白雪姫編
第6話 白雪姫のおとしもの
帰宅途中、莉子のスマートフォンがうるさく鳴る。
『莉子ちゃん♡』
『今なにしてる?』
『会わない?』
『おーい』
相手は最近親しくなった友人だ。しかし連絡先を交換したことを、早くも後悔し始めていた。
『りっこちゃ~ん』
『返事しないとOKってことにしちゃうよ~』
友人は毎日メッセージを送ってくる。なんでもないような内容を、毎日。
徹底的に無視しようと思っていた莉子だったが、仕方なく返事をする。もう家も近い。これから出かけるなんてごめんだった。
『しつこい』
莉子の通う長渡高校から家まではそう遠くない。
偏差値も通いやすさも考えた上で、一番ぴったりな学校を選んだ。地元ではそこそこ有名な進学校だが、なんとか勉強にもついていける。
ゆるやかな坂を上っていくと、中腹に白い建物が見えてきた。遠目だと大きなお豆腐のような真四角の建物。年季が入っているため、近付く程にひび割れが目立つが、入口にかけられた看板が可愛らしく温もりを添えていた。
【月森診療所】
そう書かれた看板の右隅には、三日月と雲のモチーフが飾られている。この診療所には先日お世話になったばかりだった。
といっても莉子自身ではなく友人が、である。診療時間外にもかかわらず丁寧に治療してくれたお礼を、まだ言っていなかった。
ポン、と音がして、またメッセージが届く。
『冷たい莉子ちゃんも好き♡』
どっと疲れを感じ、莉子は診療所を見上げた。そして、すぐに指先を動かし始める。
『月森診療所に行くよ』
『お世話になったお礼言ってくる』
『しばらくメッセ不可』
メッセージを送ると、スマートフォンの電源を切る。莉子は月森診療所に足を踏み入れた。カラン、カランと、簡素な扉についた鈴が軽やかな音を立てる。
「こんにちはー」
「こんにちはー……って、莉子ちゃん!」
入ってすぐ、目の前にある受付には、子供の頃からすっかり顔馴染みの看護師がいた。
西条玲。十年近くこの医院に勤めているベテランで、日本人離れした太めの骨格を持ち、豊満で彫りが深い。ラテン系を思わせる迫力美人だ。何でも親身に聞いてくれる玲は、莉子にとって姉のような存在である。
診察室からは賑やかな子供の声が漏れ聞こえてくる。木工細工があちこちに置かれたこの診療所は、子供連れの患者が大半を占めていた。
待合室は時間帯もあってか空いていて、お腹の大きな女性が一人、のんびり雑誌を読んでいるだけだった。
「今日は、清吾先生?待たせてもらっていいですか?」
ほとんど隠居している先代が、この月森診療所を開いた人物。月森清吾はその息子で、診療所は親子二人で経営していた。
友人を診てくれたのは、その二代目の方だった。
「もうすぐ受付時間も終わるし、たぶん誰も来ないでしょ。今日は患者さん少ないから大丈夫だと思うわよ。若先生に用事?」
受付から出てきた玲が差し出したのは、ふんわり湯気の立ち上るミルクティだ。礼を言って受け取り、莉子は手近なソファに腰を下ろした。
「用事ってほどでもないんですけど、一言お礼を言いたくて」
そう言うと、玲はにやりと笑った。
「あぁ、それ聞いたわよ。莉子ちゃんたら、男連れ込んだんだって?」
莉子はぎょっとして頬を染めた。過激な言葉に危うくマグカップを落とすところだった。
「連れ込んだって……人聞きの悪い言い方やめてください」
診療所に怪我人を連れてくるくらい、おかしなことでもあるまい。からかわれたのだと分かる。
「若先生心配してたわよ~。莉子ちゃんに男ができたんじゃって」
「あの人は、本当に間違いなく100%友人です」
「やけに否定するのね」
「誤解されたくないんです。あの男とは特に」
毎日のメッセージ攻撃を思い出し、莉子は自然と渋面になる。ただならぬ気迫を感じたのか、彼女はこれ以上掘り下げることはなかった。
玲が仕事に戻り、疲れた息をつく。昔から男の子の友達が少なかったから仕方ないのかもしれないが、ここまで過剰に反応されるとは思わなかった。もし本当にカレシができたら、ご近所中に祝福されそうで恐ろしい。
鬱々と考え込んでいた莉子は、お腹の大きな女性の足下に花柄のハンカチが落ちていることに気付いた。
「……あの、落とされましたよ」
女性の物か分からなかったが、拾い上げて訪ねてみる。
「あらっ、私のだわ。ありがとう」
ファッション誌から顔を上げた女性は、はっとするほど綺麗だった。
年齢は二十五、六歳程だろう。優しげで甘い顔立ちの女性だ。肩口でふわりと揺れる艶やかな黒髪。小造りの顔と、ひときわ印象的な黒目がちの瞳。ミルクのように真っ白で曇りのない肌。愛くるしい薔薇色の頬、瑞々しく滴り落ちそうな赤い唇。淡い水色のマタニティドレスがとてもよく似合っていて、まるで絵本の中のお姫様のようだった。
女性は莉子を見つめると、にっこり花のように微笑んだ。そうすると、美人だが可愛らしい印象になる。
「本当にありがとう。これ、付き合いたての頃、主人に貰ったハンカチなの」
莉子は初対面の人と話すのがあまり得意じゃない。顔立ちがきついため、怒っていると勘違いされることがよくあった。けれど彼女はのんびりした性格なのか、年上の余裕なのか、無愛想な莉子の態度も気にならないようで、にこにこと微笑みを絶やさない。
待合室はがらがらだったが、離れた場所に座るのもおかしいと思い、莉子は女性のすぐそばに座った。
「あなたは、今日は?」
女性は世間話程度の気安さで問う。話しやすい雰囲気を作ってくれていると分かった。
「私はどこも悪くないんです。先日友人がお世話になったので、お礼を言うために。そちらは……」
「私は軽い捻挫。立ちくらみでね。赤ちゃんができてから貧血ぎみなの」
莉子はお腹の膨らみに視線を落とした。
「予定日はいつ頃ですか?」
「来月の十三日よ。初産だから無事に産めるかちょっと不安だけど」
その時、診察室から小学校低学年くらいの男の子が二人、飛び出してきた。
「こらっ、あんたたち!病院内で走っちゃダメでしょ!」
母親が叱りながら後を追う。すれ違いざま、莉子たちに申し訳なさそうに会釈をした。
女性は微笑んで会釈を返しながら、元気な子供たちを柔らかな瞳で見つめていた。
「でも、絶対無事に産んでみせるわ。ようやく授かった子供だから」
言いきった彼女の横顔は、眩しいくらい強い母親の顔。
その時突然、目眩を感じた。ずきずきした痛みにこめかみを押さえる。
「大丈夫?あなたも貧血?」
「そうかも……でももう平気、だと思います」
「本当に?無理はよくないわ」
莉子は気遣わしげな女性を見つめた。本当に、心の優しい人だ。
「お待たせしました。福田さん、どうぞ」
「あの、私よりこの子を先に。ちょっと具合が悪そうなんです」
診察室から出てきた看護師に、女性は立ち上がって答える。莉子は慌てた。この流れだと、なんだか大ごとになってしまいそうだ。
「本当に大丈夫です。もう、落ち着きましたから」
手を振って固辞すると、彼女は眉を寄せながらも納得してくれた。
「……分かった。お先にごめんね。でも、先生にちゃんと相談するのよ?」
しっかり念を押してから診察室に向かう華奢な背中を、莉子はじっと見送った。扉の向こうに消えて見えなくなるまで、ずっと。
「福田さんがどうかしたの?」
玲に不思議がられ、はっと我に返る。
「いや、可愛らしい人だなと思って」
「あらあら。女子高生が何言ってるんだか」
いまいち可愛いげのない自分にコンプレックスを抱いていることを、玲はよく分かっている。迫力のある美人に鼻で笑われては恥じ入るしかない。
「そういえば、春先に階段から落ちたことあったじゃない。あれはもう大丈夫なの?」
彼女は辛口で思ったことをずばずば言うが、なんだかんだ面倒見がいい。だいぶ前のことなのに覚えてくれていたのかと思うと、ありがたいし嬉しかった。
「ありがとうございます。もう平気ですよ」
「本当に?福田さんが言ってた立ちくらみっていうのも、それと関係してるんじゃないの?」
一瞬、玲の勘の鋭さに言葉が出なかった。
転落事故の後、莉子には大きな変化があった。突然他者の未来が視えるようになってしまったのだ。その際、少々の目眩と頭痛がある。今の立ちくらみもそれだった。
「……あの、福田さんって、この近所なんですか?」
月森診療所に来るのは地域住民がほとんどだ。
「そうよ。私も詳しくは知らないけど、若先生とは中学の同級生って聞いたわ」
「先生の…………」
しばらく他愛のない話をしていると、診察室の扉が開いた。先ほどの女性が会釈をしながら診療所を出て行く。玲に挨拶してから、莉子は入れ替わるように診察室へ入った。
「あれ、莉子ちゃん」
広くない部屋では、月森清吾が待ち構えていた。
銀縁の眼鏡に柔和な微笑み。清潔感のある柔らかな栗色の髪。白衣のよく似合う青年だ。
けれど莉子は知っている。彼が童顔を密かに気にしていることを。少しでも威厳が出るようにと、ほぼ素通しの眼鏡をかけていることを。
「莉子ちゃん、今日はどうしたの?どこか悪い所でも?」
穏やかに問い掛けられ、莉子は首を振った。
「今日はお礼が言いたくて来たの。この前は診療時間外に突然、すみませんでした。本当にご迷惑おかけしました」
丁寧に頭を下げると、苦笑が返ってきた。
「そんなの気にすることないのに。僕だって患者さんが心配だったし、なにより他ならぬ莉子ちゃんの頼みですから」
「先生……」
にっこり笑う清吾の優しさが胸にしみる。大量に送られてくるメッセージに心がささくれ立っていたから余計に。
「でも、意外でした。莉子ちゃんにあんな格好いいカレシがいたなんて」
「あれは、友人です」
きっぱりはっきり否定する莉子には、やはりただならぬ迫力がある。ついに『あれ』呼ばわりになっていることを噂の本人は知らない。
「先生も、私がモテないの知ってるでしょ」
「そう思ってるのは本人だけですけどね」
「? ごめんなさい、聞こえなかった」
「表だって騒がれないだけだと思いますよ。君を好きになる男はきっと、黙って何年も想っているようなタイプです」
「黙って、何年も、ねぇ」
出会った当初から軽々しく『好き』とか『かわいい』とか言ってくる知り合いの顔を思い出し、莉子は半眼になった。
「それより先生。相談があるんだけど、いい?」
改まった口調に、清吾は五十代半ばの看護師と目を合わせる。彼女は心得たように頷いて、そっと席を外した。
「もう受付時間も過ぎましたし、大丈夫ですよ。僕でいいなら何でも話してください」
促されても、莉子はなかなか言い出せずにいた。何から伝えればいいのか散々迷った末、覚悟を決めて口を開く。
「先生……私の事故の話は知ってるよね?」
意外な質問に清吾は首を傾げながらも、真面目に答えてくれた。
「ええ……確か、階段から落ちたと聞きましたが」
「特に外傷がなかったのに、三日も目を覚まさなかったっていうのも、聞いてる?」
自宅の階段を不注意から踏み外すという、間抜けだが何てことない出来事だ。しかも階段の半ばからの転落だったので、大した事故でもなかった。なのに、莉子は三日間病院で寝たきりだったという。
その時のことはよく覚えていない。目を覚ました時には、すでに病院のベッドの上だった。
回復後、全身くまなく検査をしたが、特に後遺症もなく、莉子はすぐ退院した。予知の力に気付いたのは、退院してまもなくのこと。
「先生……私がその事故で、予知能力に目覚めたって言ったら、信じる?」
莉子の一言に、清吾は目を見開いた。そして悲壮な顔をして、おもむろに頭に触れる。
「――――やっぱり、まだどこか悪いんじゃ。頭部のCTはちゃんと撮ってもらったの? 」
「ちょっと。私だってこんなこと冗談でも言いたくないよ。言ってる方も結構恥ずかしいんだからね。私は正常です!」
断言すると、清吾は目に見えて安堵した。
「よかった。間違いなくいつもの莉子ちゃんですね」
「―――――」
いい加減失礼である。
「私は真剣に話してるの。例えばさ、大きな事故の後、予知能力に目覚めちゃった―――なんて患者さん、今までいなかった?」
「予知、ですか……」
「って言っても、大したことが分かるわけじゃなかったの。始めは頭に浮かぶのが何なのか、分からなかったくらい」
異変に気付いたのは、実に些細なことからだった。
その日の朝食だとか、母親が髪を切ることとか。妹のお気に入りのヘアゴムが洗面台と洗濯機のすき間に落ちている、だとか。
「目眩と一緒に、ぼんやりイメージが浮かぶの。写真っていうか、もっと断片的で……ジグソーパズルみたいな」
映像が視えると、その二、三日後くらいに全く同じことが起きる。始めは自分でもあり得ないと思っていたが、何度も重なれば否定もできなくなった。
「どんな時にそれは視えますか?」
「相手に触れてる時とか、突然視えたりする。あと、視たいと思ってその人をずっと見つめてると浮かんだりする。でも、原理はまだよく分からないの」
清吾は顎に手を当てて考え込んだ。一応真面目に取り組む気になったらしい。
おっとりした見た目に反して彼は理論的な人だ。急に信じてほしいと言っても無理だろうと思っていたから、真摯に向き合ってくれるだけで嬉しい。
清吾は顔を上げると、医者特有の何もかも見透かすような目で莉子を見た。
「今、僕を視ることもできますか?」
ここでできなければ信じてもらえないことくらい分かるので、莉子も頷いて応じた。
しばし無言で見合っていると、急に目眩がして、雪の欠片のように、ひらりと脳裏に閃くものがあった。
「長ネギとお麩のお味噌汁、マカロニサラダと、豚のしょうが焼き。これは……今日の、夕飯?」
清吾の目に、初めて興味の光が灯った。
「……すごい。正解です。長ネギはだいぶ前に買ったものだから早めに使ってしまおうと。マカロニサラダは昨日の残りです。豚肉は、頂き物のりんごをすりおろして、休憩の時に漬け込んで来ました」
すりおろしりんごに肉を浸けるのは、おいしくなくなったりんごの活用法として、この辺りではよく取られる手法だ。りんごの酵素でどんな肉でも柔らかくなる。
しかし、それはともかく。
「先生……なんか所帯じみてる」
母親を早くに亡くしたせいか、すっかり主夫らしくなっている清吾にがっくりした。
「ほっといてください。家事が好きなんです」
言いながら、清吾は自らの手の匂いをくん、と嗅いだ。
「何してるんですか?」
「いえ、もしかしたら手に豚肉の臭いが残っているのかと」
「本当に、つくづく失礼だよね」
まぁ無理もないとは思う。
もし同じ立場だったら、莉子だってまず疑ってかかるだろう。ここまで露骨には態度に出さないけれど。
「ほとんどは推理です。先生は仕事の合間で忙しいから、昼食ではないだろうなって。今日の夕飯っていうのは単なる当てずっぽう。明日でも明後日でもあり得たから」
視たことが近い内現実になるとしても、それがいつ起こるかまでは分からないのだ。
「なるほど。頭に浮かんだ情報を精査し、自分で組み立てていく必要があるわけですね」
何やら納得しながら清吾は頷いた。
「では僕も真面目に答えましょう。君のような例を見たことはありませんが、医学的な観点から言わせていただくと、十分あり得ることだと思います」
彼の態度の落差についていけず、莉子は目を瞬かせた。
「僕は専門外ですけどね。普段生活している中で、人間の脳は僅か数%しか活動していないという話、聞いたことありませんか?」
「……うーん。テレビの特番か何かで、聞いたことあるかも」
例えば、トップアスリートは集中を極めた時、瞬間的に普段使われていない脳の一部を働かせることができるらしい。するとボールが止まって見えたり、全てがスローモーションに感じたりするとか。いわゆる『ゾーン』というやつだ。
他にも天才と呼ばれる学者や芸術家は、一般的な人とは脳の機能している部分が違ったりするらしい。
「大きな事故で頭を打ったりすると、今まで使われていなかった脳の一部が活性化されるという事象もあるそうです。まれな例ですがね」
清吾は、同じようなことが莉子の身に起こったと言いたいらしい。
「でもそれって、未来が分かるようになったりするわけじゃないでしょ?」
「そうですね。記憶力が飛躍的に増したり、絵が突然上手くなったり、不可思議な力じゃないことは確かですね」
そこで清吾はふと眉を寄せた。
「でも心配だなぁ。もしかしたら脳に僅かな損傷があるのかもしれません。MRIでは本当に異常なかったんですか?」
「検査は嫌ってほどしたから大丈夫」
「急に頭が痛くなったりしたら危険な兆候です。すぐに知らせてくださいね」
清吾は医学的見地から、しきりに心配している。予知が視える時にひどい目眩と頭痛がすることを、莉子は意図的に隠した。
「それより先生、信じてくれた?」
これには医学書を開こうとしていた清吾の手も止まった。そうして、難しい顔をしながらも答える。
「僕が信じる信じないはともかく、実害はなさそうだし、気にしなくていいんじゃないですか?」
莉子は一拍置いて言い返した。
「実害があるかもしれないと思ったから、先生に相談しようって決めたの」
「え?」
「さっきの妊婦さん、先生の同級生だったんでしょ?少し待合室で話してたんだけど――――視えちゃったの」
清吾の顔が目に見えて強張った。
「視えたのは、原付を二人乗りしてる男二人。その手には黒のショルダーバック。それと、暗い道端に座り込んでるあの人」
断片的な映像だったが、これらから連想する事柄はそう多くない。清吾も、全く同じ結論に行き着いたらしい。表情を失った顔は少し青ざめていた。
「もしかして――――ひったくり?」
からからに乾いた声に、莉子は、迷いながらも頷いた。
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