追懐

 十四年前。

日本海に面したある廃港の埠頭で、一隻の密輸船が摘発された。

積み荷は子供が五人。

最年長と思われる少女は事故が原因と思われる欠損で左腕が肩の付け根から無く、ユミナと名乗った。

しかし事件のきっかけは、それよりも更に二年前にさかのぼる。

キンキ地方としては積雪の多い地域にある町の片隅に、ある宗教団体が所有する中古ビルがあった。それほど過激な教義を持つわけではないが、どちらかと言えばカルトに分類される類の宗教団体だ。

その教団では、新たなる神の依代となる肉体の育成と称し、信者自身やその子弟に対して特殊能力開発の真似事の様な事を行っていた。これもどちらかと言えば、能力の開花による教団内での地位向上を餌にした資金集めセミナーに近い性質のもので、高い受講料を徴収して適当に混ぜ合わせた市販ドリンクを飲ませたり、神経衰弱をさせたりしていたようだ。

もちろん、当時、体系化される途上にあった世界標準の特殊能力開発プロセスからはほど遠い内容で、その有効性は、元から高い能力がある者に対してプラシーボ効果を与える程度のものだったと考えられている。本当に能力を開花させる者がいたとしても、その後の指導を行うことは出来なかっただろう。

そして皮肉なことに、このインチキセミナーに、数十万人に一人と言う政府登録指定クラスの潜在能力を持つ能力者が本人に自覚のないまま参加して、最悪な形でその能力を開花させてしまったと考えられる。

生存者の証言によると、その日のセミナーでは能力を解放するためのドリンク(後の調査で、そんな効果はないただの清涼飲料だと判明している)を飲み、目の前のテーブルに置かれたペンを念動力で動かすという内容だったらしい。集中力を高めるという音楽が静かに奏でられる中、十数人の男女が講師の言葉に従って、それぞれの目前に置かれているペンに意識を集中する。

その時、一人の少女のペンが机から落ち、勢いよく部屋の端まで転がっていった。全員の視線が自分に集中する中、その少女はペンに手を触れていないことを泣きそうな顔で主張したという。

講師は少女に向かって、ペンだとあなたには簡単すぎたのね、と言いながら自分の机の上にあった金属製のペーパーウェイトを少女の目の前に置き、落ちていたペンを拾って行ったらしい。

 ペーパーウェイトを置いた時、講師はどんな様子だったのだろうか。まっとうな人生を送ってきた者なら、本当にペンが動いたことに困惑した表情の中学教師みたいな女が思い浮かぶのだろうが、あまり上品な人生を歩めなかった私には意地悪な笑いを浮かべるニワトリみたいな中年女が連想された。

そして、証言者によっては、この講師はペンを拾った時に怪訝な顔をしたという者もいるので、ひょっとしたらペンが温かかったのかもしれない。

その講師は教室中を見回しながら、他人のことに気を取られず自分の前に置いてあるペンに意識を集中しましょう、と言った。

生存者の証言から追えたのはここまでで、次の瞬間に何があったのかを正確に知る術はもはやない。

警察の捜査による公式見解では、ボイラーと燃料用プロパンガスの爆発という事で決着がついている。しかし捜査資料を再確認すると、何らかの理由説明が必要だから無理矢理ひねり出した結論だったことは明らからしい。

この事故での死者は七名、重傷者は十一名にのぼる。

死者のほとんどは原形をとどめておらず、身元確認は困難を極めたようだ。最終的には身元の特定に繋がる身体のパーツが見つからず、回収した肉片のDNA解析で死亡を確認された被害者が二名いた。そのうちの一名は八歳の少女だったが、この少女のDNAには能力者因子が確認されたので政府のゲノムバンクに該当者死亡のデータとして記録されることになる。

 そして十六年後、量子化現象情報収集室の新人メンバーのデータが新たにゲノムバンクへ登録されることになった時、バンクの管理システムがデータの重複登録に対するエラーコードを出力したことで、この時の少女が死亡していなかったことが判明した。

爆発事故の時点で少女の両親は離婚しており、少女は母親に引き取られて暮らしていた。現実逃避のあげくに娘を引き連れて新興宗教に入信した母親は、爆発事故の負傷により数ヶ月の入院生活を送った後で治療費を払わずに病室から姿を消し、そのまま、この社会からも行方をくらましたらしい。まともな人間だった父親の方は調べれば簡単にその後の足取りがつかめたが、こちらは本当に残念なことに、爆発事故で娘が死んだと思い込んだまま、その十三年後――つまり今から三年前に病気で亡くなっていた。

では、爆発事故から密輸船の事件までの約二年間、少女はどこで何をしていたのか?

更にその後の調査で、密輸船の事件の三週間前に例の宗教団体の元幹部一人が惨殺体で発見されていたことも判明。この元幹部は神様よりも権力に興味があるタイプの男で、爆発事故の少し後に宗教団体を脱退し、一時期は自ら新しい宗教団体を起ち上げようとしていたことが確認されている。この元幹部のクレジット履歴からは、爆発事件の直後より支払い代行業者を通じた使途不明の支出があるものの、代行業者から先の金の流れは迷路の中に隠されていて今さら辿れるようなものではなかったという。

しかし、ここでAIによる不眠不休のデータ照合の結果、十年以上前に全く別の事件で逮捕された闇医者の裏資金口座に元幹部の支払い履歴と一致する入金が確認された。こちらも入金元に関する経歴は塗り潰された迷路の向こうにあるので正確なことは判らない。ただし正式な医療記録として登録されない裏帳簿からは、爆発事故と一致する時期に腕を喪失した身元不明の女性患者の治療記録が見つかっている。更には、多くの患者に対する薬物を使用した洗脳や記憶操作の記録も見つかっているが、こちらは内容が曖昧なうえに件数が多すぎて、腕を喪失した女性患者に対し何が行われていたのかを特定するのは困難らしい。

判明している事実はここまでで、既に調査も打ち切られているから、これ以上なにかが出てくることはこの先にもないだろう。

つまり爆発事故から密輸船事件までの二年間、少女が何処でどんな生活をしていたのかを正確に知る機会は既に失われている。ただ、私の貧しい想像力では、権力欲にまみれた挙句に惨殺された元宗教団体幹部や、洗脳や記憶操作が得意らしい闇医者が登場する物語を、幸せな笑顔があふれる青春ストーリーとして思い描くには無理があることだけは確かだった。

そしてあの日、ヘリが不時着した後で確認したメールに書かれていたユミナを戦場に出すなという緊急指示は、ウィルス治療ではなくこのゲノムバンクのエラーに基づくものだったのだが、それも今更どうだっていいことだ。

私がこれらの状況を知ることが出来たのは、感覚交換のキックバックからある程度まで回復した後――ソウクとンガミアを相手に戦ったあの日から五か月以上が経ってからなのだから。


私は、まだ下半身が動かない身体で本日二度目のストレッチにチャレンジして、上半身を無理にひねりながら、その文書をサイドテーブルに戻した。それだけの動きで軽く息が切れ、角度調整されたリクライニングベッドに背中を戻し、ぼんやりと窓の外を見る。

窓から見えるのは向かいの病棟と、その建物の壁を這う配管の束だけ。向かいの病棟の窓は偏光ガラスになっていて外からは中の様子が見えないので、窓の外に動きのあるものを見たいときは、病棟の上にわずかに切り取られて見える空に目をやるしかない。そうすれば、運が良い日には流れる雲を見ることが出来る。

この病室にいる限り、窓の外を見て最後の一葉が落ちるかどうかを気に病むことはなさそうだ。あとは、空が落ちてくる前には退院できることを祈ろう。

そんな、どうでもいいことを考えていると、病室のドアがノックされた。

〈どうぞ〉

 と脳感応波を送るのと、ほぼ同時にドアが開けられる。入ってきた人物を見ながら、クロップドパンツのレディススーツを、FBIの男性捜査官か大統領のシークレットサービスみたいに見えるよう着こなすのは、一種の才能かもしれないなと考えた。

「お待たせ、トジマちゃん。売店探すのに手間取っちゃったわ。隣の病棟まで探しに行ったのに、結局こっちの病棟の地下だったのよね」

 ミドノはわざとらしい口調で言いながら、売店の袋に入ったミネラルウォーターのボトルをサイドテーブルに置き、さりげない仕草でサイドテーブルに置いてあった文書を自分のバッグにしまう。売店へ行く時に、これもわざとらしい口調で、トジマちゃん喉乾いてるわよねアタシ飲み物でも買ってくるわ、と言いながらサイドテーブルに置いて行った書類だ。そして、本来であれば今の私が目を通すことは出来ない文書でもある。

「あ、トジマちゃん、まだ自分でペットボトル開けられないのかしら? じゃあ、アタシの口移しでいい?」

〈何が『じゃあ』なんだ。病人相手に回復が遅れそうな冗談はやめて、フタだけゆるめといてくれ。あとは自分で何とかする。――てっきり、お前が来て回復が遅れることがないように面会謝絶になってると思ってたんだが、とんだ勘違いだ〉

 そう。今の私は一応のところ面会謝絶で治療中ということになっている。しかし、ミドノの持っている”捜査権のある公務員”のIDは、ナースステーションのゲートをあっさりとパスしてきたようだ。

「ハイハイ。それで、喋れなくても口の機能は大丈夫なの?」

〈うまく機能してないのは運動性の言語野だ。咀嚼や嚥下の機能に問題はない。それに、今だって全く喋れないわけじゃない。吃音がひどすぎて自分で何を喋ろうとしていたか判らなくなるから、喋りたくないだけだ〉

「あら、アタシならそんなトコも含めて全部受け入れてあげるから、吃音なんて気にしなくていいのよ」

 微妙に噛み合わずズレていく会話に、ひょっとして精神感応能力も上手く機能していないのかと少し不安になった。

〈いや、それも遠慮しておく……が、その友情には感謝するよ〉

 そう応えた瞬間、ミドノの顔に今まで見たことがないような表情が浮かぶ。

「ごめん、トジマちゃん。見かけ以上に悪かったのね、アタシったら調子に乗っちゃって――」

〈……何のことだ?〉

「――だって、トジマちゃんがアタシに『感謝する』とか素直に言うぐらい気力が弱ってるなんて――」

〈そう思うなら、本当にそういうのはやめてくれ〉

 苦笑しながら応えたつもりだったが、表情が上手く作れたかどうかは判らない。

ミドノは、真摯で優しい雰囲気の微笑を浮かべて

「そうね。ごめんなさい」

 と、今度は真面目な口調で言った。

私には、もう一つ気になっていることがあるのだが、それは先程さっきの資料には書かれていなかった。そして、それを今ミドノの訊いていいのかどうかを悩んでいたのだが、今のミドノの表情を見て決心がついた。

〈悪いが、我儘ついでにもう一つ訊いていいか?〉

「あら、何かしら?」

ミドノは真摯さをひそめた微笑をくずさないまま、女性的な仕草で小首を傾げた。


天空歯車――

ビルの屋上で、ユミナの能力を通して星空を感じた夜、彼女は星々の持つ動きをそう表現した。

前世紀から急激に発達した量子物理学によって宇宙や世界の姿は大きく変わり、その理解には哲学的な観念すら必要になったが、そんな人間側の事情とは関係なく星々は人類の誕生する以前から世界のことわりに従った運行を続けている。ユミナは、その理を感じるための力を与えられていた。その力が、世界に対する彼女の認識にどんな影響を与えていたのかは、私では想像すらできない。

ただ、今なら判るのは、天空歯車の静謐に潜んだ圧倒的な存在を、ユミナは見つめ続けていたという事だ。ひょっとすると、「神」とか「悪魔」というのは古代の人々の中にいたユミナと同じ能力者が、感じ取ったその力に与えた名前だったのかもしれない。あるいは、ユミナが拙い言葉で私に語った神様は、十七世紀の天才哲学者がその存在を証明した神と同じものか。

そして、ユミナにはその存在の片影を見るだけではなく、ほんの僅かながら、その力を行使する能力も与えられていた。

この力自体は、私たちも知っている。ただ、私を含む多くの人々が、普段はその存在を忘れているだけだ。この力の本質が何であるかはさておき、その性質は、これも十七世紀に実用上全く問題がない範囲まで解析され、古典力学として中学校で習っている。

地球の天体運動に伴う慣性力。

自転で時速千六百キロ以上、公転では時速十万キロを超える速度で運動するこの天体上に生活する我々は、誰もがその速度による運動エネルギーを持っている。ユミナは、対象とする存在に対して、この運動エネルギーを熱エネルギーに変換するという操作を行うことができた。

地球上では静止している物体でも自転による運動エネルギーを持っているから、これを熱に変換すれば、その物体は地球の自転に対して静止した熱の塊に変化する。これは地球上の座標から見れば、時速千六百キロ――マッハ一・三で自転の逆方向に向かって運動する高温の物体が現れるのと同じことだ。

宗教施設での事故については、本人の記憶すら無いため詳しいことが判らないが、仮にペーパーウェイトを与えられたという少女がユミナだったとすれば、金属製のペーパーウェイトが瞬時にマッハ一・三で疾走する高温の弾丸に化けたと推測される。

ペーパーウェイトの重さはおおよそ百から二百グラムぐらいだろう。その重量の金属塊が音速を超えて移動する時に持つ運動エネルギーは、アンチマテリアル・ライフル――大昔の戦争では対戦車ライフルと呼ばれた代物――の弾丸に等しい。さすがに二百グラムに満たない金属塊を音速を超える速度でぶつける程度で現代の戦車の複合装甲は破れないが、普通の建造物の壁なら簡単に貫通できる。

生み出した本人の左腕を反動で吹き飛ばしたこの弾丸は、周囲にいた人々を衝撃波で切り刻み、弾道上にいた人々には想像したくない結末を与えながら、建物の壁を貫通しプロパンガスのボンベかボイラーの圧力容器を爆発させた。

二回目は、雑居ビルを根城にしていたチンピラ四人の事件の時だ。後輩の借金の肩代わりを求められ、金がないならユミナ自身が大陸へ行って代理子宮で金を稼ぐか、死体になって内臓の売却金で払うかを求められ、生命の危機を感じた時に能力が発動した。この時は、山刀ククリを持ってユミナに迫ったチンピラの上半身が巨大な弾丸となったようだ。発生した熱エネルギーが大きかったことと距離が近かったことで、シールドへの能力切り替えが間に合わず、ユミナ自身も残っていた右腕を失い大火傷を負っている。

当初ユミナは、この事件に関する警察の聴取に、爆発原因はわからずシールドを発動して自分の身だけを守ったと語っていたようだ。しかし、ンガミアを倒した後の再調査では爆発自体が自分の能力の発動だったことを認めている。

ユミナ自身が意識的にこの能力を使ったのは、ンガミアを倒した時が初めてだったらしい。その時には、雑居ビルで反射的に発動した時よりも奥に、比較にならないほど大きいエネルギーが隠れているのが見え、そのエネルギーなら非Schウォークを行うンガミアも消滅させられることを直感したと語っている。

地球の公転速度は時速十万キロ以上。

波動化した物質を破壊するのに必要な爆速である秒速一万三千メートル――時速四万七千キロの倍以上だ。

波動化した物質において、運動エネルギーが熱エネルギーに変換されることがどのような意味を持つかは把握されていない。しかし、確率分布の存在領域全体が、この速度で激突してくる大気の壁にさらされただけでも致命的なことは容易に想像出来る。

ンガミアの破壊で生じた爆発は、粒子線の発生がほとんど無かっただけ戦術核よりマシというレベルだったと、記録されていたらしい。併せて、万が一この対象が波動化していない物質であった場合、その被害は想定が困難なレベルになるとも書き添えてあったということに報告者の悪意が感じられる。それを書き添える前に、私たち四人――ユミナと私、マチバ、自衛軍パイロット――が、ユミナのシールドのお陰で爆発による負傷を負うことなく帰還できたことを書くべきだろう。ンガミア破壊による私たち四人の被害は、能力発動のキックバックで吹き飛んだユミナの両腕の義手だけなのだから。

そもそもユミナだって、相手が波動化していなければ地球公転速度の大気をぶつけようとは考えなかっただろう。

こんな時でも、人間のシステムの中には誰かが誰かに責任を取らせようとする意志が顔をのぞかせる。

そして、そんな政治的駆け引きの中でシキモリにユミナの居場所が無くなっていたことを私が知るのは、病室でミドノに今の話を教えてもらってから、更に二か月が過ぎた後のことになる。


職場復帰の数日前――退院後の自宅療養中に、ミドノから『しばらく旅に出ます』という短いメッセージが届いた。

車の運転がおぼつかない職場復帰の一日目を、運転手ミドノの送迎付きで過ごす当てがはずれた私は、仕方なく自分の車を自動運転にしてシキモリへ出勤した。

しばらく旅に出る――つまりは、どこかの組織への潜入捜査へ入るという意味だろう。こちらが静かに考え事をしたいときには騒々しく騒ぎ立て、考え事に沈み込まないよう気分を盛り上げてほしい時にはいなくなる友人のタイミングの悪さにため息をつきながら、私はセキュリティをパスして七ヶ月半ぶりにシキモリの建物に足を踏み入れた。

早朝のまだ人気ひとけがないオフィス。

私は自分のデスクの上に置かれている一冊のファンタジー小説らしきタイトルの文庫本に気付いた。私が休んでいる間に積まれたモノクロームな書類の上で、そこだけ凝った装丁が目立つその本を手に取って中を見ると、私がアパートから救い出した本の一冊なので、良ければ金のなる木と一緒に持っていてくれれば嬉しい、というユミナからのメッセージカードが入っていた。

金のなる木? と思い周囲を見回すと、窓際のキャビネットの上に、見覚えのある小さな方のカゲツが置かれている。

この時は、まだユミナが居なくなったことを知らされてはいなかったので、私はそのメッセージを大して気にも留めず、積まれていた書類に目を通し始めた。

とりあえず、文庫本のすぐ下に置かれている「最優先」のメモ付きのフォルダを見ると私のサインが必要な何かの書類が挟まれていた。取り出して読んでみると、病院から貸し出されていたユミナの義手が破損し修理不能となったことに対する、弁償金支払いの理由書だった。シキモリから病院への支払いは既に完了しており、この書類はシキモリ内部で予算外支出の記録として残しておく為だけのものだから、私の復帰まで置いておかれたらしい。

本来であれば私が書かなければならない状況説明は既に書いてあり、後は作成者欄のサインを残すのみとなっている様式美に苦笑しながらペンを出したところで、ふと、ある可能性に気が付いた。

ひょっとすると、両腕が義手となったことでユミナのリミッターが外れたということはないだろうか?

地球の天体運動エネルギーを利用する例の能力は、その威力が絶大であるぶん能力者への反動も大きい。そのキックバックを受けるのが能力者の腕であり、人間の肉体が耐えられるレベルを超えたエネルギーにより腕が吹き飛んでしまうことを、ユミナが無意識下で気付いていたとしたら? そして、それが故に今までは公転のエネルギー利用を意識に避けていたとしたら――

書類にサインをしながら、そんな自問を数秒のあいだ行い、今後ユミナは生体義手を使えないな……という程度の自答しか返ってこない休みボケの頭に失望した。

結局、無理に難しいことを考えるのは諦めて書類整理に戻ったが、長期間の面会謝絶と、職務上の機密保持の壁に囲まれた浦島太郎には意味不明の書類も多く、読むのに予想以上の時間がかかる。

そして、問題の報告書に到達した時には、正規の始業時間も近くなっており、サクラが出勤してきたところだった。

「あ、トジマさん。おはよう。退院おめでとう」

「ん、ああ。ありがとう」

 ユミナの人事措置に関する報告書を読みながらから返事をする。サクラは、私の空返事を気にする風もなく言葉を続けた。

「ユミナちゃんからのお別れのプレゼント、一番上に置いといたけど気付いた?」

 そう言われて、私は顔を上げた。

「お別れ?」

「うん。割と上の方に報告書積んであったと思うけど。トジマさんに挨拶したがってたけど、面会謝絶だったし、部外秘で挨拶のメールも送れないからって残念がってたよ」

 この組織で、誰かがいきなり居なくなるのは珍しいことではない。サクラの口調は、そういう範疇を出ないものだったし、私も同じように捉えて、同じように割り切れる筈のことだった。今までに何度も経験していることだ。

にもかかわらず、私は何か胸の中に普段とは違う鬱積を感じながら、読みかけの報告書に視線を戻し、それを読み終えた時にユミナが政争の中でスケープゴートにされたことを知った。


それから数年が過ぎ去り、その間、私は数人の新人をシキモリにスカウトし、そのうちの何人かはそのまま組織に残って、残りの何人かは様々な形で組織を去って行った。

ある時、スカウト対象者の身上調査の途中で、ふと思い立ってユミナの行方を追ってみたこともあった。しかし、シキモリを去った後の経歴についてはきれいに記録から消えていて、私の職務権限の範囲では調べようもない事が判っただけだった。

ユミナが置いて行った鉢植えは成長し、今では三十センチ近い大きさになっている。前にユミナのアパートから持ち出した親玉の方と変わらないぐらいの大きさだ。

文庫本の方は自室のアーキテクト・ブックシェルフに置いてある。タイトルからファンタジー小説だと思っていたのだが、読んでみるとハードな内容の古典SFを R/Light-Novelとしてアレンジしたものだった。その物語は、異星の非常に特殊な環境下で幼い文明状態にあった生命体が、人類のその星に対する調査をきっかけにして凄まじい速度で文明を発達させ、やがては人類の文明を凌駕するまでに成長し星々の海へと飛翔して行く、というものだ。

それを読み終わった時の私には、どうしてユミナがこの本を選んで置いて行ったのかは理解できていなかった。ただ単に自分の好きな物語を共有して欲しかったのだろうと、漠然と考えていた程度だ。

そうやって時が過ぎて行き、疑問も記憶の堆積の下へ埋もれようとしていたある日、何気なく眺めていたサイネージでNASAの新計画が発表されていた。

メインは衛星軌道上で建造された全長百メートルを超える人工知能搭載宇宙船と五名の搭乗員で実行されるという、予定から七十年以上遅れた木星探査計画だが、それ以外にも数種類の計画の説明があった。その中で、衛星軌道上のデブリ除去計画に関する写真が一瞬写った時、何かが引っ掛かった。

とっさには何が自分の目を引いたのか判らず、データケースからもう一度そのニュースを見る。それから数分間、その計画に関するデータを調べて、私は顔を上げ深呼吸をした。

何が私の注意を引いたのかは判ったが、だからどうと言う事もない。

……そう言えば、ユミナを採用するときヴァンDは何と言っていただろうか。確か、有用に使える組織との交換取引バーターがどう、とか何とかそんなことだ。

あの星空の動きを感じていた夜、ユミナは地球の重力から解き放たれることへの憧れを語っていただろうか。

私は、どうしてだか熱が籠ったように感じられる目頭を軽くマッサージして、画面に視線を戻した。

NASAの、その計画の責任者だという金髪の白人女性を囲んだ数人のスタッフの写真。その中にいる東洋系の女の、地味だが整った顔立ちに見覚えは無かった。スタッフのプロフィールにあるその女の名前にも覚えはなかったし、出身校だという、通信教育課程があり経歴偽装によく使われる大学の卒業生に知り合いもいない。

ただ、その女のシャツの袖口から覗く両腕はきれいなラベンダー色のアートリム装飾義肢で、愛読書には私の本棚にも並んでいるファンタジーじみたタイトルのSF小説が書いてあった。そしてスタッフ写真の後ろには、どこにでもありそうなカゲツの鉢植えが写っている。

そんなありふれた偶然をひと通り眺めてから、私はデータを閉じて大きく息を吐いた。


――彼女は、もう、神様を見つけられただろうか?

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天空歯車の潜熱、そして虚恵の子ら 榑 文伸 @nobu-KR

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