雀蜂バス大爆走

吟野慶隆

第一話 蜂の巣をつつく

 路線バスの、中扉付近に置かれた箱が、数学の展開図問題のように開き、その中から、夥しい蜂が一斉に飛び出してきた。

 乗客たちは唖然として、その光景を眺めていた。その中で、最も早く我に返り、行動を起こしたのは、最後部座席の右端に座っていた十七歳の少年、坪田光(みつ)だった。

 光はまず、そばに置いていた荷物をズボンのポケットに押し込むと、座面の上に立った。そして、はめ殺しになっている大窓の上、左右にスライドできる小窓を開けた。

 蜂たちの低くて鈍い羽音と、乗客たちの阿鼻叫喚が、光の鼓膜を絶え間なく震わせていた。早く逃げなければならない、その思いが脳を完全に占拠していた。

 彼は小窓の縁を掴み、上半身を外に出した。そこはちょうど、片側一車線になっている道路の、対向車線上で、奥から大型トレーラーが走ってくるのが見えた。

(今、飛び降りると、轢かれちまうかもしれねえ……だが、このまま車内にいても……)

 そう逡巡していると、突如、右足に激痛が走った。

「ぐあっ?!」

 蜂に刺されたに違いなかった。低く呻き、思わず、右足を押さえようと思って手を離す。

 鉄棒の前回りのように、体が回転した。そのまま、ずるん、と小窓から滑り落ちる。

「うおっ?!」

 とっさに、受け身の体勢をとった。地面に着地し、ごろごろごろん、と転がり始める。

 トレーラーのクラクションが、鼓膜を劈いた。

(や、やばいっ!)

 手足を突っ張り、力ずくで回転を止めた。間髪入れず、歩道に跳び込む。

 右の爪先が、トレーラーに掠った。どしっ、という大きな音とともに、足が勢いよく弾かれる。

「うぐっ!」

 トレーラーは停まりもせずに、むしろ速度を上げて、立ち去った。光は、ズボンをめくり、両足の状態を確かめた。

 右足の、蜂に刺された箇所は丸く腫れており、左足の、車に弾かれた箇所には黒い痣ができていた。試しに立ってみると、両足に力は入れられるものの、そのたびに鈍痛が走る。

「ああ……痛えクソ……」光は、車道に目を遣った。

 バスは、のろのろと走行を続けていた。


「今回、運ぶのは、小さなケースよ。ズボンのポケットに入れられるくらいのサイズ。それなら、簡単でしょ?」

 前日、福本葦奈(あしな)はそう言って、光を、じっ、と見据えた。

 二人は、とある雑居ビルの三階にある事務所で、テーブルを挟むようにして向かい合わせに置かれた二つのソファーに、それぞれ座っていた。机の上には、町の地図が広げられている。

 彼らは、いわゆる運び屋を営業していた。それも、ただの運び屋ではない。裏社会専門の運び屋だ。中学を卒業してからの二年間、そのような商売をしてきた。

「ここから、路線バスに乗って」葦奈は地図の特定の箇所を指差しながら、喋っていた。「ここで降りて、このフェリーに乗る。向こう岸に到着したら、海岸沿いに歩いて十分くらいで目的地よ」

 葦奈は、黒髪をピンク色のリボンで纏め、腰まで届くツインテールにしていた。身長は小学生のごとく低く、胸はスイカのごとく大きい。

 レンタカーでのドライブを趣味としていた。赤いノースリーブと、紅色のミニスカートを着ている。

 光は彼女の話を、ぶすっ、とした顔で聴いていた。それが終わるなり、溜め息を吐く。

 彼の趣味はバイク弄りで、時たまツーリングを楽しんでいた。白いTシャツを着、ベージュの半ズボンを穿いていた。

「昔は美術品やら高級車やら死体やら、やりがいのある仕事をたくさん受けてきたのに、今回は、小さいケース一個とはな……俺たちも堕ちたもんだなあ」

「あなたのせいでしょ!」葦奈は、きっ、と彼を睨んだ。「あなたが、いい加減に仕事をするから、こうなっちゃったんじゃない。諦めが早すぎて、トラブルに遭遇した時に、さっさと依頼を放棄して退散しちゃうからっ」

(やべえ……藪蛇だったか)光は軽く両手を挙げた。「ちゃんとやるよ、今回は」

「ホントでしょうね?」葦奈は彼を、じとっ、と睨んだ。

「ホントだとも」光は胸を張った。

 葦奈は、はあ、と溜め息を吐いた。「今ほど、あなたのことが信用できない、と思ったことはないわよ。…………まあ、いいわ。話を進めましょう。実は、知り合いの情報屋から聴いたんだけれど、最近、蓮田のところが大きな動きを見せているらしいのよ」

「何だって?」蓮田というのは、何でも屋をやっている中年男性で、光たちの商売敵だ。何かにつけて、お互い仕事を妨害し合っている。「どういうことだ?」

「詳細は不明。何かでかい仕事を請け負っただけみたいだから、こっちに影響はないでしょうけれど」

「それならいいんだが……」

「あっ、たとえ影響があったとしても、諦めて依頼を放棄しないでよね。今回の依頼主は、あの、房鳥居(ふさとりい)さんなのよ」

 房鳥居というのは、国際犯罪組織「SCRS」に所属する、若い男性だ。組織から仕事を貰う時は、必ず彼が仲介となる。

「わかっているよ。もし失敗したら、もう、仕事、回してくれなくなるかもしれねえもんな。ただでさえ、つい先日、依頼された仕事を、自分たちには危なすぎるから、って断ったんだろ?」

「いや、それどころか、もし失敗したら、私たち、彼に処刑されちゃうわよ。……本当にわかっているの?」

「わ、わかっているってば」光は、こくこく、と素早く首を縦に振った。


 光は、前扉から路線バスに乗り、料金を支払うと、一番後ろの席の右端に腰を下ろした。

 車内にはたくさんの客がいて、けっこう混雑していた。雲行きが怪しいせいだろう、ほとんどの人が傘を携えている。

(俺も、持ってこればよかったかもしれねえな)少し、後悔した。

 ズボンのポケットからケースを取り出し、そばに置く。防火性や防水性、耐衝撃性などを追及した頑丈なものであるため、けっこう大きく、入れたままだと座りにくいのだ。

 この、謎のケースこそが、今回、運ぶ対象だった。

 しばらく走った後、バスは停留所に着いた。キャリーバッグを引っ張る女と、大きな箱を持つ男を乗せた後、出発する。

 女は光の隣に座り、男は中扉付近に立った。彼は、荷物を足下に置いていた。高さが股間くらいまである、白い立方体だ。

 しばらくすると、男が降車ボタンを押した。停留所に到着し、中扉が開く。

 すると彼は、あろうことか荷物を持たずに降り、いずこへと去ってしまった。

 乗客たちは、唖然としてそれを見送った。光もそのうちの一人だ。

 かといって、追いかけるわけにもいかない。けっきょく、箱を残したまま路線バスは発車した。

 光は、窓からぼんやりと、景色を眺め始めた。平日の昼間であるせいか、交通量はひどく少なかった。

 男の忘れて行った箱が、機械音とともに、ゆっくりと開き始めたのは、その時だ。


 光が脱出した後のバスは、信号待ちの軽自動車に衝突した。

 乗客や荷物が、幾らか車外放出されている。バスは停止したわけではなく、ずりずりと少しずつ前進していた。運転手が蜂に襲われ、アクセルを踏んだ状態で意識を失ったのかもしれない。

(しっかし、びっくりしたな……テロか何かか……?)光は、心の中でそう呟きながら、ポケットに触れた。

 しかし、そこにケースは入っていなかった。

「あれっ?! ない! ないっ! ねえぞっ!」

 慌てて辺りを見渡すが、路上にもない。どうやら、バス内に落としてきてしまったらしい。

(クソ……戻んなきゃなんねえのか……? あの……夥しい蜂が飛び交う中に……?)

 光の頭の中に、「嫌」という漢字が、ぶく、ぶくっ、と湧き始めた。しばらくして、「やめたい」「帰りたい」という文章に変わる。

(そうだ──逃げちまおう!)光は手を叩いた。(いつものことじゃねえか……無理する必要はねえ)

 しかしすぐに、そう簡単に諦められるわけではないことに気づいた。なにせ、仕事に失敗すれば、依頼主の房鳥居に処刑されてしまう。

(いや、待てよ……それは問題ねえ)光は頭を、がりがり、と掻いた。(どこか遠い町に行って、名前と顔を変え、裏社会とは係わらずに過ごせば──いくらSCRSでも、見つけられねえだろう)

 しかし。

 本当に、それでいいのだろうか?

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