種を明かす

 すると、エメット教授の隣に寄り添っていた女がゆっくりと瞼を開け、かわりに答える。

「――話せ。グレアム・アシュベリー」

「…………!」

(何故名前がわかった……?)

 アレクシスは不思議そうに女の顔を覗き込んだ。

 それまで誰とも目を合わせなかった彼女が、初めて憂いに満ちた濁った眼をグレアムに向けていた。

「話してみろ」

 寝物語を強請る子供のように女は言う。

 だがやはり声質はすでに成熟した大人のものだ。滑舌がよく、小さな声でもすんなりとよく通った。

「ぜひとも」

 グレアムはほんの一瞬だけ驚いたように目を丸くして、それからアレクシスが聞いたことのないような丸い声色で頷いた。むしろ子供のようだったのはこちらの、グレアムの方だったのかもしれない。

「モーリス・エメット。一八四三年のロサカニナ国エディル市の旧市街出身者。そしてこちらの女性……ミス・バジルもまた同じ出身という認識でよろしいかな?」

 女……バジルは静かに頷いた。

 同意を確認したところで、グレアムは隣のアレクシスに視線を移した。

「……ところでアレクシス、エディル市には旧市街と新市街と別れていることは知っているな」

「もちろん」

「ではどうして別れているのか知っているか?」

「どうしてって……駅が作られたときに新しく街を開拓して作ったから、新旧に呼称を分けたとか……」

「違うな。旧市街は一度消された街だからだ」

「……どういうことだ?」

「この街に限ったことではないが貧民は街に入れず、その周辺に溢れていた。街の中に住んでいたのは貴族や定職に就いた人間とその家族だけだった。そこで貧民は街の周りに独自の街を作っていた。このエディル市は特に貧民の数が多く、彼らは地下に掘り進めて街を作り、やがてその規模はエディル市の地下を掌握するまでに膨らんだ。だが――これもこの街に限ったことではないが――最下層の人間の生活はそれこそ人間の生活とは程遠い劣悪な環境で、貧民が積み重なっていったある日、限界を迎えた。伝染病の蔓延だ」

「チフス……いや、ペストか……!」

「そうだ。最下層で迎えた感染は人が一人死ぬ度に上へ這い上ってきた。死体は回収されることも埋葬されることもなく、そのまま放置されて、地下を埋めていった。腐敗臭、病で澱んだ空気、行き場のない不安……そしてそれは、地上のエディル市にもまた流れ込んできた。このままでは街がひとつ滅んでしまうかもしれない。何世紀も昔から続いてきた伝染病の恐怖が猛威を振るう。どうすればいいのか。その判断は数秒とかからなかっただろう――地下街を埋め立ててしまえ」

 アレクシスの背筋がぶるりと震えた。背中の毛穴まで膨らんだのがわかる。

「病気が地上に現れる前に工事は行われた。まだ生きている人間も、働ける人間も、子供だって当然住んでいた。なんの前触れも警告もなく、夜中に行われたそうだ。あらゆる場所にあった地下街への出入り口を封印し、石で固め、石灰で塞いでしまった。逆らう者、這い出てきた者はすべて殺され、手引きした人間も同様の処置がなされた。ペストマスクを着けた人間たちの手によってな。そして埋め立てから数十年。旧市街と称されている場所の地下では未だに死人が山となったまま。僕たちは死人の上で立って歩き、生活をしているということになるなあ。まあ、あくまでもこの街だけに限ったことではないがねえ」

 ふと、グレアムは思い出したように呟いた。

「――ほら、我らが女王様ヴィッキーの店の名前。『レイヴンヘッド』の由来がここにある。レイヴンヘッドはペストマスクのことだ。埋め立て作業をする作業員はみな、あのレイヴンヘッドマスクを着けていた。あのバーはそういった作業員に酒を振る舞っていたのが始まりなんだ。だから店名もそれにちなんでいる」

 そしてまた視線を目の前の二人に戻す。

 深く、暗い褐色の目が、好奇心の赤い色に煌めいた。

「あなた方は政府が〈災害〉認定した旧市街の生き残りというわけだ」

 二人は答えない。黙ってグレアムの話に耳を傾けている――まるでここには存在しない場所の物語を聞いているように。

「エメット教授。あなたのプロフィールを拝見した。あなたはうまく旧市街から脱出したところをみると、貧民街の中でも階層はかなり上の人間だったようだ。だが彼女は違った。彼女はおそらく埋め立てに巻き込まれ、おそらく地下に閉じ込められていた。そして書類の上でも認識の上でも存在しない、この国におけるすべての権利を剥奪された人間――つまり死者になった。彼女がどこから出てきたのかはともかく、このままではどこにも行き場はない。貧民の命をなんとも思わないこの国では権利のない人間には普通の生活すらままならないだろう――では、どうするか。それがあの学会での茶番劇だ」

「死者が蘇ったように、演出した……」

「それだけではないさ。彼女が正式に蘇った者として書類の再作成を勝ち取っている。そうでなければミス・バジルはこの場にはいない」

「だが、どうやって……?」

 アレクシスが疑問を口にしたが、グレアムはあっさりとそれをかわした。

「どうやったかはさておき。あの実験での真価は他にある。実際に彼女へは薬物投与が行われていた。そして彼女が、あの時点でペスト菌に侵されていたことも事実だろう」

「……ペスト? 彼女が? だが、どうしてわかる?」

 アレクシスは思わず身を引いた。

 ペストはヒトからヒトへと感染する。血液感染や飛沫感染が主だ。

 この狭い個室空間でペストマスクもなしに会話をしていれば、もう既に感染していてもおかしくはない。

「実験を偽装するだけならば時間をかけて論文を完成させる必要はない。もっと他に楽な方法もあっただろうからな。そして全員にペストマスクを着けさせたところからも、やはりペストであったことは本物だったはずだ。そして彼女の生命活動は停止していなかったことを加味して考えると……あなたが異国で研究し、完成させたのはペストのワクチンだったのでは?」

 アレクシスはそのとき、エメット教授にもたれるバジルの腕が、袖の隙間から大きく覗いていることに気付く。そこには腕の線に沿って無数の注射痕が残されていた。黒ずんだ赤い点がずらりと列を成しているのは不気味だった。それも、それはけして遠い過去のものではないのだ。よくよく見ると、目立たない場所ではあるが、皮膚の柔らかそうな場所に様々な注射の痕が残っている。

(ああ、そうか)

 彼女の憂いた双眸が、白い肌が、やけに生々しい肉色を見せる唇が、病が見せる華やかな幻想なのである。

 ふいに、水けを帯びた視線がアレクシスを刺す。やけに優しいそれに、アレクシスも絆されそうになった気がして慌てて話題に参戦した。

「……ペスト菌を発見したということか!? それもワクチンまで……信じられない……!」

「…………」

 グレアムは懐から例のレコードを引っ張りだした。

 エメット教授が、友人のサー・ゴドウィン・メイヤーヴェールに手渡し、娘が持ち出してグレアムの手に渡ったレコードだ。前の座席に座る二人の目がレコードに釘付けになる。

「それを私に渡して――どうしろというのかな」

 どうしてそれがそこにあるのか――そんなことよりも、エメット教授の関心は別のところにあるようだった。

「やはり、これが僕の手に渡っていることは御存知のようですね。ならばお判りでしょう。これはあなた方の――いや、正確にはミス・バジルの一部だ。個人が持つべきではない。覗き見てしまった僕をお許しくだされば幸いです」

 グレアムはレコードをバジルに向かって差しだす。

 バジルは一瞬、戸惑って……けれどもレコードをしっかりと受け取った。それから隣のエメット教授に縋るように見上げる。

 どうすればいいのか、判断を仰いでいるようだ。

「……君の好きにするといい。アカシックレコードの通りでも構わないし、まったくその逆を行うのも一興だ」

 バジルはゆっくりと瞬きをしながら逡巡しているようだったが……唐突にレコードを引っ張り始めた。

 金属同士が擦れ合い、結合が歪む。なにかが割れたような音がして、思いの他あっさりとレコードはばらりとその円型を崩した。レコードの細い溝がすべて分散し、まるで糸のように解けていく。レコード一枚分の厚みの長い金属の欠片が弧を描いてばらばらと床に零れた。一本を一枚にしていた、レコードの中央部分の留め具が最後に落ちる。

「……これは」

「これがアカシックレコードの真の姿――その一部を覗き見るためのパンチカードだ」

「パンチカードだと? まさか」

 アレクシスが落ちたレコードの端を拾い上げた。

 小さく薄い金属片に目を凝らすと、情報を読み取らせる特有の穴が規則と不規則を組み合わせて開いている。ただそれは子供の工作のように稚拙な造りをしていた。外観はしっかりとレコードの体をしていたのに、パンチカードだと称された途端にガラクタに変わってまったようだ。

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