天空歯車の潜熱、そして虚恵の子ら
榑 文伸
シキモリ 1
新しいミサイルを調達して来い。
そう言われて、私はユミナに会いに来た。
ミサイル――つまり使い捨ての兵器という意味だ。
今までだって同じように言われて、何度も、いろんな人間に会っている。そして、私が会った人間の何人かは話を聞くだけ聞いて怖気づき、強がりを言いながら断って来た。それ以外の連中は、金とか信念とか、そんな感じのものを理由に私たちの戦いに参加し、何人かが目的を果たしてから私たちのもとを去り、残りの何人かは使い捨てられた。ほんの数人だけ、私と同じように組織に残り、残渣になるまで命を削ることに専心している奴らもいる。
ただ、ユミナは私が今までそうやって会ってきた連中とは明らかに違っていた。
私が会いに行く連中のほとんどは、戦いをビジネスと割り切っている奴か、戦いが自分を成長させる場だと思い込んでいるが軍隊の規律は苦手だという勘違い野郎、そうじゃなければ、頭の中身が壊れて闘争ホルモンが分泌されっ放しになってる狂犬だ。そして、相手が三番目のパターンだと判ると、話はこちらから断ることにしている。
だが、ユミナはビジネスマンでも、勘違い野郎でも、もちろん狂犬でもなかった。あえて言えば、生きている死体だろうか。
特別病棟のナースステーションでデータケースをリーダーにタッチすると、看護師が胡散臭いものを見るような目つきで私を見ながら、警備員に向かってうなずき、警備員がナースステーションの斜め前にある病室の扉を指し示す。
病室に入ると、消毒薬の匂いと、調子の悪い生体に特有の生臭い臭気がした。
ユミナは、戦場医療の
所々に赤黒いシミがつき、黄色がかった体液が染み出してきている包帯で上半身を巻かれ、右腕の肘から先と、左腕の肩から先は無くなっていた。顔の目と鼻孔と口の位置だけを避けて巻かれた包帯の隙間から見えているのは、目でも鼻でも口でもなく、赤黒く焼けただれた皮膚だか肉だか判らない代物だ。悪夢すら見る余裕がなさそうな呼吸音には、時おり、喉の奥で液体を引きずる様な音が混ざり、本当にこれは呼吸の音なのかと疑問を感じる。
普段なら耳障りに思える生体情報モニターの電子音だけが、自分の前にいるのがまだ生きている人間なのだと、私に教えていた。
私がベッドの脇に立ったとき、目の位置で赤黒い肉が動き、その下から、焼けただれた瞼よりは少しマシな程度に赤く充血した双眸が現れた。
驚いたのは、その瞳が意識の混濁など全く感じさせない、強い意志の力を持ちながら私の方を見たことだ。
「ダ……ヴェ」
口のあたりにある肉が動き、空気の流れに硬い石をこすり合わせる音を混ぜた様な声が漏れた。同時に、頭の中で、生活に疲れた中年女の様なしゃがれ声が聞こえる。
〈だれ?〉
まだ私のモードはパッシブなのに、訛りのあるアクセントまで、僅かながら伝わってくることに少し驚いた。ひょっとしたら、PM空間での距離が案外近いのかもしれない。
「はじめまして。挨拶はいいので、無理に喋らずそのまま聞いてくれ。私は量子化現象情報収集室管理官のトジマ。あんたが、
ユミナの目を見ながらそこまで説明した瞬間、頭の中がハウリングを起こしたような不平不満の声で埋まった。
「――っ
散漫で今ひとつ何を言いたいのか掴みづらい思念だが、要するに面倒くさい手続きはいいから早く進めろ、と言ってるらしい。
私は、舌打ちをしてユミナを睨みつけた。
「断っておくが、我々の組織は法に沿った手続きを経なければ、あんたと契約することが出来ない。それを、あんたの方から破るって言うなら、この話はここまでになるぞ」
あえて少し怒気を含んだ声で噛んで含むように言う。相手が頭のネジが抜けた狂犬なら、この手順も理解できず話はここまでになるが、ユミナはそこまでネジが緩んではいなかったらしい。
私の頭の中の喧騒はぴたりと止んだ。
「理解してもらえたみたいなので、話を続けよう。現在、私はパッシブモードで精神感応を使っていて、私に向けられた強い思念だけを受信できる状態だ。これから、あんたの許可が得られればモード2のアクティブモードに切り替えてあんたの頭に入る。これは、意識の表層にある思考を読んで、こちらが伝えたいことを言語化できるレベルで伝えるもので、まぁ、普通の会話より少し突っ込んだ状態と考えて貰えたらと思う。ただ、普通の会話の時に表情や口調から相手の感情が読めてしまうのと同じように、モード2の精神感応でも深層から感情の流れが伝わってきてしまうこともある。だから、それが嫌なら精神感応による契約は出来ない。さぁ、どうするか決めてくれ」
〈判った。精神感応で契約手続きを始めて〉
間髪を入れず、驚くほどクリアな思念が伝わってきた。そのクリアさに少し感心しながら、私は、濡れてくっついた薄紙どうしを剥がす様にして、PM空間からユミナの精神に侵入する。
慎重にやりさえすれば、他人の精神に潜るの自体はそれほど難しくない。ただ、潜っただけでは、たいして意味のあることが出来ないだけだ。このへんが、世間一般で精神感応に抱かれているイメージと、実際の大きなギャップだろう。
他人の精神に潜り込むというのは、言い方を変えればPM空間を経由して脳感応波で交信を行うことだ。
空間と言う言葉の概念すらこの世界とは異なるPM空間での現象を正確に例えるのは無理があるから、誤解されることを承知で判りやすいメタファーを使うと、スイッチの接触が悪いアナログラジオの電源を入れるのにも似ている。スイッチがちゃんと接触するポイントを探しながら、丁寧に操作すれば通電は出来る。ただし、電源が入っただけでは、有用な情報は手に入らず、ホワイトノイズが聞こえてくるだけ。
次は、インジケータもない状態で、接触の悪いチューニングダイヤルを操作して、目的のチャンネルに周波数を合わせる必要がある。
ここから、能力者の技術の差が現れてくる。
同調できていない他人の精神は、自分の指さきも見えない濃霧の中にいるようなものだ。
少しずつ精神の視点をずらしていくと、ほんの一瞬、濃霧の中に何かの輪郭が見えたりする。ここで、その輪郭に焦点を絞れば同調出来る場合もあるし、逆に焦点を絞ると視差が生まれて同調が外れてしまうこともある。このあたりの見極めをどうするのかが、腕の見せ所とも言える。
世間では、精神感応能力者は他人の頭の中を覗きまわる変質者か何かの様に思っている連中もいるようだが、そんな簡単に覗きまわれるほど人間の精神というのは単純には出来ていない。
更に、私は精神の同調を行いながら、潜り込む深さも微妙に調整していた。同じモード2の深さでも、当然ながら公差範囲がある。モード3とのしきい値すれすれ、法律で許されているギリギリの深さまで潜ると、相手の心の中は読めなくても、心の揺らぎの微妙な脈動ぐらいは感じ取れるようになる。
少しずつ霧が晴れ、私は薄煙がたちこめる夜のビルの屋上のようなところにいた。
何か、ぼんやりとした違和感を感じる。
今のユミナの様に、肉体が危機的な状況になりながら、ある程度の精神活動は維持できている時、人間は精神の中に自分が最も落ち着ける場所を構成して、そこに落ち着こうとする。そのイメージは、現在の自分の部屋だったり、幼い頃に過ごした場所だったりすることが多いのだが、このビルの屋上の様な場所はユミナとどんな繋がりがあるのだろうか。
試しに夜空を見上げて星を探そうとしたが、そこに光は見えない。ただ、星の光ではない何かの存在を感じることはできた。
視線を暗い夜空から前方に戻すと、そこに一人の女が立っている。
街ですれ違っても記憶に残ることはなさそうな、あるいはひと昔前の女性事務員の様な、白いブラウスに紺色のスカート。ブラウスの左袖は中身が入っていないらしく、不自然に垂れ下がっている。
手入れもおざなりな様子のセミロングの黒髪ははっきりと見えるのだが、顔の造作は、そこに存在していることも、そのぼんやりとしている表情も判るのに、目鼻立ちを具体的に識別することが出来ない。
ユミナだ。
この場所で私に見えているユミナの姿は、彼女自身の深層心理が描いている自画像でもある。つまり、ユミナにとって自分の顔の造作は、たいして興味もないものだということか。
「やぁ」
私は、できるだけ相手をリラックスさせようとする笑顔を浮かべて、ユミナに声をかけた。
立っていた女の視線がこちらに向き、その表情が緊張にこわばる。この時になって、表情が判るのに顔立ちが認識できないというのも不思議な感覚だなと思えてきた。
「誰?」
魅力のない、中音で深みに欠けた声のイメージ。
〈だれ〉の〈れ〉にアクセントのある訛りが感じられた。関西弁のイントネーションだが、不思議なことに、私はブロンクス訛りの相手と精神感応しているときも相手の思念を関西弁のイントネーションで受け取ることがある。ユミナがどちらなのか、この時点ではわからないが、まぁ、関西弁の確率が高いだろう。
「誰、はご挨拶だな。たった今、精神感応の許可をとった筈だが」
「え? 何で?! テレパシーって、こんな感じなん?」
女の顔に戸惑いの表情が浮かぶ。同時に、SFドラマなんかでよく見かける、頭の中に相手の声だけが聞こえるイメージが伝わってきた。
「そういうやり方も出来るが、その深さだと特定精神形象が確認できないから、法的に有効な契約交渉にならない」
「特定精神けい――なにそれ、意味わからん」
「――ああ……まぁ、いいか。それじゃあ、これから契約説明をさせて貰って構わないか?」
「さっきから、
不満げな口調。地味な外見に似合わず、感情表現は豊かなタイプなのだろうか? だが、相手のペースに乗る訳にもいかない。
「契約説明をしてもいいのか?」
私は、もう一度ゆっくりと言った。
「ええよ。説明して下さい」
諦めたような嘆息が伝わってくる。
「私は、あんたの契約説明の要望に基づき、ここへやって来て、今から説明を行う。この前提に間違いはないな?」
「はいはい」
「まず、我々、量子化現象情報収集室――通称シキモリは、主として
かなりの高確率でユミナが生体特殊能力を持っていることは確かだ。病院から提供された遺伝子解析データを見て、特殊能力因子を持っていることは確認してきている。
「超能力やろ。使えるで。地味めな力やけど、そこそこは役に立つんちがうかな」
なるほど、本人も自分の能力に気付いていて、ある程度は使う練習もしているらしい。
「それは良かった。では、契約の条件を説明しよう。ここで、仮契約が成立すると、我々はあんたの能力を詳しく審査する。審査結果によって本契約の内容はやや変わって来るが、本契約をすると基本的には、適宜、任務を割り振られる。任務の中には、その性質上、個人の価値観に反するものや生死に関わるものが含まれるから、その様な場合には違約金を支払って拒否することが出来る。報酬は、我々と契約するだけで支払われる基本給と、任務遂行に伴う特別報酬がある。金額は本契約の条件次第だ」
「でも、うち今こんな状態やで。審査、受けに行かれへんやん」
「仮契約が終了すれば、審査を受けられるレベルまでの治療については、こちらで費用を負担する。更に本契約が成立すれば、日常生活に差しつかえが無くなるレベルまでの治療も費用を負担する。ただし、一般人であれば受けられるレベルの治療で、組織との契約期間中には受けられないものがあるから、それは覚えておいてくれ」
「受けられへん治療て、例えば?」
「代表的なものとしては、BBB――血液脳関門を通過できるタイプの医療用人工ウィルスを用いた治療は受けられない。これは、脳に影響を与える治療を行うことで、能力が変質することを防ぐためだ。他には――」
「ああ、もうええわ。細かく聞いても、理解できそうにないっていうことだけは判った。これだけ教えて。契約が成立したら、皮膚の引きつりがとれる位までの火傷の治療と、両腕の義手を作ってもらうぐらいは、できるん?」
「それぐらいなら、問題ない。ただ、専門家じゃないんでハッキリとしたことは言えないが、火傷の治療については見た目までを完全に元の状態に戻せるかどうかは――」
「あ、それは構へん。もともと大した顔と違うねん。皮膚が引きつって口が動かされへんとか、首が回されへんとか、そういうのさえなかったら、見苦しいんは義体っぽいマスクでも付けて暮らすわ」
口調は、女として振る舞うことが面倒くさくなってきた中年女性のそれを装っている。が、今まで平坦だった深層心理から、ほんの一瞬、何か寂寥感に似た複雑な感情が浮かび上がってくるのを感じた。そしてそれは、目を凝らして正体を見定めようとした瞬間、水面に漂う朝靄の様に形を変え、読み取れないふわふわしたものに変わってしまう。
その後、何回か、事務的な説明と難しいからもういいというやり取りを繰り返し、ユミナは組織と仮契約を交わすことに同意した。
――いや、ユミナは治療の話のあたりで仮契約には同意していのだろう。後は、私の方が法的な説明義務を果たすために、くだらない与太話を続けていたに過ぎない。
私は、私のことなど廊下の隅に落ちている埃ほどにも気にしていないらしい警備員の無関心と、胡散臭いものを見るような視線を無遠慮に送って来る看護師に見送られて、病院を後にした。
車を病院の駐車場から出るゲートまで進めたところで、駐車料金の無料処理をして貰い忘れたことに気付く。しかし今さら病棟に戻ってあの看護師に話のネタを提供してやる気にはならず、後ろに後続車が居たこともあって、自分のクレジットで払って車を出した。領収データは受信したが、サクラがこれを経費として認めてくれるんだろうかと考えると、ため息が出る。
半自動モードで運転しながらユミナとの念話を思い出していて、気が付くと高速のインターに入るための車線変更を忘れていた。インター入り口まで数十メートルしかない状態で、入り口との間には、時速七〇キロで流れる車の列が三車線。今から高速に乗るのは無理だろう。車線変更をしようとした途端、警告音と共に
次のインターまで走ってから高速に乗っても、そのまま下道で本部へ帰っても大して時間は変わらず、かといって、もう一度迂回して通り過ぎたインターへ向かう気にもならない。仕方なく、高速を使えば三〇分の道のりを、一般道を使い一時間かけて帰る。
本部へ着いた時には、十六時半をまわっていた。
シキモリの関西本部は、陸上自衛軍の駐屯地に身を
セキュリティを抜けて車を地下の駐車場に止め、オフィスに荷物を置きに戻る。端末に向かって作業中のサクラが顔を上げ、目があった。
「あれ? 戻ったんだ。この時間なら、家に帰っちゃっても良かったのに」
男か女かわからない中性的な顔立ちの奴が、男か女かわからない声で言い、思春期の少女がする様な仕草で首をかしげた。不自然なほどにサラサラとした、明るいアッシュベージュのショートボブがその動きに合わせてフワリと揺れる。
この国でも、性別が重要な個人情報だという認識が生まれ始めたのが私が中学生の頃、保護対象の個人情報項目として法制化されたのが私が高校を卒業する年だった。それ以来、私より上の世代の人間には理解できないレベルで性別に対する認識は大きく変わり、公式書類の性別欄の選択肢は数十種類に増えた。
そして、サクラが同じ職場で働き始めて二年半になるが、私は、未だ男と女のどちらとしてサクラに接するべきなのかを決めかねている。まあ職場での付き合いだけなのでどちらでも大した変わりはないのだが、三人称で呼ばないとならない時だけは少し不便だ。
「最近、
言いながら、駐車場の領収データを表示したデータケース差しだす。
「え、何で? 病院の駐車場なら、手続きすれば
「今、物忘れが激しいって言ったろ? 駐車場のゲートまで行ってから、手続きしてくるのを忘れたのに気づいたんだ。後ろには次の車が続いてて、バックして手続きに戻ることも出来なかった」
私が言うと、サクラは呆れたのか諦めたのか判らない、微妙な笑いを浮かべて領収データを転送した。
それから、
「まさか高速まで、ETCを使い忘れて自分のクレジットで払ったとか言わないよね?」
「高速は、半自動モードでぼんやり運転してたら入るのを忘れてた」
私は、サクラの爆笑を背に部屋を出た。
……
もちろん、本当のところは清算のために戻ってきた訳じゃない。
クレニアムで、今日の契約内容を記録しておくためだ。その意味では、物忘れが激しいのを恐れて戻ってきたというのも、全くの冗談ではない。
クレニアムの使用状況はセキュリティチェックが終わった後で確認し、その場で予約登録も済ませていた。階段を上がり、生体認証をパスして、クレニアムに入る。
静かな音量で、聞き覚えのあるワルツがかかっていた。クラシックは詳しくないが、確か、J・シュトラウスの曲だったと思う。大昔に観た古典映画では、シャトルが宇宙空間を移動するシーンで使われていた。
部屋のシステムは、私が入室するのと同時に私の専用モードに切り替わっている筈だ。
全体が、柔らかなベージュの色調で統一された四メートル四方の部屋。中央から少し入り口寄りの位置に、歯科治療用設備を思わせる大ぶりなリクライニングチェアがあり、その一・五メートル前に美術館の前庭にありそうな人型のオブジェが立っている。
ベージュ一色の部屋に、リクライニングチェアと、人型のオブジェ。見方によっては、この空間自体が芸術作品のようにも感じられる。あるいは、誰かの心象風景か。
誰かの心象風景――ひょっとすると、私かもしれない。
私は、リクライニングチェアに座ると、自分がリラックスできる状態に背もたれの角度を調整した。
深呼吸をして目の前のオブジェに意識を集中しながら、彼我の間に広がるPM空間へと自我を泳がす。
古代ギリシアの偉大な哲学者が語った様に、この世界が元となる世界の投射であると証明されたのは、私が生まれる少し前のことだ。ただ、未だ最終的な理論の確立には至っていないものの、元となるその世界は、イデア界としてイメージされる普遍的概念が調律を持って実存する世界とは異質なものである可能性が高いらしい。従って、その世界は、イデア界と呼ばれることはなく、存在を示唆していた哲学者プラトンと、その世界に関する科学理論の基礎を確立した科学者マルダセナ、それぞれの頭文字を取ってPM空間と呼ばれることになった。
ヒトの意識の中でも
ただし、意識に触れることが出来るのと、それを理解できるのはまた別の話になる。
特に、ここでは。
私は、脳感応波が同調して、するりとそいつの中に意識が入り込むのを感じた。思わず心の中でかるく口笛を吹く。今日は、予想外にシステムの調整精度が高い。
貪欲に他人の記憶を求めながら、私の接触を待ち構えていた人工脳が。
私は、その脳の中で自我を食われないように身を守りながら、ユミナとの契約内容をアップロードするために認識形態を同定した。淡い色彩を持った霞の中で、どこに目の焦点を合わせればよいかわからないモザイクアートが自らその全体像を表すように、ゆっくりと作り物の意識世界が浮かび上がってくる。
ただし、どれだけしっかり同定できた所で、こいつの持っている意識世界を理解するのは凡人には無理だ。人工的に生み出され、培養され、電極から送られてくるまがい物の感覚信号を与えられながらプラスチックの箱に閉じ込められて、時おり自分の中へ入り込んでくる精神感応能力者に訳の分からない記憶の塊を押し付けられる。そうやって、PM空間に元々の実態を持たないまま、こちら側の世界で育まれ、入力信号を欠いた逆フィードバックを行うようにしてPM空間への結合を作り出した異形の疑似意識は、普通の人間が持っている意識とは根本的なところが違い過ぎていた。
私の持つ語彙では表現するのも難しいが、以前に同調したことがある共感覚者の意識、あの世界が際限なく暴走すると、いま私のいるこの場所へ到達できるのかもしれない。
聴覚からは濁った月の香りが感じられ、視覚からはシナモンの漂わせる上品な音色が聞こえる。嗅覚には、煎れたてのコーヒーのような硬い冷たさが見えた。
そして、月もシナモンもコーヒーも、全てが私の持っている他人の記憶を欲していた。いや、記憶を欲しているのは、その更に奥にいる整然とした「規律」か。
所詮、この人工脳は精神感応者と電子記憶デバイスの中継をするインターフェイスに過ぎない。人間には理解のできない感性で形作られた人工脳の意識と、人間には真似のできない規律正しさで構成された電子記憶デバイスのシステム。この対局に位置する二つの装置を連結して、精神感応記録装置は成立している。
電脳化技術が一般社会にまで普及したこの時代になっても、人類の技術は未だにソリッドステートの延長線上にあるシステムではPM空間から脳感応波を掬い上げることができていない。その苦労に徒労を重ねている精神感応研究の分野における数少ない成果の一つが、この、クローン培養で作られた人工生体脳を脳感応波の受信装置とし、それを電脳化することで精神感応によるやり取りを電子記憶に落とし込むことを実現した「クレニアムシステム」だ。そして、真っ白で、外的刺激の不足による発狂を防ぐための疑似感覚信号を与えられているだけの人工脳に疑似意識が生まれることが判明したのも、せいぜいがここ数年のこと。組織は
私は、そのろくでもないシステムに求められるまま、ユミナの病室に入った時に感じた微妙な生臭さや、ユミナの意識が発した喉を傷めた中年女の様なざらついた声の記憶を複写させてやった。
そして何より、ユミナと交わした精神感応契約事務の内容を、意識のやり取りの中に時おり現れる各個人に特有の特定精神形象まで含めて、そっくり渡してやる。
面倒くさがりな中年女を思わせるユミナの話しぶりは、台所の隅でしなびた野菜屑のような匂いでもするのかと思っていたが、人工脳は高原の風を受けて響くミントの音色を感じながら咀嚼した。そして、そいつが咀嚼している横から電脳素子がそれをかすめ取り、シルクのポケットチーフでも扱うみたいに丁寧に折り畳んでポケットにしまい込む。
自分が抱いていたイメージと、クレニアムが実際に感じた感覚のギャップに、やはりコイツとは一生わかり合えないだろうなと思いながら、私は渡すべき記憶をすべて渡して接続を切った。
知らない間にワルツは終わっていて、流れるようなショパンをBGMに女声の合成音声が終了処理のプロセス開始を告げる。
私は、リクライニングシートを起こして立ち上がり、部屋を出た。
ここの責任者であり、私にミサイルの調達を命じた張本人でもあるヴァンDのオフィスは、四階にある。
最上階の五階でないのは、屋上から敵対勢力の侵入があった際の警備上の問題らしいのだが、個人的にはこの建物で敵対勢力の侵入云々を考えるなら、五階だろうが四階だろうが関係ないんじゃないかと思っている。別に、五階のフロアにそれを想定した迎撃体制が整っているわけではないのだから。
私は、ヴァンDのオフィスのドアをノックした。コンコンというノックの、二回目のコンの音とほとんど同時に
「入りたまえ」
の声が、ドアの横のスピーカーから聞こえる。私がここに来ることは、四階にあがってきた段階で、警備システムから知らされていた筈だ。
「どうした?」
部屋へ入り、私が挨拶のために口を開こうとした瞬間、それに被せるように質問がとんだ。
「ミサイルの調達に行ってきました」
私が言うと、ヴァンDが軽く眉をひそめる。それから、ため息交じりの口調で言った。
「チームメンバーの候補者をそんな風に言うものじゃない」
最初にそう言ったのは貴方だ、と言い返すほどに社会の仕組みを知らない訳でもなく、私はただ「すみません」と無感情に返した。
「で、どうだった?」
「審査のための仮契約は済ませました。記憶複写も、いま済ませてきたところです」
「そうか――ちょっと待ってくれ」
言いながら、ヴァンDが耳の後ろのコネクタにケーブルを差し込む。この男はシキモリの中では数少ない
私がユミナの病室に入ってから、精神感応での仮契約を終わらせるまでの数十分の記憶。ヴァンDは結線から十数秒でそれを確認したらしく、面白くなさそうな表情でケーブルを抜いた。
「思ってたより重症みたいだな」
ため息交じりの声で、ヴァンDが言う。
「でも、まぁ、我々はファッションモデルを探してる訳じゃないですからね。ユミナぐらいの状態なら、治療と義肢でどうにでもなります」
「そんなことは判ってる。問題は、この女が審査を通過したとして、治療費に見合う能力を持っているかどうかを、どう判断するかということだ。審査の段階で、その後にかかる治療費と女の能力の、費用対効果を見極めるのは無理だろう」
今度は、私がため息をつきそうになったが、かろうじてこらえる。
確かに、世界を守る仕事でもコストは重要だ。必死で念じてペンを転がせる程度の能力しかない人間のために、普通のサラリーマンの年収を超える治療費を使うぐらいなら、もっと他のことに費用を回すべきだ。
だが反面、能力を持っている人材は貴重だというのも事実。審査の前から治療費との費用対効果を心配しても、物事は停滞するだけだ。
「少なくとも精神感応時の感覚だと、それなりの自信と、その自信の根拠はある様に思えましたが――」
言葉の途中で、データケースが小さく振動した。一瞬そちらに気を取られて、言葉が途切れる。
「あの女の資料だ。確認しておけ。マネジメントは任せる。今週中に、審査までの予定を立てて提出すること。質問は?」
ヴァンDは、私の胸ポケットの方を指さしながら言った。そこには、データケースが入っている。つまり今の振動は、ヴァンDが送った資料を受信した合図だということだ。
「ありません」
「わかった。ご苦労」
そう言うと、ヴァンDは机の上の端末に視線を落とした。
私は、一礼して部屋を出る。
金曜日の十七時四十分。
私の思い違いでなければ、今週はあと一日しかない筈だ。
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