第六話 泣きっ面に蜂
そこに向かって、バスを走らせた。しばらくして、到着する。
片側一車線の橋に入ると、光は、運転手をハンドルに凭れさせ、進路がまっすぐの状態で固定した。辺りに他の車がいないことを確認し、急いで、非常口へ向かう。車線の左側は、狭い歩道になっているため、前扉や中扉からは脱出できなかった。
狭い視界で足下の乗客や荷物などを避けなければならず、非常に歩きづらい。一分ほど経ってから、到着した。
その直後、ごとり、という音が足下からした。
光は、聞こえてきたほうに目を遣った。ケースが、ポケットから落下してしまっていた。
彼はため息を吐いた。元の場所にしまおうとして、それを拾い上げる。
つるり、と滑り、ケースが手から離れた。
(おっとっと……)
そう心の中で呟き、受け止めようとする。しかし、また弾いてしまった。そして、あろうことかケースは、非常口から外に出た。
「うわあっ!」
光は絶叫し、胸より上をバスの外に出した。そのかいあって、何とかキャッチすることができた。
「ふう……」安堵の溜め息を吐く。
突如、クラクションが耳を劈いた。
左を見ると、対向車線をダンプカーが走ってきていた。
「のあっ!」
光は慌てて、体を引っ込めた。直後、ダンプカーが通り過ぎていった。
ケースをポケットに入れ、深呼吸をしてから、改めて逃げるべく、非常口より体を出す。しかし、諦めざるを得なかった。
先ほどの事故で、運転手はアクセルペダルをより深く踏み込んでしまっていたらしい。バスの速度はすでに、以前と比べてだいぶ高くなっていた。とうてい、飛び降りられたものではない。
(なんとかして、バスを減速させる必要がある)
光は運転席へ向かった。さすがにもう、顎の痛みや視界の狭さにはだいぶ慣れてきていて、それなりの速さで移動することができた。
だが、どうも、その油断がいけなかったらしい。バスの、真ん中辺りにある段差を下りようとして失敗し、こけてしまった。
左手が、シールドから離れる。その隙に蜂から、何やら、液体のようなものを顔にかけられた。
「ぐあっ!」
右の眼球に激痛が走った。右手をヘルメットの中に突っ込み、目を覆う。後から慌てて、左手で上から穴を塞いだ。
どうやら、毒液をかけられたらしい。瞼を開こうとしたが、痛みのあまりできなかった。
右目を閉じたまま立ち上がり、進むのを再開する。視界がさらに狭まり、速度も下がった。
しばらくして、運転席に到着する。相変わらず、ブレーキは使えそうになかった。
(何か、手はねえだろうか?)そう思い、辺りを見回した。
ふと、フロントウインドーからの光景が目に入った。
橋はあと数十メートルで終わり、その先は丁字路になっていた。突き当たりには、頑丈そうな塀が聳え立っている。さすがのバスも、あんなものに正面衝突すれば、大破することは間違いないだろう。
(や、やばいっ!)
光は慌てて、運転手をハンドルからどかそうとした。服を掴もうとする。
しかし、手が滑り、服の上をなぞってしまい、なかなか掴めない。がり、がりっ、と、懸命に摘まもうとする。
十数回目で、ようやく摘まむことができた。運転手を起こす。
ハンドルを目一杯右に回した。歩道にまで乗り上げ、塀に車体を擦りつけて、ようやく曲がりきることができた。赤信号だったが、交通量が少ないおかげで、他の車と衝突することはなかった。
安堵のあまり、溜め息を吐こうとする。しかし、肺は膨らんだ瞬間に停止した。
少し離れたところに、踏切があるのを発見したためだ。しかも遮断桿は下りていて、二つある線路のうち、手前の線路を電車が右から左へ通過している。
(こっ、このままだと、衝突してしまう!)
光は逃げ道を探して、周囲を見回した。しかし脇道はおろか、駐車場や空き地の類いすらなかった。
そうしている間も、バスは踏切に近づいていく。
(ああ──もう駄目だ!)観念し、左目を閉じようとした。
だがその時、電車が踏切を通過し終え、向こう側の道路が見えた。
光は左目を見開いた。(やったっ!)
しかし、次の瞬間、今度は奥の線路を電車が左から右へ通過し出した。
「のわっ!」
そう叫び、ハンドルを右に回す。バスは遮断桿を押し退けると踏切を曲がり、線路上を走り始めた。
(変なところに入っちまった……早く脱出しねえと。まあ、このまま進んでいけば、いずれはもう一度踏切にぶつかるはずだ。そこから道路に戻ればいい)
線路は二つあり、左は奥、右は手前に向かって電車が通るようである。光は左のレールの上に移動した。
右だと、いざ車両が前方から迫ってきたとき、避けきれないかもしれない。だが左なら、後方からしかやって来ないし、近づいてきた時点で、おそらく向こうがこちらに気づいて停まってくれるだろう。
そんなことを考えながら、左カーブに差しかかった時のことだった。
こちらの線路上に、電車が停まっていた。慌ててハンドルを切り、右のレールに移動する。バスの左前部が、乗務員室を掠めていった。
(クソが、何であんなとこにいやがる……さては信号待ちか何かか?)そう悪態をついた後、前を向いた。
すでにカーブは終わっており、ストレートに入っていた。しかし、その奥からも電車がやってきていた。
(やばい!)光は舌打ちした。(このままだと正面衝突だ……左右に逃げ場もねえし)
幸いにも、運転士はこちらに気づいたようだった。慌てた様子で急ブレーキをかける。
それでも、もともとかなりの速度が出ていたせいもあり、どんどん迫ってきていた。焦りながらバスを走行させていると、左の線路上に停まっている電車の先頭が見えてきた。
(あの横を通り過ぎれば、あっちの線路に移れる!)
光は、すぐにでも曲がれるよう、ハンドルを握り締めた。こちらの線路の電車が、ぐんぐん迫ってきている。
しばらくして、バスは、左のレール上に停まっている電車の先頭の真横に来た。間髪入れずに、ハンドルを左に回す。
そちらの線路に移ってから〇・五秒後、右の線路を、電車が通過していった。
(ちょっとでも遅れていたら、正面衝突するところだった)光はひどく安堵した。
しばらくすると、踏切に出くわした。そこで右折し、道路に出る。
(やれやれ、やっと脱出できた)
光は安堵の溜め息を吐いた。思わず中腰になり、手を膝につこうとする。
忘れていた。ヘルメットのシールドが割れていることを、だ。
思い出し、慌ててシールドを手で覆った時には、もう遅かった。入り込んできた蜂に、顎の辺りを、ぶすり、と刺される。
「ぐああっ!」そう叫び、蜂を追い払う。
右手で傷口を押さえ、その上から左手で穴を隠す。痛みのあまり、運転中であることも忘れて後ろに転倒し、そのままのたうち回った。ずきん、ずきん、という擬態語が聞こえてくるかのようだった。
(クソ──二回目──二回目だっ! このままだと、アナフィラキシーを起こしちまう……とっとと仕事を終わらせて、早く病院に行かねえと!)
しばらくして、のたうち回るのをやめ、体を起こす。痛みはまったく引いておらず、むしろ激しさを増しているくらいだったが、いつまでも悶えているわけにはいかなかった。
幸いにも道路は、先ほどまでずっと直線で、前に誰もいなかったようで、壁や他の車に衝突することはなかった。丁字路があったので、左折する。
だが、入った道の先を見て、彼は仰天した。
しばらく進んだところで、行き止まりになっていたのだ。突き当たりには塀、その奥にも建物の壁があり、正面衝突すれば大破は免れない。
(まずい──今度こそ本当に、まったく逃げ場がないぞ!)
焦っていると、丸いものを踏んづけ、転びそうになった。いらつきながら、足下を見る。
それは手榴弾だった。蓮田のウエストポーチから落ちたものに違いなかった。
「そうだ、これだ!」光はそう叫ぶと、手榴弾を拾い上げた。
そしてピンを抜くと、突き当たりめがけて投げる。爆発し、塀と壁に大穴が開いた。
それらをくぐり抜け、建物の中に入った。そこは服屋になっていた。
ワゴンやハンガーラックなどを、撥ね飛ばしながら突き進んでいく。光はひたすらクラクションを鳴らし、客たちを散らせた。聞こえないのを承知で、「どいてくれどいてくれ」と喚く。
右折し、服屋を出て、通路を突き進む。どうやら、デパートになっているようだった。しばらくして、駐車場に面した、ガラス張りの壁を見つけた。
それを突き破り、外に抜ける。小さな駐車場を出、道路に入った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます