シキモリ 4

そもそもの始まりをどう見るのかと言う点については諸説あるが、有力なのは量子演算素子の開発技術に関するブレイクスルーだとする説だ。これは、感覚的にも馴染みやすい。

今世紀の初頭に、それまではSFの中の夢物語だと考えられていた固体素子上で量子状態を自在に操る技術が確立されて以降、この分野の技術は凄まじい速さで進化を遂げた。

そして、その技術の一端は社会に大きなインパクトを与えたが、それは多くの人々が漠然とイメージしていた量子コンピュータによる技術革新ではなかった。もちろん、量子コンピュータの普及によって、天気予報の的中率は上がり、分子設計による薬剤開発の速度は飛躍的に向上して、人々の生活の質は変化した。

しかし、例えば、コンピュータの上で革新的な素材が設計できても、その製造プロセスが衛星軌道上に巨大プラントを建設しなければ実現しないものであれば、その素材を一般に普及させるだけの生産能力を人類が手に入れるためには、最低でもあと十年程度の時間は必要になる。

あるいは、医療用人工ウィルスの設計を行い、数十万パターンに及ぶその変異の可能性とリスクの計算を行うことはコンピュータが行ってくれるが、その先の判断は人間に委ねられる。そして、数十万パターンのリスクモデルを確認し、絶対に間違いのない判断をできる人間はいない。社会全体を完全に数値モデル化し、計算可能なアルゴリズムを構築すれば、その判断すらコンピュータに委ねることが出来るかもしれないが、現段階ではこのNP完全問題を解くためのモデル化とアルゴリズムの構築は人間が行わなければならず、それを行うだけの技術はまだ確立されていない。それが出来ない以上、アフリカのブルンジュラで起きた悲劇の教訓を生かす術は、時間をかけた昔ながらの臨床実験になる。

こうやって、量子コンピュータが吐き出す膨大な量の革新的技術の計算結果は、人間側がボトルネックとなって実行待ち状態でどんどん積み上げられてゆき、社会に与えるインパクトは緩慢なものとなっていく。

もちろん、量子コンピュータの普及で一番懸念されていた、素因数分解を基にしたRSA暗号技術が意味をなさなくなるという問題についても、量子暗号を基にした手法が代替技術として確立され人々の生活に大きな変化を与えることはなかった。

そんな状況の中、この分野で世界中に大きなインパクトを与えたのは、それまでに予測どころか想像すらされていなかった、いや、むしろ常識論としては否定されていた現象だ。

それらは、まとめてアンSch《シュ》――アンシュレディンガー――現象と呼ばれる。

まだ量子状態を計算素子として利用できるという発想すら生まれていなかった様な遥かな昔、シュレディンガーは、猫の虐待実験をメタファーにして『すべての実在は波動関数に基づく確率的存在だ』という概念を間接的に否定した。この考えの正否については科学的に明確な証明が行われず、専門家の間で数々の議論を引き起こしながらも、一般的には、全ての実在が波動関数に基づく確率的存在であるのは量子力学的なミクロな世界の話でありマクロな世界ではそうならない、というシュレディンガーの本意とは若干ずれながらも大枠ではその主張を認めた解釈を主流として落ち着いていた。

これが怪しくなってきたのは、量子演算素子の技術開発の中で、実験的ながら二万三千キュービットの常温駆動エンタングルメント型素子が実現できた頃からだ。この素子自体は実用化には程遠く、量子演算素子として機能することを数ミリ秒のあいだ証明した後で破損しているが、問題はそのサイズだ。二万三千キュービットのエンタングルメント型量子演算素子――それは即ち、充分にマクロといえるサイズの世界で、量子力学的な重ね合わせを実現したという意味になる。これ以前から類した研究は行われていたが、この時を機に、のちにアンSch《シュ》的挙動や非Sch現象と呼ばれる事象の研究が一気に活発化することとなる。

そして、それらの研究の大部分は不発に終わるものの、数例かつ極めて低い再現性ではあるが、マクロな世界で量子力学的な挙動を実現することに成功した事例も現れた。これらの事例について完全な整合性が取れる理論の確立は未だできていないが、どういった手法であれば実現の可能性が高いかと言う情報があれば、ある分野での実用には耐える。

そして、その兵器を開発したのがどこの国なのかは明らかにされていないが、多国籍連合軍に参加していた九か国のどこか――あるいはその九か国のうち数国の共同開発によるものだったのかもしれないが――であることは疑いようがない。一説によれば、この国で行われていたSS《超規模》アダマールゲート(つまりは、マクロレベルの量子もつれを生じさせるシステム)の基礎研究において偶然に発見された現象が、開発の基礎となったともいわれている。

中東の都市シラルザラードで行われたテロ組織の掃討作戦において、多国籍軍側がテロ組織の拠点とされるエリアに対して使用した非Sch爆弾は、六発だったと言われている。そのうちの五発は不発で、効果を発したのは一発だけだったというのも、ほぼ間違いがないらしい。

結果としてシラルザラードは壊滅し、二十一世紀のヒロシマと呼ばれることになる。あるいは、一般住民の避難を行うだけの時間的余裕があっただけヒロシマよりマシだったとも考えられるが、その後の復興が行えない完全な不毛の地となったという意味ではヒロシマより被害が大きかったとも言える。

何にせよ、これで一つの結論が出た。即ち――

非Sch現象は、兵器としても使える。

当然、国連内では加盟国の九割以上の賛成をもって非Sch兵器の拡散防止条例が締結されたが、これに拘束されない勢力も世界中に数多くある。言うまでもないが、そういった勢力の大部分は平和のための協調という大義名分には何の興味も持っていない。

そして世界各国で非Sch兵器への対抗策が講じられたが、ここで問題となるのが非Sch兵器の挙動はそれまで考えられていた兵器のそれとは大きく異なるという点だ。

非Sch爆弾が引き起こす破壊は、火薬や核の様な急激な温度変動とそれに伴う圧力変動によるものではない。むしろ、初期の挙動は従来の爆弾に比べると穏やかで緩慢だ。爆発を伴わない兵器を爆弾と呼ぶことにも議論があったが、それはまた別の話として、非Sch爆弾は物体を”波動化”することにより破壊する。波動化が伝播する速度は決して速くはなく、シラルザラードの例で言えば発動初期にテロリストの拠点となっていたビルを中心とした半径三十メートルの範囲をそこに居た人間ごと波動化した後は、時速二~三キロの速度でゆっくりと伝播していった。健康な人間なら、充分に歩いて逃げられる速度だ。

問題は、どの時点で波動化の伝播が終了するのか――あるいはまったく終了しないのか――が全く判っていないことにあった。

いくら時速二キロのゆっくりした速度だと言っても、丸一日あれば町が一つ呑み込まれる。この時になって、多国籍軍は事態の重大さに気が付いた。

非Sch爆弾使用の数時間後から開始された波動化停止作戦で、波動化したエリアに対しては通常兵器を使用した攻撃の有効性が極めて低いことが確認された。物質を使って物質を破壊するという概念に基づいて造られた兵器では、従来で言う物質としての特性を半ば失った波動化物質に対して効果を発揮しないのだ。

そして、戦術核を使用するという判断は早かったと聞く。ただ、判断が早くてもタイミングとしては遅すぎた。波動化したエリアに対しても核攻撃であれば有効打となりうることは確認されたが、その時点では既に戦術級の核兵器では威力が不足していた。

結局、住民を避難させてから戦略級の核攻撃で町を消失させる迄、事態は収束しなかった。更に数か月後、町を復興させるための重機を搬入し作業を始めた所、作業を始めて数時間後に重機が波動化しはじめ、作業は中断。

波動化した重機と付近一帯を、再度、戦術核で焼き払って、以降シラルザラード一帯は国連監視下の立ち入り禁止エリアに指定されている。

 この波動化という現象に対して、どう対抗していくのか。

各国で様々な方法が研究され、そのほとんどが有効性を確認されないまま理論だけが積み上がっていく中、ある自爆テロの現場で波動化を始めたトラックが、波動化を伝播せずに収束し通常物質に戻るという現象が確認された。この時、トラックを運転していたテロリストは当局につかまる前に自決したが、自決の直前にトラックの近くにいた現地自警団の青年に銃撃を加えていた。この青年は重傷を負いながらも一命をとりとめ、警察の聴取に対して、非Sch爆弾の波動化伝播を阻止したことを察知され報復を受けた、と語っている。

もちろん、当初この青年の言葉を信じる者は居なかった。しかし、現場近くの街頭カメラに撮影されていた映像を確認すると、波動化を始めたトラックの荷台に青年が近づき何かをすると波動化が伝播せずにトラックの荷台が通常の物質に収束する様子が映っており、青年の言葉が全く信ぴょう性の無い訳ではないことが判明する。そして、ここから開始された調査は、それまで誰も想像していなかった結果をもたらすことになった。即ち――

人類の中に、非Sch現象を収束させる能力を持つ者がいる。

初めて明確に示された非Sch兵器への対抗法に、それを求めていた国々は色めき立ち、後にデコヒーレンサー《収束能力者》と呼ばれることになる人材の確保が各国の緊急課題となった。

しかし収束能力と言うのは他の特殊能力とは異なり、一般生活の中では顕現する機会がなく、能力者本人がその能力を自覚できるような状況もほぼ無い。むしろ、最初に発見された自警団の青年の事例が奇跡中の奇跡なのだ。――ということは、デコヒーレンサーを探すためには、それ以外の特殊能力を有する能力者も含めて大網でさらう必要があるという事になる。

そうやって非Sch現象に対抗する能力を持つ者を探す研究は、過去に超能力と呼ばれた能力に対する研究へと展開し、二十世紀末にいったん終息していた超能力研究が世界各地で再燃することとなる。しかし今回のそれは科学的結論の出ないオカルトブームに終わることはなかった。前世紀より遥かに発展した科学技術を背景に、能力者(あるいは、その因子を持つ者)を高確率で選び出し、確立されたメソッドで能力を訓練する。

そうやって、当初の目的を果たしながら更に展開していった能力者の選抜システムは、世界中の様々な国が、それぞれ独自の能力者組織を擁する状況を生み出していった。


「私が何を調達して来いと言ったか覚えているか?」

 ヴァンDは、面白くなさそうな顔で私に向かって言った。私は何の話か分からず、思い出すフリをしながら、しばらく天井を眺めることにする。

天井のシミを眺めていると、不思議なことに、思い出すフリをしただけの筈が本当に思い出した。ひょっとすると、あれは天井のシミに見せかけたサブリミナル記号か何かなのかもしれない。

「新しいミサイル――でしたか」

 ユミナに会いに行く前に言われたセリフだ。

新しいミサイルを調達して来い。

確かその後で、新しい仲間になるかもしれない相手をそんな風に言うものじゃないと注意もされた気がする。

「あの女の能力は、ミサイルとは正反対のタイプだ。非Sch現象に対する同調能力も大して高くない」

 何の話か薄々読めてきた私は、しかめ面を作らないように全神経を集中した。

ユミナが不合格となり、家も仕事も無い状態で病院から放り出されても基本的には私と関係のない話だ。もともと、私が病院へ訪ねていかなければそうなっていただけのことだし、我々のビジネスはボランティアじゃない。今までだって、何度も経験してきたことの筈だ。

しかし、何故かそこを割り切らず、胸の奥にある無意味なもやもやを表情に出してしまいそうになる自分がいる。

「正直、我々の組織でどこまで有用に使えるかはわからん」

 言いながらヴァンDは、壁のサイネージを目線で示した。

見ると、サイネージの画面は四つに区切られて、それぞれに車のアラウンド・ドライブレコーダーのものらしい映像が映し出されている。フロントガラス越しの映像は白煙で前方が全く見えず、ガラスに付着している白っぽい汚れが映っている。

見覚えのある映像だと思っていると、ドライバー側のサイドウィンドウを映した映像のフレームの端に、ほんの一瞬、私の横顔が見えた。

間違いない。これは、今日の午前中にミドノと合流した直後の映像だ。

車が走り出した瞬間、運転席横のサイドウィンドウにスポット上のヒビ割れが五か所現れる。なるほど、この角度から見ると散弾の着弾がよく判る。

次の瞬間、リアシート右側のサイドウィンドウと、リアウィンドウの外側で、発光が見られた。晴れた午前中の日差しの下でもわかる発光。リアルタイムでは車を運転していたので何が起きたのか判らなくても当然だったが、今、この状態で映像を見せられても、やはり何が起こっているのか判らない。

ただ私の貧弱な記憶力でも、ドローンに正面から銃撃を受けた時も同じ現象が起こったことだけは覚えていた。

そう思っていると、私の疑問に答えてくれるかのようにサイネージの画面が左右二分割に変わり、左にリアシート側のサイドウィンドウ、右にリアウィンドウの画像が拡大表示された。どちらも、発光現象が起こった瞬間の静止画だ。

そして、どちらも画面には、いくつかのスポット状の発光が映し出されている。数えてみると、どちらも六個。

それを見ても、今ひとつ私にはヴァンDが何を言いたいのかが理解できなかった。

「――しかし、パワフルでレアな能力ではある。使う場所さえ的確なら、かなりの戦力になることも間違いない」

 ヴァンDがそこまで言葉を続けたところで、自分の勘の悪さに恥ずかしくなった。

これはユミナの能力か。

「先鞭をつけて予約金まで払っているんだ。先程のようなこともあった後で、優秀なことが判っている人材を他の組織に渡すことも無いだろう。キープしておけば、もっと有用に使える組織との交換取引バーター材料にできる可能性もある」

「では、合格という事ですね。本人には?」

「それを伝えるのは、お前の仕事だ。資料を渡す」

 ヴァンDがそう言い、私の胸ポケットでデータケースが振動する。取り出して画面を確認すると、ヴァンDから送られたデータを受信していた。

「中の資料にも書いてあるが、あの女の能力はエネルギー変換型の運動制御能力だ。あまり一般的な呼称ではないが『ブレーキ』という呼ばれ方もする。お前も経験した通り、銃弾の運動エネルギーを熱エネルギーに変換して無効化する程度のことは出来る。審査官のアオキによると、プラットフォームさえ用意してやれば、第一宇宙速度まで加速したロケットでも止めれるほどのポテンシャルを持っている可能性があるらしい」

 珍しく、ヴァンDは口元に少し笑いを浮かべながら言った。これは、今度アオキに食事でも奢る必要があるか……。

ふと見ると、サイネージの静止映像はスロー再生モードに変わり、持っていた運動エネルギーを熱エネルギーに変換された散弾は、高温の白熱状態から少し冷えた赤熱状態へ変わりながら落下していくところだった。


オフィスに戻るところで、偶然アオキとすれ違った。審査に対する礼を言い、ユミナがどこに居るのかを訊ねると既に宿泊予定の病院に送らせたと言う。

この後は私がユミナを病院へ連れて行くつもりだったので少し予定がくるった。まぁ、合格通知が一時間遅れたところでユミナの人生が大きく変わるわけではないから、少し待って貰うか。

オフィスに戻ると、プリントアウトした資料を忙しそうに仕分けているサクラの斜め前で、デスクに頬杖をついて疲れた顔をしているミドノと目があった。

「お疲れさま」

 頬杖をついたまま疲れた声で言われる。

「そっちの方が、疲れてるみたいじゃないか」

「ご存知の様に朝から肉体労働して、昼前には笑えない冗談につき合わされて、昼休み返上で今までレポート作成よ。あと、あの非Schユニットの出処は訊かないで。まだトジマちゃんには話せないから」

「朝の義体については訊いてもいいのか?」

「それも、同じ内容の質問になるわね。ああ、これを言っちゃうと、トジマちゃんだってあんな仕掛け方をしてくる連中に、三つ四つは心当たりあるか……今のは聞き流して」

 それからミドノは頭を上げて、何かを考えるように天井を見つめた。

「――そうね。トジマちゃん、ちょっといい?」

 言いながら立ち上がり、ドアの方へ歩いて行く。私は、座ろうとして引いていた椅子をデスクに戻し、後をついて行った。

ミドノは廊下を歩いて資料室へ行くと、ドアを開けて中を確認し私を手招きする。保安カメラの映像だと違うシチュエーションに見えそうなのでやめて欲しかったが、そうも言えず資料室に入った。

資料室は、入り口の傍に閲覧の為のデスクが二つ置かれ、あとは段ボールやディスクケースの積まれた棚が何列にも並んでいる。デスクの脇の邪魔にならないスペースに、私が仮置きしたユミナの本の入った段ボールがそのまま置いてあった。

「保安室の爺さんから見たら、アタシたち逢引してるみたいに見えるわね」

 ミドノが閲覧用デスクに腰かけて、笑いながら言った。こいつ、判ってやってたのか。

「怒られたら、お前に脅されてやりましたって言うよ。それから逢引なんて言葉は死語だ。

昔の映画以外で使ってるヤツは初めて見た」

「まぁ、トジマちゃんの初体験になれたなんて光栄ね」

「その手の冗談はもう満腹だから、本題に入ってくれ」

「ハイハイ。ご免なさいね。オフィスだとサクラちゃんいるから、あの子にはまだ聞かせられないのよね」

「俺はいいのか?」

「さぁ? ヴァンDに確認したらダメだって言われるかもしれないから、確認する前に話してあげる。感謝しなさいよ。で、悪い話と、もっと悪い話があるんだけど、どっちから聞きたい?」

 私は、感謝の言葉と質問への返事を口にする代わりに、溜息をついた。

「まぁいいわ。昼前に見た超小型非Schユニットだけどね、あれ、量産品の中から数万個に一個とかいう確率で出てくる奇跡の部品の集合体らしいわ。だから、うちで構造を調べてコピーしようとしても無理らしい。それに、メインで使われている量子演算素子は半年以上前にマイナーチェンジで過負荷対策用のリミッタを組み込まれてるから、あれと同じ挙動が出来る可能性を持った個体は既に流通市場に残ってないわ。総産技研にミニマルファブを使った素子製作の再現実験も依頼してるけど、重力波の影響までは制御できないから、活性酸素量のコントロール程度じゃ再現は無理でしょうね。逆に言えば、ああいうのを使いたい連中にとっても、設計図を手に入れたところで絵に描いた餅でしかないってことにもなるから、そういう意味では救いよね」

 それを聞いて、私は少し安心した。

「スーツケース核爆弾の再来ってことでもなかった訳だ」

「スーツケース核爆弾は、実際には大型のリュックみたいな形で重さも六十キロ以上だから、大きさ的には今回の非Schユニットの方が性質タチが悪いわ。何せ、私がショルダーバッグに入れて走り回れたんだから」

「お前なら、スーツケース核爆弾を持ってても走り回れるだろう」

「ホント、トジマちゃんってレディに向かって失礼よね。セクハラで訴えるわよ」

 こういうのをセクハラと言うのか? と少し気になったが、それを言うと話が横に逸れそうなので黙っておく。

「ここでもっと悪い方の話なんだけど、奇跡の部品の集合体で、製作の再現性が限りなく低いって言っても造れる可能性がゼロって訳じゃないのよ。これって、意味わかる?」

 ミドノが、真剣な表情になって私の目を見た。

「同じものが、まだあるってことか?」

「あと一基、確実に国内に入って来てるわ。アタシが掴めた情報はそこまでだけど、頭の隅には置いといた方がいいんじゃないかしら」

「……なるほどな。いつ自爆テロが起こってもおかしくない状況だってことか。むしろ、知らない方が幸せな情報だったかもな」

「今ごろは、うちの諜報や公安でも、もう一基の行方を追ってる。トジマちゃんもいつ呼び出されるか判らないし、その時は少しでも予備知識がある方がいいでしょ。はい、私がいま話してあげられるのはココまで」

 確かに、私は他の機関が確保した容疑者の尋問にセッティング不要のウソ発見器として同席させられることもある。そういう時には何も知らないよりは、何かを知っていた方が役には立つだろう。

「それじゃあ、お疲れさま。今日は、もう上がるの?」

 ミドノが腕時計を見ながら言った。私も、ドア近くの壁にある小型サイネージに表示されている時刻を見る。

建て前上の終業時間までは一〇分を切っていた。

「本当は、もっと早めにユミナを病院へ送って直帰の予定だったんだが、誰かが余計なことをして、それが出来なくなったんだ」

「あら、ご免なさい。それアタシだわ。マチバ君の入院準備品と手続き書類を届けるついでに送っていったの」

 そういうことか。

「ユミナをディナーに連れていく約束もあるから、結局、私は病院へ行かなくちゃならないんだがな」 

「あら先約があるのか、残念。じゃあ、アタシとのデートはまた今度ね」

「ああ、そうだな。一〇〇年後ぐらいにレストランを予約しとくよ」


 ユミナが宿泊する病院は、シキモリから車で一〇分ほどの距離にある。

人工ウィルスの拡散可能性が無くなるまで病院以外の施設で宿泊が出来ないという規定に従っているだけなので、特に治療行為を行うわけではなく、高級ホテル並みの宿泊費で一番安い個室を利用するだけだ。

私がその個室を訪ねた時、ユミナは朝の服装のままベッドに腰かけて夕食の途中だった。

「何だ、出された食事を食べたのか。祝いで、外に食べに行こうかと思ってたのに」

 病院食としては平均的だが、料理としてはそこまで食欲を刺激しなさそうなメニューを見ながら、私は言った。

「こんなキモい格好で外食とか、営業妨害もええとこやん」

「他の客の容姿なんか気にしないような客層の店はいくらでもある」

「それに、この義手やと箸は使われへんし、スプーンとかフォークも上手持ちしか出来へんねん。さすがに格好かっこ悪いわ」

 言われてよく見ると、確かにスプーンを使い始めたばかりの赤ん坊の様な握り方をしている。レンタルの義手では、指先の細かいコントロールができないのだろう。まあ、本人がこっちの方が良いというなら、無理に外食へ連れ出すことも無い。

「――で、お祝いってなに? ひょっとして、うち合格?」

「ああ。成績優秀とは言い難いようだが、合格らしい。おめでとう。明日は正式契約の手続きだ」

 私が告げると、火傷にひきつった皮膚の中でそこだけ妙に透き通って見える瞳が、喜びの色に輝いた。

「良かったぁ、これで何とか生活できるわ。おおきに」

「正式な退院までに、とりあえずの住まいをこっちで用意する予定だが、これだけは譲れないというポイントはあるか? 言っとくがペントハウスは無理だぞ」

「そやなぁ……シャワーとトイレとキッチンがあって、玄関に鍵かけられるトコがいいかなぁ」

 冗談なのか本気なのか区別のつかない口調で言われて、一瞬、返す言葉に詰まる。

「今どき、軍の営内班以外でその条件から外れる部屋を探す方が難しいな」

「そっか。それやったら、安心や」

 ユミナはホッとした様子で言ってから、残っていた夕食の最後の一口を食べ終えて膳に向かって手を合わせた。

「食べ終わったら、少し出ようか」

「え?」

「夜空を観れるところへ連れていく約束だったからな」

「あ、そうやったね。ありがとう」

 言いながらユミナが立ち上がる。夕飯のトレイを掴もうとして、義手の指先ををうまく操作できず苦労していたので、私がトレイを持つことにする。

トレイを廊下に置いてあった返却用のカートに返してから、病院の外へ出た。

車に乗って、数分移動したところにある商業施設へ行き、エレベーターで屋上へ向かう。この近辺で屋上へ自由に出入りできる建物は、少し調べた範囲ではここしか見つからなかったのだ。ここにしたって屋上に出られるのは二十時までだが、その門限までにはまだ少し余裕があった。

「久しぶりの夜空やぁ……」

 両手を広げて空を仰ぐユミナにつられて、上を見上げる。都会の夜空に見える星は、どれも小さくかすみ、その数もずいぶん少ない。星座に欠けがあったりもするから、これがギリシャ時代の空だったら、神話に登場するキャラクターは半分以下に減っていただろう。

「すまないな。近場だと、ろくに星も見えなかった。機会があれば、もう少し空気のきれいな所へ――」

 言いながらユミナを見ると、両手を広げて目を閉じたまま空を仰いでいる。星を見ている様子も、私の言葉を聞いている様子もないが、本人が満足なら私がそれ以上なにかを言う必要もない。

数分の間、私は、屋上の柵にもたれて所在なくユミナと夜空を交互に眺めていた。

ここの屋上は最上階のフードコートからつながった屋外席になっているが、平日の夜に星もろくに見えない屋外席へ出てくるもの好きもいない様子で、私とユミナ以外には人の姿も無かった。

いきなり、ユミナがハッとした様子で私の方を見た。

「あ、ごめん! トジマさん、うち何か夢中になってて――」

「いや、構わんよ。もし良かったら、何をしていたのかを教えてくれないか?」

 確か、神様探しとか聞いた覚えがあるが、どんなことかは想像がつかなかった。

「うーん……そやなぁ。あ! トジマさんやったら、感覚同調とかできるん?」

 感覚同調は、脳感応能力者の技術の一つだ。PM空間から相手の意識を遡って、脳の感覚野に同調することで、相手が感じている身体感覚を共有することが出来る。以前に海外で、自白剤を投与された容疑者の喋る内容が事実の告白なのか、薬の副作用による妄想なのかを確認するために精神感応と並行して行ったことはあるが、シラフの若い女相手に使ったことはない。

「できないことはないが――」

「それやったら、うちに同調してみてくれへん? その方が判りやすいと思うから」

「いや、しかし――」

 正直、少しためらった。

自白剤を投与された犯罪者やテロリストが相手なら、言葉は悪いが仕事の延長で動物実験をするようなものだ。しかし、シラフの若い女が相手だと、むしろ、ベッドに誘われたのに近い感覚がある。

「あ、あぁ、そっか。ごめん。こんな女に同調するとかキモいよな――」

 私の躊躇を誤解したらしいユミナが、急に申し訳なさそうな口調で言った。

「いや、そういう訳じゃない。ただ、最近は使ってないから少し自信がなかっただけだ。同調してもいいのか?」

「だから、うちは構へんて言うてるやん」

「そうか――じゃあ、同調させてもらおう」

 言いながら、私はユミナから発せられる感応波を選り分け、慎重に同調した。ゆっくりと、身体の中にユミナの身体感覚が浮かび上がってくる。

最初に感じたのは、皮膚の違和感だった。自分の肌が硬い殻の向こう側にある様な隔絶感と、全身のあちこちから感じられる不愉快な引きつりの感覚。四六時中この違和感に耐え続けるのは、一種の拷問だと思われた。

「これでも、ウィルス治療で凄いマシになってんで」

 ユミナが、私の考えていることを悟った様子で言う。

私が自分の身体に同調していくのを確かめるように、一歩づつ歩く感覚を意識しながらユミナがこちらへ近づいて来た。そのまま、私の横に立ち、建物の前を通る車の列を見下ろす。

「ここからやで」

 ユミナがそう言った次の瞬間、見下ろす景色の感覚が反転した。

それまで情報のほとんどをそれに頼っていた視覚のウェイトが急激に低下する。それと入れ替わる様に、私にはそれまで経験のなかった感覚が襲い掛かってきた。突然、空中に放り出されたような、あるいは水中に放り込まれたような身体感覚の急変に、パニックになりそうになるのをギリギリのところでこらえる。

目をつぶり、深呼吸。

自分の身体の中に生じたその感覚を、からまった糸をほぐすようにして整理していく。

そして理解した。

これが、ユミナの能力を通してみる世界。

周囲の物体の運動エネルギーを感じる感覚。

視覚では感知できない位置を電子的に隠蔽された状態で飛行するドローンすら発見した、古典力学の巫女たる資質か。

見下ろす通りでは、様々な大きさのエネルギーをもつ物体が移動している。その様子は、明滅と色の変化を繰り返す光の塊のようにも、濃度と大きさを変化させる霞の流れのようにも感じられた。

一列に並びながら、目まぐるしくその大きさを変化させるのは車の列だ。運動エネルギーは速度の二乗に比例するから、加減速のたびに騒々しく膨らんだり縮んだり、色を変えたりと落ち着きがない。自分が運転している時には意識していないが、時速三十キロで走行する自動車が持つ運動エネルギーは高速ライフル弾の十倍以上なのだから、停止と加減速を繰り返す車の運動エネルギー変化は普通にイメージするよりもはるかに大きい。

車の列の傍らを移動する、たいして大きくなく変化も少ない、ランダムな動きは歩行者だろう。

――と、ユミナが車の列の中の、特に運動エネルギーが大きい一台に注目した。荷物を満載した大型トラックだ。

自分の目を開けてユミナの方を見ると、ユミナは左右の手の親指と人差し指でフレームの形を作り、その中に件の大型トラックを収めて何かを計るように目を細めている。

「これぐらいまでやったら、余裕で行けそうやで。わかる?」

 全くその気が感じられない口調にも、少し背筋を冷たいものが走った。言われるまでもなく、ユミナが何を計っていたのかも伝わって来ている。

自分の能力で、この大型トラックを止められるかどうか。その自問に対して、身体の中から湧き上がるポテンシャルが行けると自答した。妄想や虚勢ではなさそうだ。それはそうだろう。今日の昼間に測定して、第一宇宙速度まで加速したロケットすら止められる可能性があると言われているのだ。

これが「神様探し」か? 自分の中の神――特殊能力のポテンシャルを計ろうとする行為が……。

しかし、その想像は次のユミナの言葉であっさりと覆された。

「トジマさんは初めてやから、これぐらいの方が判りやすいかなって思ってん。次は『神様探し』な。まぁ、神様が見つかれへん事はもう知ってんねんけどな」

 言いながら、ユミナが注意する向きを夜空に移す。

次の瞬間――

全身に鳥肌が立った。

町の喧騒を背後にして振り返った瞬間、眼前にはフルオーケストラがシンフォニーを奏でるコンサートホールが広がっている。あまりに陳腐な表現だが、圧倒された精神はこんな安っぽい例えしか思いつかなかった。

満天の星――ではない。その感覚は、視覚表現的なメタファーでは到達できない奥行きと響きを備えている。

夜空を埋め尽くすエネルギーの奔流。

ここから肉眼では見えないが、夜空はその端々まで星に満ちていた。そして、その星々には、全て固有の運動パターンがあり、運動エネルギーを持っている。

そのエネルギーは、固有の輝きや、脈動や、あるいは小さな闇となって、ユミナにその存在を示していた。

この世界にこんな姿があることを知っていれば、あるいは、人間の作り出した社会システムが内包する誤謬は気にしなくても済むのかもしれない。そう思うと、ユミナと接していて時おり感じる達観の様な雰囲気は、やはり、人生に対する諦めではなく悟りに近い性質のものだったのかと判る――ような気がした。私だって、まだそんな領域には到達していないのだから、確証なんかない。今から、山寺にこもって三十年ぐらい修業すれば、ひょっとしたら死ぬまでには確証が得られるだろうか。

「きれいやろ。トジマさん、ありがとうな。うち、ずーっと、これを誰かに見て貰って、この気持ちを共有したかってん。あんな、地球の動きの方が影響大きから、ほとんど判らへんねんけど、何時間かかけてよーく見たら何となく公転みたいな運動してる星もあるねんで。地球が自転しながら太陽の周りを公転して、太陽自体も太陽系の星を引き連れて銀河系の中を移動して、銀河系も銀河団の中でお互いの力で影響を与え合ってる。こうやって、天体同士がお互いに影響しあいながら宇宙の中を移動していくの、天空歯車って言うんやて。ほんで、その歯車を据え付けた台があって、その台だけは歯車がお互いの位置を変えあっても動かへん。この台の置いてあるところが宇宙の中心で、そこに宇宙を作った神様がおるって教えてもらってな、うちの力やったらその神様が見つけられるかもしれんて思ってん」

 だから、神様探し……か。

神様がいる世界の歯車は、静謐の中、悠久の昔より壮大でいながら精緻なバランスを維持して回り続けている。あちこちかで軋み音を立てている人間の社会システムとは大違いだ。

美しく清浄な世界を現実のものとして信じることのできる力があれば、足元の世界が汚泥にまみれ自分が汚泥の上に立っていても空を見上げられる――或いは、そういうことなのだろうか。

「少し違うが、似た話を聞いたことがある」

「へぇ、そうなんや……どんな話なん?」

 そう質問されて、しまったと思った。この場の雰囲気で深く考えずに口にしてしまったが、よく考えるとあまり似た話ではないかもしれないし、そもそも、人に説明できるほどちゃんと覚えていなかった。

「――いや、よく考えると神様探しほどロマンチックな話じゃない」

かめへんやん。聞かせてえや」

 そう言われて、私は記憶の奥底で埃をかぶっている話をひっぱり出す羽目になった。

確か「時空樹の根」とかいう概念じゃなかっただろうか。大昔見た科学番組の内容だからうろ覚えだが、元々はタイムマシンの実用不可能性を説明するための仮説だった筈。宇宙空間にある天体は全て何らかの運動を行っているから、時間移動の前後では、見かけ上その運動による移動距離の分だけずれた座標に移動してしまう、というやつだ。非常に単純に言えば、地球上でタイムマシンを使って半年の時間を移動すると、太陽を挟んで反対側にある地球の公転軌道上の宇宙空間に出現してしまうので、タイムマシンは実現できたとしても実用性がないということになる。

更に踏み込んで考えると、地球は太陽の周りを公転しているが、太陽自体も銀河系の中を公転していて、銀河系も銀河団の中で運動を行っている――こうして、一つの天体は幾つも重なった慣性座標系上で運動を行っているから、この重なった慣性座標系を樹の幹から枝、枝から梢の分岐に例えて時空樹と呼ぶ。時空樹の根は、即ち、三次元宇宙に属する全ての天体の運動に共通した絶対原点だ。この絶対原点を見つけ出し、そこから時間移動後の目標空間座標を計算して、宇宙船でその位置まで移動してからタイムマシンを使用する。これだけの手順を踏まなければ、タイムマシンでの時間移動は行えないとか言う話じゃなかったかと思う。

「――まぁ、タイムマシンの基礎理論自体が二十年近く前から『見つかりました』『よく調べたら間違いでした』を繰り返していて未だに確立されていないのだから、その実用性を否定するというのも気の早い話だ」

 私がそう言葉を結ぶと、ユミナはしばらくの間、考え込むように黙っていた。それから、

「そっかぁ。それやったら、うちが神様見つけてたらタイムマシンの実用性も一気に高まっててんなぁ」

 と冗談めかした口調で、残念そうに言う。

「残念やけど、うちが地球上にる限り地球の自転と公転の影響が大きすぎて、うちの能力ちからも天動説のままやからなぁ。神様がるのが地球の中心じゃない事だけは確かやしな」

 言いながらユミナは、先ほど大型トラックにした様に両手の親指と人差し指でフレームを作り、そのフレームを今度は夜空に向けた。そして、降り注いでくる運動エネルギーの輝きの中、他の星々とは明らかに動きの異なる光をフレームの中心に収める。

しかし、トラックの時とは異なり、その輝きはあまりにも遠く、能力ちからが届く実感はなかった。いや、他の星々に比べると遥かに近い位置にあるのだが、それでも衛星軌道というのは、人間一人の能力にとって大きすぎる距離だった。

「はぁ……ホンマに天動説で動いてる子が相手でも、こんなもんやもんな。やっぱり、見えるのと触れるのは全然違うわ」

 ユミナは苦笑しながらそう呟くと、その人工衛星から指先のフレームを外す。

「宇宙まで行けたら、もっと違う感じになるんやろうなぁ……」

 笑いながら呟かれたその言葉は、遠い憧れなのだろうか。

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