第6話 欠けた月
金色のほそい月が、低い空に輝いている。
神代の息吹は、遠く月にまで影響を与えるのだろうか。オートルが知っているよりも、くっきりと冴えわたるように見える月だ。
あるいは単に空気の違いなのかも知れないが。いずれにせよ、夜風に揺れる森の上で、まぶしく思われるほどに輝いている。
(……知っている?)
自分自身の思考に、オートルはふとひっかかる。
神官としてさまざまな国を訪れた記憶のあるオートルだ。ならば今思い浮かべ、比較の対象とした月は、いったいいつ、どこで見たものなのか。
いつ、どんな場所で……誰と一緒に?
(たいしたことではない)
すぐに、オートルは思い直す。つまらないこだわりだ。そんなこと、思い出せないからといって、べつに困ることでもないだろう……。
「リイン?」
ふと、オートルは目を見開く。
星々の輝きが薄れだすには、まだいくぶん早い頃。眠れずに出歩いていた森の中に、思いがけない先客の姿を見つけて。
野営の天幕を下ろしたところから、ほんの少し離れた森の中だった。
そのあたりは唐突に木々が開けて、浅い沼地が広がっていた。細長くとがった葉の束や低木の茂み、泥の中に咲く大輪の花。それらがやはり無秩序に、完璧に寄せ集められて、全体で奇妙なシルエットを描いている。
森の縁から倒れ込むように、巨木がひとつ、転がっていた。その上に腰掛けて、金の髪の少女が空を見あげていた。
気配に気づいたのだろう。
少女がこちらを振り向く。星明かりにその頬が白く浮かび、オートルははっと息を飲む。
(泣いている……?)
「ああ、オートル殿。こんな夜中に何を?」
リインはごく普通に答え、指先で目元をぬぐった。涙を隠そうとしたというよりは、たんに視界の邪魔だったというような、あまり頓着していない仕草だった。
「まだ夜明けには早いぞ。きちんと休め」
「この身体ならば眠らずとも支障はない」
オートルは答える。作り物の身体でも眠ることは可能だが、不可欠ではない。休息や眠りを欲するのは、あくまでも魂の記憶がそうさせているだけだ。
けれど今は眠くなかった。
「そなたのほうこそ、眠らなくて良いのか? こんなところで何をしている」
「何も。月を見ていただけだ」
「……月が好きなのか?」
「嫌いだ」
即答だった。
オートルは言葉に詰まり、まじまじと相手を見返した。倒木の上に座り、蔦と木と、泥の中に咲く花とに囲まれた影。
金色の髪がかすかに星明かりをはらんで、その姿はまるで、夢の中で見る精霊の化身のようでもある。
「理由は分からないが」
おかしそうに彼女は言った。
「月を見ていると泣けてくるのさ。他のことではまず泣いたりしないのにな。まったく、意味が分からない……」
くすくすと、笑う気配が夜の空気ごしに伝わる。
オートルは黙って視線をあげた。沼地の向こう、木々の影が揺れるその少し上に月が見えていた。
細く、消え入りそうな。けれどくっきりと、見逃せない爪痕のように、光る――。
「案外、昔兄上にいじめられでもしたのかもな? 月といえばあの人だから」
「兄上?」
「ああ。国王レイン・テールは私の兄だ」
驚くようなことをさらりとリインは言った。
目を丸くするオートルの反応を、逆にいぶかしむように続ける。
「血を分けた兄にして、玉座を分かつ者。だから私たちは王座を奪い合っている。そういうものだろう?」
「……似て、いないが」
驚きながら、オートルはそれだけ口にする。
王座を奪い合う兄と妹――。確かに、これ以上ないほどありがちな内乱の構図ではある。だが、オートルはそんな可能性は考えてみたこともなかった。思いつくはずもなかった。
金の髪と銀の髪。同じ血が流れているなどとはとても思えない……。
「我らの見た目を分けるのは血ではなく魔力だ」
こともなげにリインは答える。
「違う力を持っていれば、似ないのは当然だろう」
「……そういうものか」
神代の島のルールは、オートルにはわからない。だが彼らも本物の精霊ではあるまいし、もっとも基本的な法則に、違いはないはずだ。
「しかし……魔力の性質だって、遺伝するだろう。兄妹でこうも違うとなると……そなたらの両親も別々だな。異民族間婚姻か」
それも、ありがちなことだ、とオートルは思った。
異なる神をあがめる二つの民。きっと昔からいがみあっていて、それを解消するために、それぞれの民の王と王妃が結婚したのだろう。
だが、その二人の子供が異なる魔力を持って生まれたため、争いが再燃した……そんなところではないか。
けれどオートルの予想に反して、リインは難しそうに顔をしかめた。
「わからない」
「え?」
「覚えてないんだ。そういうことは、たぶん兄上の方が覚えているかもしれない」
「覚えていないとは……?」
オートルは自分の質問を思い返す。両親は異民族間婚姻か、と聞いただけだ。別に王国の歴史を話せとか言ったわけではない。
「そのままの意味さ」
リインは笑った。
「忘れてしまった。たいしたことではない。お主だって、忘れたことのひとつやふたつくらいあろう?」
それは多分、深い意味のある質問ではなかった。何かを、ごまかそうとしたかもしれないけれど。少なくともオートルに向けて、本気の疑念をもって尋ねていたわけではなかった。
けれどその言葉は、ふと鋭くオートルの胸をえぐった。忘れてしまったこと。それは確かに、オートルにもある……。
あるはずなのだ。
「……確かに、な」
重く、ため息のようにつぶやかれた言葉に、リインが少し意外そうにする。
オートルは空を見あげた。夜空に浮かぶ金色の月。いつか、別の場所で見た月と重なるようで、けれどそれがいつのことなのか、うまく思い出せなくて。
それが問題だろうか?
わからない。完璧な記憶などあろうはずがない。忘却は、決して不自然な現象ではない。けれど、それでも……。
「確かに、わたしは忘れてしまった。覚えているはずの、覚えていなければならないいくつかのことを。大切なはずの記憶を――わたしは記憶していない」
たとえば滅びの日のこと。
最期の瞬間のことはかろうじて頭に浮かぶものの、その直前、どこでどうしていたのか思い出せない。厳重に管理されていたはずの『太陽の石』を、一体どうやって持ち出したのかさえ。
そうかと思えば、先輩神官の若き日の失恋話や。同僚が好きだった食堂のオムライス。そんな、他愛もないことは思い出せたりする。神官候補生時代に苦労させられた複雑な儀礼の手順なら、今でも完璧に辿ることができる。
要するに今のオートルの記憶は、でたらめの虫食い状態だった。長い時間を、魂が肉体から離れて過ごしたためだろうと、娘たちは言っていた。器のない不安定な状態でさまよううちに、魂に刻まれた記憶は薄れて、多くの部分が欠けてしまった。
「何を忘れたか覚えているなどというのは、論理矛盾でおかしな話なんだがな」
苦笑するようにオートルは言う。
「けれど……何故だろう。一番大切な何かを、真っ先になくしてしまった気がする」
夜空に浮かぶほそい月を、どこで見たのか思い出せない。
たったそれだけのことが、オートルの心をかき乱す。別にそれくらい、普通のことかもしれないのに。
けれど何かが、頭の片隅で引っかかるような、そんな気がするのだ。つかもうとしてもつかめない。霧の中を横切る亡霊のように、曖昧な気配だけを残して消えてしまうけれど。
一番忘れてはならない何かを、置き去りにしているような。不安とも焦燥ともつかない思いに駆られるのは。
何故なのだろう。
「……何かを、思い出さねばならない気がしている。何かとても大切なものを忘れているような気がする……。それのことを思うと、この辺りが焼け付くようになって」
オートルは軽く喉元に触れた。
「眠るどころではないので、適当に散歩していた。そういうことだ」
「…………」
すこし、驚いたような間があった。
穏やかな夜の風が、ざわざわとジャングルの梢を鳴らしていた。どこか遠くで、夜行性の獣の声。かすかに尾を引いて消える。
「……思い出さなければ、か」
ぽつ、とリインがつぶやいた。
「なるほど。そう言われるとしっくり来る」
「え?」
「月を見て何を感じるのか。何故こんなふうに……苦しくて、泣けてくるのか」
奇遇だな、とささやいてリインは笑った。
「私も記憶がないんだ。昔のことは覚えていない。いつから、どうしてこんなふうに戦っているのかも」
「……なんだと?」
「私だけではないぞ。我が軍の誰もが、何としてでも玉座を奪わねばという使命感に駆られながら、その理由を説明できない……。どうして私が王とならねばならないのか、誰も明確に答えられないんだ。これはやはりおかしな事なのだろうな?」
「……ものすごく、おかしいと思うが」
他に言いようもなく、オートルは答えている。
「昔からこんな状態だから、皆もう慣れてしまっているのさ」
リインは苦笑した。
「けれど実際、思い出せる一番古い記憶の中で、我々はすでにこうやって争っているんだ。古い、といってもそれが具体的にいつなのか、私にはわからないんだが」
「思い出す方法はあるのか?」
リインは首を振った。
「わからない。……思い出さない方がいい、という気もするんだ。それが本当に必要な記憶なのかどうか、私には分からない」
「そういうものか?」
「ああ。そこが違いと言えば違いだな。お主の記憶は、きっと必要なものなのだろう……。取り戻す術はあるのか?」
返された問いに、オートルは目を細める。
それも、娘たちが教えてくれた。消えてしまったオートルの記憶を補えるであろう、唯一の方法。
「百パーセント確実に、というわけにはいかぬが……。『月の石』を手に入れれば、おそらくは」
手に入れて、そして本来の身体に戻ることが出来れば。
魂の記憶と身体の記憶は、本来的には不可分のものだ。オートルのように不自然に分かれ、そして一方が欠けてしまったとしても、再びひとつに戻りさえすれば補い合うことが出来る。
思い出す、ことが出来る。
「そうか」
リインは微笑んだ。
「ならば、なんとしても『月の石』を手に入れねばならんな」
「……いいのか?」
ごく柔らかな物言いに、オートルは思わず尋ねてしまう。
「そなたはこの国の王女なのだろう? なぜ王座を守護する石を、外部の人間の手に渡しても構わぬと言うのか?」
むしろ――渡したいと望んでいるのか?
今更のようにオートルは気づく。『月の石』を狙う人間が現れた途端、事情も聞かずに案内する彼女の行為は。奪われても構わない、などという、生やさしいものではないはずだった。
積極的に、奪われることを望んでいる。
リインはしばらく答えなかった。ざわざわと静かな風に揺れる、遠くの木々を見つめていた。
「どうなるのか、知りたいのさ」
やがて、ぽつりとそう言った。
「王座を守護する石がなくなったら、この国はどうなるのか。我々の争いはどこへ行くのか……」
夜風に紛れるような、静かな声だった。吐息のように聞こえた言葉に、オートルはふと理解する。
始まりも終わりも分からない、理由すら見えない戦い。
この不思議な姫君はもう、それに疲れてしまったのだと。
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