死にかける

 アレクシスは強く目を瞑った。

 浮遊感が爪先から頭部までを駆け抜ける。恐怖で体のあちこちに不具合を感じた。

 手を伸ばせる範囲にはなにもない。

 落ちている。止まらない。

 ――死ぬ。

 生きる術を求めて脳は高速回転しているが、確実に絶望が体を貫いていた。

 着地のタイミングで目を開けてしまう自分の好奇心を呪った。

 だが……唐突にがくんと落下が止まった。

「…………?」

 アレクシスが目を開けると灰色の砂利の光景が広がっていた。激突のほんの寸前――落下が中断されていた。アレクシスが身をよじれば体のどこかが小石とぶつかるかもしれない。そんな距離である。

「危ない危ない。君、死ぬとこだったぞ」

 顔を上げる気力はないが……グレアムであることは間違いない。

 緊張感のない楽観的な口調が頭の後ろから降ってくる。

「ちなみに――後ろにしがみついていた場合の事例は右を見てくれ」

 アレクシスは潤んだ目を瞬かせることも忘れて、首を右側に動かした。

 右側では黒い布の塊が転がっているところだった。悶えるように転がるそれからは滑らかなくちばしの曲線が覗く。グレアムの背中に飛び乗ったペストマスクの人間であることは間違いない。受け身は取れたのかもしれないが、ダメージは大きかったらしく、その場を転がる以外にできることはなさそうだ。

 心なしか繊維の焼ける臭いが近くから漂ってきて、アレクシスは呻いた。

「おま――お前の背中は平気なのか?」

「断熱材を敷いているからな。ただ、真後ろは蒸気を排出するからなあ、結構熱いし、それ以上に蒸気と熱と水を吐く際の圧力で――ああやって吹き飛ばされる」

 ぶしゅう、と大きく配管が放出して、音が変わる。

 翼が大きくはためくように揺れ動いた。

「では進もう!」

 グレアムの脇に手を入れ、ぶら下げたまま上昇。

 建物にぶつからないようにできる限りの低空飛行を保った前進する。

 道を歩く人間の頭上をアレクシスの爪先がすれ違う。少しでもアレクシスが暴れたり、グレアムが取り落としたりすれば大惨事だ。アレクシスは少しでも人の頭を蹴り飛ばさないようにと腹筋を使って足を曲げた。

「アレク! 君はどうして空中殺法をきめようとするんだ! ワイヤーアクションは五十年待て!」

 グレアムは悲鳴をあげたがアレクシスは構わずに足を動かした。

「次に発明をするときは固定用のベルトを作っておけ!」

「これは一人用なんだ!」

 喚いている二人は通行人からも目立ったらしく……驚愕の声と悲鳴があがった。

 当然、その声は追手の方にも届く。まるで道に迷わないように子供が撒いている小石のように――黒い烏に扮した彼らも追いかけてきた。

 グレアムもそのことには気が付いているようで、急に左に体と取っ手を傾ける。空中で大きくカーブを描いて曲がった。

「なんだっ!?」「きゃあ!?」「危ないじゃないか!!」――途端、路上から阿鼻叫喚の文句があがる。

「うおおおっ!? このっ、馬鹿っ! 自分勝手な走行をするな!! 周りを見ろ!!」

 アレクシスも声を大にして苦情を訴えるが災難はさらに続いた。

 それの接近に気が付いたのは、けたたましい鳴き声を耳にしたからだ。それから目で存在を確認した。当然、回避には時間が足りない。 角を曲がろうとしていた馬車馬の顔をアレクシスの足が軽く蹴り飛ばしてしまった。

「うわあああっ……!」

 ヒヒーン! ヒヒーン! ヒーン!

 まるですすり泣くような高らかな鳴き声と共に、興奮した馬は制御を失って暴走した。突っ込んでくる馬と機械仕掛けのハンドル、荷物を乗せた箱をグレアムも上昇して避けなければならなかった。

「あああ……」

 自分のせいで混沌と化した街中を見やって、アレクシスは痛切に呻く。

 だが今の馬車の暴走でペストマスクの追手は姿を消したようだった。砂埃と混乱に紛れて追跡不能と判断したのか、目立つ風貌にも関わらず人目を避けようとしたのか……彼らの追随は一旦中断されたようだ。とはいっても横道や細道や抜け道が多数存在する街だ。どこからひょっとこりと現れても不思議ではない。まだ油断はできない。

 と、周囲へ警戒の目を走らせるアレクシスの元に、グレアムの声が飛ぶ。

「アレク! ちょっとは君も協力したまえ! 両手が塞がっていると安定した運転ができないんだ!」

「どうしろって言うんだ!」

「僕の両腕を自由にさせてくれ! なんとかして体をよじ登ってこい!」

「……君がこのまま俺を持ち上げればいいんじゃないのか!?」

「そんな腕力を僕に求めるな!」

「それもそうだな……」

 この男がスポーツに勤しんでいる姿を見たことがなければ想像もできない。

 アレクシスは妙に納得してしまって、「……わかった!」と叫んで行動に移した。

 グレアムの腕を掴み、力をかけすぎないようにタイミングと体重移動に気を配ってグレアムの体に腕を回す。その間、浮遊している体は大きく左右に揺れたがなんとかその場に留まっているようだった。

 グレアムは左右それぞれのハンドルを握り、思い切り前へ倒した。

 鋼鉄の軋みがより痛々しく響き渡る。それでもグレアムの操作に従って、二人分の重みを支えて飛空機は急上昇する。アレクシスは内臓が圧迫されるような違和感に歯を食いしばった。通常の低空飛行便の運航高度と同等の高さまで上昇し、気流に乗って安定した飛行を手に入れる。

「おいっ! どこへ行くつもりなんだ!」

「駅だ! 急がないと間に合わない!」

「今度は国外逃亡でも計るつもりか!?」

「そうだ! そうなればもう二度と会えなくなるぞ――エメット教授にな!」

 突然出てきた彼の名前に、アレクシスは一瞬言葉を失った。

「は――どうして彼が出てくるんだ!?」

「いいから急ぐぞ!」

 充分な高さまで到達したところを見計らって自分の胸元へとハンドルを戻す。なだらかではあるものの、確実に駅の方面へと進んでいることは確かなのだが……相変わらず操作は急なもので、ついさっき体験したばかりの自由落下に似た感覚を再び体感することになった。

 途中、公式の飛行士とぶつかりかけたが、なんとかして無傷で駅の上空に辿り着く。

 平日とはいえ交通の中心部はやはり混雑している。

 忙しなく人が行き交う頭上を、低空飛行便とは異なる影が動く。

 最初に気が付いた人間は――気が付いたというよりもなんの気なく頭上の屋根のガラスを見上げたのだが――ぽかんと口を開けて、間抜けな顔を晒した。他の誰かがなんとなく見た間抜けな顔を、どうしたのかと原因を探している内に頭上の異変に気付く。そうして駅にいる誰もが、空からの不法侵入者に気が付いた。

 金切り声に似た不思議な排出音を出す飛空機が降り立とうとしていた。

 許可もなく駅の屋根に飛空士が降りてくるなんて前代未聞だったし、そうでなくても普通の人間が立ち入るような場所ではない。つまり、強度はあまり期待できたものではなかった。

 グレアムとアレクシスが降下していこうと屋根に近付くと屋根の表面が激しく揺れた。ガラスの窓はがたがたと震え、まるで嵐でも現れたかのように表面の誇りや汚れが風圧で飛んでいく。

「おい、これは大丈夫なのか!?」

「大丈夫だ!」

 グレアムは叫びながらなおも降下を続けた。

 ピシッ……! ピシピシピシピシ……。

「おい!! 本当に、大丈夫なんだろうなぁ!?」

「情けない声を出すな! 大丈夫だ!」

 蜘蛛の巣状の無数のひび割れが窓いっぱいに広がる。

 やがてグレアムはその上に立ち、ハンドルの向きを元の角度に直し、ゆっくりとワイヤーを巻き取らせ、飛空機の蒸気機関を停止させる。不機嫌そうな低い唸りは段々と落ち着いていき、最後に溜息のような蒸気の残り滓を吐き出して完全に停止した。

「ほーら、大丈夫だったろ。君はビビりすぎだ」

 アレクシスは着地するや否や窓ガラスの上からは早々に待避していたのだ。そんなアレクシスを茶目っ気たっぷりにからかって、グレアムも窓ガラスの上から退いた。

 その瞬間、すべての均衡が崩れた。

  パリ、パリリ……と、パンの薄い皮が剥がれるように細かい破片がこぼれたかと思うと、唐突に大きな音を立てて窓全体のガラスが落下していった。

「…………」

「…………」

 枠だけとなった窓を見つめ、それから下から聞こえてくる悲鳴に耳を傾ける。

 騒ぎの声から推察したところ、ひとまず怪我人はいないようだ。

「……ほら、大丈夫だった」

「この馬鹿っ!! なにが大丈夫だ!? どこが大丈夫だ!? どうやったら大丈夫という一言が出てくるんだ!?」

「とりあえず駅員が来る前に列車を見つけなければいかんな。行くぞ、アレクシス。下に行って列車の発着ホームを調べよう。おそらくレイス行きの列車のはずだ……」

 駅の屋根を我が物顔で闊歩していくグレアムの背中に、諦めの入った声を投げかける。

「どうしてそう思うんだ……?」

「この辺りで一番近く、国外に出られそうなのはレイス港しかないからな」

 必要のなくなった翼を収納し、体がやけに小さくなったように見えたグレアムを、アレクシスは肩をすくめて見つめる。と、駅員の声がすぐ近くで聞こえていた。背後から煽るようにじわじわと複数人の気配が迫っている。

 ここで残留すべきか否か――アレクシスは脳内麻薬が分泌された頭をかき回した。

 今、捕まってしまえば、エメット教授には二度と会えなくなる。

 少なくともそう言ったのはグレアムだ。逆に言えばグレアムがそう言っただけに過ぎない。事実かどうかは現時点では確認できないし、アレクシスにはその指摘の理由がわからない。

 梯子の先端が屋根にかけられた音がした。誰かが登ってくる。

 アレクシスは苦悶に歪んだ眉間を解くと、段差になっている屋根を降りていくグレアムを追って駆けだしていた。

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