第1話 南の島にて

 ちゃぷん、と波が揺れる。

 浅瀬の海は南国の日差しをよく通して、水底の白い砂に網目模様の光が揺れている。見渡せば、彼方まで続くライトブルー。空よりも淡く、透きとおった色味に真珠のような光が踊る。

 ちゃぷ、ちゃぷん。

 浜辺にとめたボートのへりに、波が寄せてのどかに音をたてる。同じ波がそのボートの底を、心地よいリズムで揺らす。

 木でできた、ふるびたボートだった。船体は下半分だけが濃い色をして、それは濡れているせいだけでなくはっきりと木が変色している。長年、使い込まれてきたものだとわかる。大きさはそれほどではなくて、三人も乗ればいっぱいになりそうだ。

 どこかの空から、カモメの鳴く声。

 やかましいようでもあるけれど、その鳴き声も遠いから、日差しに溶けてどこか長閑だ。

「オートルさん」

 潮風に乗って、かろやかな娘の声。

 砂浜を歩いてきた娘は、そのまま躊躇なく水の中へと歩をすすめる。白い素足が柔らかな砂に沈み、ちいさな魚が驚いて逃げていく。

「オートルさん?」

 水の上で、娘の衣の裾が遊ぶようにひるがえる。膝丈の白いチュニック。腰を幅広の帯で締めている以外、何の装飾もなくて簡素だ。

 袖なしの衣の肩口から伸びる腕は華奢で、陽光を浴びたことがないように白い。それが、この南の島には少し不釣り合いで。それから肘まである白の長手袋も、この日差しの下では奇妙だろうか。

 ちゃぷ、と小さな水音をたてて、娘はボートに歩み寄る。その手には籠を抱えていて、中には何種類かの木の実と、水の入った木筒。それから幅広の草にくるまれた、とれたての魚が入っている。

「いらっしゃいますか?」

 ふるびたボートのなかへ、娘は声をかける。

 男がひとり、そこに寝転がっていた。仰向けになり、陽光を避けるためか布で目元を覆っている。その布は頭に巻かれた帯の端で、青い地にさまざまな色の刺繍がされている。

 着ているものは南国の気候に似合わない、裾の長い外套。目に鮮やかな青い生地に、やはり様々な色の刺繍と、それから宝玉と金銀による装飾が施されている。その布地がボートの底いっぱいに広がって、そのなかで眠る青年は、まるでもう一つの海に囚われているようだ。

「……暑い」

 開口一番、青年はそうぼやいた。

 緩慢な仕草で顔を覆う布を取り去り、日差しのまぶしさに目を細める。珍しいオッドアイだ。左目は大地に芽吹く草のような、あざやかな緑をして、右目はふかく透き通る深紅の色をしている。髪の色はごくありがちな黒で、肌は娘ほどではないが比較的白い。

「どうしてこうも暑いのだ?」

「こんな、日当たりの良い所にいるからですよ」

 重ねてぼやく青年に、娘は苦笑する。

 彼女の方は、銀色のまっすぐな髪を肩のあたりで切りそろえ、雪空のような灰色の瞳をしていた。どうみても北方の人間だが、不思議と暑さにやられる様子もない。

「ここを離れるなとティアラがうるさいからだ」

 言って、青年は身を起こす。ボートが大きく揺れて、波立った海面が娘の服の裾をほんの少し濡らした。

「あいつはどこへ行った?」

「ずいぶん奥の方へ行ってしまったようです。鳥をつかまえるとか、張り切っていましたけれど」

 そう言って娘は陸の方を見る。つられたように男も視線を転じた。

 浅瀬の海から続く砂浜は広くはなく、すぐに深い森へとつながる。南国特有の巨大な葉をもつ木々や、鮮やかな色の花やツル植物が目につく森。

 南の森は生育が良い。背の高い木々は惜しげもなく葉を広げ、強い日差しはその樹冠をも突き抜けて、中低木層にまで様々な植物を茂らせる。

 要するに、ほとんど迷路じみたジャングルだ。

「ちゃんと、戻ってくるんだろうな?」

 いくぶん疑わしげな響きの、青年の声。娘は笑って、大丈夫でしょう、と応じる。

 海風が吹いて、ライトブルーの水面をさざめかせた。それは白い砂浜を渡り、それから木々の葉をざわめかせる。

 ざわざわ、ざわざわ……。

 南国の日差しの下の、にぎやかな木々の合唱をしばらく聞いたあと、ぽつりと青年は言った。

「……のんきだな」

「せめて、平和だと言って下さい」

 困ったように返す娘の言葉も、なんとなくフォローになっていなかった。


            *            *


 ことの発端は、太古の昔に遡る。

 そのころ、神々は戦争をしていた。二つの陣営に分かれて。人間たち、それから神と人との中間である「神族」たちもまた、二つに分かれて争った。

 それは神々の王の座を巡る争い。太陽神と月神、どちらが王として相応しいか、決するための戦いだった。

 もともと二神は、この世界にとって最も重要な神だ。なぜならこの世界は、右端にある『太陽の柱』と、左端にある『月の柱』によって支えられているから。だからその化身ともいうべき二神は最大にして最強、そして完全に対等の存在なのだ。少なくとも創世の時代、本来の世界のあり方に従うならば。

 しかし、王座はただひとつ。

 その地位を、同等の力を持つ二神が求めた。それは戦を招いた。すべての神と人と神族を巻き込む――あまりにも激しく、長く、恐ろしい戦いだった。

 けれど、人の数えで数百年にも及ぶ戦争の果て、そのすべての恐怖を上回る恐怖が世界を襲った。

 『太陽の柱』が、欠けたのだ。

 強大な力を持つ神々の争いは、この世界に大きな負荷をかけていた。重圧に耐えかねた柱はひび割れて、ごく小さなかけらが、そこから剥がれ落ちた。

 世界は音を立てて揺れ動いた。慌てた神々は応急処置として、『月の柱』の一部を、『太陽の柱』の欠けた分とちょうど同じだけ削り取った。その目論見はうまくいき、世界はバランスを回復した。危ういところで世界は崩壊を免れたのだ。

 神々は争いをやめ、天空の領域に帰っていった。柱が欠けて不安定となった世界は、もはや神々の存在を支えるだけの強度を失っていたからだ。神族たちもそれに従い、地上には人間だけが残された。

 ただし人間ととくに親しく交わっていた、風水地火の四神族のなかには、地上に残ることを選ぶ一派もいた。彼らの血はやがて人間たちのなかに同化して、魔術師と呼ばれる存在を生み出した。

 長い長い時が流れ、太古の戦も遠い伝説となりはてた頃、魔術師たちは大地の奥深くから、恐るべき力を秘めた小さな石を見つけた。それは伝説の昔に『太陽の柱』から剥がれ落ちた、ほんの小さなかけらだった。彼らはそれを『太陽の石』と名付け、とある大陸の端の、太陽神殿と呼ばれる場所に安置した。

 人はとくに、それを悪用したのではない。そのあまりにも大きな力に気づいた彼らは、ただ聖なる石として、敬意を込めて祭壇の奥に奉った。それでも、石が大地の保護を失い、無防備に晒される事態となったことに変わりはなかった。その恐るべき輝きが、覆いをなくした太陽のかけらが、いかなる形で世界のバランスを狂わせていったのか……。

 ある日唐突に、『太陽の柱』は崩れ落ちた。

 世界をささえる柱の滅失。それはそのまま、この世界の崩壊を意味した。『太陽の柱』のある右端から、世界は崩れ始めた。

 鳴動し、崩れ、虚無の波にのまれ……文字通り、消えていった。

 天空の領域にこもっていた神々の対処は間に合わなかった。世界の崩壊は瞬く間に、三分の一までが進行した。

 けれど、そこで奇跡的に、食い止められたのだ。

 それをしたのは神々ではない。たったひとりの、生身の人間だった。『太陽の石』を奉る太陽神殿で、当時の魔術師としては最高位にあたる「上級神官魔術師」の地位を、若くして務めていた人物。

 名は、オートル・リーガレーシス。

 今ここにいる、オッドアイの青年である。


「あれから、何年が経つ?」

 不意の問いかけに、娘は顔を上げる。

 この島の海岸線は大半が砂浜だが、たまに岩場があって、ボートがとめられているのはちょうど砂地と岩場の境目の所だ。

 娘は今、岩場近くの砂の上に腰をおろし、集めた木ぎれに火をつけようとしている。男は――オートルは大きな岩に背を預けて、その様子を眺めている。

 特徴的な緑と赤の瞳は、彼がもつ魔力の表れだ。大地と火の神族の血を、奇跡的に濃く引いていることを示している。

「三千年ほどです」

 娘は答えた。

「正確には、二千七百三十六年と十一ヶ月と二十八日」

 へぇ、とオートルは言った。あまり感慨のこもらない声だった。

 実際、その質問は何度もして、そのたびに同じことを――「正確には」のあとの数字は少しずつ増えてはいるが――答えられている。だから、目新しい情報ではない。

 ただ、何となく癖のようにそう尋ねて、いつものように、そんなものか、と思う。

 実感がなかった。

 世界の三分の一が失われ、自分がそれ以上の危機から世界を救ったあの日から、三千年経っていると言われても。その時間は長くて、長すぎて、もはやなんの意味もなさなかった。

 三十年と言われたら、それを長いと感じたかも知れない。

 三百年と言われてもまあ、非常識な長さだと驚いたかも知れない。

 しかし三千年となると……ただただ、実感がない。

 そもそも彼はあの時、死んだも同然だったのだ。世界を破滅から救った瞬間――その魔法に、自らも飲みこまれて。

 崩れつつある世界を“凍結”することによって、オートルは破滅を食い止めた。もちろん文字通りに凍らせたわけではない。魔術師の言う『凍結魔法』とは、何かを停止ないしは封印する術の総称だ。オートルが凍結させたのは世界の崩壊現象そのものであり、それによって世界の喪失を、三分の一で食い止めた。

 ただし、オートル自身もまた、その術に囚われることとなった。彼自身も凍結され……つまり、永遠に眠り続けることになったのだ。

 凍結魔法が効力を発揮している限り、世界の崩壊が凍結されている限り――即ち残された世界の三分の二が、無事に存続している限り――オートルは、眠り続ける。

 それは死に等しい、永遠の眠り。

 そのはずだったのだが……。

「オートルッ!!!!」

 自分の思考に沈んでいたオートルの耳を、甲高い娘の絶叫がつんざいた。

 反射的に声のしたほうを――上を、振り仰ぐ。南国の雲一つない、真っ青な空……あふれかえるような日差し……そこにかさなる娘の幻影。

 目を見開くのが精一杯だった。

 そして。

「きゃ――――!!!」

 突如として上空に現れた娘は、重力の法則に従って落下した。

 こまかな白い砂の粒が、煙のように舞い上がる。オートルはおもわず顔を背け、砂埃に軽く咳き込んだ。舞い散る砂はやがて落ち着き、煙幕の中心に金髪の、華奢な娘の姿を明らかにする。

「ボートの上を離れないでって言ったじゃない!!」

 跳ね起きるなり、娘は開口一番そう怒鳴った。

 いきなりあらわれるとは思わなかった、さすがに大丈夫なのかあの高さから、骨でも折っていたら……とオートルの頭を巡った心配も、その瞬間に消し飛んだ。

「何が嬉しくてあんな暑いところにいなければならんのだ! 焼け死ぬかと思ったぞ!!」

 思い切り怒鳴り返した彼に、娘は――二十歳くらいとみえる外見に似合わぬ子供っぽさで――頬をふくらませた。

「死ぬわけないじゃないこれくらいの日差しで! 光は恵みなのよ、命の源なのよ!? 罰当たりなこと言ってると太陽神様に呪われちゃうんだからね!」

「これくらいで呪われてたまるか! だいたい、いかに恵みとはいえ、世の中には日照りという現象もあることを忘れてはならん!!」

「うっさいわね、それは雨が降らないのが悪いだけでしょう!? 太陽はいつだって照らしてるのよ、文句は風と雲と雨に言って頂戴!」

「少ない雨を、さっさと蒸発させてしまうのが日差しだろうが! 雨乞いの儀式は風と雨と太陽の神に3:4:3の働きかけが原則だ、いらぬ乾燥をもたらすのは常に太陽の力であろう!?」

「ばっかねえ、比率間違ってるわソレ! そんな綺麗な整数比になるわけないでしょ!?」

「ええい、概数に決まっている! 測定と計算と比率決めは理論魔術者の役目だ、わたしの知ったことか!!」

「んな神殿方式の役割分担、それこそあたしの知ったことじゃなーい!!」

 なぜかどんどん的のずれていく口論を、笑いながら止めたのは銀髪の娘だった。

「よしなさい、ティアラ。ボートは暑いから陸に上がるようにと、私がお勧めしたのですよ」

「ティエラがぁ?」

 ちょっと不服そうな上目遣いで、でもオートルに対するのとは違って怒鳴るのはやめて、ティアラと呼ばれた娘は問い返す。

「普通の人間は、あなたが思うほど暑さに強くはないのですよ」

「だってえ」

 言いながら、彼女は不満げな眼差しをオッドアイの青年に向ける。

「あれ、人間じゃないのに?」

 さらっ、と口に出された言葉に。

 一瞬のうちにオートルの表情が険しくなる。色の違う両の目が鋭さを増し、ほとんど睨むようにティアラの瞳を見返し――結局、くってかかることはしなかった。

「そんな風に言うものではありませんよ」

 なだめるようにティエラが言う。困ったような微笑みに、ティアラは唇をとがらせながらも黙り、オートルは、ごく小さな吐息をついた後で問いかけた。

「……だいたい、なぜボートに拘ったのだ? ティアラ」

「だって」

 けろっ、とティアラは応える。

「海の上に出た方が気持ちいいじゃない」

 つまり。

 例の『空中出現』……オートルという対象を“めあて”として瞬間移動する時、砂浜につっこむより海に落ちた方が涼しくて楽しいじゃない、とこういうことである。

「そんな勝手な都合か!!」

 絶対そこ動かないでね絶対絶対だよじゃあね、とさっさと行ってしまった彼女に理由を聞き損ね、訳が分からぬながらも律儀にボートの上で待っていたオートルは、今度こそ全力でツッコんでしまう。

「なにが勝手よ大事なのよ出現地点の条件って! あーもうオートル動くから砂つっこんじゃったじゃないの目にはいるし口にはいるしざらざらするしもーサイアク! 責任取ってよね!?」

「そんなこと、わたしの知ったことではないっ!!」

 ……また延々と口論になる前に、今度は素早くティエラが割ってはいった。

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