

 もう一度音楽をやりたいと思っていた。それを失ってから初めて気づいたのだ。


     *


 正月が過ぎ、蛇足のような三学期が終わり、学校が春休みに入った三月下旬。僕はある届けものを持って、千鳥楽器店まで足を運んでいた。円さんの家にくるのは、ライブハウスでの事件以来初めてだった。

 店内では円さんが店番をしていた。親父さんはいない。店先に車がないあたり、外にでているようだった。

「いらっしゃい」

 僕がドアを開けて店内に入ったとき、円さんは何事もなかったかのようにそう言った。

 正直、僕は事件以来シスターズ・ルームのメンバーに会うことを恐れていた。バンド解散の原因は僕にあると、そう思っていたからだ。

 しかし、円さんは予想に反してケロッとしていた。元々肝の据わった人だったけれど、このときもそうだった。

「姉さんからおすそ分けで。アップルパイ持ってきました」

「聞いてるよ。舞結が料理を始めたなんて信じられないな」

 円さんはカウンターを出て、届け物を受け取りに。僕が千鳥楽器店に来た理由の一つは、これだった。

「なんでも今年はリンゴがたくさんとれたみたいで。余り物なんで、遠慮せずもらってくださいだそうです」

「そうか。しかし、舞結の料理のウデは正直なところどうなんだ? 高校の家庭科のときなんて災難だったぞ」

「そのときよりは格段によくなったと思います。母がしっかり教えているので、少なくともおいしく食べれるレベルかと」

「フムン、成長したもんだなぁ」

 円さんは口先ではそう言ったものの、目は訝しげで、やおら袋の中身を見やった。中には大きめの皿に乗ったアップルパイ。甘く酸味の効いたかおりがほのかに立ち上った。

「見た目は合格点ってところかな。ありがとう、あとで親父と一緒にいただくよ」

「はい。また何かあまったら持ってくるんで」

「わかった」

 言って、円さんはカウンターの向こうへ。バックヤードのほうへと歩いていった。カウンター裏は二階の千鳥家とつながっている。冷蔵庫に運んでいくのだろう。

 だけど僕は、その前に円さんを呼び止めた。

「あの、円さん。ひとついいですか」

「ん、なんだ?」

 体はそのまま、彼女は首だけくるりと振り向いた。

「あのとき……姉さんがシスターズ・ルームを解散させたときの話、聞かせてくれませんか。話したくないなら結構です。でも……よかったら教えてください。あのとき、なにがあったのか。姉さんは話してくれないんです」

「いつか聞きにくるとは思っていたよ」

 そう言って、円さんは踵を返した。アップルパイをカウンターに置いて、彼女はレジ手前にあるイスに腰掛けた。


「あたしも初めはなにがなんだかわからなかった。でも、思えば舞結は初めからああするつもりだったのかもしれない。いま考えると、そう思うよ」

 平日の昼下がり。客入りのない楽器屋のなか。円さんはアップルパイを切り出し、コーヒーを淹れた。カウンターを挟んで立って、壁に掛けられたギターを見ながら。

「舞結が趣味をとっかえひっかえするのはいつものことだ。バンドはやけに長く続いたけど、いつか終わるだろうとあたしも思ってた。舞結のことだしな」

「でも、僕は姉さんがまだバンドを続けたいと思ってました」

「それはどうだろう。舞結は、結局やりたいことをやり尽くしたんじゃないかな。正直、あたしは舞結がうらやましいよ。ライブ中に突然解散宣言するとか、まるでジギー・スターダストみたいだ。しかも楽器をぶっ壊すなんてザ・フー顔負けだよ。ほんと、あのときはロックスターが目の前に現れたみたいに思えたよ……。

 あのとき、スポットライトに照らされた舞結は、一歩あたしの前に出たんだ。思えばアレは前兆だったんだと思う。舞結は急に体を震わせて、それから司会の声を消し飛ばすような勢いで叫んだ。『解散する』って。会場が一気にざわついたよ。でもあれは、『何言ってんだコイツら?』みたいなざわつきでもあったと思う。でも、舞結はそれも気にせず、観客なんて知らんぷりで自分の道を進み始めたんだ。楽器をぶっ壊して、何もかもを終わりにさせたんだよ。

 あたしもそのなかに飛び込みたかったけれど、すんでのところで自制心が邪魔をした。……アレは舞結にしかできない、舞結なりのバンドとの決別だったんだと思う。だからあれは、舞結が好きでやったんだよ。雄貴君が気にすることじゃない」

「そう、ですかね……」

「舞結はいつだってそうだった。自分で勝手に始めて、自分で勝手に終わらせるんだ。勝手に人を巻き込んでおいてな。そのことは、あたしより弟の君のほうが詳しいはずだろう?」

「それは、そうですけど……」

 カウンターテーブルに置かれたコーヒーが静かに湯気を上げた。アップルパイが徐々に冷えていく。

 そのとき店の玄関のほうからエンジン音が聞こえてきた。ブレーキのスキール音も。停車したのは、千鳥楽器店のバンだった。エンジンが止まって、車内から親父さんが降りてきた。

 半年前、バンドを結成する直前は、親父さんの登場に少しおののいていた。でも、いまはそうする必要もない。バンドもなくなったのだから。

 円さんは、すぐにイスから立ち上がって、仕事に戻るような素振りをした。だけど僕だけはカウンター前に立ち尽くしていた。


 それから僕は、前々から考えていたことをついに実行に移した。

 ズボンのポケットに手を突っ込み、中に入っていたものをすべて引っ張り出す。それはここ数ヶ月分のお小遣い全額と、今年のお年玉全額、そして誕生日にもらったお小遣いのすべてだった。併せて数万は下らない。僕はその札の束をカウンターに叩きつけた。

「あの、これでギターを買いたいんです。できれば、姉さんが持ってたのと同じやつを」

 唐突に僕がありったけの小遣いを出したのを、円さんも親父さんも驚いて見ていた。しっかり数えていないが、十万は行かなくとも七、八万はある。それだけの大金を高校生が叩き出したのだ。驚くに決まっている。

 途中からきた親父さんは目を白黒させていた。

「なんだそんな大金出して。雄貴君も楽器始めるのか?」

「ええ。ギターをやろうと。できれば姉さんが使ってたのと同じやつがほしいんです」

「お姉さんが使ってたのって……円、泉さんちの嬢ちゃんは何を使ってたんだ?」

「エピフォン・カジノ。親父が使わなくなったビンテージ品だよ。あたしが修理したやつ」

 いっぽうで円さんは、まるですべてを見透かしたような目をしていた。彼女は確かに驚いていたが、しかし親父さんほどではなかった。どこか頭のなかでは想定していたことだったのだろう。

「カジノはなかったけど、リヴィエラならあったはずだと思う。色も舞結のと同じビンテージ・サンバーストとはいかないが……それでもいいなら」

「このお金で買えますか?」

 円さんは目線をおろし、カウンターに並べられた札を一瞥した。

「問題ない。だけど、本当に買うんだな? シスターズ・ルームは解散した。きっと舞結は、もうバンドをやろうなんて言わないぞ。あいつは一度飽きるとなかなか戻ってこないからな」

「それでもかまいません。……僕は、僕が弾きたいから買おうと思ったんです」

「……わかった。弾き方も基本ならあたしが教えるよ。それでいいか?」

 僕はうなずいた。もう腹は決まっていた。

 円さんが僕のうなずきに答えると、ちょうど見計らったようなタイミングで親父さんがギターを取りにいった。そして、壁に掛けられた一本のギターを手に取った。

 それは、チェリーカラーのエピフォン・リヴィエラ。そいつは、姉さんの持っていたカジノのとは違って、どこかこなれていないような印象があった。それもそのはず。僕がいま買おうとしているのはまったくの新品。いっぽう姉さんが使っていたのは、何十年も前の中古品だったのだから。

 ――僕は、ゼロから始めるのだ。

 親父さんからリヴィエラを受け取ったとき、僕はそう心に誓っていた。


     *


 それから春休みのあいだ、僕は食い入るようにギターを弾いた。初めはフレットを押さえるのもやっとで、ワンフレーズでも弾こうものなら指が痛んで仕方なかった。三弦を押さえようとすると、指が四弦に当たって変な音が出たりだとか。アップストロークがうまく弾けずにリズムに乗れなかったりだとか。セーハができなくて、いっこうにFでつまづいていたりだとか……。初めは散々な始末だった。

 でも春休みの終わりに差し掛かって一ヶ月ぐらい弾いていると、簡単な曲なら弾けるようになっていた。

 僕はようやく、姉さんに近づき始めたような気がしていた。姉さんと比べたら、ずっと成長速度は遅かったけれど。それでも僕は、姉さんに近づけていることに喜びを覚えていた。そしていつしかそれは、音楽をやる喜びに変わりつつあったのだと思う。


 春休みの終わり頃になって、奏純さんが僕がギターを始めたことを聞きつけてきた。どこから情報を仕入れたかわからなかったけれど、それを知った彼女はすごい剣幕で僕に怒った。

「解散したと思ったら、なんでギター始めてんの? どうしてそれアタシに言わないの? ちょっと、いまから泉くんの家に行くから。腹くくって待ってなさい」

 そんなメッセージがLINEに届いたのは、春休み終わりの三日前。僕は宿題そっちのけでギターを弾いていた。

 こうして僕は、生まれて初めて自分の部屋に女の子をあげた。幸いだったのは、僕の部屋に女の子に見られたらマズいものがなかったことだ。正確にはなかったというわけではないが、しかし日々姉が部屋を訪ねてくる僕はその点完璧だった。少々散らかっているが、部屋の中にあるのはギターとアンプ、教本と教科書類。あとは衣類ばかりだ。

 それだからか、いざ部屋にあがると奏純さんは不服そうだった。

「……男の子の部屋の割にずいぶんスッキリしてるね……。なんか期待はずれなんだけど」

「いったい何に期待してきたのさ。奏純さんが来た理由はギターでしょ?」

「そうよ。だって、解散したのにギター買ったって聞いたから」

 そう言って、彼女は僕の部屋の壁を指さした。壁の向こうは姉さんの部屋だ。

「たしかに、シスターズ・ルームは解散したよ。姉さんのバンド趣味は終わったみたいなんだ」

「いつものお姉さんに戻ったってわけね。でも、雄貴君はロックスターをやめるつもりはないってワケ?」

「まあ、なんというか……。ただ単純に物足りなくなったんだ」

 僕は壁に立てかけたギターケースから、リヴィエラを取り出した。クッション付きのソフトケースは、親父さんがオマケで付けてくれた。

 ケースのポケットからエピフォンのロゴがすり切れたピックを手にとり、僕はベッドに腰掛けた。太股にボディを乗せて、ネックを左手で支える。

「出た。いつものポエマー発言。『物足りなくなった』ってどういうこと? ステージでの興奮が忘れられないとか?」

「たぶんそうかも。でもなにより、僕は音楽することが楽しかったんだと思う。それに、姉さんがやっていた趣味を追っかけたくなったのかな。姉さんを追っかけてみたくなったんだよ。巻き込まれるんじゃなくてさ」

 僕はピックをおろし、軽く曲を弾いて見せた。ビートルズの『ヘイ・ジュード』。姉さんが僕にはじめて弾いて見せた曲だった。

「奏純さん歌ってよ。せっかくだしさ」

「ええー、なんでアタシが? 歌うのは雄貴君の仕事でしょ?」

「僕はギタリストに転向したんだ」

「ギターボーカルの間違いでしょ。アタシは一介のファン。ロックシンガーはアンタ」

「サービス精神がないなぁ。じゃあ、コーラスやってよ」

「それなら考えてやらなくもないけど」

「うーん……。それじゃ、ついでにリズムギターもやってよ。奏純さん、むかし買ったギターまだある?」

「安いレスポールモデルだけど」

「じゃあ一緒に練習しようよ。二人でさ」

「メンバー入れ替えてシスターズ・ルーム再結成する気?」

「違うよ」

 FからF6へ。

 ――ナー、ナーナーナナナナー、ナナナナー

 頭の中で歌いながら、僕はつたない『ヘイ・ジュード』を弾き続けた。


 その日以来、僕の部屋では奏純さんと二人でギターの練習をすることがあった。学校終わり、二人とも帰宅部だったのでほぼ毎日だったと思う。

 僕のリヴィエラと奏純さんのレスポールを持ち寄って。お互い肩を寄せるみたいにベッドに腰掛けて弾いた。無我夢中だった。ドラムにはタンバリンを代用したりだとか、ベースパートをギターで弾いたりだとか。僕がメインボーカルで、奏純さんがコーラスで。二人きり、部屋で遊んでいた。

 それでも姉さんは音楽についていっさい口にしなかった。

 僕らの演奏は、確実に壁づたいに姉さんの部屋に聞こえていたはずなのだ。僕のギターも、奏純さんのギターも。歌声も、すべて。でも姉さんは知らんぷりを続けた。

 あるとき、それは八月のことだったと思う。僕は姉さんが部屋に戻ってきたとき、これ見よがしに『シスターズ・ルーム』を弾いた。それから姉さんの曲『マイ・グッド・ラック・ソングス』も。だけど姉さんは何も言ってこなかった。

 ただ姉は、ときおり僕の部屋を訪ねては、料理の味見を頼むだけになっていた。

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