シキモリ 5

世界各国でアンSchシュ兵器へ対応するための能力者組織が作られていく中で、日本だけが何も動かないという訳にはいかない。しかし、それが既存の組織外から能力者をスカウトしなければならない可能性が極めて高く、かつ設立段階では候補者の身元よりも特殊能力者としてのポテンシャルを重視せざるを得ないという性質の組織であるが故、警察庁のテロ対策部門の中に組み込むことは難しかった。特殊事情を理由に、規範に従えないチンピラを警察で採用するというのは、コミックの中だけの話だ。

次に候補に挙がったのは自衛軍だったが、一世紀以上前の敗戦によるトラウマを未だに抱えているこの国で自衛軍の中に全く新しいスタイルの戦闘組織を作るというのは、大河ドラマ並みの物語づくりが必要になるし、そのドラマに世論の合意を得るためには更に多大な時間と労力を必要とすることが予想された。

ここまで来ると、後のストーリー展開は決まっている。近代以降、必要ではあるが既存の政府組織の何処に収めるにも軋轢が生じそうな団体に、とりあえず看板を貸すのは内閣官房の仕事だ。ただし、内閣官房の下部組織として設置する場合、その実態がどうであれあまりアグレッシブな名称は付けられない。

こうして「量子化現象情報収集室」は、西日が当たる大学の資料室をイメージするその名称とは裏腹に、政府の中でもかなり独特な性質を持った組織として成立し、現在に至る。

この組織を「シキモリ」と呼び出したのは、当時の内閣総理大臣だと言われている。色即是空空即是色がこの世界の基本原理だとしても、人間が作り出した歪だらけの社会システムは、まだ物質界を論拠としなければ成立しえない幼さだ。だから「色守り」が必要となると、言ったとか言わないとか。


「ちなみに『ゾクモリ』の方が事実に近いからって、そう呼ぶのは禁止なんだぜ。俺らが守ってるのは色界より俗界だって言うのは、大人の事情で国民の皆様には秘密だ」

 マチバが、私の説明の後に続けてそう言い、リアシートのユミナに向かって口の前で人差し指を立てる。

ユミナは、私の説明には相槌をうっていたが、マチバの言葉には反応を示さなかった。

今朝、私がユミナの泊まっている病院へ直行でユミナを迎えに行く途中、ついでにマチバを拾って来てくれという連絡がサクラから入った。昨日のミドノの件から立て続けにタクシー扱いだなと言うと、タクシーの運転手は高速道路に乗り損ねたりしないと、何週間も前の失敗を持ち出されて、それ以上なにも言えずに病院へ着いたのが二十分前。

どういう経緯かは知らないが、病院のロビーでユミナとマチバが揃って私の迎えを待っていた。その時すでにユミナの機嫌は良くなく、私も、わざわざ寝ている犬のしっぽを踏みに行く気も無かったので理由は聞いていない。ただ、移動の車の中で、沈黙に耐えかねてシキモリの名前の由来を説明する私の言葉には普通に反応していたので、地雷を踏んだのは私ではなくマチバだという事だけは想像がついた。

私は、助手席のマチバにだけ聞こえるぐらいの大きさでため息をつく。

その時、私のデータケースに着信が入った。CIが連動して着信を受けるかどうかの確認アラームが鳴り、私は繋げと命じた。

「トジマです」

『ヴァンだ。あとどれぐらいで帰って来られる?』

 この車の位置自体はヴァンDも把握している筈だが、今は手動運転でナビすら使っていないからCIが目的地を知らず、到着予想時刻が計算されていない。シキモリのメインフレームに予想させれば、いいセンの計算結果を出すだろうが、運転手に直接聞いたほうが早いというのは誰でも考える。

ここからシキモリの本部までは、あと交差点三つほどしかないし、コンビニに寄る予定もない。

「三分かかりませんよ」

『わかった。戻ったらマチバと一緒に私のところへ来てくれ。ユミナ……だったか? 新人にはサクラに言って正式契約の手続きをしてもらう』

「わかりました」

 それで通話は切れた。ヴァンDの口調に私は何か普通と違う雰囲気を感じ、横目で助手席のマチバをみる。マチバは何かを考える表情で、低空を飛んでいく自衛軍のヘリを眺めていた。

本部に着くと、すぐに何かあったことが判った。駐車場に止まっている車とバイクが妙に多い。ふた月に一度の全体集会以外でこんな状態になるのは、非常呼集がかかった時ぐらいだ。

「これは俺らしか残ってないだろうねぇ。たぶん、他のメンバーは先程さっきのヘリで緊急出動

してるわ」

 マチバが駐車場の中を見回して呟く。

私はユミナをオフィスに連れて行ってサクラに引き継いでから、先にヴァンDの部屋の前で待っていたマチバと一緒に部屋に入った。

ヴァンDは、椅子の背もたれに身体を預けた姿勢で、上を向いて目をつぶっている。眠っているわけではない。肘掛けに預けた手の先で指先が細かく動いていることから、電脳で情報のやり取りをしている最中だという事が知れた。

数秒ののち、ヴァンDは顔を上げた。

「四十三分前に、公安局からうちと自衛軍に協力出動要請が入った。イワテかグンマのテロボレイターテロ協力者拠点に、昨日ミドノが持ち込んだものと同型の非Schユニットが持ち込まれている可能性が高いという判断で、急襲をかける。イワテの現場にはナラシノの関東本部から、グンマの現場にはうちから出動する形でメンバーを招集して、うちのメンバーは先ほど陸自のヘリで出動した。君らと新人には緊急待機要員として、出動したメンバーが戻るまでここで詰めて貰うことになる」

 研修すら済んでいないユミナを頭数に含めて私たち三人だけを待機要員として残すというのは、どう考えても、こちらで追加の非常事態が生じた時の言い訳の為としか思えなかった。あるいは、もっと上からの総員出動指示に対して、何とか理由付けできるギリギリのメンバーを残したという事か。どちらにせよ、追加の非常事態が生じた時には心もとない人数であることと、私がどう思おうが事態が変わらないことだけは間違いなさそうだ。

ただ、どうしても一つ気にかかることはある。

「ユミナはウィルス治療の最終検査が終了していないから、正式契約を行っても出動させられないと思いますが――」

「それについては調整中だ。一昨日の検査結果でウィルス数は再増殖可能な閾値を下回っていて、現実的にバイオハザードをひき起こす可能性が無いことは確認されている。ただ、現行の法定基準から外れるのは明らかな状態で、特例として許可を出すのがどこの管轄なのかはっきりしないらしい」

 こうやって、一度決められた社会システムは、少しルールを外すためだけにも大きなエネルギーを要求する。ひょっとしたら、国内で第二のシラルザラードが起こった時に後処置を行うコストの方が安くつくのかもしれない。

「それと、トジマ――」

 ヴァンDから視線を外して考え事をしていたところで、それを見透かされたように名前を呼ばれた。慌てて視線を戻すと、ヴァンDはそれを待っていた様に言葉を続ける。

「君に、公安から緊急の協力要請が来ている。

もう準備が終了するはずだから、すぐにクレニアムへ行ってくれ」

 どんな要件ですか? とこうとして、すぐに止めた。行けば判る、と言われるのは目に見えているし、私自身もそう思った。


その男は、大陸でも西の方にある山脈の、山間にある小さな農村で生まれ育った。近くの尾根には、この辺りでは見かけないネットワーク通信用の衛星アンテナがそびえ立っているが、半径五十キロ以内には自動販売機が一台もないという、明らかにこの国とは生活の形態が異なる地域だ。

農家の四男だった男は、その村に残ったところで将来の生活の糧を得られる見込みがなく、政府指定の義務教育課程を修了した年に村を出た。十四歳の秋のことだ。

男は、公的な職業斡旋制度を利用して沿岸部にある工業都市で工員の職に就く。昼間は工場で働きながら、夜間の専門学校へも通い工作機械の操作にかかわる幾つかの資格を取得した。故郷の村で通信機器の操作と整備を仕事にするための資格を取得しようと考えたこともあったが、自分が村を出るときにその仕事に就いていた人物は自分と十歳も離れていなかったことを思い出してやめた。前任者が引退する頃には、自分も他の仕事に人生の大部分を費やし、それなりの環境に落ち着いている筈だったからだ。

恋人が妊娠し、都市まちに腰を落ち着けて家族を持つ決心をしたのは、十九歳になる年の、旧正月が明けたばかりの頃だった。相手は、同じ勤め先で事務の仕事をしている同じ年齢の女で、背が低く痩せて貧相な体型ではあるが、思いやりがあり、微笑んだ時の表情が魅力的だった。

そして、その年の冬に娘が生まれる。

生活は楽ではなかったが、贅沢をしなければ何とか親子三人で食べていくことはできた。この頃の男にとっては、家族三人の生活が守れれば他のものは何も必要ないと感じられた。

娘が三歳になるまでの三年間は男の人生の中で最も幸せな時期だったが、しかし、その直後に最も不幸な出来事が待ち構えている。

生まれて四回目の春を迎えようという、花のつぼみが膨らみ始めながらもまだ寒さの残る時期、娘に原因不明の高熱が続いた。最初の一週間は、風邪だろうと市販の漢方薬を飲ませて過ごし、二週目に近所の医者にかかると別の風邪薬を処方された。三週目、さすがに不安になって、バスで二時間のところにある大病院へ行くと、ほとんど丸一日がかりで様々な検査を受けさせられた挙句、三日後に検査結果が出るからまた来いと言われる。

そして検査結果を聞きに行った日、医者は淡々とした口調で、娘の病気は快癒の可能性がなく、五年生存率が一パーセント未満の遺伝子疾患だと説明した。ただし彼の娘の場合は、世界でも数例しか報告されていない珍しい発病パターンで、快癒の可能性はないが別の手段で長期延命を図って、一パーセント未満の側になれる可能性があった。

この病気は身体中の組織が変質していき、最終的には臓器が生命の維持に必要な機能を喪失して死亡する。そして、多くの場合は胎児期か乳児期に発病して五歳まで生きられることが稀だ。

しかし、三歳の幼児期に発病した彼の娘の場合、対症療法で延命を図りながら全身義体化が可能となる五歳まで命を繋げば、機能を喪失していく肉体を乗換えて生きていく希望がある。

男と彼の妻の生活は、親子三人でつつましい幸せを享受するものから、全力をかけて娘の生命を繋ぐものに変化した。まず、娘の延命を図るための対症療法にかかる費用だけでも、それまでの彼らの収入では支払いが難かしい。男は工場の勤めとは別に早朝と深夜にも働き、妻も夫と同じ勤め先の仕事とは別に在宅でできる作業を請け負った。それでも、やっと対症療法の治療費を払ってわずかな余裕がある程度だ。当然、残った金は義体化のための貯金に回した。

そうやって二年近い時間が過ぎ、娘が義体化手術を受けられる年齢になったが、肝心の手術費用は目標の十分の一になるかどうかというところだった。そして一家を再び不幸が襲う。

ある日、過労という言葉では生易しいと感じるほど疲弊しきった身体で工場へと出勤する途中、男は認識の混乱による一時的なパニックを起こした。職場近くの交差点で信号待ちをしている時、ふと車道側の青信号が目に入り、どうして信号が青なのに自分は立ち止まっているのだろうという思いと、急いで出勤しなければ遅刻による減給処分を受けてしまうという根拠のない強烈な焦燥感に襲われたのだ。男はそのまま、周囲の確認も行わず時速六十キロで車が行きかう大通りへと飛び出し、車にはねられた。

全身打撲と八か所の骨折、脾臓の破裂による腹腔内出血。

不思議と痛みは感じなかった。病院に運ばれながら朦朧とした意識の中で、これで少しは休めると考えている自分に気づいて驚いた。

そのまま手術を受けて入院し、麻酔が切れたその夜から猛烈な痛みに苦しむことになる。翌日、見舞いに来た妻から、男の手代費用と入院の前払い金で娘の義体化のための貯金を殆ど使ってしまったことと、男が工場を解雇されたことを聞かされた。心臓の鼓動に合わせて全身を走り抜ける痛みと、発熱による猛烈な倦怠感の中で、男は、その出口のない破滅にはまり込んだ話を他人事のように感じながら聞いていた。

三週間後、男は追い出されるようにして退院する。全身に痛みが残り、荷物を持つこともできないというのに、誰も男の退院を迎えに来ることはなかった。そして、後で妻と一緒に荷物を取りに来るからと病院に断り、身体ひとつでバスを乗り継いで帰宅した男を待っていたのは、妻の自殺現場を検証している数名の警官だった。

男は、致死量の薬物を服用し青黒く変色した妻の遺体を前にして、何の動揺もなく警官の事情聴取に答えながら、ずっと何か大事なことを忘れているような心の引っ掛かりを感じていた。そして、妻が絶命した時の失禁のにおいが残る部屋で布団も敷かずに一晩を過ごしてから、自分に重病の娘がいたことを思い出す。

そこで、事故にあってからはじめて、心のスイッチが入った。

三週間分の精神の揺り返しと、堰き止められていた使命感の濁流に呑み込まれて、半狂乱で娘を探し回る。

バスで二時間の距離ある傷病児用の保護施設で、娘と再会したのは二日後のことだった。自分にしがみ付いて泣きじゃくる娘を抱きしめながら、男は、ある決心をした。

翌日、男はある若者に会いに行く。男が住んでいる都市の地方出身者コミュニティから、数年前に追放された若者だ。男より四歳ほど年下のはずのその若者は、男よりもずっと荒んで老獪な顔つきをしながら、コロンの香りを漂わせて、指輪だらけの手で男に握手を求めてきた。若者が裏社会に通じたとしてコミュニティから追放されたとき、男は若者に対して侮りの感情を覚えたが、いま高級そうなスーツを着てホテルのようなマンションの一室にいる若者と自分を比べると間違えたのは自分の方だったのかと思えた。

男は若者に、人体売買の闇ルートを紹介してくれるように頼んだ。自分の肉体を下取りに出せば、自分と娘のための中古全身義体ぐらいは手に入らないかと考えていたのだ。

若者は、表向きは困惑した表情を作りながら、丁寧な言葉で男の考えていることは無理があると説明した。人体器官を扱う闇組織に自分と家族の身体を預けるなど正気の沙汰じゃない、裏社会に強いコネクションがあるならともかく、一般人がうかつに手を出すと義体化手術と偽って内臓を奪われ、脳幹をゴミ箱に捨てられて終わる危険性も高い。自分は専門家じゃないからハッキリしたことは言えないが、事故でボロボロになった今の男の肉体に中古義体二体分の価値があるのかも怪しい。娘さんは、成長に合わせて数年に一度の義体交換手術が必要になるが、そのことは考えているのか。

ひと通りそんな話をしてから、若者は、でも貴方にもっと覚悟があるなら手段がないこともないです、と言って笑いながら男の目を覗き込んだ。男は、若者の笑顔を爬虫類が無理に笑っているようだと感じながら、お願いしますと言った。

数時間後、若者の部屋に一人の中年男がやって来る。巨躯で一見おだやかそうな表情の、人種不明な男。おだやかそうな表情の奥に凶暴で危険なものが潜んでいる雰囲気があり、どことなく海象セイウチを思わせるものがあった。

若者は海象を、信念に基づく闘争を続けておられる方です、と紹介した。

田舎出の工員で、大して世情に詳しくない男にも、それが意味することは判った。

テロリスト。

思想的な背景や難しいことは判らないが、一般市民までもを攻撃対象とした非合法な破壊行為を行う連中。

その時になって、まずい所まで踏み込んだという実感を覚えたが、逃げようとは思わなかった。

海象は、男と若者の話をおだやかな笑顔のまま聞き、判ったと頷いた。ただし――

若い健康な女ならともかく、怪我だらけの工員の肉体など闇市場でも大した価値はない。中古義体二体と、あんたの肉体じゃ、明らかにこちらが大損の取引だ。当然、埋め合わせ分の仕事はして貰うことになる。娘を連れて、国外で俺たちのために仕事をする覚悟はあるかい? なに、国外って言ってもアメリカ大陸やヨーロッパじゃない。海向こうの島国だ。大した距離じゃない。

微笑みを絶やさないまま、低く恫喝するような響きの声でしゃべる海象の言葉を聞き、男は少し考え込む。それから、仕事というのは自爆テロですか? と尋ねた。

その言葉が男の口から出た瞬間、海象の笑顔がすっと消え、視界の端で、仲介してくれた若者の顔がこわばるのが見えた。

海象は何も答えず、無表情に男の顔を見ている。その無表情な海象の内側から漂う暴力的な緊張感に、鼻の奥の方で鉄の匂いがするような錯覚を覚えたが、不思議と恐怖心はない。例えば、今いきなり殴りかかられて半殺しにされたところで、肉体の痛みが精神の痛みを超えることはないような気がした。

海象は、しばらく無言で男の顔を見てから、感情のない声で言った。

俺がそうだ、と言えば、あんた出来るのか?

その質問に、男は答えられなかった。今の精神状態なら出来るような気はする。しかし、その時になっても今と同じ状態でいられるのかは自信がない。

答えることができないまま男が目を逸らそうとしたとき、海象の顔に笑いが浮かんだ。

まぁ、あんたなら出来るかもしれん。が、いざとなると出来ないかもしれん。今は覚悟があっても、信念のない覚悟は持続しないからな。俺たちもそんなことは期待してない。失敗して捕まった挙句、こっちの事情をペラペラ喋られても困るからな。あんたみたいな同志でもプロでもないヤツを、前線に立たす気はないさ。あんたは、傷痍難民として義体に仕込みを入れてあの国へ行き、仕込んだブツを向こうの同志に渡す。それから、同志の指示に従って、俺たちみたいにマークされちまったヤツじゃ行けないとこで仕事をする。数年そうやってると、あんたもマークされるだろうから、そうなったら違うブツを仕込んでこっちに戻ってきて、それを俺たちに渡したら晴れてお勤め終了、だ。成功報酬で、娘の一回目の義体交換ぐらいは面倒を見てやるさ。だが、その後は自分で何とかしろよ。俺たちはボランティア団体じゃないからな。

海象の話は、男にとって悪くない条件に思えた。見返りとして向こうの国で要求される仕事というのがどういうものなのか具体的には知らされなかったが、自爆テロを強要される訳じゃないというのは信用してよさそうに思えた。

そうやって、男は海象と契約し義体化手術を受ける。手術が終わって初めて見た、手足を生やしたドラム缶のような自分の姿にショックを受けなかったと言えば嘘になる。しかし、ヘルヴァ型と呼ばれる、脳幹の生命維持に必要な装置と最低限の感覚器官をアーム付きの台車に載せただけの娘の義体を見た時のショックに比べるとまだマシだった。娘は、その不格好な義体に喜び、体調がよい嬉しさを延々と安っぽいスピーカーから出る合成音声で説明した。それを聞いているうちに、男もこれで良かったのだと思えるようになった。

そして男と娘は、国境近くの小競り合いで発生した難民の集団に混ざって隣の島国へと渡る。

二人の乗った船は目的地の廃港へ着く前に、島国の海上警察の巡視艇に拿捕され臨検を受けた。船内では水が不足し脱水症状で動くことが出来なくなる者も出始めていたので、タイミングは良かったかもしれない。男は、暴力的な制裁を受けたのち強制送還されることを覚悟したが、臨検に来た警官たちは、親切でこそないものの暴力的であったり威圧的であったりすることもなく、事務的に乗船者をチェックして何隻かの船に分乗させた。そこから男は、船と、窓に金網を張ったバスを乗り継いで難民キャンプらしき場所へ連れていかれた。

海が近いらしい山間の難民キャンプは、夜になると山の向こうから微かに潮騒の音が聞こえた。一緒に連れてこられた中年男にそのことを話したが、中年男には潮騒など全然聞こえないと言われ、安物の中古義体の聴覚センサーでも普通の人間の耳よりは僅かに性能がいいらしいことに気づく。

難民キャンプに到着した二日後、この国の法律と国際法のそれぞれで、どのような難民救済措置が用意されているのかの、説明会に強制参加させられた。倉庫のような大型のプレハブで、やせ細った難民たちが配られた翻訳機のヘッドホンを付けて、スクリーンで説明するAIのアバターに見入っている中、男は上の空で話を聞きながら同じ会場にいる他の義体者を見ていた。自分と娘以外の義体者は三人。一人は娘と同じような非ヒト型で、娘と違うのは移動手段がタイヤではなく昆虫の様な脚になっていることだ。残りの二人は自分と同じような手足の生えたドラム缶だった。

もともと難民としての取り扱いを望んでいた訳ではない男にとって説明会の内容は興味を引くものではなかったが、男以外の難民や事情を知らない娘にとっては希望のある内容が語られたらしい。説明会が終わった後は、参加者が口々にこれからの展望を語り合いながら明るい雰囲気での散会となった。

二週間程度は、その前向きな雰囲気が続いてキャンプの中は活気づいていた。しかし、説明会で言われていたらしい定住希望調査はいつまで待っても行われる様子がなく、一ヶ月が過ぎるころには、再び、先行きに対する不安と半ば投げやりな諦観に支配された状態となっていく。

そして、先行きに対する不安が大きくなっていくのは男も同じだった。キャンプに連れてこられた当初は、緊張と、いずれ組織からの接触があるだろうという思いが、難民キャンプをどこか他人ごとのように感じさせていた。しかし、最低限の生命の保証は与えられているキャンプの生活に、さささやかな安寧があることを気付いたとき、組織から接触があった後のことは心の奥でしこりのような不安へと変化した。

そんなある日の夕刻、太陽はとうの昔に山の向こうへ姿を消し、西の空がオレンジ色に染まった時間。いつもの様に食糧配給の列に並んでいた男に若い女が近づいてきた。キャンプの住人ではない。難民支援団体の職員か配給業者の従業員か――そのあたりの違いは理解できていなかったが――そういった外部からキャンプに出入りしている人間の一人だ。

女は事務的な微笑みを浮かべて、決まりきった挨拶のような口調で義体に不具合はないですか? と尋ねた後、周囲に聞こえない小声で、食料を受け取ったら娘さんと一緒に職員用ゲートの近くまで来てください、と言った。

その時が来たらしい。

男は、義体用栄養剤のアルミパックを受け取ってもそれを飲む気分になれず、パックを握りしめたまま娘と一緒に職員用ゲートに向かった。遠くからでも、ゲートの周辺には長尺警棒を持った数名の警備員が立っているのが見える。その手前数十メートルのところに数台のワゴン車が停まっており、その傍らを通り過ぎようとしたとき金髪の若者に声をかけられた。

ああ、助かった。すみませんが、ちょっと手を貸してください。

今はちょっと――と男が若者に断ろうとしたとき、若者の後ろに先程の女が立っているのが見えた。男は、いいですよと言い直して若者について行く。若者は、周囲から死角になった物陰に男と娘を連れていくと、二人をテールゲートからワゴンの中に押し込んだ。それから更に先の暗がりへ歩いて行き、誰もいない場所に向かって、ありがとうございます助かりましたと叫んでから、小走りで戻ってきてワゴンのリアゲートを閉めた。

若者が助手席に座ると運転席に座っていた女が車を出し、ワゴンは特に疑われることもなく難民キャンプを後にする。

すみませんね、迎えに来るのが遅くなって。

若者が、助手席から後ろを振り返って言った。金髪が、対向車のライトを受けてキラキラと光る。

これからどうするのか、という男の質問に、若者は心配しなくても大丈夫ですよと答え、それから、男が質問したわけでもない難民キャンプのカラクリについて説明しだした。たぶんキャンプについて二~三日の間に保護申請とか定住手続きの説明があったでしょ。あれ、実際に申請とか手続きを始められるまでに長い人だと一年以上かかったりするし、申請しても認められない人だって多いんですよねぇ。それなのに何で、あんな早々と説明会だけすると思います? 希望があることを早めに知らせて、少しでも秩序を維持するためらしいですよ。これから先どうなるのか判らない状態であんなところに詰め込まれてたら、ストレスでケンカが絶えなくなったり精神的におかしくなったりする人が大勢出てくるんですって。だから僅かな希望を大ぴらに言いまわって、それにすがる人達の気持ちを利用してるんです。ほんと、大人ってずるいですよね。

その面白くもない話を聞きながら、なぜか男は気分が高揚してくるのを感じていた。不思議と自分の未来には希望が満ち溢れていることが確信される。

――だったら、私たちはあんたの組織に拾って貰って幸せだったんだ。

男は自分でも驚くほど明るく、大きな声で若者に言った。体の奥から湧き上がってくる高揚感で、実際に空も飛べそうな気分だった。

そう。そうなんですよ。判ってるじゃないですか。

若者が満面の笑みで男に対して頷く。その若者に向かって運転している女が、そろそろ効いてきたんじゃない?! と囁くのが聞こえた。若者も女に向かって、判ってると囁き返す。

何かがおかしいと思ったが、既にそんなことはどうでもよかった。魂が浮遊するのを感じ、男は今まで経験したことのない幸せの中で、自分は最高の人生を送ってきたのだと考えていた。


「この男はテロリストじゃないですね。我々が求める情報は、ほとんど持っていません」

 私はクレニアムから出て、ドアの傍らに立っていた三人に向かって言った。公安の捜査官とナガノ県警の刑事を名乗った男、驚いたことにもう一人はヴァンDだ。作業による緊張で喉が異常に乾き、喋っている途中から声がかすれる。

「ご苦労だった。いま飲みものを持ってこさせる」

 ヴァンDが言うのと同時に、廊下を歩いてくるサクラが見えた。

捜査官と刑事が何かを話しているのを視界の隅に捉えながら、サクラから渡されたミネラルウォーターを飲む。私への質問がないのは、組織上ヴァンDを通す必要があると考えているからなのか、あるいは二人とも電脳者ワイヤードで既にクレニアムを通じて今しがた私が調べた内容を受け取っているのか。それにしても、クレニアムからの情報では、細かいニュアンスは欠落している筈だ。

今日の未明、ナガノの難民キャンプから少し離れた場所にある道路脇の駐車スペースに一台のライトバンが乗り捨てられていた。ナンバープレートを取り外され、CIも初期化されたそのライトバンのなかから、義体用のCN神経中枢ユニットが四基発見される。四基のうち二基のユニットは内部の脳がすでに死亡しており、もう一基は、ナガノ県警での解析中にハッキング用AIをアフリカ製の軍用攻性防壁で焼きながら内部の脳を殺した。

警察仕様のハッキングAIを焼ける攻性防壁を備えたCNユニットが遺棄される――理由は判らないが、どう考えても民間人の間で偶発的に生じたトラブルではない。この事件は、内閣官房がグンマのテロボレイターテロ協力者拠点への強襲を決定する際の判断材料となり、同時に、状況把握のため残る一基の中にある脳の持っている情報が必要となった。そして、この状況下で内部の脳が持っている情報を引き出す、一番確実な方法は何か。

答え、精神感応による記憶の読み取り。

ただし、このレベルの技術を持つ能力者は、政府が掌握している範囲では国内に二人しかいない。一人はナラシノのシキモリに所属しているが現在は海外出張中。そして、もう一人が私だ。

そういった経緯で、このCNユニットは生命維持に必要な最低限の電力と疑似身体情報を供給する救急ユニットだけを取り付けたられた状態で、ここへ緊急搬送されてきた。

私はクレニアムここへ来て、それだけの説明をざっくりと聞かされた後で、CNユニット内の脳の記憶解析とクレニアムへの並行転送という、素人目には何が凄いのか判らないが玄人が見ると手順が複雑すぎて見ていても理解できないという、観客に何の感動も与えないスーパーイリュージョンをやらされる羽目になった。

この技術も、基本にあるのは感覚同調と同じでPM空間を介した相手意識の逆行だ。ヒトの記憶はPM空間ではなく脳の中に保存されているので、今回の様に意識を仲介してコミュニケーションが取れる相手でない場合は、相手の意識の細い線を辿りながら脳の中へ侵入しなければならない。そして、海馬と連合野に散在している記憶を拾い集めながら、意味のあるストーリーを組み立てる。その作業をしながら、逐次、整理したストーリーをクレニアムに渡してやるのだ。

作業の難しさについてのイメージが掴みやすいよう、無理やり例えるなら、人間の指先では取り扱えない顕微鏡スケールの配線で構成された起爆装置を持つ爆弾を、オートフォーカス機能の甘いスコープと位置決め精度の低いロボットアームを駆使して無力化しながら、更に、その状況を外国語で実況説明する様なもの――と言えば少しは雰囲気が伝わるだろうか。違うのは、失敗しても爆発する恐れはないが、私の精神が相手の精神に呑み込まれたり、相手の脳からのキックバックを受けて私の脳が損傷を受ける危険性はある、という点だ。

「テロリストに騙されて義体の運び屋をやらされた後で、口封じのために脳みそだけ捨てられた田舎出の工場労働者、と言うことですね」

 公安の捜査官だという気の弱いセールスマンみたいな男が、状況を三行にまとめてヴァンDへ尋ねた。ヴァンDが私へ視線を送ったので、私はそうですと短く答える。

捜査官と刑事は、また二こと三こと言葉を交わし、今度は刑事が、いや自分の立場ではそれをどうこうは言えません、と答えるのが聞こえた。そして、捜査官が私の方を見る。

「トジマさん、我々がそちらの人工脳から得られた情報は細かいディテールが全くないので、単刀直入にお聞きする。その男はどうするべきですか?」

「どうする――とは?」

 私がきかえすと捜査官は一瞬口ごもった。それから声のトーンを落として、噛んで含むように言う。

「今この瞬間は、人道的な観点を無視して我々の国に影響するリスクを減らす、という決断を下せる最後のチャンスです。逆に我が国のメリットになる人材であれば、最大限に人道的な配慮を行うという選択肢もあるでしょう」

 CNユニット内の脳を、テロリストへの継続的な協力の意思がある者として闇に葬るか、あるいはテロリストに対する強い怨恨を持ったこちら側の協力者として教育するだけの素質がありそうか――どちらを選択するにしても良識のある人間が人前で口に出せるような内容じゃない。

「少なくとも、彼が運良く生き延びられたとして今後テロリストに協力することは絶対にないでしょうね」

 私は、自分が事実だと信じられる範囲で、気の毒な男の不利益にならなさそうな言葉を選んで答えた。これを聞いて連中がどう判断するかまでは、私の知ったことじゃない。爆弾を解体しながら、そこにある殺意の源が恨みなのか怒りなのか或いは宗教的な信念なのか、そんなことまで判るぐらいなら、今ごろは都市を見下ろすタワービルでセレブ相手のカウンセラーでもやりながら悠々自適に暮らしていた筈だ。

もちろん、この発言が後々で自分の身を助けることになることなど、この時の私は知る由もなかったし、まぁ、それはまた別の物語だ。

「そうですか。ご協力に感謝します」

 捜査官が作り笑顔で差し出してきた手を握り返す。

「いえ、多少なりともお力になれていれば幸いです。ところで――」

「はい?」

 無意識に言葉を発してから、自分が疲れていることを自覚した。

「あ……いや。何でもありません」

 遺棄されていたCNユニットに小児用義体のものはあったんですか――今さら私がそれをいたところで何の意味もない。

……そう。確かに私は疲れていたのだろう。この時は、自分が一番肝心な情報を見落としていることに気付いていなかったのだから。

私は三人と別れて廊下に出た。少し歩いたところにあるサイネージで、明るい浜辺の映像を背景に天気情報が表示されているのを見て、頭の隅で何かが引っ掛かる。

何が引っ掛かったのかに気が付いたのは、更にフロアを移動して自分のオフィスのドアノブに手をかけてからだった。

そして、私は大慌てでヴァンDに連絡を取った。

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