第七話 地獄の一丁目
(やっぱり、何としてでもブレーキペダルを踏んで、バスを停めねえと……)
光は運転手を引っこ抜こうとした。しかし、やはり、下半身が挟まれていて動かせない。
その途中で、彼の上半身を奥のほうに倒してしまった。
直後、カチリ、という甲高い音がした。同時に中扉が開く。どうやら、開閉スイッチを押してしまったらしい。
光は巣の設置された箱を見た。それは中扉からの乗降口である階段のすぐ手前にあった。
(そうだ、あそこから巣を車外に落とせばいいんじゃねえか? そうすれば、蜂の大群も幾らかは釣られて出て行って、攻撃の勢いが弱まるかも……)
しかし、道路はしばらくの間直線ではなく、いつ脇道から車が出てくるかもわからない。運転席を離れるわけには、いかなかった。
(クソ……こうなったら、バスを思い切り曲がらせて、その遠心力で、箱に中扉の乗降口の階段を滑らせるしかねえ)
そう考え、光はステアリングを握ると、中央分離帯や対向車がないのを確認して、勢いよく右に回した。
その拍子に、箱は少しだけ階段のほうへ動いたが、落ちるには至らなかった。急いで、元の車線に戻る。
その後も二、三度ハンドルを切ったが、なかなか追い出せない。
(もっと、大きく動かす必要があるな)
光はそう考え、限界まで一気に右に回してみた。
対向車線を横断し、歩道に乗り上げ、海岸沿いにある公園のグラウンドに突入する。その甲斐あってか、箱は階段を滑り下りていき、ついには外へ出て行った。そして予想どおり、それに釣られて、蜂の群れの一部がバスからいなくなった。
光はそれを見届けると、「よっしゃ!」と叫んで、前を向いた。
崖が、あと少しのところまで迫ってきていた。
(まっ──まずいっ!)
光は慌てて、ハンドルを切ろうとした。
ぼきり、という鈍い音が響いた。
同時に、ハンドルが宙に浮いた。根元が折れたのだ。
光は、ぽかん、と口を開けた。ステアリングを食い入るように見つめる。
崖に、どんどん近づいていく。
(こ、こうなったら、何がなんでも停めねえと!)
光は再び、運転手を引っこ抜こうとした。だが、渾身の力を入れても、抜けない。
焦るあまり、ブレーキめがけて脚を伸ばした。強引に突っ込んだせいで、痛みが走ったが、気にしていられない。
しかし、いかんせんペダルのある空間がひしゃげており、狭すぎて、到達しなかった。
(何か、細長いもんがあれば……)車内を見回す。
乗客たちが持ち込んだ、傘があった。光はそれを取ると、ペダルのある空間に差し込んだ。
幸いにも、ブレーキに到達させることができた。そのまま、力の限り、押し込む。
甲高い摩擦音とともに、バスが一気に減速し始めた。料金箱にしがみつきつつ、傘を握り続ける。再度、向こう側に倒れた運転手の体が、再びスイッチを押したらしく、中扉が閉まった。
バスは、ばきり、と柵を突き破り、前輪を宙に飛び出させた。
(ああ、今度こそ──今度こそ、もう駄目だ!)光は左目を閉じた。
しかし、落下するような感覚には、いつまで経っても見舞われなかった。おそるおそる、左目を開ける。
バスは、崖から前半分を突き出した状態で停まっていた。
(やった、助かった!)
光はガッツポーズをした。その直後、ずきり、と頭痛に襲われた。その場に座り込みたくなる。
しかし、膝を曲げた瞬間、ぐらっ、とバスが、大きく前に傾いた。
驚いて、そのままの状態で硬直する。しばらくすると、元の角度に戻っていった。
(どうやら、ひどくぎりぎりのところでバランスを保っているらしいな。早く逃げねえと、海に落ちちまう)
しかし、中扉は閉まってしまっている。開けようにも、運転手をスイッチからどかしていたら、そのうちにバスのバランスが崩れるに違いない。
(非常口から脱出するしかねえか)
光はおそるおそる、一歩踏み出そうとした。だが、その直前で、頭の中に激痛が走り、立ち止まった。
そう言えば先程から、頭が痛い。そのうえ気分も悪いし、全身がなんだか痒くなっている。さらには、やけに息苦しかった。
(まずい……アナフィラキシーの症状が起こっているに違いねえ……)
だからといって、慌てて非常口に向かうわけにはいかない。慎重に進んで行く。
体調不良のせいで動きが鈍くなっている、と表したほうが正しいかもしれない。巣を捨てたおかげで、蜂がまあまあ減っているのが、救いだった。
足を差し出すたび、車体がシーソーのように大きく揺れたが、幸いにも落下は免れていた。少しずつ、非常口に近づいていく。
真ん中辺りの段差を上ったくらいから、ほとんどぐらつかなくなった。それでも、油断せずに歩いていった。しばらくして、非常口の近くまで来る。
(やれやれ……やっと、脱出できそうだ)光は安堵の溜め息を吐いた。
その直後、ごりごりごり、という音とともに、バスが前進し始めた。
悲鳴を上げる間もなく、その場に倒れ込む。車体はあっという間に崖を離れ、そのまま落下し始めた。
光はとっさに、掴み棒にしがみついた。発熱により、頭がぼうっとしてくる。
轟音とともに、バスが着水した。落下中、宙に浮いていた乗客たちや荷物が、光の横を掠め、次々と落ちていった。
そのままゆっくりと、車両は垂直に沈んでいく。下を見ると、海面がぐんぐん迫ってきていた。
その光景を眺めていると、突然、頭に強い衝撃を受けた。
気分の悪さのあまり、呻き声を出す力もない。手を離してしまい、なすすべもなく落下した。
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