第7話 血の神殿
深い森の中に、埋もれるようにその建物は佇んでいた。
予想したような荘厳なものではなく、ごく簡素な直方体の形状をしていた。灰色の石を組んだ外壁は頑丈で、特別な装飾も彩色もない。唯一、扉の上に彫られたレリーフは神々の姿を描いていて、それがかろうじて、そこが神殿だということを伝える。
太古の昔の、神々の対戦を描いたレリーフだ。
蛇の尾を持つ怪物に睨まれながら、オートルたちは――オートルとティエラは、神殿の扉を押し開く。
錆びた鉄のような、よどんだ臭いがかすかに鼻をついた。
開いた扉から流れ込んだ光が、窓のない真っ暗な神殿の内部を照らし出す。
「なっ……」
中の様子を一目見たきり、オートルは絶句した。
正面奥の祭壇以外なんの設備も飾りもなく、外見の印象どおり、簡素すぎるほどの空間。けれど異様だったのは、その内壁が一面に赤い血で塗りつぶされていたことだ……。
* *
「しまった。ひょっとして今日は日蝕じゃないのか?」
相変わらずしつこくついてくる銀髪の追っ手をかわしながら、どうにか神殿の近くまでたどり着いた翌朝。
野営の天幕を畳んでいる時に、リインが声をあげた。
「ああ……そういえば、そうですね」
「でもそれってチャーンス! じゃないのリアちゃん。月と太陽が重なってどっちの力も弱まるから、『月の石』の力も弱くなって持ち出しやすくなるでしょ?」
「よく知っているな。それはその通りなんだが……」
腕を組み、リインは嫌そうにため息をつく。
「問題は、蝕の間は私の記憶が消えてしまうことなんだ」
「記憶が消える?」
オートルは反問する。それはリインが昔のことを覚えていないというのと、何か関係があるのだろうか。
わからない、とリインは首を振った。
「理由は分からないんだが、月と太陽が完全に重なっている時間のあいだ、いつも記憶がすっぽり抜けてしまうんだ。しかも終わった後には何故か、最低の気分になっている。ものすごく重いというか、いっそ死にたいというか……」
「は?」
「大泣きしていることもあったし、城から飛びだして森の中にいたこともあったな。いったい蝕の間に何が起きているのか……知りたいが知りたくない。気味が悪い」
心底嫌そうにつぶやくリインとは、別のところがふと気になってオートルは尋ねている。
「この島ではそんなに頻繁に皆既日蝕が起きるのか?」
「ん? さあ、普通じゃないのか。何百年かに一度という程度だ」
「……ちなみに今、そなたはいくつなのだ?」
「十七だが?」
だからどうした、とでも言いたげなリイン。
なんとなくそれ以上突っ込めず、オートルは曖昧に口を閉ざす。……いったい彼女は何年生きているのだろう? それとも、これも単なる、記憶の混乱だろうか。
「蝕の間の記憶が消えるのは、なにも私一人ではないぞ。この島の民全部だ。だから蝕の時期は休戦、というのが暗黙の了解になっているんだが……外から来た人間はどうなんだろうな」
「それは大丈夫でしょう」
あっさりとティエラが答える。
「ただリアさんは念のため、神殿の外に待機していた方が良さそうですね。どちらにしろ『月の石』のある神殿に入るには、対極にある太陽魔力の使い手では不向きです。私とオートルさんで行きましょう」
「わたしも太陽魔術系統だが、かまわぬのか?」
「オートルさんは太陽神殿にいたから太陽魔術が得意なだけで、太陽魔力が主体というわけではないでしょう。問題有りません」
「……?」
何気なさそうな説明に、けれどオートルは首をかしげる。
確かに、オートルの魔力そのものは大地と火が中心だ。とりわけ火は太陽魔力となじみが良く、だからオートルは好んで太陽魔術を使う。
つまり自分の身に太陽魔力を持つわけではなく、世界に満ちる太陽魔力をよく使っている、というだけなのだ。その二つは似ているようで、まったく次元の違う話だ。というか。
(『太陽魔力を持つ人間』は、存在しない……)
太古の昔、地上に残ったのは風水地火の四神族だけだ。
その血から受け継いだ以外の魔力を、人が持てるはずがない。だがティエラの口ぶりだと、「太陽魔術を使うだけなら問題ないが、太陽魔力を身に持つ人間は神殿に入らない方がいい」と言っているように聞こえる。
(わたしは良くても、リインやティアラは駄目なのか? リインの場合はこの島の神気が原因で魔力が変質しているのかもしれないが、ティアラは……?)
間抜けと言えば間抜けな話。
彼女たちが何者なのか、未だもってオートルは知らない。色々と奇妙なところだらけなのだが、問いを向けてもことごとく煙に巻かれるのだ。
確かなのは、ふらふらしていたオートルの魂をつかまえ、器を与えてくれたこと。封鎖されている島まで連れてきて、『月の石』を探す助力を与えてくれたこと。
その外見は神代の島の住人たちと、基本的に類似している。ただ、彼女たちからはそれほど強い魔力を感じない。そのくせ扱う魔術はことごとく高度だ。
(人ではない、のかもしれぬ。ひょっとしたら……)
娘たちがオートルの腕を作り直した……二人の魔力に直に触れた、あのときから。
オートルの胸にはそんな疑念も芽生えていた。
(彼女たちの魔力は人間とは違う。私の感知力では詳しいことは分からぬが……もし、彼女らが人ではなく、たとえば神族なのだとしたら?)
考えられないことではなかった。高度な魔術。不思議な外見。そして、オートルに『月の石』の情報を与え、熱心に協力してくれることも。
世界を守る使命を負った神族ならば、わかる……。
(ん? しかしティエラが月神族なら、『月の石』のありかも最初から知っているはずではないか?)
「んじゃ、さっそくレッツゴーってあれオートルまだ荷物片づけてなかったの!? 信じらんない皆もう支度してるんだからねさっさとしてよのろま神官っ!」
「だ、れ、が、のろまだっ! そなたらの代わりに水くみに行っていた分遅れたのであろうが!?」
結局そのままいつもの口論に突入してしまい、オートルの疑問は解決しないままだったのだが……。
「これは……いったいなんだ。呪いか……?」
愕然とオートルはつぶやいた。
最初は犠牲式か虐殺を思い浮かべたが、神殿の壁は大量の血で一気に塗り潰されたわけではないようだった。わずかな量の血で書かれた線が、縦横無尽に走っている。
いったい何千、何万の線が引かれているのか。
よくよく観察してみると、線の引き方はでたらめではなく、何かの法則に従っているようだった。長い線が一本、それに交わる形で四本、合計で五本。その図形が壁の全体に描かれ、スペースがなくなると乾いた血のあとに上書きされ、そうしてついには隙間なく埋めてしまったのだ。
何百年という時間をかけて、執念深く形作られた呪い。
オートルの目にはそんなふうに映る。だが、ここは王国を守護する石の置かれた神殿、のはずだ。呪ってどうするのだろう。
(まさか、侵入者に向けた呪いか……!?)
「オートルさん」
祭壇のそばからティエラが呼んだ。
彼女は異様な壁の様子になんら関心を示さず、さっさと祭壇のそばに歩み寄っていた。すでに祭壇のふたを開け、中をのぞき込んでいた。
『月の石』の安置された場所。
ためらう様子もなく中から石を取り出す。
小指の爪ほどの、ごく小さなかけらだった。そのへんに落ちていたら気づかず踏みつけてしまいそうな、ちっぽけな黒い小石だ。意外だとは思わなかった。これとよく似た『太陽の石』を、オートルは見たことがあったから。
ただ、オートルの知る石とはだいぶ違うようにも思えた。それは見た目の話ではなく、石から感じられる力の問題だ。
触れることもためらわれるほど、強烈な力を秘めていたあの石と違って。
「ずいぶん……力が弱いようだが?」
ティエラは頷いた。開いたままの扉に目を向け、言った。
「すでに月と太陽は重なりはじめています」
オートルも外を見る。普段と変わりなく明るいように思えたが、扉から射しこみ、床を照らす日射しは確かに弱いものだった。夕方か、嵐の来る直前のように。
何かを察しているのか、さかんに鳴き交わす鳥の声が聞こえる。
「この石を、オートルさん、今のあなたが取りこめば……」
ティエラが説明する。
「あなたの本体の持つ『太陽の石』と、その<影>たる今のオートルさんが持つ『月の石』とが引き合い、ふたつの石は融合しひとつになります。……その先のことは、私たちに任せてください。かならず柱を再生し、オートルさんを解放します」
灰色の雪空の瞳が、真摯にオートルを見つめていた。熱を帯びて潤んでいるようにも見えた。いつも物静かなティエラにしては珍しい表情だった。
長い、長い間、願い続けてきた望みが叶うように。
そう……彼女らが神族ならば、柱の再生による世界の安定は、使命であり責務であり、悲願であるはずだった。そしてオートルにとってもそれは切実な願いだった。
本来の肉体に戻り、目覚めることが出来たなら。
忘れてしまった記憶も、きっと取りもどすことが出来る――。
「さあ」
差し出された石。手のひらに載った小さなかけら。
いつか、よく似た石を。
差し出された記憶があった。白い手のひら。触れてはいけない、とよく分からない戒めが脳裏をよぎる。
あれは誰の手だったのだろう。
この石を受け取れば、きっとその答えも手に入る。
(オートル――……)
声すらも思い出せないとおい記憶のなかで、かすかに自分を呼ぶ気配がある。
導かれるようにオートルは手をのばした。小さなかけら。なめらかなその表面に、指先が触れようとしたところで。
「何者だ?」
静かな誰何の声が、オートルの背後で響いた。
聞き覚えのある声だった。背筋に冷たいものが伝うのを感じながら、オートルはふり返る。
国王レイン・テール――。
あざやかなサファイアブルーの瞳が、祭壇に立つ二人の侵入者をとらえていた。薄暗い神殿の中で、外の光を背にして立つ姿は堂々として見えた。
だが、思ったほどの威圧感を、オートルはその視線から受けなかった。
理由は単純だ。戦場でリインを見つめていたのとは違う。彼の眼差しは穏やかで、敵意とか警戒心のようなものが感じられなかった。
ごく静かに二人を見つめているだけだ。
目の前で『月の石』が持ち去られようとしているというのに?
「君たちがここに居るということは……わたしの部下は役に立たなかったのだな」
淡々と話す声からは、特別な感情はうかがえない。
だが、彼がオートルたちの正体を理解したことは明らかだった。配下を放ち、オートルたちを妨害したことを、今の台詞で認めた。
「……『月の石』を奪われてはならぬのではないのか?」
オートルが問いかけると、彼は頷いた。
だが、とつけたした。
「決着はすでについている。神殿で争うことは出来ない」
それだけ言って、彼はもう、オートルたちに興味をなくしたようだった。
入り口近くの壁、新しい血の跡があるあたりに、彼は歩み寄った。それから短刀を引き抜き、ためらいなく自分の指先を傷つけた。
血の流れる指で、壁に一本、新たな線を刻む。
それが終わると、短刀のふちをぬぐい、鞘に収めた。一瞬魔法の気配がしたのは、指の傷を治したのだろうか。
まるでありふれた日常の作業のようにすべてを終わらせ、神殿の外へ足を向けた。
「まっ……、待て」
とっさにオートルは呼び止めた。
「そなたはいったい何をしに来たのだ!? この血はすべてそなたの仕業か、いったい何が目的なんだ……!?」
「わからない」
静かな答えが返る。
唖然とするオートルを振り向いて、彼は苦笑した。
「分からないが、日に一度、わたしはこの壁に線を刻みに来る。……そうしなければならない気がしている。理由は分からないが」
穏やかな口調だが、サファイアブルーの瞳には翳りがあった。あきらめにも似た口調からオートルは察した。
おそらく彼も、リインと同じなのだ。戦いの目的さえ、覚えていない――。
レインは神殿を見あげた。壁を埋め尽くす血の跡を見つめ、つぶやいた。
「だが……おそらくはこれも、神々の定めたことなのだろう」
「いいえ」
毅然とした声が否定した。
「これは貴方がご自身の魂に刻んだ誓いです」
「君は……?」
レインがわずか、とまどったような声を出す。
オートルも面食らい、予想外の発言者をふり向いた。物静かな銀髪の娘は、雪空の瞳でまっすぐに国王を見つめていた。
敵意や、警戒ではなくて。
ただ真摯に。
「……太陽が隠れます」
その瞳のまま、しずかに娘は告げた。
差していた光がふいに消え、あたりが暗闇に落ちる。
「蝕の時刻です」
ざわめいていた鳥たちが、一斉に沈黙した。
「!」
暗闇の訪れた一瞬。
まるではじかれたように、リインは森の中を駆け出した。そばにいるティアラに何も言わず、まっすぐに神殿目指して。
ティアラも何も聞かなかった。ただ躊躇わずそのあとに従った。
「……レイ……!」
暗い森に声が響く。
リインの声だ、と神殿の中でオートルは気づく。ただ一瞬、誰を呼んでいるのかわからなかった。耳慣れない呼称だったのもあるが、あまりにも必死で悲痛な声に聞こえた。
レインがその声に素早く反応し、神殿を飛びだしていく。
扉から一歩出たところで、思わず、といったように足を止めた。
「……リア」
信じられないようにその名を呼んで。
森の中から現れた姫君と、国王が向かい合う。十数歩の距離を置いたまま、どちらも、その先の行動を見失ったように立ちつくす。
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