最終話 虻蜂取らず

海の中に突入する。同時に、光の隣にキャリーバッグが着水し、どぼん、と音を立てた。先ほど、彼の頭にぶつかったものに違いなかった。

 服が水を吸って重たくなり、思うように泳げない。しかし何とか、手近な座席や掴み棒などを握って体を引っ張ることにより、動くことはできた。

 割れた窓から、車外に逃げる。バスは、光のそばを通り過ぎ、海底に接触すると、裏面を上に向けて、ずしん、と倒れた。

 彼はそのまま、水面へ向かおうとした。しかし、周囲に何もないため、動きようがない。防護服を脱ごうとしても、手足を思うように操れないのだ。

 どんどん、下方へと沈んでいく。体の内外のいろんなところに痛みがあり、頭は火のような熱を持っていた。

世界がぐるぐる回るような感覚があり、心臓の鼓動が脳天を貫く。意識が朦朧とし始めた。

 次の瞬間、鈍い音とともに、誰かが海に飛び込んできたのが見えた。

 光の服を掴んで、引っ張るようにして泳ぐ。そしてついには、水面から顔を出させてくれた。

「ぶはあ。はあ。ああ。はあ。はあ」彼はひたすらに呼吸した。

「ちょっとっ! 大丈夫?! 大丈夫なのっ?!」救助してくれたのは、葦奈だった。

近くにあったモーターボートまで、光を連れて行く。それに乗り込むと、引っ張り上げた。

 彼は仰向けに寝転び、葦奈に言った。「大。大丈。うぐ。大丈夫じゃねえ、やっぱ。蜂に二回刺されて。クソ」

 葦奈はモーターボートのアクセルをふかし、ハンドルを握った。彼女は、上は山吹色のノースリーブのブラウス、下は濃紺のミニスカートという出で立ちだった。

 前進し始めたところで、声をかける。「生きていたのか」

「あれしきのことで死ぬようなタマじゃないわよ。それで、ケースは……ちゃんと回収できたみたいね。よかったわ」

「もちろんだ」光はモーターボートを見回した。「これ、盗んだのか?」

「あなたと一緒にしないでちょうだい。借りたのよ」葦奈は彼を見た。「あともうちょっとで、岸に着くわね。念のため、救急車を呼んでおいてよかったわ。それに乗せるわよ」

「ああ。ありがとよ」

 光は、右手を上空に向けて伸ばした。掌を見つめながら、「これで全部、終わったんだな」と、心の中で呟く。

握り拳を作ってから、腕を下ろした。その時、ズボンのポケットに、手がぶつかった。

 ケースの、固い感触が、なかった。

「……は?」

 光は手を、ズボンのポケットに潜り込ませた。しかし、そこにケースはなかった。

 反対側だったかもしれない、そう思い、反対側のポケットにも入れる。だが、やはり見つからなかった。

(ひょ、ひょっとして……落としちまったのか?!)

 光は俯せになると、モーターボートの端を掴んだ。そのまま、自分の体を引き寄せ、上半身を外に出す。

「ちょ、ちょっとっ!」気づいた葦奈が、ボートを停め、駆け寄ってきた。「何しているのよっ!」

「戻らなきゃ、バスに戻らなきゃ──」光は両手を伸ばし、海面に触れた。

「落、落ち……着き……なさいよっ!」葦奈はそう叫び、彼を強引にボートの中に引き戻した。

 光は仰向けになり、「戻らなきゃ、戻らなきゃ」と、譫言のように繰り返し続けた。そしてそのまま、意識を失った。


「非常に、残念です」福本葦奈の前に座る房鳥居は、そう言った。「非常にね」彼は黒のスーツを着、髪は黒と金のメッシュにしていた。

 バスの事件があってから、五日が経っていた。彼らは現在、葦奈のアジトである事務所にいた。

机を挟んで向かい合ったソファーに、葦奈と、房鳥居が座っている。周りには、彼の五人の、同じようなスーツを着た部下が、取り囲むようにして立っていた。

「残念でなりませんよ、本当」

 房鳥居はそう言って、懐に手を入れ、何かを取り出した。葦奈は、唾を呑み込んだ。

 彼が出したものは、直方体に膨らんだ封筒だった。

「これが、今回の仕事に対する報酬です。お確かめください」房鳥居はそれを机の上に置いた。「それにしても、驚きましたよ。坪田君が来る、って聴いていたのに、実際に来たのは福本君だったのですから」

「坪田は途中で、任務の続行が不可能な状態になったのよ。それで、私が引き継いだってわけ。荷物も、受け取ってね」葦奈はそう言って、封筒を手に取った。「と言っても手渡しじゃなくて、彼のポケットからボートに落ちたのを、拾っただけだけれど」中から金を出し、数え始める。

「ボート……ですか?」

「ああ、気にしないで、こっちの話よ」

「そうですか──そう言えば」房鳥居は辺りを、キョロキョロ、と見回した。「坪田君は……今は?」

 葦奈はしばらくの間、押し黙った。「もう……いないわよ」

 房鳥居は再び、そうですか、と言った。「……あの、福本君」

「何かしら?」

「繰り返しになりますが、本当に、例の仕事……引き受けてもらえないのですか?」

「さっきも言ったでしょ」葦奈は、溜め息を吐いた。「やらないわ。私たちには危険すぎるわよ」

「……残念です」

「さて、お金、数え終わったわよ。確かに、事前に聴いていたとおりの額ね」

「では、我々はこれで、失礼いたします」房鳥居はそう言うと、部下を引き連れ、事務所から出て行った。

 葦奈は机の上に封筒を置いた。その直後、扉がノックされた。「はい」と返事をする。

ガチャリ、と扉が開いた。「よお。俺だよ」光が入ってきた。

「あら……定時だからって、帰ったんじゃなかったの?」

「帰る途中で、房鳥居の車とすれ違ったからな。慌てて戻ってきたんだ」光は、にやにや、と笑っていた。「報酬、貰ったんだろ? さっそくだが、分配をしてほしいなあ」

「はいはい、分かっているわよ」

 葦奈は封筒を取ると、中に入っている金の半分を、別の封筒に入れて光に渡した。彼は「ありがとよ。最近カツカツだったからな、これでやっと、バイクを整備して、明日にでもツーリングできる」と言い、それをポケットにしまった。

「ツーリングって……病み上がりでしょ? 体調、本当に大丈夫なの?」

「ああ、しっかり治療を受けたからな」

「そう。それならいいんだけれど」

「……なあ、葦奈」光は、ぽりぽり、と頭を掻いた。

「何?」

「悪かったな」光は頭を下げた。「今まで、簡単に仕事を放棄してしまっていて。これからは、ちゃんと、完遂するようにするよ」

「……やっと、心から反省してくれたみたいね。よかったわ」葦奈は、にこっ、と笑った。「あなたが心を入れ替えたことは、今回の仕事を通じて、ちゃんと分かっているわ。次からも、その心構えでいてね。お願いよ」

「ああ」光も、にこっ、と笑った。「もちろんだ」

 その後彼は、「じゃあな」と言うと、事務所を出て行った。葦奈は、ふと、空気を入れ替えよう、と考え、クーラーを停めて、窓を開けた。

 途端に、蜂が一匹、室内に飛び込んできた。

 葦奈は、新聞紙を丸めて筒状にすると、その蜂を叩き潰した。


   〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雀蜂バス大爆走 吟野慶隆 @d7yGcY9i3t

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ