天空歯車の潜熱

ヘリが墜ちていることだけは判ったが、既に機体がどちらを向いていて空と地面がどちらの方向にあるのかも判断できなかった。パイロットが、メインロータの反力で激しく回転する機体を全力でコントロールしようとしているが、それが上手くいっているのかどうかも私には知る術がない。

ヘルメットのシールドにも次々とアラートが表示されるが、それを確認している余裕はなかった。

隣から聞こえるユミナの悲鳴が妙に遠い。

ほんの一瞬、バブルウィンドウの外側に、予想していたよりはるかに近い距離にある地面が見えて、これ以上は驚き様がないというパニックの中でも身体中を冷たいものが走り抜けた。ユミナに何かを警告しようとしたが、頭の中に生まれたその意識は言葉に結びつかず、からからに乾いた声帯はかすれ声さえ出せない。

次の瞬間、全身の骨が折れるんじゃないかと思うような凄まじい衝撃を感じ、鼻の奥から脳の芯に向かって白い光が走る。

数秒間、気を失っていたかもしれない。

息を吸い込むと、きな臭く刺激のある何かが喉を通過して激しく咳き込んだ。

となりでユミナが同じように咳き込んでいることに気が付き、咳がおさまってから声をかける。

「大丈夫か?」

「ご……めん。ちょっと、今……自分でもわからへん」

 咳混じりの声だが、意識はしっかりしているようだ。

「皆……さん、大丈夫……ですか?」

 パイロットから、痛みをこらえているような声で訊かれた。

「私は何とか生きてるようだ」

「うちも……何とか」

 私とユミナが答える。それから数秒待ったが三人目の返事はない。

「マチバ、大丈夫か?」

 私がもう一度訊ねてみたが、やはり返事はなかった。

「コクピットが……潰れて……自分はコンソールに挟まれて……動けません。マチバさんの状態……そっちから判りますか?」

 パイロットに言われて前席を覗き込もうとしたところで、ウィンドシールドの真ん中を樹の幹が貫き、くの字に折れ曲がったシールドが操縦席と副操縦士席の間に挟まった状態になっていることに気が付いた。ヒビと皺の入った樹脂シールドが目隠しになっているので、こちらからも副操縦士席を確認することは出来ない。

「ちょっと待ってくれ。コッチからも見えない。外に出て確認する」

 私はハーネス外し、しぼんだエアバッグをかき分けながら機体の外へ出た。その時になって初めて、機体が左前方を下にしたような姿勢で斜めに接地していることに気付いた。

「トジマさん、こっちのドアかへん」

 ユミナがドアのレバーを操作しながら言ってくる。

「たぶん、そっちはフレームが歪んでいる。こっちから出ろ」

 言って、機体から出るために手を貸す。ユミナの義手は軽々と本人を引き上げた。

ユミナを地面に立たせてから、前方に回って副操縦席を見る。副操縦席は機体の中で一番損傷が激しく、マチバもパイロットと同様にコンソールとシートの間に挟まれていた。

マチバは意識を失っているが、見える範囲で大きな出血は無く、首筋の脈拍も安定していた。呼吸はやや浅いが、呼吸音はきれいで気管を詰まらせている様子も無い。とりあえず緊急処置の必要はなさそうだが、それ以上のことはよく判らなかった。

シキモリに音声通信をつないで状況を連絡しようとしたが音声コールに対するレスが無く、通信が繋がっているのかどうかも不明。仕方なく、状況を一方的に喋って通信をきった。クラッシュシンドロームに備えた救援要請を行うのを忘れたと思ったが、この地域は核攻撃の可能性が無くなるまで救援部隊が派遣されないことを思いだす。

ヘルメットのシールドには相変らず作戦状況の情報が表示され続けているが、私たちが墜落した以上、大して役に立つものではなかった。

ンガミアは撤退する先行部隊の追撃を中止し、再度ナラ方面へ進路を変更。

我々を攻撃したソウクは、追尾していた索敵ドローンも撃墜して姿をくらました。

先行部隊は何とか撤退に成功したが、隊員一名が義体を失いCN神経中枢ユニットパージの重態となっているから、こちらに気を回している余裕は無さそうだ。

後続部隊は地対空ミサイルで撃墜されて不時着。人員の状況は、現在のところ不明――これは、私の方がよく判っている。

 今できることは、敵が我々を素通りしてから、イワテかグンマに向かった本体が引き返してきて対応するのが間に合うことを祈るぐらいだろう。

「トジマさん、ごめん。これ、うちのせいかなぁ?」

 私が心の中で神様に祈っていると、ユミナがやって来て気落ちした様子で言った。

「シールドを張ったのか?」

「……うん」

 私はフェネストロンを喪失した機体を見ながら、ユミナの今の言葉で何となく状況がわかったような気がした。

あの時、ソウクの放った地対空ミサイルのロックオンに対するアラートが鳴り響き、パイロットは緊急回避行動に入った。ユミナは状況が判らないながらも、ミドノが追跡された時に車の周りに張ったのと同じシールドをヘリの周りに展開したのだろう。

パイロットの緊急回避が間に合っていたのかどうかは判らない。ただ、後方から飛んできたミサイルはヘリの直近でユミナのシールドに突っ込み、持っていた運動エネルギーを熱エネルギーに変換した。これが徹甲弾の様な炸薬を内填していない砲弾であれば、ミドノの時と同様に空中で溶融して終わっただろう。しかし、ミサイルは爆薬を内蔵している。瞬時に大量の熱エネルギーを与えられた爆薬は、当然の様に爆発した。つまり、ヘリコプターにとっては、近接信管を搭載した対空砲弾の砲撃を受けたのと同じような状態となって、フェネストロンを失ったわけだ。

「あんたのシールドの有効範囲はどのぐらいなんだ?」

「ちゃんと測ったことって無いねんけど、一杯いっぱい広げて半径十五メートルぐらいかなぁ……」

 考えながら言うユミナの言葉を聞いてから、改めてドーファン5の機体を見る。後部座席を中心にシールド展開したとして、フェネストロンの後方数メートルまでと言ったところか。

「だったら、むしろこっちが礼を言わなきゃいけないな。シールドが無ければ、恐らくミサイルの直撃を受けて機体が空中で爆散している」

「そっか……」

 ユミナは納得が出来た様子で、短くそれだけ言った。

 私は周囲を確認するために、ヘリから少し離れた場所まで移動した。

位置的には、先行部隊が戦闘を行った谷間の更に下流方向になるのだろうか。ヘリは、かなり広い谷間に面した山の斜面中腹に、機体をフォールラインに対して直角より少し傾けたぐらいの角度で、左側面を斜め下にして接地している。木々はヘリよりも山側へ向かうにつれて密になり、谷側へむかうとまばらになっているので、谷側に対してはかなり視界が開けていた。

ヘリのコクピット側が谷間の上流側、テール側が下流側で、下流側には廃村らしい結構な広さの平地が広がっている。

 核攻撃の危険性さえなくなれば、救援行動自体はそれほど難しくなさそうだ。

私はヘリのところまで戻り、もう一度、音声通信での連絡が取れないかを試そうとした。そこで、戦況報告の情報とは別に、私宛の緊急メールが入っていることに気が付く。

メールを開くと、ユミナを戦場に出すなというヴァンDからの緊急指示だった。受信時刻を見ると、ヘリが墜落しかけていたころだろうか。音声通信を入れても私が応答しないので、緊急メールを送信したらしい。

結局、ウィルス治療に対する特例許可が下りなかったのだろう。

いまさらなお役所連絡に、場違いな笑いが込み上げてくる。

「どうしたん?」

 いつの間にか傍に来ていたユミナが、不思議そうに訊ねて来た。

「いや、何でもない」

 そう言ってから、ふと、こちらから訊きたいことに思いあたった。

「そういえば、あんた、もう一つ能力を持っていなかったか?」

「ああ、これ?」

 ユミナは、昨晩ビルの屋上でやったように、両手の親指と人差し指でフレームを作って見せる。

「それは、どれぐらいの距離まで使えるんだ?」

 私が言うとユミナは少し考え込んで、そのフレームを一キロほど離れた山の稜線に向けてみる。

「こっちも測ってみたことないねんけど……これぐらいの距離は行けそうやなぁ」

上手く使えば、飛んでいるドローンぐらいは墜とせる訳だ。

「そうか。頼りにしている」

「……おおきに」

 それで会話は途切れ、私は、もう一度パイロットとマチバの状態を確認するためにコクピットの方へ回った。操縦席を覗き込み、目を閉じて浅い呼吸を続けるパイロットに声をかけようとしたその時――

首筋を針で刺されるような鋭い脳感応波に、全身の肌が粟立った。

反射的に、ユミナへ向かって精神感応で警告を送る。それと同時に地面に伏せようとしたが、私の反射神経では遅すぎた。

激しいフラッシュの様な光が立て続けに二回。

そちらを見ると、そのまま直進していれば私の頭部を吹き飛ばしたであろう銃弾が二発、白熱状態から赤く変色しながら地面に落ちるところだった。焼けた鉄に特有の、少し血の匂いにも似た臭気が辺りに漂う。

咄嗟に射線を逆算して、狙撃手の位置を探る。谷間を挟んだ向かいの山腹、直線距離二百五十メートル程の位置で、そこに茂る人の背丈ほどの雑草が激しく揺れていた。

私は、腰のシースにナイフが入っていることを再確認しながらヘリの陰に走りこむ。既にユミナは、そこにしゃがんでいた。

「なんか無茶苦茶むっちゃ速いヤツがおるで。山降りるスピードやったら七~八十キロぐらい出てるわ。もう下の谷渡って、あっちの方登って行ってる」

 言いながらユミナが、ヘリのテールの方向を指さす。早速ユミナの能力が頼りになったが、身を乗り出して敵を目視する気にはならなかった。

装備の整った白兵戦用の高速戦闘義体を相手に、こちらは中年文官と素人女のコンビで武器はナイフが一丁。コンピュータゲームなら、バランスの悪さにレビューが大炎上するところだ。

「あ、上から回り込まれるわ。反対側に移動した方がよくない?」

 その程度のことで事態が変わることもないだろうが、何もしないよりは何かをするべきだ。私は、腰からシースごとナイフを外して握り、ユミナをかばいながら機体の反対側に移動した。

「あかん。今度はこっちの横に回り込まれた。たぶん、このまま突っ込んで来るで」

 ユミナが、今度はヘリのコクピット側を指さす。私に敵の動きを感じることは出来ないが、ユミナの推測には同意だ。上下動を伴う移動よりも水平移動の方が安定するから、私が敵の立場でも横から攻める。

次の瞬間、そちらの方向から強烈な殺意を含む脳感応波の放射を叩き付けられた。同時に轟という風切り音が聞こえ、私は少し安心する。

突然、木立の間からナイフを握りしめたソウクが姿を見せた。直線移動でここに進行できる位置を見極めていたのだろう。立ち木を避けることなく突っ込んでくる速度は、この足場にもかかわらず時速六十キロを下回ってはいない。

「OUT」

 ユミナが隣でボソリと呟いたとき、ソウクの動きが急停止した。

十メートルほど離れた位置で、ソウクが硬直したように身体を強張らせる。シュウという蒸気が漏れるような音と、ギギギギという建て付けの悪いドアの様な音が聞こえ、そのまま倒れこんだ。

時速六十キロというのは車が普通に道を走るぐらいの速度ではあるが、例えばオートバイがこのスピードでコンクリート壁に激突すれば、ライダーは義体であってもまず助からない。その程度のエネルギーは持った速度なのだ。一瞬でそれだけのエネルギーが体内で熱に変換されれば、戦闘義体といえども機能不全を起こす。

今まで高速機動を生かした白兵戦を数多く経験してきて、絶対的な自信を持っていたのだろう。今回は、それが命取りになった。ユミナのシールドに高速で突っ込むのは、ある意味でコンクリートの壁に突っ込むのと同じだ。

私はナイフを抜き、シースを腰のベルトに戻してからソウクに近づいた。

不自然に身体をひねった姿勢で倒れているその姿が、私たちを油断させるための罠でない事は明らかだ。跳ね起きてこちらを攻撃するには姿勢が悪すぎる。

「死んでるん?」

 ユミナが不安そうな声で訊ねて来た。

「いや。だが、襲い掛かって来ることは無さそうだ」

 私は、小刻みな痙攣繰り返すソウクから目を離さずに答える。

「念のため、CN神経中枢ユニットを切り離して戦闘力を奪っておくか」

 と言いはしたが、私はソウクのユニットパージ方法を知らないし、外部から簡単にパージできる構造になっているとも思えない。まぁ、いざとなれば手足の信号ケーブルを切断するだけでもいいだろう。

いや、その前に念のため記憶を読んでおくか。恐らくは、自己陶酔の極致みたいな役立たずのストーリーが詰まっているだけだろうが……。

そう考えながら、横向きに倒れているソウクの身体を蹴り飛ばして俯せにした時、ヘッドセットから警報音が鳴り響き、シールドに敵機接近を告げるアラートが表示された。

一瞬、今倒したソウクに対する遅延誤報かと思ったが、続けて索敵ドローンからの情報が表示され、そうではないことが判る。

そして、そこに示された情報は絶望的だった。

「トジマさん、これ何?!」

「先行部隊と戦ったヤツが、こちらに引き返して来た。恐らく、今のヤツの報復戦をするつもりだろう」

 言いながら、私はソウクをそのままにしてヘリの方へ戻った。

索敵ドローンの情報と周囲の地形を見比べながら、ンガミアが近づいてくる方向を探る。

「たぶん、あっちの方向だ」

 私は谷間の下流に広がる廃村らしき平野の向こう端を指さす。ユミナは、数秒の間そちらの方をじっと睨んでから、少しずれた方角を指さした。

「こっちやな。もうすぐ見えるわ」

 十数秒後、その言葉を裏付ける様にユミナが指差した場所の木々の間から何かが現れた。五百メートルほどの距離があるので、肉眼では細長い感じの点にしか見えない。すぐにヘルメットの内蔵カメラがそれをズームして、シールドに表示した。

ンガミア。間違いない。

「逃げ……ろ。あんた達だけなら……逃げられる」

 パイロットに言われて一瞬迷った。私はともかく、ユミナだけでも逃がすべきか。

「何言うてんの。そんな目覚めの悪い事できへんわ」

 私が迷っている間に、あっさりと結論が出たようだ。

ンガミアは、こちらに向かって一直線に進んでくる。足場の悪い山中をそこそこの速度で移動できる代わりに、平地でもそれほどの高速は出せない機体だ。平野での移動をこの距離から見ていると意外に遅い。

先程さっきやってた、黒いパパパッていうの、何でやらへんのやろ?」

 黒いパパパ――非Schウォークのことか。

「あれはエネルギーを喰うし、コントロールが難しい。必殺技としてとってあるんだろう」

「ふーん……」

 ユミナが頷きながら、指先で作ったフレームを伸ばしンガミアをその中心に捉える。

ンガミアの動きが鈍った。しかしダメージを受けた様子はない。

「あかん。コイツ、スピードが遅すぎるわ」

 今度はソウクの時の逆だ。運動エネルギーは速度の二乗に比例するから、速度が半分ならエネルギーは四分の一になる。ンガミアの移動速度では、徐行しているトラックが停止するときにブレーキで発生する程度の熱量しか生まれないだろう。それでは、あのサイズのボディだとダメージにならない。

しかし、普通でも大して速くない移動速度を更に低下させることには成功しているようだ。慣性速度を熱エネルギーに変換されるので、ブレーキを引きずりながら走行する自動車の様な状態のはず。時間稼ぎにはなりそうだ。

ただ時間を稼いだところで、今のところ、その次の手が無い。

と、その時――

背後の物音に気付くのと、パイロットが発した警告の声が聞こえるのは、ほとんど同時だった。

振り返った瞬間、ナイフを持って走って来るソウクの姿が目の前にあった。ソウク本来の速度ではなく普通の人間が走るぐらいの速さで、動きもふらついている。しかし、それでも戦闘義体の動きだ。

抜いたままにしていたナイフでとっさに突きかかり、あっさりとはじかれる。腱を切られないように腕を引き、敵の左側に身体を逃がした。再度、横から突きかかろうとした腕をあっさりと掴まれ、引き寄せられる。

喉元に迫る敵のナイフを、引き寄せられた方向へさらに踏み込む形で避けると、左肩に冷たい異物感が疾る。自分の筋肉が裂けるザクリという音が耳に大きく聞こえた。

そのまま、もつれる様に倒れこむ。

肩を裂かれたナイフが翻って背中に差し込まれる前に、精神衝撃を叩き込むことに成功した。精神衝撃でソウクの身体が一瞬硬直し、左右の腕が大きく開かれる。ソウクの握っていたナイフは自らの痙攣ではじけ飛んでゆき、私の右手も解放された。

私は敵に乗りかかり、解放された右手に握っていたナイフを振り上げる。しかし、振り下ろした右手は、相手の喉元へナイフを突き刺す前に掴まれた。

「トジマさん!」

 ユミナの、悲鳴の様な声が聞こえた。

「そっちに集中しろ!」

 ユミナに向かって怒鳴りながら、右手に力をこめる。普通なら、あっという間に逆転されておかしくない状況だが、私がナイフを下ろそうとする力と相手が押し返そうとする力は拮抗していた。ユミナのシールドが与えたダメージは大きいようだ。

しかし、次の手に繋がる布石を打たなければいずれ押し負けるのは目に見えている。

精神衝撃は、いきなり後ろから大声で脅かす様なものだから、一度使って警戒されると二度目の効果は望めない。他の手が必要だ。

ソウクは、今の自分の状況だと片手で普通の人間の力を押し返すのも難しいと悟り、落したナイフを探して地面の上に這わせていた右手も、私のナイフを押し返すために添えて来た。片手対両手だと、さすがに押し返される。しかも私の左手はすでに使い物にならない。

私の右手はじわじわと押し返され、敵の喉元の上から外れた位置に移動したところでゴキリと鈍い音を立てた。いきなり手首から先の感覚が喪失し、ナイフが手から滑り落ちていく。

ソウクは私の手を放すと、素早く私のナイフが落ちた位置へ手を這わせた。自分の頭の左側に落ちているナイフを右手で拾い、私の喉元へ疾らせる。

刹那――

私は、脳感応能力でソウクの神経を支配することに成功した。

同意もなく、拘束もしていない相手の神経を乗っ取るためには、相手に気付かれないように感応波を同調させ、同調したところで一気に侵攻しなければならない。私がナイフで相手の喉元を狙っていたのは、感応波を同調させるための時間稼ぎだ。

ソウクは神経を乗っ取られた時の衝撃で、拾ったナイフを再び取り落した。

しかし私の方にも余裕はない。相手は神経支配に抵抗し、自分の身体を取り戻して私を殺すことに全力を懸けているのだ。出血と骨折の痛みに耐え、敵に同調する集中力を長時間維持するのは無理だろう。そして、再びナイフを握って相手にとどめを刺す力も残っていない。

ならば、ここで敵の抵抗力を徹底的に奪うためには最悪の最終手段を取らざるを得ず、この状況でためらう理由も無い。

私は、ソウクの感覚中枢と運動中枢へ侵入すると、その接続を出鱈目に入れかえた。右の眼球を左膝に、左耳を右肘に、右手の親指は右足首に、左肩は右足の親指に――。そうやって、自律神経には触らないように気を付けながら相手の感覚を使用不能な状況にすると、ソウクから離れてヘリの機体の陰で横になった。

この技を使えるのは、現在のところ世界中で私一人。

そして、この技がどんな理屈で成立しているのかは解明されていない。私は解析のために、この技術を披露するのはまっぴら御免だし、仮に私以外にこの技を使える潜在能力を持った脳感応能力者がいたとしても、使うことにチャレンジしようとは思わないからだ。

私は大きく深呼吸をしてから、覚悟を決めて、ソウクの神経を本人に返してやった。

支配していた神経を解放し、脳感応の同調を切る間のほんの一瞬のタイムラグ。その一瞬に、ソウクの神経系から強烈なキックバックが返ってきた。自分が相手にしたのと同じ神経改変が津波のように押し寄せてきて、自分自身の感覚が次々に裏返っていく。相手の自律神経をいじることはできないのは、これのせいだ。これがなければ、心臓を止める方が簡単だろう。

かすんでいく視界の中で、ソウクの身体がパニックを起こし、見たことのない異世界の生き物の様に暴れながら傾斜を転がり落ちていくのが見えた。私自身は以前にも経験があったし、今回は心の準備も出来ていたので、大きなパニックはない。あるのは、感覚の入れ替わりに伴う強烈な不快感と、前回は回復に一年を要したが今回はどれぐらいの期間になるのだろうかと言う不安感だ。

そう言えばユミナの方はどうなっただろうか。女子新人に重要案件を押し付けて、自分はチャンバラごっこで遊んだ挙句にケガをした先輩職員としては、ケガに甘えて寝ているだけと言う訳にもいかないだろう。

〈ユミナ、大丈夫か?〉

 精神感応で呼びかけると、ユミナの安堵する感応波が返ってきた。

〈トジマさん、ビックリしたで。そっちこそ大丈夫なん?〉

〈頭は大丈夫だ。もともと大した中身じゃない。身体は、ちょっとキツいかもしれんな。その代わりに、先程さっきのヤツは倒した〉

〈おおきに。うちも踏ん張ってるで。コイツもはよう諦めて、引き返せばいいのにな〉

 もともとンガミアの目標は我々ではないのだから、ユミナの言う様に諦めて引き返す可能性もゼロではないだろう。とは言え、その可能性はかなり低いように思えた。

我々の状況を知らないンガミアにしてみれば、ここで我々を潰した方が追撃を受ける危険性を排除できるという判断に至ることも充分に考えられる。特に、連携を取っていたソウクが戦闘不能になったと知れた場合には。

――とすれば……

〈うわ、やっぱり化けた〉

 言いながら、ユミナが自分から視覚情報を送って来る。

五百メートルほど離れた場所に霧柱が見えた。ンガミアの波動化。次に非Schウォークが来るのは確実だ。そして――

〈あれ?!〉

 ユミナの戸惑いが感じられた。

〈何でやろ、エネルギーは見えるのに掴まれへん〉

 ユミナから、相手の動きを捕まえようとしてはすり抜けられる感覚が伝わって来る。素手でドジョウかウナギを掴もうとする感覚に似ているか。

そして、私はヴァンDの言葉を思い出した。

 ――非Sch現象に対する同調能力も大して高くない。

元々の能力が高くない上に、経験が圧倒的に不足しているのだから、波動化したンガミアを掴まえられるわけがない。

このあたりが潮時だろう。

〈ユミナ〉

〈トジマさん、ちょっとゴメン。今は話しかけんどいて〉

〈もういい。我々三人をおいて逃げろ。あんたはよくやってくれた。その能力をここで失うのはシキモリとしても損失だ〉

〈その話は、先程さっき済んだやろ〉

先程さっきは、あんたがンガミアを抑え込めばヤツが引き返す可能性も少しはあった。今はその可能性も無くなって、少しでも被害を減らすことを考えるタイミングに来ている〉

 私がそう言うと、ユミナは一瞬、怒りの感応波を放ってきたが、すぐに感情を抑えた。

と、その時――

ユミナの視界の中、霧柱がフィルムのコマを飛ばすような動きで前進を始める。それと同時に、そちらの方向から凄まじい精神波の津波が押し寄せてきた。

〈……何、これ?〉

 ユミナの呆然とした感覚が伝わってくる。

こちらへ向けた敵意と、こちらを攻撃できることへの歓喜。その強力な感情の波が山のように巨大なうねりとなり、視覚ですら認識できそうな錯覚を伴って膨らんでいく。

〈……歌?! 女の人なん?〉

確かに、聴覚にも得体のしれない錯覚を誘導するような波動を感じた。それが、ユミナには歌に聞こえるのだろうか。私に聞こえるのは、あえて言うなら躁狂な哄笑だ。

そう。絶対的な勝利を確信し、我々を憎悪の対象として叩き潰そうとしている意志から放たれる勝ち誇った笑い声。

PM空間が鳴動し、こちらへ向かってくる霧柱から、勝利の歓喜に震える妖鬼の影が陽炎の様に立ち上がって行く。

それを感じながら、私はどうやってユミナを逃がそうかと考えていた。自衛軍のパイロットには申し訳ないが、ゴキブリの様に潰される能力者は役立たずの男二人で十分だ。

〈凄いなぁ……今までごっつ努力してきはったんやろなぁ――〉

 ユミナから、場違いに落ち着いた感情の波が伝わってきた。

〈なあ、トジマさん……〉

〈何だ?〉

〈秒速を時速に直すのって、三・六倍したらいいんやったっけ?〉

 こんな時に何を言ってるんだと思ったが、それを言うと更に話が長くなると思い、そうだとだけ答える。

〈そしたら、秒速一万三千メートルは時速四万七千キロぐらいか。マッハ三十八とか、確かに無理ゲーくさいな〉

〈判ったら早く逃げろ!〉

〈トジマさんは、ここで死んでも構へんねんな?〉

〈ああ、最悪そうなることは覚悟している〉

 話をしている間にもンガミアは距離を詰めてきている。まだ三百メートル近い距離があるとは言え、時間的な余裕はほとんどない。私がユミナの立場なら、全力で走っても逃げ切れるかどうか自信が持てないところだ。

〈それやったら――〉

 ユミナが何かを諦めたように、ため息をついた。

そこで私は、ユミナが逃げることを躊躇っている訳ではないことに気付く。何だろうか、この感じは。恐怖と……まさか歓喜?

身体感覚を喪失しているのに、ユミナから伝わって来る精神波で背筋に冷たいものが走る。神を召喚しようとする巫女……いや、むしろ、悪魔を召喚しようとする魔女か。しかし、その力の根源は何だ? 仮にンガミアが波動化してなかったとしても、時速二十キロにも満たない速度しか出ない相手に対してユミナが振るえる力なんて、たかが知れている。さらに波動化し非Schウォークで闊歩する化け物は、古典力学で定義できる運動ではなく量子論的跳躍で移動しているのだから、ユミナの能力では手の出しようがない筈だ。

そして、ユミナは言葉を続けた。

〈もしケガしても、文句は言わんどいてな〉

 その、覚悟を決めた者だけが放てる冷たさを含んだ言葉と共に伝わってきたイメージに、私は自分の誤りを悟った。身体が正常であれば、恐怖の声を上げていただろう。

そうだ。

誰もが忘れているが、我々の世界は、この圧倒的な破壊力と常に隣り合わせで存在している。

ユミナは、指で作ったフレームの中央にコマ落としで接近してくる霧柱をその周囲の空間ごと捉えた。

そして――

〈ごめんな〉

 天空歯車の静謐を破る小さく優しい囁きを聞きながら、私の意識は途切れた。


  *   *   *


 絶対的な勝利を確信した歓喜の中、カーメルであった者の大部分は何が起こったのかを理解する間もなく消滅した。

しかし波動化により確率的な存在となっていた彼女の、僅かな意識を含めた数分の一か数十分の一かの残渣は消滅を免れ、物質とは異なる概念の中を漂い続ける。残渣とはいえ、それはフラクタルの様にカーメルの本質全体をそのまま含んだ欠片であり、個体としての彼女の実相だった。

時間という概念も以前とは異なるものとなったその漂泊の中で、カーメルであった者は自分が大きなことわりの一部となり、求めていた真理にたどり着けたことを知る。

肉体を有していた頃に絶対の存在だと信じていた神の名は何と言ったか。既に思い出せなかったし、ヒトが自己欺瞞のために生み出した虚恵を今さら反芻する必要もなかった。真理について人間の言葉でそれ以上の呼び名をつけることも意味がない。

そして――

カーメルはすべての存在の中に広く拡散し、身体を持っていた十四年の期間からは想像すらできない悠久の彼方へと旅立って行った。

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