3
実家に帰ってきたのは、およそ五ヶ月ぶり。年末年始に帰ってきたとき以来だった。だからそんな時間は経っていないはずなのに、それでも町は様変わりして見えた。田舎は、都会と違って時間の流れがずっと緩やかだと思っていた。でも、そんなことはなかった。時間の流れは自分の年齢に比例して速くなるのだと、最近の僕は気づき始めていた。
いま、僕は姉の部屋に立っている。より正確に言えば、姉の部屋だった場所に。もはやそこはガランとした空洞のようで、古ぼけたカーペットの上に残されているのは勉強机とタンス、それからベッドぐらいなもの。日用品の多くはなくなっていて、押入の中身ももぬけの殻。声を出せばよく響きそうなぐらいスッカラカンだった。
姉は、ついにこの家を出て行く。
僕はそんな実感を、将来同じ境遇になるかもしれない人と味わっていた。
「初めて見たお姉さんの部屋がこんながらんどうだなんてね」
奏純は姉の部屋を見回りながら、冗談めかして言った。
奏純は悪意こそないのだけれど、ときに胸に突き刺さることを言う。歯に衣着せぬ言動は彼女の長所でもあったが、同時に短所でもあった。
「お姉さん、結婚したら家出てくんだって?」
「らしいよ。て言っても、相手が住んでるのは隣町みたいけど。中学校の先生だって。なんでも大学時代の先輩で、そのままゴールインとか。一緒に隣町に住むらしいよ」
「へぇ。寂しくないの?」
「もし寂しがったりしたら、奏純が怒るだろ」
僕は冗談半分、半分本気。
それから僕は、奏純をよそに部屋の中を探し回った。
そのあいだ奏純といえば、あからさまに暇そうにしていた。気晴らしに窓から大声を出してみたり、僕にチョッカイを出してきたり。でも、僕はそれに構っている余裕はなかった。
無視一辺倒の僕にようやく飽きがきたのか、奏純は姉さんのベッドに寝転がった。そしてちょうどそのとき、僕はようやく目当てのものを見つけた。
「……よいしょっと。ほら、あった」
僕は、それを手にとって見せた。古ぼけたヤマハのギター。そしてレディースのモッズコートだった。
「なにそれ、アコギにモッズコート? ……って、まさかそれって」
「そう。最後のライブで姉さんが着てたモッズコート。それと姉さんが初めて弾いたギターだよ。きっと残してると思ったんだ。姉さんってば忘れ癖があるからさ、楽器一式しまった場所なんてスッカリ忘れてるんだろうと思って」
モッズコートは、ちょうど奏純の背丈にぴったりだった。少し大きいかもしれないが、モッズコートはむしろブカブカのほうが様になる。奏純は試しに着てみると、まるでロックスターの衣装でももらったみたいに喜んでいた。
ギターのほうも良好だった。弦はサビかけていたけど、ボディにも目立った汚損はない。まったく保存状態がよかったのだろう。調律は狂っているだろうが、ペグの状態もいい。指板はほのかに白んでいるが、使えそうだった。
こんなこともあろうかと、僕はポケットからチューナーを取り出して、調律を合わせみた。そして軽く曲を弾いてみた。オアシスの『アクイース』。悪くない感じだ。
「コズウィビリイィーブ、イーチアーザー……みたいな?」
弾いてると、奏純がわざと拙い発音で歌ってきた。暇つぶしのつもりだろう。
「歌うならちゃんと歌ってよ。これをやるつもりなんだからさ」
「これを?」
「そう、これを」
Fメジャー7からEへ。
*
翌日、久々のメンバーが集まった。ただし姉さんはそこにはいなくて、その代わりに奏純が加わっている。
円さん。保志さん。五年前、シスターズ・ルームというバンドを組んでいたうちの四分の三が、五年越しに初めて顔を合わせた。それもバンドがはじまった場所の一つ、千鳥楽器店の中で。今日、店は定休日だった。
姉さんの結婚式まであと一ヶ月と少しというなか、突然呼び集められた二人は不安げな顔をしていた。その顔つきは五年前からずっと変わっていないように思えたけれど、しかし大人びた雰囲気が二人にはあった。
円さんは、専門学校を卒業後、隣町の美容室に半ば徒弟修行という形で就職。保志さんは、就職は決まったものの地元からも大学近辺からも遠ざかって、今も一人暮らし中という。
学生時代を終えたあとの二人に何があったか、僕は深く詮索しなかった。それはある意味、僕が現実逃避を続けているという確たる証拠かもしれない。就職という将来から。
「それで、舞結の結婚式でバンド演奏をしようだって?」
真っ先に口火を切るのは、いつも決まって円さんだった。カウンターに背をもたれながら、彼女は澄まし顔でいた。
「はい、そうです。それでせっかくだし、かつてのメンバーを集めてみようと。でも、シスターズ・ルームではなくて、あくまでコピーバンドとして。姉さんがいなきゃ、
「たしかに、その意見は賛成だが……。しかしバンド演奏か。あと一ヶ月ちょっとでよくそんなことを」
「僕も僕で忙しかったので、連絡が遅れてすみません……。なので、いま現在できる曲をやろうと思います。僕としてはオアシスがいいんですけど」
「このメンバーなら鉄板ってとこっすね」
ドラムセットのイスに座る保志さんが横から言った。
「はい。リードギター兼ボーカルが僕で、リズムギターが奏純。円さんと保志さんには、それぞれベースとドラムを担当してもらって。それで『アクイース』でもやろうと思ってるんです。どうですかね」
「どうもこうも……」と円さん。「演奏できれば問題ないが。その一曲だけか?」
「問題なければ、ほかに『シャンパン・スーパー・ノヴァ』とか『リヴ・フォーエヴァー』とかも入れていいと思ってるんですが……。どうですかね?」
「異論はない」
「俺もっす」
二人がうなずくので、僕も奏純もうなずき返した。
それが、姉の結婚式という現実を前にして僕がやりたかったこと。そのひとつだった。その動機には、きっと純粋に姉を祝福したいという気持ちもあっただろう。
あれから五年も経った。あの当時の屈折した思いは、もはや僕自身にとっても理解しがたいものになっている。十代の頃の感覚というのは、十代の時にしかわからない。一周回って理解できることもあるが、しかしあの当時の思考回路には戻れない。感じることと、理解することは違うのだ。
二十代という領域に足を踏み入れてから、僕は一気に精神が磨耗して、各地に張り巡らされていたアンテナという触覚器たちが鈍麻しているように思えた。感じる心はどこかにあるのに、それに伝える目鼻手足がどこかへ行ってしまった気がする。無駄にあちこちに伸びていた枝葉たちが剪定されて、余計な光を浴びずに生きていられるようになったような……そんな感じがした。
そんな磨耗しつつある僕が思い至ったのは、ひとつのステロタイプな考えだった。
十九の時、バンドをはじめた当初に姉が言った言葉を、僕はいまだに覚えている。
『わたしたちがやろうとしてるのってさ、結婚式でやるようなコピーバンドじゃないでしょ?』
姉さんがそう口にしたのは、ちょうどシスターズ・ルームが結成される直前のことだった。
しかし、いま僕らは姉さんが避けていた『結婚式でやるようなコピーバンド』に成り下がろうとしている。
ふつうなら、それに何の疑問も抱かないはずだ。純粋に家族の、友人の幸せを演出するために、一時だけの"
しかし、僕は違っていた。
*
ゴールデンウィークに実家に帰ってから、僕と奏純はたびたび週末には練習に帰ってきていた。結婚式までは一ヶ月と少し。まともに練習できるのは三回か四回程度。シスターズ・ルーム時代に何度か合わせていたオアシスの曲とはいえ、五年ぶりに息を合わせるのは想像以上に難しかった。
金曜日に東京のバーで演奏をして、そのまま夜行バスに乗り込んで実家へ。そんな生活が一ヶ月続いた。
一ヶ月も、と思うだろうか。一ヶ月しか、と思うだろうか。すくなくとも僕は一ヶ月しかないと思っていた。
一ヶ月。姉が結婚式を挙げて家を出て行ってしまうまで、あと一ヶ月だ。もうチャンスは二度と巡ってこない。姉は泉の名前を捨てて、違う家に行ってしまう。もう泉舞結ではなくなってしまう。
その前に、僕はやらなければならないことがあった。最後に姉にしてあげたいことが僕にはあった。
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