千夜一夜編

第9話 恋と千夜一夜


『――――それで兄もとぼけた人だから、ポケットに穴が開いてることに気付かないまま、結局財布を落としてしまって』

『お兄さん、落ち込んだでしょう』

『そりゃあね。でも、何で鍵やら煙草やらスマホをぽろぽろ落とし続けていたのに、その原因がなんなのか、しっかり考えなかったのかって話ですよ。全部兄さんの自業自得だって言ってやりました』

『厳しいな。僕にも、厳しい妹がいますよ』

『妹さんがいらっしゃるんですか?』

『ええ。子供の頃から生意気で、僕のことなんかずっと舐めきってましたよ。五つも年が離れてるっていうのに』

『僕のことなんか、なんてやめましょうよ。栗林さんはしっかりした方です』

『そんなふうに言ってくれるのは、あなただけです。また、電話してもいいですか?』

『はい。辛くなったり寂しくなった時は、いつでも電話してください』

『ありがとうございます』



『――――そんなわけで、我が家ではバイクなんて絶対乗っちゃいけないって暗黙のルールができたんです』

『妹さんもいるんですね』

『はい。うち、結構大家族なんですよ』

『羨ましいな、そういう家庭。きっと賑やかだったんでしょう』

『賑やかなんてもんじゃないですよ。ごはんのオカズだって早い者勝ちで、ゆっくり食べてる暇さえないんですから』

『羨ましいです。うちは、いつも静かです。僕以外の人なんて、存在しないんじゃないかって、たまに思います』

『ご家族が、いつもそばにいらっしゃるはずですよ』

『僕を家族なんて、きっと誰も思っていませんよ』

『……寂しいことをおっしゃるんですね』

『…………また、電話してもいいですか?あなたと話していると、とて楽しいんです』

『ええ。また』



『今日は、園山さんなんですね。昨日は違う人だった』

『交代制になっているので、どうしても。でも、他の方たちだって、親身になってくれるし、とても頼りに――――』

『他の人なんてどうでもいい!僕は、園山さんと話がしたいんだ!』

『…………すみません』

『あぁ、こちらこそすいません。怒ったんじゃないんです。怖がらせるつもりもありませんでした……すいません』

『いえ。こちらこそ、栗林さんの気持ちも考えず、軽率なことを言いました』

『謝らないでください…………また、電話してもいいですか』

『――――はい』


  ◇ ◆ ◇


 ――恋ってどんなものだろう。

 最近よく考える。

 友人は『好きな人がいるだけで毎日が楽しくなる』という。

 別の友人は『辛いことも悲しいこともあるけど、一緒にいられるだけで幸せになる』という。

 きっとどちらも正しいのだろうけど、よく分からない。誰かをいいな、と思った経験すらないのだ。

 けれど最近、目を覚ましてスマートフォンを手にすると、心のどこかが、ことりと音を立てるような気がする。

 毎日送られて来る、くだらないメッセージ。

 それが、胸でかすかに音を立てているのかもしれない。


  ◇ ◆ ◇


 月森診療所の前に莉子は立っていた。今日は日曜日。休診日だが、清吾と大上と待ち合わせをしていた。福田舞の赤ちゃんを見に行くのだ。

 誘われた時は嬉しかったが、莉子は今になって躊躇していた。何度か会った程度の自分が行っては、やはり邪魔になるのではと思う。慣れない子育てをする舞に迷惑をかけたくなかった。

 一応準備はしてある。この日のために買っておいたクッキーとマドレーヌ。一生懸命選んだ、ミツバチの刺繍がかわいいスタイ――――よだれ掛けだ。

 小さなため息を落とすと、そこに大上がやって来た。手土産をしっかり持参している辺りがいかにも彼らしい。高校生男子とは思えない気遣いだ。

「おはよ莉子ちゃん」

「おはよう」

「暗い顔してるね。また悩んでたんでしょ?」

 大上にはすぐ言い当てられてしまう。そんなに顔に出ているだろうか。友人には無表情だとよく言われるのに。

「俺は莉子ちゃんのことよく見てるからね。莉子ちゃんのことならすぐ分かっちゃうの」

「……聞いてないのに答えないでよ」

 確かに心の中で考えていたし、頬に触れて不思議がったりしていたけれど。

 しばらくすると、清吾も診療所の方からやって来た。カルテの整理など、少し仕事をしていたらしい。待たせてしまったことを謝っていたけれど、莉子たちが待ち合わせ時間より早く来ただけで、清吾は時間ぴったりだった。

 三人はのんびり福田邸に向かった。



「待ってたわよ~。ほらほら、早く抱っこしてみて」

「むむ無理です。本当に、怖いです」

「結構大きいから抱っこしやすいもの。大丈夫よ~」

「でも私、こんなに小さい赤ちゃん初めてだし……」

 福田邸に着くなり熱烈な歓迎を受けた莉子は、産まれたばかりの赤ちゃんを抱く抱かないの押し問答を繰り広げていた。

 舞はどうにも我が子⋅ほのかちゃんを抱っこさせたいらしいのだが、頑なに断り続けていた。生後間もない赤ちゃんは、莉子が想像していたよりずっと小さく、ふにゃふにゃと頼りなく、触れただけでも傷付けてしまうのではと不安になる。

「舞さん、無理強いはやめなさい」

 見兼ねた清吾が口を出し、舞はしぶしぶながら諦めた。

 若干の疲労感を抱きながらダイニングテーブルにつくと、紅茶と焼き菓子がすぐに並べられる。莉子が持参したものだ。

 舞の家は、新築の匂いが微かに残る一軒家だった。柔らかく日光が差し込む居心地のいいリビングに、大切に使われている対面式のキッチン。落ち着いたインテリア。そこにベビーベッドやカラフルなオモチャが並ぶ様は、まさに幸せな家庭そのものだ。

 改めて、無事赤ちゃんが産まれたことに喜びを感じた。

「今までは赤ちゃんが欲しいばっかりで、育児の苦労なんて考えてもなかったけど。もう本当に大変よ~。世の中のお母さんたちを尊敬するわ」

 紅茶に口を付けながら舞が言った途端、ベビーベッドに寝かされていたほのかちゃんが泣き出した。彼女もすっかり慣れたもので、慌てる様子はない。

 夜もあまり眠れていないのだろう、舞の顔には疲労が見える。以前会った時のような瑞々しさはなりを潜め、全体的にくたびれた印象だ。心なし頬もやつれている。

 だが、舞は綺麗だった。もしかしたら以前よりも。

 瞳はいきいきと輝き、笑顔は幸せに満ちている。我が子を腕に抱く喜びが、彼女を前よりもずっと綺麗にしているのかもしれない。

「先生は、抱っこしなくていいの?」

「僕も遠慮します。怖いので」

「先生は子供に好かれやすいじゃん。泣かれたりしないと思うよ?」

 清吾は診療所に来る子どもたちから、とても好かれている。おちょくられている時も多いが。

「そういう問題じゃないと分かってるくせに。さっき庇った恩も忘れて」

 恨みがましく呟かれ、これ以上つつくのは危険だと判断する。清吾が怒れば、今度こそ生け贄よろしく差し出されるかもしれない。あんなふにゃふにゃで壊れそうな生き物を抱くなんて怖すぎる。

「でも二人とも、抱っこしないんじゃ、本当に見にきただけになっちゃうじゃない」

「本当に見にきただけのつもりなんだよ」

「はいはーい、俺は抱っこしてみたいです」

 大上が手を上げる。舞は顔全体を喜色に輝かせた。

「そうよね!そうこなくっちゃ!」

 大上が差し出した腕に、舞がそっとほのかちゃんを預ける。彼の抱っこは意外にも堂に入っていた。首のすわっていない赤ちゃんを、危なげなくあやしている。

 ――そっか。大上君には、弟さんがいたから……。

 年も幾らか離れていたから、よく面倒をみていたのかもしれない。彼は弟妹を可愛がりそうに見える。

「うわ、ちっちゃいね~。めっちゃ軽い。頑張って産まれてきたんだね~」

 大上が愛情に満ちた声で語りかけている。莉子は清吾と目を合わせた。怖いが、少しだけ近付いてみる。

「触ってみても、いいですか?」

 このまま眺めているだけではもったいない。大上を見ていたらそう思った。舞は嬉しそうに頷く。

 とはいえ、どこをどう触ればよいものか分からない。ふらふら指をさ迷わせていると、赤ちゃんがぎゅっと握った。

 小さい手には、小さい小さい爪がしっかり生えていて、なんだか感動してしまう。

「……意外に、力が強いんですね」

「そうよ。握力がなきゃママにつかまれないでしょう?」

「かわい~っ。莉子ちゃんの指離さないじゃんっ」

 三人ではしゃいでいると、清吾も後ろから近付いてきた。

「先生、すごくかわいいよ。ほら、先生も……」

 清吾の体に肩がぶつかったその瞬間、目眩が襲った。心の準備をする間もなく、脳裏に映像が閃く。


 雨の踏み切り。赤々と点滅する信号。灰色の傘をさした清吾の背中。その背に近付く影。真っ赤なマニキュアが塗られた女の手―――――。


「どうかしました?」

 いつの間にか清吾の服を掴んでいたらしく、彼が不思議そうに見下ろしている。

「…………ううん。なんでもない」

 清吾は予知のことを知っている。危険があるかもしれないと、彼に忠告すればいい。

 けれど、あの女性が誰なのか、莉子は聞けなかった。舞の家を辞し、大上と二人で送ってくれている間も、ずっと。



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