シキモリ 2
十四年前。
日本海に面したある廃港の埠頭で、一隻の密輸船が摘発された。
積み荷は子供が五人。
乗客ではない。商品として大陸に密輸出されようとしていたのだ。
子供たちの年齢は、下は五歳から、上は推定一〇歳まで。どの子にも捜索願は出ていなかったらしい。
最年長と思われる少女は事故が原因と思われる欠損で左腕が肩の付け根から無く、ユミナと名乗った。ユミナが本名でない可能性は高かったが、保護された後で少女自身が説明した身の上は、いくつもの明らかに無関係な事件や、都市伝説やネットドラマの設定が、事実と混同されており、身元を特定する役には立たなかった。ただ、話す言葉と、デタラメながらその話の内容から、この国の文化圏で育った人間であることは間違いないと判断された。
少女自身の話を信じるなら、少女は山奥の隠れ里に暮らす戦闘一族の一員で、一族に協力する一般家庭の娘として生活しながら数々の任務をこなしてきたということだ。任務の中には、巨大犯罪組織壊滅のきっかけとなった組織幹部の暗殺や、テロへの関与が疑われていたカルト宗教本部の爆破、テロによる高速鉄道施設破壊の阻止、そして、ニュースとして取り扱われることのなかった数々の小さな事件の解決があった。左腕は、ニュースとして取り扱われなかった事件の一つにおいて、大陸の犯罪組織に所属する戦闘義体と素手で格闘せざるをえなくなり、その時に失ったものらしい。
正確な時期は忘れたが、十五年ぐらい前に犯罪組織幹部の交通事故死を引き金にして、組織の内部抗争が勃発し、最終的には弱体化した組織が併合と言う形で対立組織に飲み込まれたという事件は、私の記憶にもある。カルト宗教の本部で大きな爆発事故があり、何人かの死傷者が出た事件も覚えている。テロによる高速鉄道施設破壊の阻止というのは何だったかとしばらく考えて、そう言えば、耐用年数が過ぎた鉄道橋をそのままにして隣接する位置に作った新しい橋を運用していたら、ある日いきなり古い方の橋が自然倒壊して大問題になったというニュースがあったなと思い出した。今頃になって十歳の少女の作り話を真剣に検証する必要もないのだろうが、どの事件も、因果関係に疑わしい点は無かったような報道がされていた記憶がある。
そして、当時、話を聞いた少女の身元調査担当者は、とりあえず、その一族に協力していた一般家庭にユミナという少女がいないかを調べた。結果、ユミナと言う娘がいるかどうか以前に、その家庭がある筈の住所自体が存在しなかった。
医療的な設備で調査できる範囲では、少女自身に嘘をついているという認識はなく、思春期に特有の不安定な精神状態と、過酷な環境によるストレスが相まって、現実逃避の為の妄想を体験記憶として刻み込んでしまった状態だと診断された。
精神感応による調査を行えば、他にわかることがあったかもしれないが、捜索願いも出ていない身元不明者の調査にそこまでの手間をかけられないというのは、当時も今も変わらない寂しい現実だ。あるレベルを超えた精神感応能力者は常に人手不足の状態にあり、身元を特定できたところで誰からも感謝をされない人間の為に、ひょいひょいと出前を頼むわけにはいかない。そうしてユミナは、高い費用を費やして身元を特定した挙句に、引き取った保護者から再び臓器売買の商品として売られるよりは、税金で必要最低限の生活と必要最小限の教育を与えられ労働者として成長した方が幸せだろうという、役所の言い訳と共に福祉施設へ送られた。
そこまで資料を読んで私は、|
推定十歳で商品として国外に売られそうになる少女――いまどき別に珍しい話じゃない。むしろ、売られる前に発見され、保護されたのだから運は良かった方だ。
気になるのは、身元不明と、左腕がないことだ。
十四年前といえば、私が二十一歳のころだ。まだこの国に難民キャンプは無かった。既に貧富の差が激しかったとはいえ、障害児童を物乞いの道具に使うほど行き詰まった貧民街もなく、また、それを許さない程度のモラルも生き残っていたような記憶がある。
しかし、ユミナの左腕が生来の欠損ではなく、何らかの事故が原因であることは当時から判明していた。二十一世紀も後半に入った時期に、医療データベースを調べても、それだけのケガを経験している人間の身元が判らなくなる状況というのは、私の乏しい想像力では思いつけなかった。
まあ、事実がわかったところで、今の状況が変わるわけでもないのだが……。
ため息をついて私は、Iグラスを表示モードに戻した。目前に、八十インチ相当の3Dレイヤードウィンドウが展開する。
ここからの内容は、福祉施設の担当者による記録に変わっていた。
ユミナは結局、身元不明(当然、本当の年齢も不明)のまま、様々な検査の結果から一〇歳の少女として施設に保護されてDecNef治療を受け、その後の八年間は、施設から近くの公立小学校・中学校・高校に通っている。小学校に通い始めた頃は、発見された当初と同様のエキセントリックな言動も見られたようだが、中学校に進学した頃から、そんな言動も鳴りを潜め、真面目な生活態度と平均的な学業成績だけが、判で押したように高校卒業までの六年間の記録に残っていた。
施設の担当者のコメントとして、真面目で下級生に対する面倒見もよく、読書と夜空を見るのが好きな少女だという、表面的で通り一遍な文が添えられている。私でも、あと数時間ユミナと会話をすれば、これぐらいは書けそうだ。
そして、高校の卒業と同時に施設を出て、
ここからの記録は、ほとんどが就職先の職場配置と勤務時間の無味乾燥な数字の羅列に変わっている。就職してから二年目までは、数か月に一度、保護施設担当者の訪問記録が残されていたが、それも二十歳になったと推定された時期を最後に途絶えていた。
職場では片腕が義手でもできる作業、いや、むしろ片腕が義手であることに利点がある作業として、倉庫内でピックアップドロイドに扱えない類の商品を主として運搬する仕事をこなしていたようだ。比較的小柄な体格で、片腕だけとはいえヘビー級アスリート並みの腕力を発揮できるというのが、それなりのアドバンテージになったであろうことは想像しやすかった。
ユミナは高校を卒業した後、そうやって淡々と二週間前までの六年間を過ごしてきたようだ。
そして、二週間前のその日が来る。
ユミナには、同じ施設出身で今も2DKのアパートをシェアして一緒に住んでいる、一学年下のニーノという後輩がいる。
その日、ユミナはニーノに呼ばれて行き慣れない繁華街へ行った。これは、ユミナの
待ち合わせの場所には、ニーノの友人だという若い男がやって来る。ユミナは、その男に言われるまま、空き部屋だらけのテナントビルの一室へ付いて行ったようだ。これは、街頭のライブカメラからの情報。
ここからは推測が含まれるが、たぶん、その部屋にニーノはいなかった。
ひょっとすると、ユミナが部屋に入った時にはいたのかもしれないが、少なくとも「事故」が起こった時にはいなかった。
ニーノは男たちに何かの弱みを握られ、ユミナに助けを求めたか、あるいはユミナをスケープゴートにしたか。いずれにせよ、その部屋にいた四人の男は、大陸の犯罪組織とも繋がりのある連中だった。電脳化するほどの金も思いきりもないが、見栄の為に健康な四肢をわざわざ
連中は揃いもそろって、この国の認証を通っていない、アフリカ辺りで作られた高出力義肢を使っていた。低価格、高出力、最低の耐久性と最悪の安全性能というやつだ。
犯罪用に情報シールドされた部屋で起きた火災の本当の原因は知りようがないのだが、可能性としては、連中の義肢の帯電防止機能が不十分で、関節から飛んだスパークが、同じ室内に保管してあった義臓者向けの違法カクテルに引火した可能性が高いと考えられている。アルコール飲料と言うより、レースカー用の燃料に近い成分の液体が、酒瓶に詰められて雑居ビルの一室に山積みされていたというのも、二十年前ならどこか外国の話の様に感じただろうが、今ではこの国の笑える現実だ。
ビルの管理システムは、連中が入っていた部屋からの瞬間的な圧力変動と、そのフロア全体の急激な温度上昇をとらえ、スプリンクラーを作動させると同時に、消防署へ緊急連絡。消防隊員が駆け付けた時に見たのは、チンピラ四人の死体と、黒焦げになって呻いている一人の女――ユミナだった。
その部屋から担架で運び出されたのは、ユミナ一人。チンピラ四人は、肉と義肢の部品を可能な限りかき集められ、バケットに入った状態で持ち出された。
ユミナ本人は、それまで周囲に対して自分の能力を触れ回ってはいなかったらしいが、この事件で一人だけ命が助かったことから能力者であることを疑われ、緊急搬送された病院で遺伝子検査が行われた。そして、検査の結果、能力を所持している可能性が極めて高い事がわかり、同時に、今回のケガと火傷は保険で賄われる治療では日常生活に支障がないレベルまでの回復は望めないことが本人に告げられた。
そして、物流倉庫のピックアップ作業をしている給料で、保険外治療を受けるだけの経済力がある訳もなく、また、病院の事務サイドとしても救急患者の治療費支払い能力に少しでも確実性の高い保証が欲しい――両者の利害は一致し、ユミナは病院の事務職員を仲介して(あるいは、ひょっとしたら事務職員の強い推奨によって)我々シキモリにコンタクトしてきた。
こうして、胡散臭い中年男――つまり私が病院に出向くことになる。それが、今日までのあらすじ。
私は、グラスを外してため息をついた。
「IグラスOFF、
時代遅れな七〇インチのサイネージの画面に、月明かりに照らされた雪山の映像が映し出され、前世紀のジャズが流れ出す。私は、そのBGVを
芳醇な穀物の薫りを含んだアルコールを口に含み、青白く怪しいコントラストを見せる雪山の映像をぼんやりと眺める。
……二十四歳か。ユミナは、私が思っていたよりずっと若かった。それが推定年齢だとしても、十歳時点の体格と知能をベースに推し量って五歳の誤差があることはないだろう。
どうして、私はユミナのことをもっと年上だと思ったのだろうか。ミイラの様な外観と、喫煙癖のある中年女の様な脳感応波の第一印象が強すぎたことは否定しないが、それだけが原因ではないような気がした。
何か、常人では到達できないような経験が醸す精神の底流。もちろん、二十四歳で両腕を失うような経験を重ねながら精神が折れていないのだから、何かしらの達観の様なものはあって当然だろうが、そういう物とも違う。私は、シキモリに来る前に精神治療の協力で帰還兵や、犯罪者、犯罪被害者なんかの精神にも潜ったことがあったが、そういった凄愴な経験から作り出されるものと、ユミナの精神にあったものは、また少し違うように思えた。
もし私の貧弱な語彙で無理やり言葉に直すとすれば、我々には得体の知れない深淵を、のぞき込んできた者の持つ悟りだろうか。
いや。
オーバーに考えすぎかもしれない。
私は、苦笑しながら軽く頭を振って、グラスに残っていた焼酎を喉に流し込んだ。
その翌日にとりあえず裏付けの薄い予定表を提出してからの四日間、私はユミナの手続きのことに忙殺されながら、ユミナ本人のことはすっかり忘れていた。
まずユミナは、現段階では犯罪被害者であり、かつ、犯罪の参考人だった。シキモリへのスカウトは法律的に正当なものではあるが、地元警察からすれば参考人を横からさらう縄張り荒らしとも受け取られかねないので、そちらへの根回しが必要となる。もちろん、我々としてユミナが犯罪捜査に協力することを妨害する意思はないが、病院の許可が出るまで参考人聴取を遠慮している警察からすれば、スカウトの為に病院の治療方針に口を出し、参考人聴取よりも先にユミナを連れ出そうとするシキモリは、油揚げをさらうトンビにしか見えなくても仕方がない。
ただし、こちらは油揚げをさらうために、ユミナが入っている最低ランクの国民保険では賄えない治療の費用を負担して回復を早めるための協力もするのだから、必要以上の遠慮もする気はなかった。警察も効率的な捜査を行うために、犯罪被害者給付金のシステムを見直して、後々支払う金額を先行で治療費として給付できるようにすれば皆が得をするのにとも思ったが、そんなシステムがない状況でそれを口にすると私を含めた皆が損をする様な気がしたので、大人の嗜みとして黙っておいた。
次は、病院の事務と主治医に連絡を取って、ユミナの追加治療の手続きと、治療計画の確認を行う。私は、この時になって初めて、数十年前から普通に行われていると思っていた医療用人工ウィルス利用による感染症予防なんかの治療までもが、ユミナの入っている保険では適用できない混合診療対象の治療方法だと知った。治療費の支払いを抑制したい自治体と、ビジネスのチャンスに目を光らせている保険屋の利害の一致は、発言力の小さい者へのシワ寄せとして現れる――社会科学のセオリーか。
そうやって資料を揃えながら、シキモリ内部での申請書類もまとめる。仮採用段階で発生する費用と、本採用後の半年間の予想費用、ユミナの能力を活用することで得られるメリット、その想定費用対効果。本採用の為の評価テスト予定日程は、病院で確認した治療計画や、警察とすり合わせた聴取予定日程を併記する。幸いにして、先に提出していた出まかせの予定表から大きなズレはなかった。
自分のトレーニングや何やかやのルーチンワークと並行してこの作業を済ませ、サクラに報告書を渡してホッとしていたところで、データケースにユミナの病院からコールが入った。
ちょうど本部の廊下を歩いているところで自分のデスクも遠かったため、秘匿通話ではないことを確認して、手近な壁面にあるサイネージに繋ぐ。それまで省電力モードの暗い画面で、今日の天候と交通情報を交互に表示していたディスプレイが通常モードの明るさになり、私のデータケースの通話画面転送モードになったことを表示した。
画面が一瞬暗くなり、次の瞬間三十代半ばぐらいの女性と思われる顔が映る。
少し見覚えのある顔に、誰だったかと一瞬考えてから、ユミナが入院しているフロアのナースステーションにいた看護師だと思い出した。私のことを、胡散臭いものでも見るような目で見ていた女だ。
「えぇと……そちら、トジマさんでしょうか?」
戸惑い気味の口調で尋ねられた。今日は怪しい男ではなく、一般人として扱ってもらえるらしい。
「そうですが」
「こちらイワフネ病院ですが、入院患者のユミナさんからのご依頼でご連絡させて頂きました。今、お時間よろしいでしょうか?」
「ええ。構いませんよ」
「それでは、病室の方に切り替えさせて頂きます」
その言葉を言い終わるか終わらないかというタイミングで、画面が切り替わる。
最初は、何が映っているのか理解できなかった。
何か、画面の中央辺りに映っている白っぽい模様の様なものが微妙に動く。
それから、音が聞こえた。
ドジヴァサン
最初は何の音かよく判らなかったが、数秒考えてユミナの声だと思い当る。
「ユミナ?」
私の問いかけに答えるように、また画面の中央辺りが微妙に動く。
「ヴン。シゴドヂュウニゴヴェンナ」
ここでやっと、画面の映像は、病室の壁についているカメラからベッドに横たわっているユミナを映しているものだと気づいた。普通は、ベッドに腰かけた姿勢になって腰から上が映るものなのだろう。ところが、ユミナは上半身を起こすことも出来ないので、ベッドと、その上に横たわるユミナと、その後ろの白い壁が映った状態になっているらしい。そうやって見ると、ユミナの頭の位置はフレームから外れ、点滴のチューブやな何やらのごちゃごちゃしたものが画面の隅に映っているのも認識できた。
焼けた喉から絞り出される、そうと知らなければ人間のものとは判らない風音のような声も、一度わかれば頭の中で変換できる。
〈トジマさん〉
〈うん。仕事中にごめんな〉
……
「いや、構わんよ。どうかしたのか?」
自分でも予想外の、優しい声が出た。
「アドゥナ――」
あのな――そう言葉を継いで、ユミナが話した内容はこうだ。
今日、借りているアパートの大家が見舞いにやってきた(とユミナは言ったが、後の話の内容からすれば見舞いではなく、ただの通告だ)。そして、一年近くアパートの家賃が払われておらず、賃貸契約の解除と明け渡しの訴訟も判決が出たので、一週間以内に出ていって欲しいということを告げて帰った。当たり前だが自分が一週間以内に退院できる望みはなく、部屋に置いてある荷物を取りに行けないし、ルームメイトのニーノにも連絡がつかなくて困っている。他に連絡できる相手も思いつかず、とりあえずトジマさんに連絡した――と。
また面倒な話だな……と感じたが、焼けた喉から絞り出すように声を出して説明するユミナに対してそうも言えず、ユミナの大事な荷物だけは運び出すことを約束して通話を終了した。
翌日、私はユミナの住んでいるアパートの大家を訪ねた。
大家は、アパートの近くにあるマンション一階のテナントで喫茶店を営んでいる。ちなみに、昨日、ユミナからの連絡の後で調べたところでは、このマンション自体も、同じ大家の所有らしい。
その、一見愛想のよい喫茶店のマスターに見える五十代半ばの男は、私がユミナの代理であることを告げたとたんに営業スマイルを剥ぎ取り、営業スマイルを浮かべただけでも大損をしたと言いたいような表情を浮かべた。
「ホント、こっちは大損だよね。女の子二人のルームシェアなら部屋もきれいに使ってもらえると思ったんだけど、こんなことになるんだもんな。まぁ、滞納家賃といろんな処理にかかった費用は、また請求させてもらうけど、手間賃がもらえる訳でもないし、
大家はこちらを少し見下した様な薄笑いを浮かべながら、早口でまくしたてるように言う。
そこで私が、ユミナと雇用契約を結ぶかもしれない政府組織の職員だと名乗ると、うす笑いがすっと消え軽い舌打ちが聞こえた。
「なんだよ。役人さんかよ……」
私に聞こえないような小声でぶつぶつ言いながら、一旦カウンターの奥に引っ込んでから、カードキーを持ってくる。それから、どこかに電話をかけて少し出かけるから店を頼むというようなことを言った。
「じゃあ、行きましょうか。車ですよね?!」
ユミナの部屋は、築四十年以上はたっていそうな鉄筋コンクリート三階建てのアパートの、一階にあった。
大家に鍵を開けてもらい中に入る。入ってすぐにダイニングキッチンがあり、その奥に二部屋。向かって右がユミナの部屋だと聞いている。
右側の部屋に置かれていたのは、パイプベッドと、小さな本棚、ローテーブル、ベランダに出るガラス戸の前に少し大きな鉢植え、それから、本棚の上に三十二インチのサイネージと小さな鉢植え。サイネージは、私が部屋に入っても自動起動しなかった。主電源のモニタランプは点いているので、人体感知センサーを備えていない旧式か安物か、だ。
家具はどれもホームセンターで売っている様な、とりあえずの機能だけを満たすように作られた量産品に見える。
サイネージフレームすら備えられてない古臭い部屋に、装飾性のかけらも無い家具が整然と置かれている様子は、部屋がきちんと片付けられていることも相まって、数十年前からこのままの状態で放置されていたのかと錯覚するような物寂しさを感じさせた。
私は、とりあえず持ってきた段ボールを組み立て、その中に本棚の本を詰め込むことにする。
私が幼い頃、書籍と言うのは普通は電子端末で読むものだった。その後、建造物の内壁や間仕切りを本棚として活用するためのアーキテクト・ブックシェルフ規格の普及と、『整然と並んだ背表紙は最も高貴なインテリアだ』というプロパガンダにより、紙の本が復興してから随分になる。しかし、アーキテクト・ブックシェルフもない簡素な空間で生活する二十四歳の女が、小さいとはいえ本棚を埋めるだけの紙の本を持っているのも意外な感じだった。そのほとんどは読み込んだ感のあるライトノベルで、あとは文学小説が少しと、天体の写真集。
その本を箱に詰めていると、唐突に、地味な雰囲気の女が仕事に疲れて帰ってきた夜の部屋で一人、本のページをめくる映像が浮かんでくる。時おり現れる精神感応の付随能力、中途半端なサイコメトリック。
同時に本を持つ手の指先から、安寧と寂寥感の入り混じった複雑な感情が入り込んできた。
本だけを詰め込むと重くて持てなくなるので、七分目程度まで詰めたところで、押し入れの中の衣装ケースから頼まれていた衣類を探して残りのスペースに詰め込む。二列二段に置いてある衣装ケースのうち、左下のものには下着が入っているから開けるなと言われていたが、ケース自体が透明なので中身が丸見えだった。
あとは、ガラス戸の前と本棚の上の鉢植えか。
ふと、どうでもよさそうなことが気になって、ベランダに出るガラス戸の前に置かれている鉢植えにデータケースを向けた。
「これは?」
尋ねると、データケースの画面に〈カゲツ〉という植物の名称と、その特徴が表示される。一拍遅れて音声解説が始まったが、名前を知りたかっただけなのでキャンセルしてデータケースをポケットに戻す。
その四十センチほどに育ったカゲツを持ち上げて段ボールに移すとき、葉が一枚落ちた。本体は段ボールに入れてふたを閉められる大きさではないから、箱の上側は開けたままにする。
本棚の上に置いてある鉢植えは二鉢。こちらもカゲツが植えられているが、数センチほどのものが数株と、葉を土に刺しているだけにしか見えないものが数株まとめて二鉢に植えられていた。この二鉢も、親玉を収めた段ボールの空きスペースに納めてやる。
葉っぱを土に刺しているだけにしか見えない株を見ていて、ふと、先ほど親玉から落ちた葉もここに刺せばいいのだろうかと思ったが、ひょっとしたら刺す前に何かの処理がいるのかもしれないので、余計なことはせずに根元に置いておいた。
とりあえず、頼まれた荷物はこれだけか。
私が、荷物を運ぶために立ち上がろうとしたところで、隣の部屋から音楽が聞こえてくる。ボリュームは抑えられているが、曲は賑やか気味のJポップだ。
本と衣類を詰めた箱を持って部屋から出ると、隣の部屋のドアを開けて中を覗く大家と目があった。
部屋の前を通るときに少し中を見ると、こちらはいかにも若い女が住んでそうなインテリアの中で、自動起動したらしいサイネージが、芸能ニュースを表示しながらJポップを鳴らしている。大家がドアを開けたことに、サイネージが反応したのだろう。
「こっちの部屋もですよね?」
大家が、私に尋ねてくる。
「いや私が頼まれたのは、そっちだけで――」
私が、そう言ってユミナの部屋の方を顎で示すと、大家はその返事を半ば予想していたように顔をしかめた。
ユミナの部屋の荷物を持ってシキモリに戻ってくると、時刻は十五時になろうとしていた。
持ってきた段ボールのうち、本と衣類が入っているものを、とりあえず資料室の片隅に押し込み、鉢植えを応接室の窓際に並べてから事務所に戻ると、サクラが封筒を差し出してきた。
「はい。その辺に置いとく訳にはいかないから、預かっておいた」
「あぁ、すまない」
言いながら受け取って、封を開ける。中には、ユミナの件で私が提出した書類の確認が終了し、承認が下りたことを告げる紙切れが一枚。
紙切れの隅に印刷してある二次元マトリクスコードをデータケースに読み込ませると、この件に関する様々な法的データに対するアクセス権や、方針の決定権が私に与えられたことを告げるメッセージが、次々に画面を流れていく。
そのメッセージが流れ終わるのを確認してから、私はマトリクスコードの箇所を切り取り線に沿って切り離し、シュレッダーに食わせた。
「――で、揉めずに済んだの?」
シュレッダーが停止したところで、サクラが私に尋ねてくる。
「お互い、被害者と部外者で揉めたって何の解決にもならないことがわかる程度には大人だったみたいだ」
「じゃ、被害者はこの後、あんたと関係ないところで加害者と揉める訳だ」
「加害者が見つかれば、たぶんな」
「なにそれ?」
私は、自分が把握している範囲の状況を、かいつまんでサクラに説明してやった。
もともと、ニーノは別の相手とルームシェアをしていたが、相手が出ていき、家賃の支払いに窮して、助けを求める様にユミナを部屋に呼び込んだ。部屋はニーノと前のシェア相手の連名契約で、契約の保証人は前のシェア相手の親だったが、大家が連絡を取ろうとしたら、シェア相手は行方不明、親は死んでいた。ニーノが今のところ行方不明なのは、サクラも知ってのとおり。ユミナのクレジット記録から、家賃の半額を、毎月ニーノに支払っていた証拠は残っている。
そして大家は、警察がユミナのことを尋ねてくるまで、部屋にユミナが住んでいることすら知らなかったらしい。
「それは、大家も間抜けだわ」
サクラが言う。表情の裏には、ほんの少しだけ嘲笑が含まれている様に見えた。
「いや――」
と言ってから、私は自分が何を言いたかったのか一瞬考えて、頭の中で適した単語を考える。
「たぶん、余裕なんじゃないかな」
「は? よくわからないな」
「例えば、友達じゃない、大して親しくもない知り合いにランチ代を貸してやる。ファーストフードか、せいぜいファミレスのランチプレートの金額だ。知り合いは、ありがとう、来週には返すよと言ったが、一か月たっても、三ヶ月経っても返してくれない。そのうち、警察がやって来てその知り合いが犯罪に巻き込まれたと言い、訊いてもいないろくでもない話を聞かせてくれる。サクラなら、貸した金を返してもらえなくなると思って、慌てて相手に連絡を取るか?」
「大して親しくもない相手なんだよね?」
「ああ」
サクラは一瞬考えてから、そうか……と呟いた。
「面倒くさい相手に出て行ってもらえさえずれば、滞納してる家賃は、その大家にとって大した金額じゃない――」
「サイネージ用フレームも、アーキテクト・ブックシェルフも無いような古い建物だ。立地条件も良くはない。取り壊すにも金がかかるから、とりあえず人に貸してるようなものだろう。少しでも、もめ事を減らして退去して貰いたいから、
「ふーん……社会科学的相対性理論の例題か」
とサクラ。
私は、咄嗟にそのメタファーの意味が判らず、かといって訊くのもしゃくだったので曖昧にうなずく。サクラはそれ以上なにも言わず、会話はそこまでになった。
数十秒考えてから、時間の流れと金銭価値を掛けたのかと思ったが、改めて確認する気にもならない。
むしろ、光速のように普通の条件範囲では揺らがない基準の様なものが人間の社会システムに存在するんだろうか、という疑問だけが、心のどこかに引っ掛かった。
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