話をする
『八番ホーム、レイス経由ケルド行き列車、ただいま発車時刻に遅延が出ております……』
人ひとりが通るのでやっとの狭い通路越しに、そんなアナウンスが聞こえてくる。列車内は機関士や車両案内係が忙しなく動いていた、後は出発するだけで準備はほとんど終わっていたはずだったが、なにやら駅の屋根に人が立ち入ったため、その対応に時間がかかっているらしい。
余裕のない状態で列車に乗り込んだ身としてはありがたいことだが、出発が中止になってしまったりしないか、それが気がかりだった。荷物を預ける際に尋ねてみたが、『定刻より遅れてはいますが予定通り出発する予定です』と返された。
一等車のチケットを見せれば対応は転がるように変わる。『お詫びにシャンパンをお運びさせていただきます』だ、そうだ。
一等車の座席に向かい合うように座って、今はゆっくりとシャンパンを楽しんでいる。
触り心地のいい布をビス留めにした長くてゆったりとした座席。コート掛けも荷物置き場も用意された樫の木でできた個室。プライベートを重視した鍵のかかる引き戸に、絹製のカーテンのかかる窓。ガラスの欠片で反射する光を華やかにする小ぶりのシャンデリア。旅をするには最高の環境だ。
手の中には最高のシャンパン。傍らには愛する人。
「……ようやく二人きり。これで一緒にいられるな、バジル」
どこか楽しげな男の声が告げる。
うっとりとしたような、あるいは気怠いような、そんな溜息をついてバジルと呼ばれた女は応えた。前の座席から真横へ移動して腕に絡むようにしなだれる。
女は男性用のチェック柄のフロックコートを羽織り、ちらちらとその下の白いシュミーズの刺繍とフリル、そして官能的な肉を見え隠れさせていた。
全体的に子供のような体躯。手足も身長も、彼女を構成する体の部位はすべて未成熟であるはずなのに、ふとした所作やなにげない仕草は大人そのものだ。シャンパングラスを持つ手もどこか手慣れている。男に傾ける色香はどこか完成しきって熟れたものだった。
そして……体のなにもかもが小さいのにも関わらず伏し目がちの双眸と胸は大きい。まるで造形を担当した者が欲望のまま体を肉付けさせたような、人間としてはかなりアンバランスな肉体を持っていた。
華やかな薔薇の色をした唇が小さく開く。
「――来たぞ」
彼女がそう言った数十秒後――
乗車した窓側のドアがノックされた。
カーテンを開けると、そこには見知らぬ青年と見知った青年が一人ずつ立っている。
駅員の制止を、こちらがドアを開ける形で止める。彼らの用件は既にわかっていた。
「やあ、どうも。お忘れ物をお届けにあがりました。お話を伺いたいので列車の出発まで中に入っていてもよろしいかな?」
見知らぬ青年の目が赤く光る。
男は返事の代わりに頷いて、ドアを大きく開けた。
そして傍らの駅員に声をかける。
「出発の時間になったら、忘れずに声をかけてくれ」
「かしこまりました。エメット様」
そしてドアは再び閉められ、カーテンが勢いよくかけられた。
◆ ◆ ◆
豪華な内装と広さを誇る一等車の個室は伊達ではない。四人の人間が顔を突き合わせてもまだ余裕はある。なにせ床部分は大の大人二人が横になれるほどのスペースがあった。グレアムは部外者にも関わらず悠々と脚を組んで座席にもたれていたが、今まで最高でも二等車――ほとんどが一般客室のコンパートメントに詰め込まれることが多かったアレクシスは少しばかり緊張していた。
緊張している理由は慣れない一等車の空間だけではない。
目の前に座っているモーリス・エメットその人に対して、講義中と変わりない威圧を感じているからである。
とはいえ、講義の際の彼と目の前に座っている彼とではだいぶ雰囲気が変わっていた。
髪の分け目と服装が異なるというだけで、印象も大きく異なってくるらしい。
ピーコックグリーンの目はひどく穏やかな優しい色をしている。色素が薄まった栗毛はきらきらと輝いて見える。服装は講義時と変わらずしっかりと前を閉じていたが、どことなく緩んでいる気がした。
まるで別人。だがそう言い切れないのは醸し出されている強烈な圧のせいだ。
口角をうっすら上げて微笑んでいるように見えるが――そう見えるだけで、心の底から笑みを感じているのかどうかわからない。真意が読み取れないという意味では敵意のない笑顔も不気味だ。
今まで彼の笑った姿など目にしたことがなかっただけに、それは強烈な印象として焼き付けられているらしい。
アレクシスは何度も唾を呑み込んで、エメット教授をねめつけた。
(確かに、脈はなかったのに)
確かに目の前で、グレーのスーツに上からコルセットをはめ、磨かれて光沢のできた革靴をはいて、どこか小奇麗になって座っている。とても死にかけていた人間とは思えないほど血色もいい。死んだはずの人間が無言で微笑みかけてくる異様な状況に、混乱する脳がなにもかも放り出して叫び声をあげそうになっている。惨事にならないのはアレクシスが精神力でなんとか抑えつけているからだ。
背中に冷たい汗が流れ、背中のシャツに吸い込まれて消える度に、かっと顔面が熱くなっていく。膝の上に置いた拳をぐっと固くして唇を噛んだ。
「――では、忘れ物をお渡しするその前に種明かしから。僕の友人がひどく怯えているようなので」
「……怯えてなど、いない」
必死になって震えを堪えながらもグレアムの言葉にはしっかりと反論する。
グレアムは苦笑して肩をすくめると、エメット教授に目を向けて語りだした。
「あなたは死ぬことにした。理由はさておき、そう決めたのはかなり前、論文を書くより前のことだ。イーリス国で研究をしていた頃だろう。色々と画策した結果この結末が一番安全でしっくりくると考えた。そして論文を書き上げた瞬間、計画は実行に移された。彼女は蘇り、あなたは死に、発表した論文は闇に葬られる……」
エメット教授は黙っている。その隣でエメット教授にもたれている女性も目を閉じ、まるで子守唄を聞いているように規則的な呼吸をしていた。
「死ぬ段階になってあなたが用意したのは従順な助手と真面目で扱いやすい学生。できれば周りの人間が彼の言葉を信じてくれるような、普段の素行が良好な人間がいい。自分の死を証言した際にある程度の人間が気に留めてくれるような人間だ。そして選ばれたのはこのアレクシスだった。まあ、確かに融通が利くようで利かないし、しっかりしているようでだらしない。真人間といえばそうだが真人間ほど騙しやすい人間もいない。騙そうと思えばいくらでも騙せる人間だ」
「…………」
アレクシスは無言でグレアムの靴を踏んだ。
踏まれたグレアムは眉をひそめ、脱線した話から元の話題へと速やかに戻っていく。
「まあ、とにかく……目撃者と助手さえいれば後は簡単だ。目撃者に自分が死んだように誤認させ、助手に後を託して退場させる。そして自分も助手と一緒にその場を後にすれば、今の状況を作りあげられる」
「だが確かに脈はなかった。それに大量の出血もしていたんだぞ」
「医師は医師を騙すことができる」
アレクシスはぴしゃりと断ち切った。
「特に君はなまじっか医学を齧ったばかりのペーペー野郎。頭でっかちで教科書通りにしか人間を見ない。文字や図柄の上でしか人間の肉体を認識できない。自分の目でその人を見ようとはしない。本当に、その血に傷口はあったのか?」
「……傷口」
「脈もそうだ。首筋ではなく手首から取ったんじゃないのか? たとえば丁度よく近くに投げ出されていた腕から」
「…………」
まるでその場で見てきたかのように告げる。
グレアムは自分の行動を紐解いていく。
傷口はエメット教授が衣服を固く握っていて確認できなかった。染み込んでいる血に紛れ、見えていないものを見たと錯覚したようにも思える。
脈も同じだ。投げ出された腕から拍動を感じ取ろうと指を置いた。まるでこの腕から取ってくれといわんばかりに置かれた腕だった。だが、その腕には確かに脈打つ音はなかったのである。
「腕の脈拍はいくらでも偽装できる。腕を縛るという手もあるし、脇になにかを強く挟むという手もある。あるいは医師らしく薬を使うこともできる。面倒だが義手を用意するといった可能性も捨てきれない。アレク、いっときの嘘は簡単につけるんだ」
「……なるほど。覚えておきますよ」
アレクシスはグレアムにではなく、エメット教授に対して返事をした。
「さて、後は助手にアレクシスの誘導を頼もう。『死んだ』と思わせた目撃者を泳がせなければならない。助手がうまくアレクシスを追い出した後は簡単だ。死体があった痕跡を消して退散するだけだ。おそらくアレクシスが来たときと同じ道順で出ていったんだろうな」
『君もなかなか苦労して中に入ってきたようだし』――そんな一言がアレクシスの脳内で再生される。あれは本当に、道順を知られていたのだろう。
(……くそっ、ふざけやがって)
アレクシスは心の中で悪態をつく。
そういえばその助手はこの場にいないのか。不思議に思って口を挟もうとしたがグレアムがもう口を開いている。
「そして彼女と合流したあなたは死んだ人間として国外へ逃亡。行先は新大陸。ロサカニナとイーリス、両国の人間が多く入り混じる坩堝の国だ。誰もあなた方のことを知らない。まさにやりたい放題――自由の場でしょう。どうして、あなた方が自由を求めたのか。多大なる犠牲を払ったのか。その理由は僕の妄想の中でしか成り得ません。まだ時間はあるようですし、お話してもかまいませんか?」
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