第8話 日蝕
空には日蝕の金の輪が輝いていた。
輪のなかは宇宙そのもののような漆黒で、外側には夜の色の空が広がっている。星がひとつふたつ、太陽のそばで輝いているのが見えた。
不思議に冷たい風が、すっとあたりを吹き抜ける。
あたりは日没後の暗さで、かろうじて互いのシルエットが見分けられる程度だ。
「……そういえば、そなたらは兄妹だったか……?」
向き合ったまま動かない二人を見比べ、オートルが尋ねる。
リア、とレインが呼んだのをオートルは聞いていた。どういうことだろう。ティアラがつけたでたらめの愛称ではなかったのか?
「兄妹ではない」
レインが答えた。
ふと、彼は出てきたばかりの建物を振り向いた。まるでその中を見通すように、少しの間眺めた。
「九十九万と八千二百七十五日……」
つぶやき、ふっと苦笑した。
「ちょうど二千七百三十五年ぶりの再会か。我が愛する太陽の姫」
「……そうだな」
リインは笑った。
他にどうしたらいいのか分からないというような笑い方だった。
「愛する……?」
もはやわけが分からず、馬鹿みたいにオートルはつぶやいている。
玉座を奪い合う兄と妹――ではなかったのか? 確かに不自然なところが多かったが。しかし少なくとも、彼らは争っていたはずだ。
この島で、確かに。
「どういうことだ……? いったいそなたら、本当は何なのだ?」
混乱するオートルの問いに。
レインの目が彼を見る。何故だろう。この暗さでは顔など分かるはずもないのに、オートルの脳裏には、そのサファイアブルーの瞳がくっきりと見えるようだ。
「……そうだな」
ふと、微笑んだ気配がして。
そしてこの不思議な月の王は、すべてを悟ったかのように、深く落ち着いた声音で告げたのだった。
「包み隠さず話そう。あなたにはすべて知る権利がある。オートル・リーガレーシス……世界を救いし偉大なる人の魔法使い」
太古の昔。
大戦の末に『柱』が欠け、神々は天空の領域に引きあげた。地上における争いは終わりを告げ、世界には平和が戻ったかに見えた。
けれど神々の戦は、まだ終わっていなかったのだ。
太陽神も月神も王座を諦めることはなく、天の領域で神々は抗争を続けた。決着がつかぬまま、さらに何万年もの時が流れた。
その間、偉大なる神々の放つ力は天空の領域を揺るがし、すくなからず地上にも影響を及ぼし続けた。欠けて不安定になった『太陽の柱』を揺るがし続けた。
そして……三千年前の、あの時を迎えたのだ。
人間の魔術師が、オートルが破滅を食い止めなければ、世界は天空の領域もろとも無に帰していただろう。
これにはさすがの神々も反省した。天空での争いは、今後一切禁忌とされた。太陽神も月神も不戦の誓いを固く結ばされ、事態はそれで収まったかに見えた。
だが、長く王座を争い続けた二神が、心底から納得するはずもなかった。
だから彼らは、代理戦争を要求したのだ……。
「その頃我らは地上にいて、それぞれのつとめを果たしていた。『太陽の石』の眠りを見守ること、『月の石』の封印を守り続けることこそが、我らの変わらぬつとめだった。そして私たちは……私とリアは、将来を誓い合う仲だった。それは本来好まれざるところだったが、戦の時代は終わったのだからと、皆祝福してくれた……。私たちは結ばれるはずだった。けれどある時、神が命じた」
レインはふと天を仰いだ。
「玉座を巡って争えと。すべての月神族と太陽神族はこの島に喚ばれ、閉ざされた。死と記憶を奪われ、神々の定めたとおりに争いをはじめた。……過去も未来もなく、倒れてもまた蘇り……そのようにして、我らは永遠に戦う定めとなった」
「……待て。つまり……そなたらは」
半信半疑でオートルは確認する。
「そなたらが……この島の民こそが、神族なのか? 伝説にある、神と人との半ばにある存在……なのか」
「そうだ」
静かにレインが肯定する。
「そしてわたしは月神族の長、リアは太陽神族の長。ゆえにわたしが王座にあるうちは月神が、リアが王座にある間は太陽神が、それぞれ神々の王の地位につく。天の玉座のルールはそのように定められた」
「……そんな……」
オートルはただ愕然とする。
それではまるで遊技だ。神々が使うゲームの駒。天の玉座を定めるための、彼らは生きた道具なのだ。
死する定めを奪われ、愛する者を忘れて。
玉座を取り、奪い返し。
神々の遊技盤の上で、踊らされて。
三千年も……?
「神々に背くことは出来ない」
感情を含まないレインの声が、かえって逃れようのない現実を感じさせる。
「神々の望むかぎり、争うだけだ。このまま……何千年でも」
「いいえ」
凛とした声が否定する。
「終わりにしましょう。レイン、私の守護する唯一の王」
「……ティエラ?」
レインが驚いたようにその名を呼んだ。
つい先ほど、同じ娘に対した時とは違っていた。それは明らかに、相手のことを知っているという反応だった。
少しの沈黙のあと、困ったように、けれどいくらかの親しみをこめて呼びかけた。
「ああ……。あの神託は君たちの仕業だね、ティエラ? わざと僕に君たちを妨害させて、おびき寄せようとした。違うかい」
「違います。あれは私たちの行動を快く思わない仲間たちがしたことです。私たちの行為は世界に無用の混乱を招くというのが、彼らの言い分です」
「そう……。ということは、君の……君たちの独断なんだね。わたしたちを引き合わせたりしたのは」
「引き合わせること自体が目的ではありません。ですが、これが私とティアラ、二人の計画であることは事実です」
「……では、君たちの真の目的とは? 我が親愛なる守護精霊殿」
守護精霊? とオートルは目を瞠る。
だが、この瞬間すべてに納得がいった。つまりティエラは月精霊、ティアラは太陽精霊なのだ。それで人と異なる魔力をもつことも、不思議な外見にも説明がつく。
もっとも、精霊がここまではっきりとした人の姿をとることがあるのだとは、オートルは知らなかったのだが。
納得しているオートルの方を、ふいにティエラが振り向いた。
「彼に『月の石』を与え、世界の柱を再建することです。我が主」
レインはティエラの『主君』ではないはずだが、彼女はそんな言い方をした。
「三千年前に彼がしたように。彼のなかに『月の石』を埋め込み、その力を用いて、新たな『柱』を作るのです。世界を支える三本目の柱を。そうすれば世界は強度を取りもどします。少なくとも神々自身が天空で争える程度には。そうなれば、もはや代理戦争は必要ありません。――あなたがたは自由です」
「…………、それは」
レインが口を開いた。
硬い声音に聞こえた。一度、言葉を切り、冷静さを取り戻そうとするかのように小さく息を飲んだ。
にわかには信じられないのだろうと、オートルは思った。だが次にレインの発した言葉は、オートルにとって予想外で、衝撃だった。
「それは彼の本来の肉体を作り替えて柱にするという意味だね、ティエラ」
「その通りです」
ティエラはためらわず首肯した。
「彼の身体は大地の魔力を奇跡的に濃く宿しています。ふたつの『石』を取りこめば、第三の柱に変化することが可能です」
「っ、ちょっと待て!?」
思わずオートルは口を挟んでいた。
「話が違うではないか!? 『月の石』を手にいれればわたしは――わたしの身体は、目覚められると……」
「凍結魔法を解除することは出来ません」
ティエラは冷淡だった。
「たとえ別の方法で柱を作ることが出来たとしても、それは新たな衝撃に対して強くなるというだけのこと。すでに始まっている崩壊現象は凍結魔法を解除した瞬間に進行します。騙したことは謝りますが、いかなる手段をもってしてもあなたが再び目覚めることはないのですよ、オートル」
「しかし――」
「いいじゃん別に今更!」
言ったのはティアラだ。いつものかん高い声で、早口でまくしたてた。
「オートルもう三千年も寝てんだし、いまごろ目ぇ覚めたってしょうがないでしょ!? どーせ昔のことだってよく覚えちゃいないんだし! だったら柱になっちゃえば!?」
「なっ……、ティア」
「だってそのほうが世界も安定するし! オートル神官でしょ、世のため人のために尽くすのが仕事でしょ!?」
「だから何だ!? わたしに――わたしに、二度も世界の為に死ねというのか!?」
「魔法使いの言うとおりだ」
口を挟んだのはレインだった。
「『柱』となれば彼の魂は永劫に眠り、輪廻の輪からも外れてしまう。そのようなことはゆるされないよ。彼はすでに人として負うべき以上の荷を負っている。これ以上の犠牲を彼に強いてはならない」
穏やかな口調のなかに、確かな決意のようなものをにじませて、彼は続けた。
「彼の魂は天に還すか、無理ならばせめて、もとの肉体に帰すべきだ。このように不自然なことをしてはいけないよ」
「ちっ……ちがうもん、オートルの魂はもとからフヨッてたの! あたしたちが切り離したんじゃない!」
ティアラが食らいつくが、レインの落ち着いた物言いにいくらか動揺しているようでもあった。たぶん、反対されるなどとは思ってもいなかったのだろう。その点についてはオートルも驚いていたが。
「ゆるされることだとは思っていません」
冷静に応じたのはティエラだ。
「ですが、これが唯一の手段です、我が主。それともあなたは、愛する人と永劫に戦い続ける道を選ぶのですか?」
不意に、ティエラが声のトーンを上げた。彼女にしては珍しく。叫ぶような、切実な、そんな彼女の声を聞いたのはオートルは初めてだった。
「私は……私はもう見ていたくないのです、あれほど愛し合った二人が敵として刃を交えるなど! あなたは耐えられるというのですか!? どうして……!」
責め立てる調子になったことを、後悔したのか、ティエラはそこで言葉を切った。いくぶん声を落として、先を続けた。
「神々に記憶を消される前、あなたは誓いましたね。たとえ敵同士になっても、愛し合ったことを決して忘れないと。そしてあなたはリア様と引き裂かれてからの日々を、神殿の壁にかぞえ続けた。たとえ自分ではその意味がわからなくても……思い出せなくても、あなたは決して忘れなかった」
そしてそれを、彼女はずっと見守ってきたのだろう。
三千年の間。彼女は……彼女たちだけは、なにも忘れずに、すべてを胸に留めたまま、見つめてきたのだ。
本当は愛し合うはずの二人が、互いに殺し合う様を。
「終わりにしましょう、我が主。これ以上悲しい日々の数が増えることはありません。すべては今日で終わる――あなたは自由なのです」
「やめなさい」
レインが言った。かすれたささやき声だった。
「わたしを惑わせてはいけないよ、ティエラ。彼を犠牲にするのは駄目だ――わたしたちは神族。けれど彼には何の責務もない」
「そんなの!」
叫んだのはティアラだ。
「そんなの、レイたちにもないじゃん! もともと神さまが勝手にはじめたことで……! 神さまが悪いんじゃない、なのにリアちゃんたちが、あんなに仲良かったのに、いきなり記憶消されてっ!」
彼女は泣いているようだった。乱暴な仕草で目元をぬぐって、相棒を振り向いた。
「いいよ、レイが嫌ならあたしたちで何とかするから! いくよティエラ!」
「ええ」
二人はお互いに向けて手をのばした。金色と銀色の光が、その手からあふれて渦を巻いた。石のカケラが星のようにキラキラと輝きながら浮かび上がる。
綺麗だな、とオートルは思った。その光景もだが、あふれる二人の力が。やはり、ひとのものとは違うのだろう。これほど純粋な気配のする魔力を人は持たない。
ふたつの魔力はわずかに振動して、金とも銀ともつかない色に溶けあう。
……時間にすれば、一瞬のことだっただろう。実際オートルにはろくな手段を講じている暇も、意味のある思考を働かせている暇もなかったのだから。
光は耀く石を中心に収束し、一度垂直に駈けのぼると、彗星のように尾を引いてオートルの胸を貫く――。
「……あ……?」
ふわり、と。
オートルの鼻先を、白い衣がかすめた。霧のなかから浮かんできたように。それは唐突な、幻めいた、不可思議な出現だった。
半透明の、けれど白いと分かる……知っている、巫女、服……?
淡い亜麻色の髪が目の前を流れる。
それは少女の後ろ姿だった。唐突に目の前に現れたもの。オートルを庇うように立つ彼女の前で、『月の石』をはらんだ光は止まっていた。
「……だれ、だ……?」
オートルはつぶやく。
頭をハンマーで殴られたような、心臓の底を打ち抜かれたような、そんな衝撃があった。膝の力が抜けてへたり込みそうになった。だが、理由が分からない。
一瞬、自分の唇が震えて、呼ぼうとした名前は意識に上る前に消えてしまう。
なんと言おうとしたのだろう。
この少女は……?
「……誰かいる、とは思っていました」
物静かなティエラの声。
「オートルさんの魂の影に。あなたですね。あなたが……オートルさんの魂を身体から切り離した術者ですか?」
少女の細い肩が動き、ゆっくりと、こちらを振り向いた。その視線と向き合った瞬間のことを、オートルは何と表現したらいいのか分からない。
甘美な衝撃。
全身が震えるような感覚があった。同時に、胸郭の奥を痛いほど締めつけられる気がした。誰だろう。思い出せない。けれど知っている。
わたしは、確かに、この少女を――。
少女の青い瞳がほそめられ、ふわりと亜麻色の髪が宙に舞った。少女は、白い衣に包まれた腕をあげ、その手に持ったものをオートルの方に差しだした。
花……?
青い、小さな花だった。淡い色の。その花の名をオートルは知っていた。
『私を忘れないで』――。
やわらかに微笑む少女の瞳。
(わたしは――……)
息が止まりそうだった。何も考えられなくなる。ただ、反射的に手が動いて、少女の差しだした花を受け取ろうとした――。
「邪魔!」
突然、ティアラの叫びが耳を打った。
光に目が眩み、一瞬なにも見えなくなった。次にあたりは再び暗くなっていた。何が起きたのか、オートルには分からなかった。
……もう、目の前には誰もいなかった。
ティアラの放った強烈な光が、かき消したのだと遅れて気づいた。
白い衣をまとった少女の。
青い花。
「――……っ、貴様ぁッ!!」
ティアラ相手に心から本気で怒鳴ったのは、きっとこれが初めてだった。
オートルの放った攻撃魔術は狙い違わずティアラを吹き飛ばし、強く地面に叩きつけた。急な光に目がちかちかする。いや、怒りに目が眩んでいたのかも知れない。
精霊であるはずの彼女が人間に吹き飛ばされるなんておかしいと、頭のどこかで冷静な自分が思う。
もう一撃加えたら死ぬかも知れない。
その判断が、かろうじて、オートルに次の攻撃をこらえさせた。いっそ怒りにまかせて殺してしまえたらよかった。そんな凶暴な感情を隠さずに、オートルはティアラを睨みつける。
「……今この場であなたに勝てる者はいない」
口を開いたのはリインだった。
「なぜならば蝕の時刻だから。太陽も月も著しく力が弱まる、今は」
直接的な表現ではなかったが、たぶん、殺さないでやってくれと言いたかったのだろう。
薄闇に消えた少女の白い衣が、まだ頭の隅でひらめいている。
オートルは唇を噛んだ。わけがわからなくなっていた。あれが誰なのか、思い出すことすら出来ないのに。
ティアラがゆっくりと身を起こし、黙ったまま、オートルを見あげたようだ。
……微笑んでいた青い瞳。
彼女の名前。
知っているという確信だけがあった。幾度となく呼びかけた。なのに、どうしても、どんなに考えても、言葉にならない――。
「魔法使い」
ふとレインが、オートルに向けて手をのばした。
唐突な行動にオートルは驚き、後ずさろうとした。その彼の後頭部に手を回して、レインは自分の額をオートルの額に近づけた。
「失礼、少々気味が悪いかも知れないが――」
そのまま、すうっと身体の中に入りこまれた。
そういう感覚があった。けれど現実ではないだろう。すり抜けて、それからかちりと歯車がかみ合うような音が聞こえた。
そしてオートルの頭の奥に、銀色の光の粒子がはじけた。
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