決裂する

「モーリス。火を」

「ああ」

「…………!」

 モーリスが出した金属製のマッチ箱から長いマッチ棒を摘まみ出し、バジルは慣れた手つきで擦った。

 赤と黄色の入り混じった炎が小さな木片の先端に灯る。

 躊躇うことなく、バジルはレコードだった金属片に火を放つ。単純に、火を点けたマッチを足元でとぐろを巻いていた金属片に落としただけなのだが……金属であるにもかかわらず簡単に火は燃え移った。それどころか着火した途端にもくもくと煙が上がり、驚いている間に今度は小さく爆発する。眩しい白い閃光と激しく広がる煙にアレクシスがいち早く飛び上がって反応した。

「窓を開けろっ!」

 カーテンを開き、駅の構内に面した窓をすべて開け放つ。

 空気の流れにより、白煙はすべて外に流れていく。

(まったく、なにを考えているんだ……こんな個室で……! なにより反応したのが俺だけというのはどういうことだ!)

 けほけほと咳き込みながら、手近にいたグレアムを涙目で睨みつけた。

(しかし……燃える金属なんてものが、あるのか……)

 しばらくして燃えるものがなくなったのか、火は煙を纏って自然と姿を消した。後に残っているのは炭化した金属――だったものだ。完全に燃え尽きたわけではないがパンチカードとしての機能は使えないだろう。知らない駅員からしたらただのゴミに過ぎない。

「アカシックレコードは覆らない」

 バジルが呟く。

「だからこそ、人が見るべきものではない。グレアム・アシュベリー、君も覗いてしまったのなら忘れることだ。あれに縛られてはいけない……せっかくだ。君が私に妄想話をしてくれたように、私も妄想話をしよう」

 バジルは身を整え、淡々とした口調で話しだした。

「あるところに地下から這い出た少女がいた。地下は封鎖されてしまっていたが、すべてではない。言葉を借りるならば完封されている『ことになって』いた」

 街の地下に街がある状態でどこに抜け穴や道があってもおかしくはない。すべてを把握できている人間などいなかったはずだ。

「少女はそのうちのひとつから出てくることができたが、少女の他は通ることができなかった。仕方なく、少女は隠れるように地下と地上を行き来していた。協力してくれる幼馴染がいなければ彼女は死んでいただろう」

 ちらりと隣に目が動いたが、すぐに話に引き戻される。

「……彼女は彼に命の恩返しがしたかった。だが彼は自分の努力で人生をひっくり返そうとしていたし、実際にひっくり返した。少女にできることなど限られていた。そんなあるとき――少女は自分の体に異変を感じた。あからさまなものではなく、違和感といった方がいい。それだけ微妙な変化だったが、すぐに察しがついた。自分は病気になってしまったのだと。次々と死に至った父、母、姉妹、兄弟たちと同じになってしまったのだと」

 ペストの初期症状は倦怠感と悪寒から始まる。それから高熱、感染経路によって後の症状は変わってくるが痛みとショック症、呼吸困難との闘いになる。その後のことで共通しているのは治療を受けなければ数日で死亡する事実だけだ。

 家族だけではなく、周囲の人間がのたうち回っている姿を見てきたのだろう。

 体調の些細な変化だけですぐに予想はついたはずだ。

「少女は幼馴染に別れを告げ、地下へ戻ろうと思った。幼馴染を病気にさせるわけにはいかないからね。だが、医師を目指す学徒として勉学に励んでいた幼馴染は少女を引き留めた。まずは、検査をさせてほしい、と」

「検査……」

 彼女の無数の注射の痕を思い出して、アレクシスはつい目を向けてしまった。

 視線に気付いているのかコートの上から自分の腕をそれらしくさすっている。

「結果はやはり、想像した通りだった。少女はペストに侵されていた。だが、不思議なことに少女は本来のペストとは異なる様相を呈していた。確かにペストに感染しているはずなのに、いつまで経っても主だった症状は発症しない。熱は微熱で留まり続けていた」

 アレクシスは思い至ることがあったのか、しばらく考えるように耳の裏をかき、鼻の下をかいていたが……やがて言語化するまでにまとまったらしく口を開いた。

「無症候性キャリアか……!」

「ふむ。いわゆる健康保菌者というやつか。感染していながら症状は現れず、しかし他人にはその感染症を伝染させる。症状がないため、本人はまるで気付かないまま感染源としての役割を果たしてしまうという……」

「しかし、ペストでそんなことがあり得るのか……? 症例もないのに……」

 アレクシスが唸るように呟くと、バジルはきっぱりと言い放った。

「残念ながら少女は存在した。発覚した途端、彼女の体液はすべてが毒になったが、少女が病気であることに変わりはない。少女はやはり、地下に戻ろうと幼馴染に背を向けた。しかし再び幼馴染は少女を引き留める。今度はワクチンを作るから、待っていてほしい、と」

 別の列車が発車したらしい。そう遠いホームではないところで汽笛の鳴り、灰色の粉塵を撒く煙を吐きながら蒸気と熱の機関が動き出した。それまで気にも留めなかった人の往来が激しくなってくる。アレクシスは開けたままになっていた窓をようやく手をかけた。

「……少女は三十年以上、待った。一生を待つことに費えても構わなかった。幼馴染に救われた命だ。むしろ本望だった。だがそれでも少女は不満足だった。どうしたら、幼馴染を助けられるか、そればかりを考えた三十年。あるとき、少女は思い付いた――そうだ、ワクチンの調合法を教えればいい――自分では作れなくても、幼馴染だったら可能だ――」

「な……」

「だから少女はアカシックレコードを覗いた。パンチカードを作る術も、廃材の使い方も、手紙の出し方もアカシックレコードで知った。幼馴染に送った後はまた、待つだけの人生に戻り、待ち続けた……」

 荒唐無稽。なにを言っているのか理解が追いつかなかった。

 アレクシスは絶句したまま、二人を交互に見やる。

「結果としては――」

 そのとき――バジルの言葉を遮って、無骨なノックがドアを打つ。

 駅員が軽く帽子をあげながら挨拶するように言った。

「おまたせいたしました! 列車が出発いたします!」

 エンターテイメントのショーが終わったときと同じく、一等車のドアが恭しく開けられた。

 ほとんど口を開くことのなかったエメット教授は、まるで現実とそうでないところの境目に立つ案内人のように、ここぞとばかりに微笑んで話しかける。

「ありがとう。では、お二人とも、お見送り感謝する」

「待ってくれ! 結果として、どうなったんだ? あなたの体に打たれたワクチンは本当に病気を打ち消したのか? アカシックレコードには一体、どうやって……! そもそも、そんなものが存在するのか!?」

 さっさとコンパートメントを降りたグレアムに対して、アレクシスは最後まで粘った。バジルは両目にしっかりとアレクシスを捉え、静かに告げた。

「結果として――アカシックレコードを覗いたことに後悔はない。アレクシス・ストレイス、君には縁のない書棚であることを祈っているよ」


◆        ◆        ◆


 八番ホームから列車が去っていく。

 顔色が一際暗くなるのではないか――そう思いたくなるほど、派手に煙を撒き散らしながら首都を目指して走っていった。レールと歯車がきしきしと音を響かせ、次第に遠ざかる。やがて赤い箱を連ねた車がそれだとわからなくなり、地平の点になって消失した。

「…………」

「…………」

 互いに無言で立ち尽くす。

 二人を同時に動かしたのは、すぐ近くを走っていった何人かの乗客たちの話し声だった。よほど急いでいたのかその声は断片的だ。

「駅の裏で……」「男の死体が……」「有名な人……」「そいつは気になる……」

 やがて女性の悲鳴と警察のサイレンが同時に聞こえてきた。

 遠巻きではあるが黒い警察車両が見える。

「――なにか、あったんですか?」

 好奇心に勝てず、アレクシスはどこかに走っていこうとする男を捕まえて話しかけた。

「死体だよ。なんでもこの街の有名人の死体だっていうから、見に行ってくるんだ」

「有名人の死体……一体、誰だ?」

「俺が聞いた話じゃ、あの『死体を甦らせた』って有名なエメット教授にそっくりだったって話だ……おっと警察のおでましだ。死体を片付けられちまう前にちょっと見てくるよ!」

 男はそれきり、アレクシスに振り向くことなく走り去っていった。他にも走っている人間は多く、観客の群れの中に合流した男は、呆気なく集団の中に紛れてしまった。残されたアレクシスはグレアムの方に向き直る。

「どういう、ことだ……彼は、今さっき見送ったじゃないか……」

「…………」

「どういうことだ……」

 アレクシスの質問に対してグレアムは黙って大きな溜息をつくのみだ。

 と、そのときだった――アレクシスは肩を強く、掴まれる。

「捕まえたぞ!」

 制服を着た警官の手が、それと認識するより早く腕を捩じりあげていた。ホームの路上に押さえつけられて動きを封じられる。抵抗する暇も余裕もなかった。痛みに呻きながらグレアムの方を細目で見やると、同じように突っ伏すことを強要されていた。流石の彼もこの状況でふざけた物言いはできないようだ。

「これは……! 一体どうして……!」

「喋るな!」

 理由を訊ねようにも警官が体重をかけられて呼吸すら制限される。

 肘が肋骨の間に入っているらしい。折れるほどのものではないがかなりの痛みが走った。

「――どうしてもなにも、君、空から駅に侵入すれば逮捕ぐらいされるだろう。流石に」

 かわりにグレアムがいたって冷静に答えてくれた。しかもまるで自分は関係ないといったような体だ。

「……どうしてお前は!!」

「なんだアレク」

「…………もういい。お前とはもう絶対に関わらない。寮の部屋は解消だ」

 なにを言っても意味はない。いつでも真面目に捉えていない。

 妄想だけで生きている。妄想の中で生きている。そういう、ふわふわとした煙のような掴めない男だ。それがよくわかった。

 それを理解するのに、駅のホームの床に頬擦りする必要があったとは思わなかったが。

「お前たち、寮のことを話すのは別の場所から出られてから考えるんだな」

 後ろ手になにか冷たい金属が当たる。ガチャン、という音が聞こえて、はじめてそれが手錠であったことを知った。アレクシスは自分の表情が氷のように冷たく、無表情になっていくのを感じる。

 そんなときでもグレアムは――やはりおどけた笑みを一瞬だけ浮かべたようだ。

 無理矢理立たされ、明らかに階級の違う警部らしき男が二人の処分を言い放った。

「逮捕だ。お前たちを留置所へ連れていく」

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