第三話 地獄で仏

 そんな後悔が、さっ、と脳裏をよぎる。しかし、どうにか無事に着地できた。

 屋根の上を、ごろんごろん、と転がっていく。何か、掴まるものがないかと、必死に手足をじたばたさせるが、見つからない。

 そうこうしているうちに、バス後部に到達した。下半身から、ずるずる、と落ち始める。

「なっ……なにクソっ!」

 必死に、その場に留まろうとした。しかし、手袋のせいで滑り、失敗してしまう。

 屋根から後方に突き出るようにして、バックアイカメラと、それを固定する金属板が取りつけられているのを発見した。急いで、それらを掴む。

 宙にぶら下がる格好で、体が止まった。

(やれやれ、やっと止──)

 そこまで心の中で呟いた次の瞬間、鈍い音とともにカメラが外れた。

 その拍子に、手を離してしまう。なすすべもなく、落下した。

 一秒も経たないうちに、着地する。そこは、外国製の四輪駆動車のボンネットだった。

 どうやら、板に掴まっている間に光の真下に来たらしい。光は、運転手を見た。

 そして、驚いた。

 運転手は、葦奈だったのだ。

 光は助手席の扉を開け、中に入った。「ありがとう、助かった。どうしてここに?」

「あなたが、仕事を途中で放棄しないかどうか、見張っていたのよ。でも、さっきまで渋滞にはまっていて、身動きが取れなくて。やっと脱出して、バスの後ろまで来たら、あなたがバイクで追いかけている最中だったから、びっくりしたわよ」

「何で、バイクに乗っているのが俺だってわかったんだ?」

「あなた、バイクを運転している時、両手の小指を立てる癖があるでしょう。同じようにしていたから、気づいたのよ」

「そうなのか……そうだ、葦奈、実はな、さっき──」

「知っているわよ。バスの中で、大量の蜂が放たれて、大パニックになったんでしょ?」

 光は目を丸くした。「な、なんでそれを」

「さっき、情報屋から新情報を得たのよ。蓮田の請け負った仕事の内容が分かったの。『蜂を使って何か派手な事件を起こし、世間を騒がせたい。虫と、それを放出する装置については、もう用意できている。それ以外の点で、計画を立てるのに協力してほしい』というものだったらしいわ。それで彼は、大量の蜂をバスの中で放つ、というプランを提案したそうなの」

「わざわざ、あの路線バスを選んだってことは……」

「どうも、こちらの仕事の詳細が漏れていたようね。私たちの妨害も同時にできるし、一石二鳥だったってわけよ」

「くそっ。あの野郎」光は助手席の窓を殴りつけた。「危うく死ぬところだったぞ。仕返ししてやる」

「まあまあ、落ち着いて。それと、確証はないんだけれど、どうやら、今回あなたが運ぶケースを奪う、っていう仕事も、請け負っているみたいなの。だから、もしかしたら今後、蓮田たちからさらなる妨害を受けるかもしれないわ。覚悟しておいてね」

「上等だ! 次会ったらぶち殺してやる!」

「だから落ち着いてって」葦奈は溜め息を吐いた。「それで、わざわざバスを追いかけていたってことは……ケース、車内に忘れちゃったの?」

「実は、そうなんだ。それで、中に戻りたいから、中央分離帯がなくなったら、車を非常口の横に──」

「それよりも、もっといい方法があるわ。橋が終わって、二車線になったら、この車をフロントからぶつけて、バスを無理やり停めるのよ」

「ぶつけて、って」光は驚いて葦奈を見つめた。「いいのか、そんなことして。この車、ぼろぼろになるぞ」

「大丈夫よ。こういう緊急事態に備えて、傷が付いてもいいような車を選んだから」

「なるほどな。それで、あとどれくらいで橋は終わるんだ」

「ちょっと待って。ええと……あっ!」葦奈はカーナビを見て大声を上げた。「まずいわ!」

「何だ、どうしたってんだ」

「橋が終わった直後、左へのカーブがあるのよ。外側は海。バスは当然曲がれないから、このままだとガードレールを突き破って転落してしまうわ」

「何だって! どうにかしねえと……」

 光はカーナビに目を遣った。しかし、視界が悪くてよく見えない。

「おい、カーブまであと何メートルなんだ」

「あと五十センチよ」

 そう言った直後、葦奈は急加速して対向車線に移り、バスの運転席の隣に並んだ。

「おい、まさかおま──」

 光が言い終える前に、葦奈は行動に移った。車をバスの右側面にぶつけ、そのまま押し始めたのだ。

 少しずつではあるが、バスは左に折れ始めた。

 しかし、十分ではない。この調子だと、バスはカーブを曲がりきれずに、この車ともども落下してしまう。

(仕方ねえ──車内に乗り込もう。そうすれば、運転席でハンドルを操作して、曲がらせることができる)

「じゃあちょっと、行ってくる」

 光はそう言って、助手席のパワーウインドーを下げた。そこから身を出し、屋根に上ろうとする。車がガードレールにも擦りつけられているため、ドアを開けられないのだ。

 だが、脚を引っ張り出す途中で、踝に痛みを感じた。

「ぐっ?!」

 何かが、下方から踝を突き上げているのだ。しかも、それと窓枠との間に挟まれてしまい、脚を動かすことができない。

(何だってんだ、クソっ!)

 光は、踝に目を遣った。そして、突き上げているものの正体を知った。

 それは、パワーウインドーだった。安全装置はついていないらしく、足を挟んでいても、止まることなくさらに迫り上ろうとしてくる。

「おりゃっ!」

 光は、ウインドーを思い切り蹴りつけた。甲高い音とともに割れ、足を引っこ抜くことができた。運転席から、葦奈の「ちょっ、何よ?!」という、喚き声が聞こえる。

「何でもねえよ!」

 光は屋根の上に四つん這いになると、バスのほうを見た。運転席の横の窓が割れていたので、そこから乗り込む。

 その途端、車内を飛び回っていた蜂たちが、一斉に襲いかかってきた。

「うわっ!」

 思わず、追い払おうとする。幸い、防護服が上手く機能しているようで、肌を直接刺されることはなかった。

 軽自動車への衝突により、運転席はぐちゃぐちゃになっていた。しかし、操縦には支障はなさそうだった。

 でっぷりと太った運転手が、ハンドルに凭れかかっていた。エアバッグは故障しているのか元から装備されていないのか、見当たらない。光は、彼をどかすのを後回しにし、とりあえず通路に下りた。

 ばきっ、という音が聞こえた。見ると、葦奈の乗った車がガードレールを突き破り、海に落ちていくところだった。

「葦奈っ!」

 思わず、目で追う。しかし、自分のすべきことを思い出し、すぐさま逸らした。

 光は急いで、運転手の上半身を起こした。横からハンドルを掴み、思い切り左に回す。

 バスはガードレールを少し歪ませたものの、何とか落下を避けることができた。そのまま、元の車線に戻す。

(葦奈は大丈夫だろうか……)彼女の安否が、気になる。

 しかし、とにかく今はケースを回収することが最優先だ。そのためにも、どこかにバスを停めなければならない。

 光は、運転手の頬をぺちぺちと叩いた。だが、もはや死んでしまっているのか、反応することはなかった。

 席からどかそうとする。ところが、あまりにも太っているせいで、重たく、どうしても動かせなかった。仕方なく、彼の上に座り、ハンドルやペダルを操作した。

(まったく、やりにくいことこの上ねえ……ミッションがオートマチックで、ギアチェンジのような複雑な操作がねえのが唯一の救いだな)

 しばらくすると、近くに道の駅があるのを発見した。光はそこに入ると、駐車場にバスを停めた。

 緊急時にいつでも発進できるよう、エンジンはかけたままにしておく。そして運転席から出ると、自分が降りる前まで座っていた席に向かった。

 途中、犯人が持ち込んだ、開かれた箱を見つける。それの中央には、蜂の巣が設置されていた。

 虫けらが目障り耳障りなうえ、あちこちに倒れている乗客が邪魔だったが、何とか最後部座席に辿り着いた。急いで、ケースを探す。

 捜索は、捗らなかった。やはり、大量の蜂がかなり鬱陶しいのだ。

 肌を刺されるのではないかとびくびくし、あまり作業に集中できないのも辛い。乗客たちも厄介で、もしかしたらそれの下敷きになっているかもしれないため、いちいちどかす必要があった。

 しばらく調べ続けたが、いっこうに見つからなかった。周辺の席も捜索したが、どこにも落ちていなかった。

(このバスは今までに、軽自動車にぶつかったり、それで急停止したりしている。乗客たちもうろうろしただろう……もしかしたらそれらの拍子に、飛んだり蹴られたりして、もっと前のほうに動いて行っちまったのかもしれねえ)

 光は改めて、真ん中辺りを捜索することにした。だが、巣が近くにあるせいか、先程より蜂の攻撃は激しくなっており、いっそう調べにくかった。

(ダメだ──もう我慢できねえ! 先に箱を、車外に捨ててやる……そうすれば、少しは勢いが弱まるはずだ!)

 光はそう考え、巣に近づこうとした。

 その時、バスの後部で、物音がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る