第7話 白雪姫のおでかけ

 彼女の名前は福田舞。二十九歳。

 夫は中学校の同級生で、夫婦仲は円満。

 舞は生まれつき子供が流れやすい体質だったらしく、以前流産を経験しているという。数年は子宝に恵まれなかったが、夫と協力しあい、長く不妊治療を続けてきた。

 その甲斐あって、今回待望の出産を間近に控えているというわけだ。

 清吾には放っておいていいと言われたが、心配にならないはずがない。

 本当にひったくりかどうかの確証もないが、もし現実になったら。ただでさえ安静にしていなければならない体を、もし乱暴に突き飛ばされでもしたら。

 考えれば考える程悪い想像をしてしまう。かといって、予知なんて非現実的な忠告をしても、こちらの頭を疑われるだけだろう。 

 診療所を出た後も、莉子はとにかく悩んでいた。すると遠くから、自分の名を呼ぶ声がする。

「莉子ちゃーん!」

 莉子は、診療所に行く前の悩みの種を急速に思い出した。

「莉子ちゃん!」

「大上君……」

 息を切らしながらやって来たのは、大上樹だった。莉子のスマホを騒がしく鳴らす張本人だ。

「莉子ちゃん、もう行ってきたの!?莉子ちゃんが行くなら俺も行くって、何度も連絡したのに!」

「あ、ごめん。電源切ってた」

「ひどいっ」

「いや、病院なんだし当然でしょう」

 大上は不満そうにしたまま動く気配がない。莉子は月森診療所を指差した。

「行かないの?」

「莉子ちゃんが終わったんなら、俺もいいかな。こないだ菓子折り持ってちゃんと行ったし」

「……じゃあ何で一緒に行くなんて言ったの」

 言動が意味不明だ。覗き込もうとすると、大上はぷいと顔をそむけた。もう一度顔を見ようとしても逃げられる。莉子は何となく悔しくなってしつこく追い掛け続けたが、大上もとにかく逃げる。端から見たら診療所の前で何を、と思われるに違いない。

 馬鹿馬鹿しくなって無言で歩き出した莉子を、顔を上向けた状態だった大上は慌てて追いかけてきた。そして、拗ねたように呟く。

「……ごめん。ここのセンセ、結構イケメンじゃん?何か心配になっちゃって……」

 莉子は大上を見上げた。子供のように唇を尖らせた彼の頬は、うっすら赤くなっていた。

「……バカじゃない」

「ひどいっ」

 莉子は赤くなった頬を見られないよう、早足で歩いた。


  ◇ ◆ ◇


 次の日。莉子はまた大上と会っていた。というより、帰宅中だった所に彼が勝手に付きまとっていた。 

「莉子ちゃん、そんな急いでどこ行くの~?」

「別に急いでないけど」

「もしかして、また月森診療所?」

 まだ昨日の話を引っ張るのか。

「大上君て、本当に馬鹿なんだね」

 振り向いてしみじみ呟くと、彼は固まった。 

「改まって言われると結構傷付くんだけど……」

 ちなみに彼の通う星田高校も、莉子の高校程じゃないが進学校だ。

「先生とはもう十年以上の付き合い。四歳の頃から知ってる近所の子供を、向こうが好きになると思う?あの人もう三十歳だし」

「でも莉子ちゃん、カワイイし」

「そんなこと言うのは大上君だけだってば」

 莉子は再び歩き出す。

「――大上君。私、また視ちゃったんだ」

 前を向いたまま呟いた。彼はすぐに察すると、打って変わって神妙な表情になる。

「予知?今度は、どんな」

 莉子は昨日視た予知を事細かに説明した。

「今回は相手が妊婦さんだったから、直接本人に言わない方がいいと思うの。心配させるようなこと言ったら、胎教に悪いかなって」

「逆に信じてもらえなかったら、普通に外出しちゃって意味ないだろうしね……でも、家から出ないのが、一番安全だよね」

「だよね。……やっぱり、言ってみた方がいいのかな」

 外出しないよう説得するには、やはり予知のことを話した方が早い。変人だと思われるだろうが。

 大上は安心させるように優しく笑った。

「今回は俺もいるじゃん。言いたくないなら言うことない。二人揃えば影から守ることも、きっとできるよ」

「大上君―――――」

 舞の胎教に悪いから話さなかったのは本当だ。

 けれど予知なんて言って、おかしな顔をされるのではと怖くなったことも、本当。

 大上に出会ったからだ。彼が馬鹿みたいな話でも真面目に聞いてくれたから、焦る気持ちがなくなった。認めてもらいたくて、なりふり構わずやっていたことが、できなくなった。莉子は欲張りになったのかもしれない。

「ありがとう大上君。……私、あなたがいるから、頑張れる気がする」

 そう言うと、大上が固まった。

「どうしたの?」

 立ち止まった大上は、震える両手で顔を覆い俯いてしまった。何かに激しく落ち込んでいるようだ。

「莉子ちゃん………それ完全に殺し文句。もうホント、俺のこと好きでしょ」

「……何言ってるの」

 心配するとこれだ。

「俺がいるから頑張れるんでしょ?よく考えてみてよ!それって俺が莉子ちゃんにとって、特別だってことじゃないの!?」

 細かく指摘され莉子は怯んだ。自分の気持ちを詳しく分析したことがなかった。

「…………うーん。分かんない。人を好きになるってどんな感じか、知らないし」

「もーじれったい。莉子ちゃんマジメに考えすぎ。もっと流されちゃえばいいのに」

「……子どもっぽくて悪かったね」

「全然。そこがカワイイんじゃん。てゆーか莉子ちゃんがマジメなおかげで今フリーなわけだし」

 大上は不思議な人だ。莉子が自分の短所に思っている所も、何もかもいい所だと解釈してしまう。彼の優しさにどれだけ救われているだろう。

「とりあえず莉子ちゃん。その福田舞さんの住所とか分かるの?」

「一応聞いたけど、先生は放っておいていいって……」

 莉子が言い淀んでいる内に、なぜか大上の声が強ばった。

「……莉子ちゃん。もしかして、先生に予知が視えること、話した?」

「うん。先生と福田舞さんが中学の同級生らしくて、それなら先生から色々聞き出せるんじゃないかと思って」

 ただ聞きたがったら不審に思われる。勇気を出して清吾に打ち明けるのが一番だと考えた。

「ふーん……」

 なぜか大上は面白くなさそうだ。不思議に思っていると、彼の肩越しに、遠くを歩く女性の姿が目に入った。咄嗟に大上の口を塞ぐ。

 ふんわりした黒髪の、華奢な女性。福田舞だ。

 彼女のお腹が大きくなっているのを見て、大上はすぐに察した。 

「……あの人が、例の?」

 彼の呟きに頷いて答える。

「どこに行くんだろう……」

 莉子が視た予知は、全体的に薄暗かった。日が暮れてからの出来事なのだろうと思う。すでに午後4時を過ぎている。秋も深まり、日没が日に日に早くなっていることからも、警戒が必要な時間帯だ。

 視線の先で、舞が角を曲がろうとしている。この期に及んで迷っている莉子の腕を、大上がぐいと引いた。

「行こう」

 悩んだ末に、莉子は頷いた。ただですら気になっていたのに、もう放っておけるはずもなかった。

 舞がふらりと立ち寄ったのは、いわゆる複合型の買い物施設だった。和菓子店をのぞいたり、のんびりウィンドウショッピングを楽しんでいる。

 今日の彼女は淡いピンク地のマタニティドレスを着ていた。小花柄で、やっぱりよく似合っている。

 幸せそうな笑顔。できることなら、このまま何も起こらなければいい。この笑顔が曇らなければいい。昨日少し話しただけの莉子ですらそう思うのだから、彼女の夫や家族、友人知人は尚更だろう。

 何とか舞に近付き、夜の一人歩きはしないよう忠告できないだろうか。

 花屋の店先で店員と話している姿を見つめながら考えていると、舞が不意に振り返った。

「!」

 今さら隠れてももう遅い。ばっちり目が合ってしまった。

「あら、昨日の……えーと」

「…………有坂です。有坂莉子」

 舞は手を振りながら親しげに近付いてくる。莉子と大上も観念して物陰から出た。

「莉子ちゃんね。そういえば、お互い名乗ってなかったかも。私は福田舞。莉子ちゃんより十歳以上年上よ~」

 彼女の名前も年齢もすでに知っていた莉子は、少々後ろめたい気持ちで頷いた。

「ところで何してたの?かくれんぼ?」

「う」

 まずい。物陰から見つめている姿を目撃されてしまったのだった。これでは正真正銘ただの不審者。視線を泳がせるが、うまい言い訳が浮かばない。あたふたしていると、肩に大上の手が置かれた。

「実は最近、この辺暗くなると変質者が出るらしいんですよ。ブラブラしてたら偶然福田さん見かけて、そしたら莉子ちゃん、福田さんが綺麗だから心配だって言うんです。何か一言でも忠告できればいいなーって二人で見てました」

 変な女だと思われるのを覚悟した莉子が口を開く前に、大上がにこやかに口を挟んだ。これなら不審がられないし、舞も夜の一人歩きを自重する。その手があったかと思う程うまい作り話だった。

「あら、あなたは?」

「大上樹です。莉子ちゃんのカレシです」

 大上が朗らかに嘘をついた。莉子は即座に否定する。

「違います」

「に、なる予定です」

 しつこく食い下がる大上に、舞は目を輝かせた。 

「素敵!莉子ちゃん、カッコいいカレシね~。情熱的だし。もしかしてデート中だった?」

「違います」

「そうです!」

 二人の声がぴったり重なった。舞はおかしそうに笑う。

「とっても仲がよさそうね」

 何を言っても彼女は笑うばかりだ。

「莉子ちゃん、心配してくれるのは嬉しいけど、私はあなたの方が心配よ?こんなお腹の大きなおばちゃんより、若くてかわいいあなたの方が狙われるんじゃないかしら」

「大丈夫ですよ。莉子ちゃんは俺が家まで送りますから。それより福田さん、もしよかったら俺、荷物持ちやりますよ」

「いいわよ、デートのジャマしちゃ悪いもの」

「妊婦さんに重い物持たせる方が悪いですよ。なに買おうとしてたんですか?」

 なるほど。荷物持ちを率先してやることで、自然に家まで送れるというわけだ。さすがに大上は機転がきく。

 舞は少し言いづらそうに答えた。

「えっと……ちょうどお米がなくなりそうだったから、買いに来ようかなって。あとお醤油とお砂糖も」

「――――何でよりによって全部重い物なんだよ」

 聞き覚えのある声が、素っ気ない調子で口を挟んだ。

「先生……」

 莉子の背後から歩いてきたのは清吾だった。

 紺色のポロシャツに細身のベージュパンツというラフな格好だ。白衣を脱いでいるためかなり若く見える。それだけでもいつもと違った印象なのに、眉間にしわを寄せて厳しい顔をしていることにも少し戸惑った。

「こんな遅い時間に何で買い物してるんだ?透は帰ってないのか?」

 清吾のそんな口調も初めてだ。

 莉子たちを置いてきぼりにして、二人の会話は進んでいく。

「透君、今日は会議で遅くなるんだって。最近残業ばっかりだし、土曜日も出社してるのよ。どうせ一人でいても暇だしと思って」

「日曜に透と来ればいいだろ。自分の体のことちゃんと考えろ」

 頭が痛いとばかり、清吾がため息をつく。舞は困ったように微笑みながらも、悪びれる様子はない。

 流れから、『透』というのが舞の夫であることが分かる。『先生』じゃない清吾を見るのは初めてだった。中学校の同級生とはこんなふうに話すのか。

 黙って見守っていると、舞が振り返った。

「そうそう莉子ちゃん、大上君。うちの主人と月森君、幼なじみなのよ。私たち、三人揃って中学では同じクラスだったし。びっくりした?」

「……幼なじみ」

 清吾と福田舞の夫が幼なじみだったとは。

 同い年で地元も一緒。近い存在であるのは当然のことなのに、莉子は少しも思い付かなかった。

「あの頃は私たちも、こんなに長いお付き合いになるなんて、思わなかったわよね~」

「本当に。これぞまさに腐れ縁ってやつだな」

「それはこっちのセリフです~」

 二人の会話の端々に、長年付き合ってきた気安さが見て取れる。

「月森君、何してたの?もしかして莉子ちゃんのストーカー?」

「下衆な勘繰りだな。どんどんおばちゃん化してるぞ、お前」

 軽妙なやり取りに入る隙間はなかった。清吾が遠い存在に感じる。

「とにかく。さっき大上君が言ってた変質者の話、本当に注意した方がいいぞ。お前は身重なんだし。あと、重い物を買うなら僕が家まで運んでやる。それならデートの邪魔にもならないだろ」

「え~、だから大げさだって……」

 それでも遠慮しようとする舞のスマホが鳴った。了承を得て通話を始める。

「あ、透君?え……本当に?うん、買い物~……分かった、入口の所にいるね。はーい」

 話の途中から、明らかに舞のテンションが上がった。内容を聞いていればどんな用事だったか大体見当がつく。

「透君、もう会議終わったんだって!買い物してるなら今から迎えに行くって!」

 通話が終わった途端、舞ははしゃいだ声を上げた。本当に夫が好きなのだろう。とても分かりやすい。

「じゃあ、俺たちはこれで。デートのジャマしちゃ悪いんで」

 大上はすぐに引いた。夫が来るならもう心配はない。

「そんな。よかったら主人に会っていって?あの人も喜ぶわ」

「すいません、あんまり遅くなったらまずいんで」

 確かにそのとおりなので、莉子も頷いておく。

「そっか、そうだよね……月森君は?」

「僕はこの二人を家まで送り届けるよ」

「透君に会っていかないの?」

「いいよ。どうせ子どもが産まれたら会いに行くんだし」

 舞は残念そうにしていたが、それならと諦めた。別れ際、赤ちゃんが産まれたらぜひ会いに来てほしいと莉子たちも誘ってくれた。本当に優しい人だ。

 舞と別れ、莉子たちは店舗の外に出た。空はすっかり暗くなっている。隣を見ると、清吾は疲れたように息をついていた。やっと莉子のよく知る『月森先生』だ。

「莉子ちゃん、放っておいていいって言ったのに。君って本当に――――」

「何」

「クールなのは、表面だけなんだよね」

「……表面って言い方やめてください」

 大上が清吾に横目で視線を送る。

「つーか先生こそ本当は、福田さんのこと見守ってたんでしょ」

「…………」

「だって、あんなタイミングよく現れて、怪しすぎ。心配なんだって素直に言えばいいのに」

 清吾は決まり悪そうだったが、その反応こそが図星である証拠だ。莉子の予知自体は半信半疑でも顔なじみが危険かもしれないなら、こうして腰を上げるのだ。月森清吾らしいと思う。

「先生、もう帰っていいですよ。莉子ちゃんは俺が責任もって送りますから」

「いえいえ。子どもだけだと心配ですし、一緒に送ります。大上君、君もね」 

「やだ~ジャマしないでよ~」

「学生の健全なお付き合いは明るい内に、ですよ」

「ホンット先生さぁー……」

 男二人が何やら揉めているが、考え事をしている莉子は全く気付かない。

 しばらくすると、清吾が肩を叩いた。

「まぁ、夜は出歩かないよう注意できましたし、これで予知とかいうものも変えられたんじゃないですか」

「―――――どうかな」

「え」

 莉子はさっさと歩き出した。慌てて付いてくる清吾と大上の気配を背中に感じながら、舞のことを思い出す。

 見たかぎり、彼女は優しい雰囲気の服装を好むようだ。淡い色合いや、控えめな小花柄。素材も飾らない、着心地を重視したものを。

 それはお姫様のような舞によく似合っていたけれど、一つだけ、気になることがあった。昨日視た予知で、舞はシックな無地の服を着ていたのだ。些細なことかもしれないが、今までの印象から外れているので妙に引っかかる。そこに何か、意味があるのかもしれない。

 それに、先程の花屋での行動。

 あれだけ店内を見ておきながら花を買わなかったのはなぜなのか―――――。

 莉子の推測が正しければ、花が必要なのは今日じゃないのだろう。だとしたら、彼女は忠告を振り切り、どんな時間だろうと必ず外出するはずだ。

「『どうかな』って、どういうことですか?」

 思索にふけっていると、清吾が隣に並んだ。大上もだ。本当に二人とも家まで送る気らしい。

「あの、一人で大丈夫だよ」

「ダメだよ。莉子ちゃん女の子なんだから」

「でも近いし……」

「近くても心配ですから」

 大上と清吾にかわるがわる説得される。これでは女の子扱いというより子ども扱いな気がする。

「それより莉子ちゃん、さっきの『どうかな』って一体……」

 少し思案したのち、莉子は清吾を見上げた。情報を整理すると答えは絞られる。

「先生、立ち入ったことを聞いてもいい?舞さんたちが――――……」

 莉子の問いに、清吾と大上はみるみる表情を硬化させた。たった一つの質問から、こちらの意図が読めてしまったのだろう。

「確か――――明日、だったと思い、ます」

 清吾は絞り出すように答えた。

「明日……」

 莉子はもはや躊躇わなかった。真っ直ぐ清吾の瞳を捉える。

「先生。明日の診察、おじいちゃん先生に変わってもらえる?」

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