シキモリ 3
三週間後――
私は、ユミナが入院している病院の駐車場ゲートで、ICリーダーにデータケースをタッチさせながら、今日は忘れずに無料駐車の処理をしなきゃな、と考えていた。
太陽は既に西側にある病棟の向こう側に隠れ、辺りの空気はオレンジ色に染まっている。
この三週間、何度も病院とのやり取りはしていたが、直接やって来るのはユミナに初めて会った日以来だ。
ユミナは一昨日、隔離指定のウィルス治療を終えて一般病棟に移っている。そして、明日からの一泊二日で外泊し、シキモリの正式契約審査を行う予定になっていた。
今日、私がやって来たのはユミナの主治医と外泊前の打ち合わせを行うためだ。恐らく、今日話をする内容のほとんどは既にネットを経由したやり取りで済んでいるが、それでも大事な話は直接会ってするというのが社会的習慣なのは、ネットワークケーブルの向こう側にいるのがAIではなく生身の人間だという事を確認する儀式が必要になったからじゃないかと、個人的には思っている。
意識と計算可能性の問題が提唱されて九十年近くが経つが、未だAIが意識を持つには至ってはいない。しかし、重要な決定を伴わない情報交換程度の内容の会話(つまり、社会システムを回すために交わされている会話の大部分)は、意識を持たないAIであってもチューリングテストをパスすることが証明された。言い換えれば、私程度の頭の人間が交わす会話は今どきのAIであれば難なくこなすから、偉い人の信用を得るためには足で通って顔を見せろ、ということだ。
主治医は、夕方の診察が始まる三十分前の時間を指定してきていた。
私は、すでに数人の患者がソファーに座って診察の開始を待っている待合ロビーを抜けて、診察室の扉が並んだ廊下を、指定された部屋番号の扉を探して歩く。見つけたドアをノックすると、どうぞという返事が聞こえるのとほぼ同時にドアが自動で開いた。
入った部屋のデスクの前に、ネットフォンで見慣れた主治医の顔があるのを見て、少し安心する。私がやり取りをしていた相手は、AIでもアバターでもなく、本人だったことが確認できたわけだ。
その時、主治医の瞳が違和感のある光の反射をして、私はネットフォンでは判らなかった事実に気付いた。
この医師は、眼球を機能性義眼に交換している。
人間の老化現象の中で、特に外科手術を行う医師にとって障害となるのが眼の焦点調整機能の低下であり、それを解消するため健康な眼球を機能性義眼に交換している医師も多いと聞いてはいた。しかし実際にそれに気づいたのは初めてだった。普通であれば余程しっかりと目を合わせながら会話をしない限り気付くことはないだろう。いま私が気付いたのは、本当にたまたま光の反射のタイミングが合ったからに過ぎない。
何にせよ、この医師が、仕事に責任を持つため健康な眼球を摘出する程度の意識を持ったプロだということは判った。
医師に勧められるまま患者用の椅子に座ると、カンファレンスルームの予約が取れなかったので、こんな場所になって申し訳ないという謝罪の言葉に続き、デスクの前のディスプレイに今までのやり取りにあった資料が表示された。
「始めさせて頂いてもよろしいですか?」
医師が、ディスプレイに表示されたデータを説明しやすい様に並べ替えながら尋ねてくる。
「ええ。お願いします」
私は応えて、Iグラスを着けた。
医師は今までの治療の大まかな経緯と、これからの治療計画を、表示されたデータを口頭で補足しながら説明する。ほとんどの内容は今までの再確認だったが、治療に使用した人工ウィルスの特性なんかは初耳だった。医師の言葉に対応してIグラスが補助情報を表示するが、大部分の内容は続けて医師が説明してくれるものだったので、情報の自動表示とキャンセルが繰り返されて視界の隅で文字が流れ続ける。
そうやって十五分ぐらい説明を聞いたところで、表示されていた最後のデータの内容が終了し、医師は数秒の間黙り込んだ。
それから、今までとは少し違う口調で、言葉を選ぶようにして言った。
「私は……あなた方の仕事が実際にどういうものかは知りません。提出いただいた書類に書かれている内容の限りでは、今回の外泊の目的に関しても何の問題も無いと判断されます……しかしながら彼女は未だ治療中の状態で、法律的に外泊を妨げる根拠がないというギリギリの状態に過ぎないということは、再度ご認識しておいて下さい」
医師が言おうとしたのはそういう事ではないのだろうが、その言葉に私は、外泊中の注意事項に書かれていた我々の組織あての項目を思い出していた。
ユミナの体内には、まだ、少しながら医療用ウィルスが残存している。隔離治療時に比較すれば、その大部分が死滅して数が激減し、周辺環境にウィルスを拡散する可能性はほぼゼロになっているが、完全にゼロな訳ではない。もし万が一、外泊中にユミナが大量に出血するような状況になった場合は、本人の生命を維持するよりもウィルスの拡散を防止する行動を優先すること――そんな感じの内容が数項目書かれた書類に私はサインをして、この病院に提出している。
私が幼稚園の頃にブルンジュラで起こったようなナノマシン・クライシスを、日本で起こす訳にはいかないことぐらいは理解は出来ていた。私は幼かったのでリアルタイムでは知らないが、世界中を震撼させたその事件以来、それまでナノマシンという呼び名でひとくくりにしていた人工ウィルスや人工細菌と、単なるタンパク質である分子機械を明確に区別することになったらしい。
「承知しています。今回の外泊は、あくまで我々と彼女の契約審査のためのものであり、彼女を戦場に連れ出す訳ではありませんから。それに、万が一の際の防疫体制については、自衛軍の専門家の立ち合いも要請してあります」
医師が訊きたいのは、そんな、既に書類で読んだ話ではないのだろうなと思いながら、私は少し話をずらして返答する。返答をしてから、嘘でいいから、医師が望んでいたような、ユミナを思いやるコメントをしても良かったんじゃないかと思い至った。
医師は、何かを言おうとして口を開いてから一瞬考え、そうですか、とだけ静かに言った。
「それじゃあ、先生、今日はお忙しいところをありがとうございました」
言いながら私は席を立ち、なるべく丁寧に頭を下げた。
「あ、いえ、こちらこそ。遠いところをご足労いただきまして、ありがとうございます」
医師も立ち上がって挨拶しようとするのを、あ、そのままで、と制して部屋を出る。
背中の後ろで扉が閉まるのを感じながら、一番触れられたくない部分はお互い様だったかと考える。
ユミナが審査に落ちた場合、その後の治療はどうするのか?
それは、私たちの組織が関与する問題じゃない。もし尋ねられると、私はそう答えるしかなかった。
逆に、私が医師に同じ質問をしても、向うは保険の範囲でと答えるしかないだろう。つまり、生きていく為の最低限――あるいは、ただ生きている状態を維持するだけの治療。QOL? なにそれ、美味しいの?
社会科学的相対性理論を大人の事情で埋め隠して、うわべの会話で社会は回っている。
私は、そのままユミナの入院している病棟へ向かった。
今日は、ゲートの通過だけではなく駐車場の無料処置も忘れずに行ってもらう。この前とは違う年配の看護師が、以前はゲートを通過すれば駐車場も無料になるようにしていたのだが、そうすると、病院と関係のない車を止めて病棟のゲートだけを通っていく人がいたのだと教えてくれた。
病室のドアをノックし、どうぞという声を確認して中に入る。
部屋に入った時、とっさには状況が理解できなかった。
ベッドの脇に立つ、いつもの看護師。しかしベッドの上にあるものは、私が瞬間的に理解できる外観ではなかった。
私の脳が咄嗟に認識したのは、ところどころ表皮が破れた昆虫のサナギ。初見では輪郭をつかみにくい複雑な凹凸を持った茶色い表皮から、部分的に赤黒い肉の様なものがのぞいている。
「着替え中です!」
看護師から強い口調でそう言われ、そのサナギのような物体の上に包帯で巻かれた頭部があることを認識したところで、やっと
「失礼」
言いながら、あわてて病室を出ようとしたところで
「ええねん、ええねん。
先ほど、どうぞと応えたのと同じ声がそう言った。
これも、ユミナの声だと理解するのに数秒の時間がかかった。低く、かなりハスキーではあるが、聞けば若い女だとはわかる声。私の頭の中にある、しゃがれた中年女の様な声とは大きくイメージが違うが、よく考えてみれば、正常な状態に近いであろうユミナの声を聞くのはこれが初めてだ。
「うちの裸より、ローストビーフのカタログの方がよっぽど色気あるやろ」
「まぁ、ローストビーフは食えるしな」
とっさに出た私の冗談にユミナは笑ったが、看護師には殺意を持った目で睨まれた。
私自身も、言ってしまってから、今のは〈人間の肉は食用じゃない〉という程度の意味だったのだが〈お前は女としての魅力がない〉という意味にもとれるなと気付いた。この状況で言うのは残酷すぎる言葉だと、すぐに反省する。ユミナが気にしていないのは幸いだ。
「
今さら部屋を出るのもおかしいかと思い、私はベッドの反対側を見ながら言う。
そちら側の壁ではサイネージが森林公園らしい風景を映していた。ふと気付くと、聞こえるかどうかぐらいのボリュームで環境音楽も流されている。以前に来た時、生体モニタの画面が表示され、その電子音がBGMだったことを考えれば随分と平和的な環境だ。
「あぁ、そうなんや。うちに会いに来てくれた訳じゃないねんな。残念」
ユミナが明るい声で言う。思いのほか声に張りがあり安心した。
「――トジマさん」
「何だ?」
「金のなる木、元気?」
なんのことか判らなかった。私が黙っていると、数秒の沈黙の後でIグラスがカゲツのことだと教えてくれる。今世紀の初めころまで使われていたカゲツの俗名らしい。
「元気だ……と思う。日当りのいい部屋に置いて週一で水をやってるだけだが、痩せたりはしてない」
私は、応接室の窓際に並べてある鉢植えを頭に思い浮かべながら答える。
「よかった。ありがとうな」
「……いや」
それで会話が途絶え、数十秒の沈黙が続いた。私は、見るともなくサイネージの環境映像を眺める。
「終わったわよ」
「おおきに」
看護師とユミナの会話が聞こえ、私が振り返ると
「ごゆっくり」
こちらを見ることもなくそう言い、看護師が部屋から出ていった。
ユミナは、薄いグリーンのパジャマに着替えていた。きれいに洗われたパジャマの襟元から見える首筋にも新しい包帯が巻かれていて、皮膚が見えているのは目元口元と、鼻の穴の部分だけになっている。
ここで正面からユミナを見て、私は前回会った時と大きく印象が違うことに気付いた。顔の造作が判らない程に包帯をまかれた状態のままで、どうしてここまで印象が違うのだろうかと少し考え、すぐに答えにたどり着く。
目だ。
意志の強そうな瞳はそのままだが、その瞳の周囲――前回は赤茶色に充血していたそこ――が、うっすらと青みを感じさせる程に白い。その眼球外膜の白さと瞳の色のコントラストが、その奥に潜む精神性を強調している様に感じられた。
「調子はどうだ?」
「絶好調やで。明日のテストは新記録出したるわ」
言いながら右の上腕を上げて見せる。ひじから先、中身がないパジャマの袖が力なく垂れ下がったが、ガッツポーズをとる気迫は伝わってきた。
「そうか。期待している」
苦笑しながら言うと、ユミナが急にため息をついた。
「どうした?」
「テストに落ちたら、うち、住む
埋め隠したはずの社会の都合をいきなり掘り戻されて、一瞬ことばに詰まった。
「今は、落ちた時のことより、受かることを考えた方がいい。組織は常に人材不足だから、能力があれば受かる可能性は十分にある」
事実の中から気休めだけを抜き出し、オブラートに包んで話す。
今までに何度も、何も感じずにやってきたことだが、今日は何故か心の奥で小さな引っ掛かりを感じた。ユミナが不合格になる可能性が高い訳ではない。いや、むしろ合格する可能性の方がはるかに高いだろう。そうでなければ、仮契約で高額の医療費を前払いするような真似はしない。
「そやな。鉢植えと本持って出ていくのも大変やしな。あ、そうやった。トジマさん、ありがとうな。鉢植えと本、持ってきてもらったお礼言ってなかったわ」
「いや、
「うちの口からは言うてへんやん」
「それはそうか。まぁ、気にしなくていい」
話ながら、アパートの部屋から荷物を運んだ翌日ユミナに連絡を取ろうとしたが、喉の状態が悪く電話で話せる状態ではないと言われ、取り次いで貰えなかったことを思いだす。その代わりに、電話口に出た看護師から、お礼を言付かっていると言われたのだった。
「あれな、大昔は実際に枝にお金を通して縁起物として売られたりしててんて」
一瞬
「へぇ、そうなのか」
と相槌を打ったが、あの肉厚の葉が密集する枝にどうやって硬貨を通すのかは上手くイメージできない。
「うちが施設におったんは調べてるやろ?」
「ああ」
「あの木の親がな、施設の玄関ホールに置いてあってん。ほんで、毎年、冬になったらいっぱい葉っぱが落ちるねんな。中学生のころ先生が、その葉っぱを土に差しといたら強い子からはまた芽が出てくるでって言うてて、うち半信半疑でプリン食べ終わった後のプラスチックカップに土入れて、五枚ぐらい差してみてんやん。そしたら、そのうちの三枚から芽が出てきてん」
私は、ユミナの部屋の本棚に置いてあった葉っぱが土に差してあるようにしか見えない植木用のポットを思い出して頷く。
「ほんで、その子ら育てて二株は退職する先生らにあげてん。最後の一株は施設に置いとこうと思ってたんやけど、うちが施設出るときに、葉っぱ差してたら芽が出るって教えてくれた先生が持って行きって。うちは、これからの一人暮らしで観葉植物の世話できるかどうか判らへんし、自分のことが不安で他のことに気ぃ使ってる余裕ないからいいですって言うてんけどな――」
ここで、ユミナは一旦言葉をきった。私の反応を待っているのではなく、自分の中で言葉を整理しているようだ。私は黙って次の言葉を待った。
「実際にお金が生ることはないけど、この木は縁起物やから幸運を呼んでくれるかもしれんよ、それに、植木鉢の土の上に落ちた葉っぱやった頃から、あんたが育てたった子やろ――っていう感じのこと言われて、まぁそうなんかなって思ってんな……。でも、いま考えたら、あの子連れてきて良かったわ。うち、ニーノと暮らすまでは一人暮らしやったけど、植物でも同じ部屋に生き物がおったら気分が違うねんな。ほんで、時々あの子を見ながら、中学の頃のこととか思い出すねん。その頃から、この子と一緒に
ユミナは、そこまで一気に喋ると軽く咳き込んでから黙った。
部屋の中を、柔らかい沈黙が包み込む。
そして、ここで話を終えておけば何となくいい話で締めくくれた筈なのだが、私は何かを勘違いしたらしい。その場の雰囲気が話の接ぎ穂を求めていたわけでもないのに、次の話題が口をついていた。
「そう言えば、ラノベの方は箱に入れて資料室に置いてあるからな」
特に意識もせずそう言ったとたん、包帯の奥でユミナの目が細められた。
「は? ラノベ?! うち、ラノベなんか読まへんけど、トジマさん何かと勘違いしてへん?」
後から考えると、ここは『あ、そうなのか。すまない』で会話を終わらせるべき場面だった。
「いや、しかし……あれは確かにライトノベルの――」
そう言うと、今度は盛大にため息をつかれた。
「はぁ……トジマさんの時代はどうやったか知らんけど、ライトノベルとラノベは違うんやで」
その違いが判らず戸惑っていると、私の沈黙を察知したデータケースが助け舟を出し、Iグラスに情報が表示される。
私が十代の頃までライトノベルの略称であったラノベと言う言葉は、その後、ライトノベルの中でも特に内容の薄い、刹那的な娯楽性を狙った作品に限定して使われる様になり、最近ではすでに死語となったエロ小説という言葉を代替して使われる場面もあるらしい。
反面、ライトノベルの方はラノベとの区別をより明確にするためR/Light-Novelというような表記をしたりもするとか。
その説明を読みながら、正直どうでもいいと思ってしまった。何の茶番かと感じてしまう自分に年齢を感じる。同時に、ユミナは二十代前半の女性なんだと再認識させられた。
そう言えば、祖父と祖母はデータケースのことをスマートフォンとかスマホとか言っていたことをふと思い出す。小学生のころにその言葉を聞いて、スマートフォンって言っても全然スマートじゃないよと言うと、その前の時代には同じような大きさの携帯電話で、通話とメールと写真撮影ができる程度だったんだと言われた。江戸時代には飛脚が手紙を運んでいたんだというのと、大差ない話だというところまでは理解できた。
「しかし、あんたの
私は、話の方向を少しすり替えるつもりでそう言った。
「うん、まぁ……うち、他に大した趣味もないし、気に入った小説を何冊か本で持っとくぐらいの贅沢とオシャレはいいかな、と思ってたらあんなに溜まってもうた」
そう言えば、一部の若い女たちの間では、文庫本を持ち歩くのがファッションの一部になっているというような話も聞いたことがある。ノスタルジックな雰囲気と知的な自分の演出。作品の中身を理解することまで含めてのスタイルなら、べつに悪い流行りではないだろう。
そんなことを考えながら、そうかファッションか――と呟く。
続けてユミナは
「まぁ、こんな身体になってもうたらオシャレも何も関係ないけどな」
と、自重するように笑った。
そして、返す言葉に一瞬迷った私の口から、自分でも思っていなかった話が出た。
「私も昔、自分の能力をうまく使いこなせずに大ケガをしたことがある」
「え、そうなん?! ……あれ? でもトジマさんの能力って使いこなされへんからって大ケガする?」
「そのへんは、能力に関する基礎概念なんかも含めて説明が長くなるから、興味があるなら、また今度、説明しよう。今言いたかったのは、その時、私は一年近くも入院して、入院当初は正常な社会復帰ができるかどうかも判らない状態だったってことだ。私の場合は、治療方法も試行錯誤だったから、それを含めて時間がかかったが、三度熱傷はクローン皮膚の移植とナノマシン治療の併用で外観上も日常生活に支障がない程度まで復元する技術が確立されているらしい。つまり、あんたの場合には、元通りになれる可能性だって十分にあるってことだ」
自分でも何故こんな話をしているのかと少し戸惑っていたが、その戸惑いを表情に出すことはなく話をする。
ユミナは、私の言葉が終わった後も、しばらくの間黙り込んで何かを考え込んでいた。
「――そうやな。今は、中途半端な希望でも無いよりはマシか。ありがとうな、トジマさん。それからな、また一つお願いしてもいいかな?」
「魔法使いじゃなくてもかなえられる程度の内容なら」
「明日な、泊まる
明日のユミナの宿泊には、シキモリ本部に近い病院の個室を押さえてあるが、あの病院の屋上が立ち入り禁止かどうかは調べていなかった。いや、星空を見るだけなら病院の屋上にこだわる必要もないか。
「それぐらいなら叶えられるように努力してみよう……星が好きなのか?」
「星が好きっていう訳でもないねんけどな。落ち込んだときは、星見ながら神様探しするねん」
「神様探し?」
「うん。明日、星が見えるとこに連れて行ってくれたらトジマさんにも見せたるわ」
翌朝、私はシキモリの公用車でユミナの病院へ行った。大型の四輪駆動車は、自分の5ドアハッチバックに比べると小回りが利かず扱いにくいが、車内が広いぶんユミナが乗るのにはは楽だろうと考えてのことだ。
ユミナは、ゆったりとしたトレーナーに足首まで隠れるマキシスカート、キャスケットをかぶってサングラスとマスクで顔を隠したスタイルで、ベッドに腰かけて待っていた。
トレーナーの両袖口からは、レンタル品らしい小傷の目立つ機械義手がのぞいている。
「大丈夫なのか、もう包帯を外して? その――耳のところとか痛くないのか? 車は通用口に回すし、徒歩の移動は建物の中だけだから、パジャマでも構わないんだぞ」
「え? 大丈夫やで。耳の後ろとかは火傷も浅いから、サングラスとマスクは全然気にならへん。包帯は、ホンマは何日か前にはずしてよかってんけど、うちがビビッて巻いてもらってただけやし。それに、目立たん服装の方が火傷のトコやって人目を引かへんやろ」
それは、確かにそうかもしれない。病院の中を移動する時には他の患者もいる訳だから、ミイラ女よりは今の格好の方が人目は引かないだろう。
「じゃ、行こか」
言いながら、ユミナは小さめの菓子折りを入れる位の大きさのショッピングバッグを持って立ち上がる。バッグは、着替えらしい荷物で膨らんでいた。
「荷物は、それだけか?」
私は、病室のドアを開けながら尋ねる。
「パジャマと下着と歯ブラシと薬だけやん。メイクは出来へんし、バッグは病院の売店じゃ売ってへん。データケースが燃えてもうたから、ネットでも買い物出来へんし。まあ、そもそも今のうちの状態で、これ以上なにが
「それもそうか」
荷物を持ってやろうと思い、廊下を歩きながら手を差し出す。ユミナは、その手を見て一瞬考えてから、握手をしてきた。義手のゴムは、見た目よりも人肌に近い弾力性を持っていて少し意外だった。
「いや違う。荷物だ。持とう」
言うと、慌てて手を引っ込められる。
「あ……あぁ、なんや。ややこしいな」
「悪かった。このタイミングで握手だと思われるとは予想外だった。むしろ、若い女性には握手のつもりで差し出した手を、手品でも始めるのかと言うような顔で見られることの方が多いぐらいだ」
「――トジマさん、手品しはるん?」
「いや、そういう話じゃない。……荷物を持とう」
改めて言うと、ユミナは一瞬、私に荷物を差し出そうとしてから、すぐに止めた。
「ありがとう。でも、ええわ。下着も入ってるし」
「……そうか」
ちょうど話が途切れたそのタイミングで、データケースにコールが入った。
発信元はシキモリ本部。歩きながら音声通話モードで受けて、ケースを耳に当てる。病院内の中継器を経由した弱電波モードであることを告げるアラート音に続いて回線がつながった。
「トジマさん? 今いい?!」
サクラだ。
「ああ」
「ヴァンDが、帰りにオオサカ市内でミドノちゃんを拾って来てくれって」
聞きたくない名前を聞いたような気がした。
「断る」
「言うと思った。命令だって」
「他の人間に行ってもらってくれ。私は忙しい」
「うちの車、トジマさんが乗って行ってるじゃん。どうしてもミドノちゃんを迎えに行かないなら、オオサカの指定場所で車だけ彼女に渡して、トジマさんが電車で帰って来いって、ヴァンDが。とにかく、今日はミドノちゃんを公共交通機関で移動させたくないみたいだよ」
「私は、今日に限らずあいつを公共交通機関に乗せるべきじゃないと思ってるけどな」
「そう思ってるんなら話はやいじゃん。じゃ、落ち合う場所は車のナビに送っとくから。ヨロシク」
私が次の言葉を発する前に通信は切られた。
「なに? 今から仕事?!」
私がデータケースをスーツの旨ポケットにしまうのを待って、ユミナが訊いてくる。
「今だって仕事中だ」
「それは、そうなんやろうけど。なんか、もっと難儀な仕事が入ってきたんとちゃうん?」
それは全くその通りだった。
「大丈夫。あんたが気にすることじゃない」
「なんやったら、うち、電車で試験場まで行こうか?」
「いや、それはそれで違法行為になる」
「え、そうなん?! うちって凶悪犯罪者扱い?」
「いや、バイオハザードだが……いま大事なのはそこじゃない。すまん、少し考えさせてくれ」
「あ、そうか。人工ウィルス治療の隔離期間終わったばっかりやから、電車とかは乗ったらあかんのか」
ユミナは独り言のように言って、そのまま黙りこんだ。
私は考えながら病院を出てユミナと車に乗り、エンジンをかける。車を駐車場から出しても、良い考えは浮かびそうになかった。
サクラが送ってきたナビデータは、オオサカ市内を流れる川の河口に近い工業地帯に車を誘導した。平日の昼間に人通りは無く、近くに見えるコインパーキングに止まっている車も少なかった。
この辺りだと、風向きによっては、ウィンドウを開ければ少し離れた所にあるアミューズメントパークのアトラクションの音楽が聞こえるかもしれないと一瞬思った。それから、ミドノを待っていることを考えると、やめておいた方がいいだろうと思いなおす。
「待ち合わせの人って、誰なん?」
ユミナは、私が途中のコンビニで買ってきた紙パックのジュースをストローで飲みながら訊いて来た。ジュースを飲むためにマスクをずらすと、焼けたただれた顔が見えて痛々しかったが、こちらが感じているほどには本人は気にしていないようにも見える。唇と普通の皮膚の境界もわからない状態の口の中に覗く白い歯が、そこだけ妙に健康的で逆に不自然なもののように感じられた。
「かなり悪い意味で、ハリウッドアクション映画のスーパースターみたいな奴だ。名前はミドノ。我々の組織で主として情報収集に従事してるが、こいつが顔を見せるだけで辛気臭いぐらいシリアスなヒューマンドラマが、安っぽいアクション巨編に化ける」
「なんや、それ。
「もし、あいつと一時間一緒にいた後で同じことが言えたら、あんたは十分にこの世界でやっていけるよ。――さて、そろそろ時間だ。ジュースを飲み終わったら、シートに伏せていてくれ。冗談じゃなく、ナイフを振り回すストリートギャングに追われながらあいつが現れたって私は驚かない」
ユミナは冗談と受け取った様子ではあったが、笑いながら空の紙パックをポリ袋に入れるとそれを足元に置いて、リアシートで身体を横にした。
そのまま、数分が経過する。
その間、私は黙って外に気を配っていたのだが、ふとユミナの方が気にかかってリアシートを振り返った。ユミナは、積んであったクッションに上半身もたれかけさせた楽な姿勢で、外から見えない位置に横になっている。
安心して視線を前に戻した瞬間――
ドン! という音と共に車が大きく揺れた。
目の前――車のボンネット上を、ミリタリージャケットの人影が転がる様に右から左へ移動していく。突然のことに、一拍遅れて、音と揺れはコイツがボンネットに飛び乗った時のものかと認識した。
そいつは、この車と歩道の間のスペースに上手く着地すると、車を盾にするように身を隠した。
身を隠す一瞬こちらをちらりと見て、私と目が合うとニヤリと笑った。私の方は、無意識に舌打ちをする。
「え?! なに?」
リアシートでユミナが戸惑い気味の声を出す。
「伏せてろ!」
ユミナに向かって言いながら、ドアのロックを解除する。
「早く――」
――乗れ! と叫ぼうとした刹那、ボンネットの上に銃を持つ腕が現れた。
握られているのが無排莢モデルのH&Kだと見えた次の瞬間には、連射の炸裂音と共に吐き出されたサイドブラストで、フロントガラスの前が真っ白に煙る。
反射的に身体をひねって、銃が狙っている先にあるものを見た。
車の右後方二十メートル。生身の人間ではなさそうなシルエットが着弾の衝撃に震える。しかし、9ミリの銃弾程度で倒れてくれるほどヤワじゃなさそうだ。
炸裂音が止むのとほぼ同時に、助手席のドアが開けられた。燃えた火薬の匂いと、うっすらとしたスモークを纏いながら、手入れの悪いロングヘア―が飛び乗って来る。
私は、ドアが閉まるのも確認せずアクセルを踏み込んだ。
身体がシートに押し付けられる感覚を感じた瞬間、すぐ横のサイドウィンドウに何かが叩き付けられた様な破裂音と衝撃。しかし、そちらを確認している余裕はない。それに続けて二度、破裂音と閃光を感じたが今度は衝撃は無かった。
車は十秒かからずに八十キロまで加速し、そのまま一時停止を無視して片側二車線の道路に出る。幸いにして左車線を法定速度に近いスピードで走る数台のトレーラー以外に走っている車は無く、右車線を百キロに近い速度で走っても一般車両を事故に巻き込む恐れはなさそうだ。この状態なら、フロントウィンドウにこびりついたサイドブラストの火薬カスが目障りでも運転に支障はないし、ハリウッド映画の様なカーアクションは、しないに越したことはない。
「ありがとうね、トジマちゃん。助かったわ」
野太い声が、助手席で言った。
「こういうのは、私のいないスピンオフ作品でやってくれと言った筈だ」
私は、髭の剃り跡が青々しいミドノの顔をちらりと横目で見て言う。全体的に大づくりで彫りの深い精悍な顔立ち。男ならイケメンと表現してもいいだろう。
「あら、今回はスピンオフ作品にトジマちゃんがゲスト出演よ。ヒロインをサポートするクールなエージェント役でしょ?」
となりでロングヘア―をかき上げて流し目をする雰囲気を感じながら、私はため息をついた。
――と、その時。
「……あの、トジマさん……」
リアシートから遠慮気味な声がした。
「どうした?」
「たぶん、
ユミナのその言葉に、背筋を冷たいものが走る。
何度も確認したはずのルームミラーとドアミラーに、慌てて視線を走らせた。しかし、私の目でわかる様な敵の姿はない。
「ミドノ、敵はあの一体だけか?」
「その筈よ。いくらアタシでも、あんなのを何体も相手できる訳ないじゃない」
後半の言葉はともかく、ミドノがそう言うなら敵の義体が一体だというのは間違いないだろう。そして敵が先程の一体だけなら、シルエットを見る限り百キロ近い速度で走る車を追走できるタイプではなかったし、追走してくる気配もない。
「見えないぞ、ユミナ。気のせいじゃないのか?」
「上やで」
一瞬、ユミナの言っている意味が判らなかった。それから、自分がこの車の装備を過信していたことに気付く。
「ステルスドローンか?!」
私が声を上げるのと、ミドノがCIを操作してドローンレーダーを自動モードから手動モードに切り替えるのは同時だった。
「どのへん?!」
ミドノが鋭い声でユミナに尋ねる。
「十二~三メートルぐらい後ろ、高さ二十メートルちょっと」
ユミナの声を聞きながら、ミドノがタッチパネルに指を走らせた。
「確かに何か飛んでる。けど、この車のレーダーじゃ絞り込んでもハッキリは掴めないわね。ECMも、この車に積んでる装備じゃ以下、同。時間を稼いで、パドローン呼ぶのが確実かもね。トジマちゃんスピード落とさないでよ」
「努力はするが、ここはサーキットじゃないからな……。攻撃型か?」
言いながら、私は高速道路の入り口へ向かう車線へと進路を変更した。
「攻撃型だとしても、たぶん対人用よ。普通の車ならともかく、この車のボディは
「もっともだ。じゃあ、尾行が目的だな。自爆機能は?」
「たぶん自爆機能もないわ。でも、対人兵器は載ってる可能性が高いから油断しないで。渋滞にはまったりしたら周囲の車を人質に取られかねないわよ」
「その前に、
「それは、そうね」
ミドノは助手席のシートを倒して、リアシートのほうへ身体をずらした。リアシートで、ユミナがミドノに場所を譲る気配。そこから、更にリアシートのバックレストを越えてカーゴスペースに移動する気配があった。
そしてルームミラーに、カーゴスペースでリアウィンドウ越しに外を見るミドノの後ろ姿が写る。
「ああ、あれか。骨董品のアサシンモデルっぽいわ。たぶん、攻撃可能速度は六十キロ以下ぐらいだからスピード落とさないように注意してね。鉄板は貫かれる心配ないけど、ガラスは何連射か貰うと破られるかもしれないわよ。でも、ステルスと耐EPM性能以外なら宅配便で使ってる配送用のヤツのほうが上なぐらいだし、手の打ちようはあるわ」
「そのステルス性ともう一つのおかげで手を焼いてるんだ。配送用のモデルなら、多少高性能でも落とせてる。確認できたら、さっさとシートに戻ってくれ。警察に捕まったら私の点数が減る。それから――減速するぞ。気を付けろ」
高速に入るゲートの直前で、ETCが反応するギリギリのスピードまで急減速。跳ね上がる開閉バーに、ボンネットの鼻先を
本線合流のために加速を始めたところで、ミドノが忍者のような動きで助手席へ戻ってきた。
「あの――」
ユミナが、また遠慮がちな声を出した。
「え? ああ、大丈夫よ。心配しないで」
「あ、いや、そうやなくて。車止めてくれたら、うち、後ろのドローン落とせるかもしれんけど……」
「高速に乗ってしまったからな……」
無意識に、ユミナの言葉に答える呟きが漏れた。次のSAまで約一〇分。そこまで引っ張ってから減速してパーキングスペースに駐車し、ユミナを車から降ろす。そして、どうやるのかは知らないがユミナの能力でドローンを撃墜する――自分の連想がナンセンスすぎて苦笑が漏れた。
「そうね。それに威力が小さいとはいえ対人兵装も持っているドローンだし、ちょっと危ないわ。大丈夫よ。このスピードで走っていられるなら、その間に手は打てるから」
言いながら、ミドノがCIを操作する。フロントガラスのディスプレイエリアに、CIの通信が公的捜査機関専用の秘匿回線へ切り替わったことを告げるメッセージが表示された。
「公安にパドローンの出動を頼んだわ。五分以内に到着する」
「公安に出すレポートはお前が書けよ」
「はいはい。了解」
高速道路では、時速百二十キロで追い越し車線を走り続けても、ほかの車両が障害となることはなかった。たまに、追い越し車線を百二十キロ以下で走っている車両がいても、CIがこの車から発信されている緊急車両信号を受信すると強制自動運行モードで走行車線へと進路変更を行ってくれる。だから進路上にこの車より緊急優先ランクの高い車両か、CIを積んでいないヒストリックカーが走っていない限り、この車線は私たちの専用道路だ。
「へぇ、お役所の車って便利やねんなぁ……」
ユミナがリアシートから、CIの画面に表示されている他車の進路変更情報を見て、感心したように呟く。
「その代わりに、後から
ミドノがユミナの呟きに答えてから、私に訊いてきた。
「あ、どうも。ユミナです。あの――」
「今日、審査を受ける予定の候補者だ」
「あら、そうなの。かわいそうに。そんな状態で審査を受けさせるとか、トジマちゃんもヒドイわねぇ、もう少し治るまで待ってあげればいいのに。貴女も気をつけなきゃダメよ、髪と肌は女の命なんだから」
「やめとけ。お前が言うと冗談にしか聞こえない」
「失礼ね。アタシみたいな美女にむかって」
タイミングよく数百メートルの直線が続いていたので、私はミドノの意味のない決まり文句を無視して、ワイパーレバーを操作した。フロントグラスに吹き付けられたウィンドウォッシャー液が灰色に濁り、こびりついた火薬カスを洗い流していく。
そうやって視界がよくなると、高速で走行するプレッシャーも軽くなった。このコンディションなら時速百八十キロでも行けそうだが、それを自制する程度の分別はまだ残っている。
百八十キロへ加速する代わりに一瞬だけサイドウィンドウへ視線を移すと、防弾ガラスに散弾が当たった跡が残り、数カ所は9ミリほどの対人散弾がめりこんだままになっていた。
それを確認して前方へ視線を戻すのと、パドローン指揮車がバックミラーに写るのはほとんど同時だった。
ディスプレイエリアにパドローン指揮車からの通信要請が表示されたので承認する。
『こちら、キンキ第二パトロールドローン隊、八号指揮車。そちらの車両を追跡中の違法ドローンを確認。排除行動に際し、協力を要請します』
スピーカーから、若い男のものらしい声が聞こえた。
「こちら量子化現象情報収集室業務車両一号車。出動に感謝します。排除行動への協力を承知しました」
応答の言葉を言い終えないうちに、車両の運転権移譲要請とセキュリティ証明が表示されたので、それも承認する。
次の瞬間、コントロールを渡した車が減速を始めた。私は驚いて、セキュリティ証明を再確認してからミドノの方を見る。珍しく当惑した表情のミドノと目が合った。
「おい――」
「アタシは、軍用ドローンに追跡されてるって、ちゃんと言ったわよ」
舌打ちをして、指揮車への通信を音声回線に切り替える。コールをしている間にも車はどんどん減速し、時速六十キロをきった。
『はい?』
若い男の声がのんきな口調で応答してきた。
「てめぇ、ふざけんじゃねぇぞゴルァ! 相手は兵装のある軍用ドローンだって言ったろうが!! こっちが攻撃される前にどうにかしなけりゃ殺すぞ!」
マイクに向かって怒鳴りたてているミドノのドスのきいた声を聞きながら、私はCIに車のコントロールを取り戻すための指示を出す。
「クソ、とんだド素人じゃないか……」
この車とパドローン指揮車の通信状態を示すインジケーターを見ながら、無意識に呟きが漏れた。尾行に使われているだけのドローンであれば、追跡対象を減速させることでドローンも減速させ、リスクを減らしてドローンを捕獲するというのはセオリーだ。しかし、兵装を持つドローンを相手に攻撃可能速度まで対象を減速させるのは正気の沙汰じゃない。
焦燥感で、ハンドルを握る手の感覚が曖昧になってくる。
指示を出してからコントロールを取り戻すまでの時間は二秒程度だったはずだが、体感では十秒以上に感じられた。
コントロールを取り戻し、運転モードをどうするのか尋ねるメッセージがフロントガラスに投影されるのと、目の前に敵のドローンが現れるのはほぼ同時。ドローンの下にぶら下がった、一見オモチャにしか見えないような兵装に真正面から睨みつけられて、背筋を冷たいものが走った。
「手動モードだ!」
CIに向かって叫びながら、ハンドルを握る手に力を入れる。
次の瞬間――
ハンドルを操作するよりも早く、フロントガラス全体が閃光に包まれた。
反射的に身をすくめそうになるのを、一撃目はガラスの防弾機能の方が勝つ筈だという理性からの指示でかろうじてこらえる。
そして一瞬の閃光が収まった後、目に映ったのは予想外の光景だった。
少なくとも十数発の着弾痕が残っている筈のフロントガラスはきれいなまま、その数センチ向こうで、白熱から赤熱へと急速に色を変えていく小さな金属塊がカラカラと音を立ててボンネット上に落下する。
ボンネットから転がり落ちていく、その赤黒い金属塊が銃弾だということはすぐに判った。何が起こったのかは判らないが、そんなことを考えるのは後でいい。それよりも、二撃目を防ぐことのほうが優先だ。
銃撃の反動を完全に吸収するだけの慣性重量も機動出力も持たないドローンは、崩れた機体バランスを修正して二撃目の射撃体勢に入ろうとしていた。その隙を逃さず、加速しながら左車線へと車を進路変更し、ドローンを追い抜きにかかる。
こちらの動きに追従できなかったドローンが、戸惑うように機体の向きを変えようとしているところへ、右に向かってハンドルを切った。最近の車は、自動運転の普及に伴ってドライバーの視界が昔ほど重要視されない傾向にあり、その例にもれず、この車も一昔前の車に比較すると野暮ったく思えてしまうほどピラーが太い。その見るからに剛性の高そうなAピラーで、タイミングを計ってドローンを弾き飛ばす。
もちろん、ドローンを破壊するほどの威力はない。が、ドローンの機体バランスを更に崩すのには十分だった。
ドローンは、弾き飛ばされた時の運動エネルギーでほんの一瞬わずかに高度を上げてから、ふらふらと高度を下げる。
一瞬、ユミナが後ろに乗っていることを思い出して、リスクを減らすためにはこれ以上の反撃は避けるべきかと躊躇した。そしてすぐに、頼りないパドローンが仕事をする前に、敵が体勢を立て直して攻撃してくる方が危険だと思いなおす。
私はサイドウィンドウから、敵のドローンが運転席のドアの横を飛んでいることを確認して、ハンドルを一気に右へ切った。
車の車体に接触したドローンが体勢を立て直す暇を与えず、そのまま追い越し車線を越えて右側の路肩まで車体を寄せる。
ドローンの機体が、以前にクラシック映画で観たピンボールの玉の様に、この車の車体と中央分離帯の防護壁の間で跳ね回った。そのまま上へ逃げようとするのを、車をさらに右へ寄せて防護壁との間に完全に挟み込む。
一瞬、悲鳴のようなダクテッドファンの振動が車体を介して伝わってきた。それを気にせず車体をさらに右へ寄せると、ドローンの機体は横倒しの姿勢で防護壁に腹をこすりつける状態になる。
車体と防護壁の間で、高速回転体が異物を噛み込んで割れるような音がした。次の瞬間、この車と防護壁との間の摩擦で運動エネルギーを使い切ったドローンの機体は、車体の後方へと滑り抜けてしまう。
私は、車を減速してバックミラーを見た。
ドローンは、裏返しの状態で一度路上に倒れこみ、痙攣を起こしたように跳ね回っていたが、数回跳ねたところで腹を下にした通常の姿勢に戻る。しかし再び飛行することはなく、バランスを失った姿勢のままネズミ花火のように路上を走り回りだした。
「バックして踏み潰さないの?」
ミドノが挑発するように
もう一度バックミラーを見ると、ドローンは二車線全体を使って走り回っている。あれをバックで追いかけるのは骨が折れそうだ。
私はバックする代わりに、緊急車両モードのまま運転を全自動に切り替えた。CIが走行位置を防護壁寄りから右側車線の中央に修正し、穏やかに加速しだすのを確認してハンドルから手を放す。
「あれぐらいの仕事はパドローン指揮車の若いのに残してやらないと、彼も報告書の書きようがないだろう」
「あら、優しいのね。アタシにもそれぐらい優しくして欲しいもんだわ」
「そのつもりで、
私がそう言うと、ミドノは一瞬黙り込んでから、リアシートのユミナのほうへ振り返った。
「そう言えば、まだ挨拶が途中だったわよね。トジマちゃんから聞いてるかもしれないけど、アタシはミドノ。よろしくね」
言いながら、ゴツい手をユミナに向かって差し出す。
ユミナが少し戸惑う気配があった。
「握りつぶされる心配はないと思うが、怖かったら無理しなくていいぞ」
ユミナに向かってそう言うと、ミドノから怖い目つきで睨まれた。
「いや、そんなんと違うねん……握手やんな? 手品とちゃうやんな?!」
「? 握手のつもりだけど、手品が見たい?」
「あ、いや。今朝から、ややこしかったもんで。よろしくお願いします」
ユミナがミドノの手を握るのを視界の隅で見ながら、私は、何故ユミナはドローンに追跡されていることがわかったのだろうかと考えていた。
その後は特に問題も無くシキモリの本部に着き、ユミナを審査担当者に渡して自分の席に戻ったところで、ヴァンDからすぐにシールドエリアへ来るように連絡が入った。
「人気者だね」
席を立つとき、サクラから少し同情するような口調で言われる。
「せいぜい、お声がかかるうちに頑張ることにするよ」
言って部屋を出る。
小走りでシールドエリアへ行きドアを開けると中のモニタールームにいた八人が一斉にこちらを振り向いた。まさか、こんな人数がいるとは思わず少し戸惑う。
「揃ったな。始めよう」
私の動揺は気にもかけていない様子で、ヴァンDがコンソールに座っている実験室長のモーリに向かって言った。
モニタールームの奥には、コンクリート壁と強化ガラスに仕切られた実験ブースがある。そのブースのサンプル用ステージに、何か電子機器の様なものが置かれて、そこから数本のケーブルが伸びていた。
私は、改めてモニタールームにいるメンバーを見回す。
このタイミングだ。ヴァンDとミドノがいるのは予想がついていた。実験室長のモーリがいるのは当たり前。民間の監視団体から派遣されている監査官のヒラタが居るという事は、少し面倒くさい実験が行われるということだろう。あとの四人は能力者だ。
私はミドノの横に立って、強化ガラスの向こうにある電子機器を見た。小さめのランチボックス程度の大きさのそれは、何か市販の電子部品を組み合わせた試作品のようにも見える。
「結局、何なんだアレは?」
小声でミドノに尋ねた。ミドノが手に入れて、戦闘義体に追われる羽目になった謎のサンプル。その正体は私も気になっていたが、帰って来る道中では、ユミナがいた為に聞くことが出来なかった質問だ。
「
小声で返すミドノの返事に耳を疑った。すぐに冗談かもしれないと気づき、ミドノの顔を見たが、実験ブースを見るミドノの表情はあまり見ることが出来ない真剣さだった。
「趣味の悪い冗談だ」
「ここに居る全員が、それを期待してるわ。この実験が失敗したら、みんなで笑いましょ」
なるほど、それなら今の今まで私が何の情報も与えられていなかったことも理解できる。恐らく、この場にいるメンバーの大部分はここ一〇分ぐらいの間に招集され、その場で説明を受けたのだろう。
「規定入力に到達しました。オーバードライブに入ります」
モーリの緊張した声が聞こえた。
「現在、入力一一〇パーセント」
ステージ上の電子機器に外観上の異常は見られないが、モーリの前にあるコンソールのディスプレイ上では、温度や発信されている電磁波の強度と周波数を示す数値やらがパラパラと変化している。
「入力一二〇パーセントを超えます」
横目でトリーとマチバを見る。まだ、能力を発動する様子はない。
「一三〇パーセント」
場に張り詰めた緊張感が、脳感応波となってチクチクと頭の中を刺激してくる。意識的に受信感度を下げていてこれだ。通常の感度だったら他人の緊張感だけで吐いているだろう。
「一四〇パーセント。内部温度が許容限界値に近づいています」
「ならば一五〇パーセントまで上がったところで今日は終わりだ。中途半端な測定で貴重なサンプルを壊すこともない」
ヴァンDの言葉を聞いて、少しほっとした空気が流れる。
「一五〇パーセント。内部温度限界値です。ベンチマークプログラム停止します」
モーリが言い、タッチパネルの停止ボタンに指を伸ばす。
その瞬間――
PM空間が確率波に浸潤されるときの、空気の硬度が変わるような独特な雰囲気を感じた。
そして、凄まじい緊張の高まりが、脳感応波となって流れ込んでくる。いきなり殴られたように、鼻の奥から視覚にかけての神経がスパークする。
探さなくても、その精神の主は判った。
マチバが凄まじい形相で、厚いガラスの向こうを睨みつけている。普段はくだらない軽口ばかり叩いている男の全身が筋肉の緊張で小刻みに震え、奥歯を強く噛み締め過ぎているせいで、そこだけ石か何かを詰め込んでいる様に頬の筋肉が膨らんでいた。
原因は誰の目にも明らかだ。
私はマチバから、実験ブースに視線を戻す。
そこには先程の電子機器は無く、輪郭のはっきりしない黒い
「トーリ!」
ヴァンDがトーリに向かって怒鳴る。
「やってますが、俺のパターンと違い過ぎて同調しきりません! マチバの元々のパターンに近すぎるんです!!」
「モーリ!」
「ここは、とっくに停止しています! 他のどこかで実験が続けられてるんですよ!!」
そう言っている間にも、その黒い
マチバが少しずつ押し負けていた。
「僕も同調できません! 操作しようとしてるんですが、泥をこね回してるみたいな感触だけです」
エドが叫ぶように言う。
イサキだけは、目を細め何かを探る様にブースの中を見ていた。
「確実じゃないが――」
ブースから目を離さず、呟くような声でイサキが言う。
「やれそうな気はします」
その言葉にヴァンDが一瞬だけ考えて答えた。
「構わん、やれ。モーリ、コンソールから離れろ」
イサキの能力を使うということは、実験ブース内にある全ての電気配線に何の区別もなく高圧電流を流す、ということだ。ブース内にある配線のほとんどは、現在モーリが座っているコンソールを経由しているので、コンソール内の配線にも高圧電流が流れることになる。
実験設備の復旧に要する労力とコストを考えると実行をためらう決断でもあるが、それを言いだすと緊急対策要員としてイサキを待機させてる意味もない。今がイサキの使い時、ヴァンDはそう判断していた。
モーリが慌てて椅子から立ち上がろうとする。
その時、私は何か雰囲気が変わるのを感じた。
咄嗟にマチバの方を見る。
マチバは、
「マチバ、押せるのか?!」
私は、イサキを使おうとしている周囲の空気を無視して、大声でマチバに訊いた。
前に出ようとしていたイサキが私の声に立ち止り、尋ねるようにヴァンDの方を見る。ヴァンDは、少し不愉快そうな表情で私の方を見た。
マチバは実験ブースから視線を逸らさなかったが、険しい表情のまま唇の端だけを少し持ち上げ、頷いた。同時に、強烈な肯定の感応波が伝わってくる。
「マチバが、まだやれるそうです」
私がそう告げると、ヴァンDは実験ブースに目を戻して言った。
「イサキ、もう少しだけ待て。トーリ、どうだ?」
「確かに……少し収束してきた感じはします。もう少しで、俺の方でも掴まえられ――あ、できます!」
トーリが言い、マチバの緊張が少し緩むのが感じられた。
実験ブース内の黒いぼんやりとした何かは、先程より小さくなり、何となくだが電子機器の様な輪郭も見えるようになっている。
「こっちも行けそうです」
エドが言うと、黒く膨張した電子機器もどきから何かがはじけ飛んだ。実験ブースの中でのたうってから床に落下したそれを見ると、元々の電子機器に繋がっていたケーブルだ。続けて数本のケーブルが外れると、空間を漂っていた黒いコロイド粒子が輪郭のハッキリとした電子機器に収束する。
その場にいた全員が、ほぼ同時に安堵のため息を漏らした。
「オーケイ! 終了だ。今回は俺が一番活躍したな。ディレクター、ボーナスの査定よろしく」
マチバが、今までとはうって変わった陽気さで言って、ヴァンDに親指を立てて見せる。
ヴァンDはその言葉を肯定も否定もせず、苦笑を返した。
マチバは周りを見回してから、オーバーなアクションを付けてパンと手のひらを合わせる。妙にいい音がした。
「それじゃあ、皆さん! お疲れさん!!」
マチバは大声で言うと、きびすを返してシールドエリアを出るドアへ向かおうとし――
そのまま倒れこんだ。
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