第二話 地獄の上の一足飛び

(──いやいや、いいに決まってんだろうか)光は、ぶんぶん、と首を横に振った。(何、変な自問してんだ、俺は)

 ところがその後も、「本当に、それでいいのだろうか?」という自問は、しこりのように心の中に残り続けた。今までとは違い、すっぱりと「諦める」ことができない。

(いったい──いったい、どうしたってんだ、俺は?)

 光は自分の両手を見つめた。その後も、彼はしこりの原因について考え続けた。

 やがて、一つの結論に達した。

(俺は、この職業が、好きなんじゃねえだろうか。それも、俺の思っている以上に)

 だからこそ、この仕事ができなくなる、「諦める」という選択をすることに、無意識的に抵抗があるのではないか。

(そうか。そうだったんだ……俺は、この職業が、好きだったんだ)光は、すっきりとした気持ちになった。

「失ってから、初めて大切だと気づく」とは、よく言われることだ。しかし彼は、今回、失う前に気づくことができた。

(だったら……失うわけにはいかねえな)光はバスを見据えた。「ケース、取りに行かねえと」

 しかし、蜂の飛び交う車内に、この服のまま入るわけにはいかない。なにより、先ほど一度刺されている。蜂の生態に詳しくない彼でも、二度刺されたらまずい、ということくらいは知っていた。

(何か──手はねえか?)光は辺りを見回した。

 すると、近くに、リサイクルショップがあるのを発見した。

(そうだ! あそこなら……)光はそう心の中で呟き、そこへ向かった。

 足を踏み出すたび、刺された箇所に、撥ねられた箇所に鈍痛が走る。しかし、しばらくすると慣れてきて、ほとんど普通に歩けるようになった。

 中に入り、商品を物色する。長袖の上着や長ズボンを、何枚も掻き集めると、それをその場で重ね着した。

(店には悪いが──金を払っている暇はねえ)

 着終えると、フルフェイスのヘルメットを被った。もちろん、通気口から蜂が入ってくる心配のないタイプである。

 マフラーを首に巻き、長靴を履いて、手袋を嵌める。各服飾の繋ぎ目は、ガムテープで塞いだ。

 ひどく蒸し暑く、汗がだらだらと流れ落ちた。だが、命には換えられない。

 また、蜂は黒いところを刺しにくる、という話を聞いたことがあった。では白なら攻撃されにくいのではないか、と思い、上からさらに白のシャツとズボンを着た。

 ついでにと思い、殺虫剤の類いも探したが、見つからなかった。

(さすがに、そう都合よくはいかねえか……)

「ちょ……ちょっと! ちょっと! あんた! いったい何しているのっ!」女性従業員がそう喚きながらこちらに駆け寄ってきた。

 慌ててその場を離れ、そのまま店から出た。背後で彼女が、「警察を呼んで」「あいつを捕まえて」などと叫んでいる。だが、光のお手製防護服姿が不気味なおかげか、通行人の誰も、取り押さえようとはしてこなかった。

 小走りで、バスに向かう。だが、あと少しというところで、驚くべきことが起こった。

 なんと、衝突されていた軽自動車が急加速し、近くの歩道に乗り上げたのだ。運転手が、後ろのバスはこのまま、停まらないものと判断して、今以上の被害を防ぐために離れたのだろう。

 バスはそのまま、走り始めた。

「ちょっ、ちょっと……!」

 光は、対向車線から追いかけ始めた。全力疾走をしたいが、蜂刺されや痣が痛むせいで、できない。

 幸いにも、スピードはかなり低かったので、みるみるうちに距離は縮んでいった。奥から清掃車が走ってきたので、右の歩道に退避する。

 直後、バスの非常口が開いた。

 清掃車はドアを避けようとしたが、間に合わなかった。撥ね飛ばす。

 あろうことかそれは、光のほうに向かってきた。

「うおっ?!」

 光は目を見開き、慌ててその場で止まった。右に跳び、躱そうとする。

 しかし、成功しなかった。ドアがもろに直撃する。

「があっ!」

 とっさに、両腕をドアと体の間に挟んで、クッションにする。一緒に少し吹っ飛んで、倒れた。

「うぐう……」

 ドアをのける。体のあちこちに、鈍痛が響いていたが、大きな怪我はないようだった。

 非常口から乗客たちが、ぼとり、ぼとり、と落ちるように脱出していた。だが、蜂刺されの症状がひどいらしく、せっかく降りてもまともに動けないやつがほとんどだ。そのまま別の車に轢かれてしまうやつもいる。

 光は再び、バスに向かった。しばらくすると、誰も降りてこなくなった。残りの人たちは意識がないか、あるいは、もう死んでしまっているのだろう。

 追いついて、非常口に手を伸ばす。しかし、もはやバスの速度はこちらのそれとほぼ同じになっていて、わずかに届かなかった。それどころか、どんどん上がり続けているらしく、徐々に離れていった。

(減速しやがれ、減速しやがれ、減速しやがれ──)光は心の中で、繰り返し喚いた。

 祈りが通じた、と言うべきだろうか。バスがだんだん、スピードを落とし始めた。非常口が届きそうになる。

「あと、もうちょい……!」

 クラクションが鼓膜を劈いた。驚いて、前方に目を遣る。

 大型トラックが、すぐそこまで迫ってきていた。

「ち、ちくしょうめっ!」歩道に跳び込み、間一髪で回避する。

 その間にバスはもはや、駆けてもとうてい追いつけないほど遠くに行ってしまった。中央分離帯のある、片側一車線の橋を走っている。

(クソがっ……どうすりゃいいんだ……)

 光は、現状を打開する手段を求め、辺りを見回した。そこで、背後から、「ちょっと、待ちなさいよ!」という女性の声が聞こえてきた。

 後ろを振り返る。オートバイが一台、走行してくるところだった。ドライバーがハンドルから離している左手には、高級ハンドバッグのベルトが握られている。車両のさらに後方では、中年女性が一人いた。慌てたような表情をして、右手をオートバイに向かって伸ばしている。ひったくりの被害に遭ったに違いなかった。

 光は、近くに置いてあった、スタンド看板を持ち上げた。間髪入れずに、ドライバーに投げつける。

 看板は、運転手に命中した。なすすべもなく転び、離ればなれになったその人と二輪車が、ごりごりごり、と路上を滑っていった

 光はオートバイに駆け寄ると、それを起こした。倒れた時の衝撃で、幾らか破損していたものの、走るのには支障はなさそうだった。

 アクセルをふかし、バスを目指す。ハンドルを握った両手の小指を、ぴん、と立たせた。バイクに乗る時の、癖だった。

 ちらり、とミラーを見る。ひったくり犯は、よろよろと上半身を起こしていた。

(ふうん……死ななかったみてえだな)

 しばらくして、バスに追いついた。だが、中央分離帯があり、バス自身もそれに車体を擦りつけつつ走っているせいで、背後からは非常口に近づくことができなかった。

(窓ガラスを割って入るか? でも、道具を持ってねえし……)

 そこまで考えたところで、閃いた。

(そうだ! フロントウインドーなら、事故の拍子に割れてんだろう……そこから乗り込めるんじゃねえか?)

 光は急加速してバスを抜き、それの前に出た。スピードを調節し、バスに近づいていく。

 しかし、フロントウインドーから乗り込むのは不可能に思えた。高い位置にあるうえ、ガラスもすべて割れているわけではない。

 それに、オートバイを前へ走らせながら、どうやって全身を真後ろに向かせればいいのか。光に、そのような曲芸の技術はない。

(うーん……どうしようか……)

 光は、悩みながら前を見た。すると、対向車線の奥から、二階建てのキャリアカーがやってくるのが見えた。

(あっ、あれだ!)

 光はアクセルを全開にし、ひたすら加速し続けた。そしてある程度キャリアカーに近づいてから、急停止する。

 オートバイから降り、分離帯を乗り越えた。車線中央で、キャリアカーを睨みつけながら、両手を広げ、仁王立ちする。

 甲高いブレーキ音とともに、キャリアカーは停まった。ドライバーが窓から顔を出し、何事か怒鳴り散らしているが、聴く気など毛頭ない。

 荷台の梯子を使って二階へ行き、積載されているスポーツカーの屋根に上った。すると、ちょうどバスがやってくるところだった。

 タイミングを、見計らう。そして、バスが、キャリアカーのすぐ横に来る直前で、それの屋根めがけて跳んだ。

「──っどりゃあっ!」

 光の体の真下を、バスがその、長い車体をくぐらせ続けている。

(──し、しまった、タイミングが遅かったかっ?!)

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