第8話 白雪姫のねがい
土曜日の昼下がり。
ちらほらと人の姿が見られる簡素な駅舎内に、グレーのシンプルなマタニティドレスを着た舞がいた。抱えているのは白や黄色でまとめられた花束だ。
清吾たちの忠告を聞くなら、もっと早い時間に家を出るべきだったのだろう。だが、夫を送り出してから掃除に洗濯、夕食の下ごしらえをし、その上花を買いに行っていたら結局この時間になってしまった。
舞は、料金表と見比べながら券売機にお金を投入する。もたついていると、長く繊細な指が横から伸びてきて、勝手に購入ボタンを押してしまった。驚いて顔を上げると、そこには見知った姿があった。
「月森君…………」
グレーのポロシャツに黒のチノパンを合わせた格好の清吾だった。傍らには知り合ったばかりの莉子と大上までいる。
「何で…………」
「透のおばさんの田舎、昔聞いたことあったから」
清吾は、ゆっくりと舞を見下ろした。
「ここから稲荷山駅まで一時間ほど。往復なら二時間。今から行けば、帰る頃には確実に日が暮れる」
抑揚なく話す清吾に表情はない。咄嗟に、止められる、と思った。止めないで、とも。だが、彼の行動は舞の予想を裏切った。
なんと清吾は、券売機で三人分の切符を購入したのだ。行き先は舞と同じ、稲荷山駅。
「……どうしても行きたいって言うなら、止めない。でも一人では行かせられない。僕たちも一緒に行く」
舞は目を見開いたまま、しばらく動くことができなかった。頭も働かない。視線だけ動かすと、莉子の手にも花が抱えられていることに気が付いた。
目に痛いくらい白い花々―――――仏花だった。
◇ ◆ ◇
『舞さんたちが初めての赤ちゃんを亡くした日付って、正確に覚えてる?』
昨日、莉子が清吾へした質問はそれだった。
予知で視た舞の服装、花屋での様子から、彼女は誰かの墓参りに行くのではないかと推測したのだ。
わざわざ身重の体をおして行くのだから、舞にとってとても重要な相手だろうと思った。彼女の気持ちになって考えると―――――流産してしまった子供が、一番しっくりきた。
今年の子供の命日は土曜日だった。行こうと思えばその翌日でも行けるだろうが、舞は日取りをずらさないと思った。予知を視たからというのもあるが、今まで接してきた彼女の性格から、今年だけはきちんと命日に行きたいのではないかと考えたのだ。
待ち伏せするのはさほど難しいことではなかった。舞は運転できるが、大きくなったお腹で遠出はしないだろう。清吾が友人の故郷を知っていたので、舞が最寄り駅から電車に乗ることは予想がついた。あとは駅舎が見える近くの喫茶店で粘るだけだった。
「どうしても、今日じゃなきゃダメだったの」
莉子たちは、駅を出て三十分ほどタクシーに揺られた先にある、山の中腹に向かっていた。
目に映る何もかもがのどかな田舎だった。口の中でほろほろとほどけてしまいそうな日差し。かすみのような雲は、天女の羽衣のように向こうの空が透けて見えている。紅葉が既に始まっていて、空の青との対比が美しい。ガードレール越しに見下ろす麓の町が、ジオラマのように見えた。
さほど高くない山には民家が点在していて、曲がりくねった道がどこまでも続いている。途中、いくつもの細い道が伸びていて、その一つの前でタクシーを降りた。舗装のされていない険しい道だったため、車では入れなかったのだ。
「そりゃ透も反対するだろ。こんな山道じゃあ……」
「本当はね、月森君も反対すると思ってたのよ」
「事前に相談されてたら、間違いなく透に話してただろうな」
「やっぱり?」
話しながら一行は、雑草で覆われた急な斜面を上っていく。頭上をアーチのように木が繁っていて、柔らかな木漏れ日が頬に当たる。一応道らしい作りになっているものの、ほとんど登山に近い。歩きやすい格好でもきついのだから、妊婦の舞には相当辛いはずだ。だが、彼女の顔に疲労のかげりはない。それに気付いた時、莉子は唐突に悟った。
ふわふわした雰囲気の、花のような女性だと思っていた。童話のお姫様のようだと。でも、それだけじゃなかった。彼女は、ただ王子様が迎えに来るのを待っているだけのお姫様じゃない。自分で自分の幸せを、掴み取りにいける人なのだ。
そういう芯の強さを、彼女の夫も好きになったに違いない。
「透君もね、お休みだから日曜になったら行こうって、言ってくれたんだけど」
清吾と大上に両脇を支えられながら、舞は自分の足で歩ききった。高い木々で木陰ができていた山道が開け、一気に光が射す。そこには、大小さまざまな墓石が立ち並んでいた。
「……こんな山の中に、お墓があるんだね」
大上が莉子に聞こえるくらいの声量で呟いた。墓石の前に立つ舞の邪魔にならぬよう配慮したのだろう。
「そっか。大上君、都会育ちだもんね」
お墓というと寺や霊園にあるものと思われがちだが、田舎ではなんでもない場所にお墓があったりする。実際、山に登る道中も、いくつもの墓石群が見られた。先祖代々の土地に、先祖代々の墓。ここには、舞の夫の先祖が代々供養されている。なので、何百年以上も前の苔むした墓石から、風雨に晒されすっかりつやを失った墓石まである。
その中に、墓石とも呼べないような小さな石があった。
小さな小さな墓石の下に眠っているのは、舞の初めての子供。元気に産んであげられなかった小さな命。
「……日曜じゃ、ダメなの。この子にとっての妹が産まれるから、だからどうしても、ちゃんと命日にお参りしたかったのよ」
舞が優しく囁く。まるで、眠る我が子に話しかけるように。
「自己満足だってことは分かってる。この子を忘れて生きるつもりもないわ。だけど私たちは、この先も進んでいくんだから」
彼女が一つの区切りとして今日に臨んだ気持ちが分かる。柔らかな光に包まれた横顔が、今までよりずっと綺麗に見えた。
「――――付き合ってくれてありがとう。さぁ、行きましょうか」
顔を上げた舞はすっきりしていて、どこか吹っ切れた様子だった。静かに、長い時間手を合わせ続けた彼女は、一体何を思っていたのだろう。結婚したことも、まして子供を産んだこともない莉子には想像がつかない。
ただ、この強く優しい女性が、無事に出産できるといい。
優しい日だまりの中、痛切に願った。
帰途に着き、莉子たちは住み慣れた町に戻ってきていた。
辺りはもう薄暗く、家々には団らんの光が灯り、どこからかカレーの匂いがする。ありふれた、いつもと変わらない情景。たった数時間のことなのに帰ってきたなと感じる。
「わざわざ送ってくれなくていいのに」
人通りの少ない路地を歩きながら、舞が申し訳なさそうに振り返る。気にしなくていいと、莉子たちは首を振った。
「今は気を張ってるから分からないけど、体は疲れてるはずだから。遠慮しなくていい」
「それに福田さん、貧血気味ですし」
「遠慮しないでみんなで帰りましょー」
そもそも、ひったくりに遭うかもしれないから舞の動向を気にしていたのだ。当初の目的のために家まで送るのは当然だった。
舞の歩調に合わせてゆったり歩きながらも、莉子は周囲の警戒を怠らなかった。もしひったくりが現実に起こるなら、原付のエンジン音が真っ先にするだろう。それを聞き逃さないよう、特に聴覚を研ぎ澄ます。
今の所、時折車が通り過ぎるだけで危険はない。
もうすぐ舞の自宅だという。予知がはずれたら清吾と大上を振り回しただけになってしまうが、このまま何事も起こらなければそれが一番いい。点在する心許ない街灯を見上げながらぼんやり考える。
その時、莉子の耳が荒いエンジン音を拾った。車とは明らかに異なる音。のんびり歩く舞に気付かれないよう、清吾と大上に目配せする。彼らもかすかに頷いて返した。
何食わぬ顔で清吾は一行の最後尾に、大上は舞を庇うように車道側へと立つ。
ちらりと背後を見やると、二人乗りの原付バイクがぐんぐん近付いて来ている。原付の二人乗りはもちろん違法だ。
暗くてよく分からないが、二人はフルフェイスのヘルメットを装着しているようだった。そのため人相は分からないが、服装から見てどちらも莉子と同年代の少年だろう。
エンジン音がすべるように近付いてくる。否が応にも緊張は高まる――――……。
「キャア!」
思いがけない悲鳴に振り返ると、莉子たちよりずっと後ろを歩いていた女性が、くずおれるようにしゃがみ込んでいた。その横を通り抜けるバイクの後部座席の少年が、バッグのような物を掴んでいる。一瞬、何が起きたか分からなくなった。
けれど大上は冷静だった。原付の二人組が近付いてくると、通り過ぎざま、少年の手からバッグをひったくったのだ。
バイクに引きずられかねない危険な行為だったが、少年らは背後の女性にすっかり気を取られていたらしい。案外あっさりバッグを取り戻すことができた。
二人組は何やら口汚く罵っていたが、逃げる方が先決と、慌てたようにスピードを上げる。あっという間に角を曲がって見えなくなってしまった。
「フルフェイスのメットだから、なに言ってるか全然分かんなかったね」
大上がにっこりと余裕の笑みを浮かべる。
莉子と舞はただひたすらポカンとしていた。おそらくバッグを奪われかけていた女性もだろう。
「そうだ、あの人――――」
倒れている女性に怪我はないか、莉子は急いで振り返る。既に清吾が駆け寄っていて、手を貸して助け起こしている所だった。女性には幸い、目立った怪我はなかった。大上がバッグを差し出す。
「どうぞ。大丈夫ですか?」
「あ…………ありがとうございます」
女性は大上を見て、少し頬を赤らめた。
「今は異常がなくても、あとになって痛む部分が出てくるかもしれません。そうなる前に病院へ行くことをおすすめします。よろしければ、最寄りの月森診療所をご利用ください」
自院の宣伝をする抜け目のない清吾の笑顔にも、女性はうっとり見惚れている。隣で大上が思いだしたように口を開いた。
「そうそう。犯人はすぐ捕まると思いますから、どうぞ安心してくださいね」
なぜ断言できるのか。不思議に思ってまじまじ見つめていると、大上はいたずらっぽい笑顔を浮かべて莉子を見下ろした。
「ナンバーはバッチリ覚えたから。あとは警察の仕事、ってね」
「―――――」
改めてお礼がしたいので連絡先を教えてほしい、としきりに言う女性を、二人はやんわり断っていた。何度も振り返りながら立ち去っていく女性を見送りながら、莉子は乾いた声で呟いた。
「大上君たちって――――底知れない」
◇ ◆ ◇
数日後。莉子と大上は月森診療所を訪れていた。
月森診療所からの電話に出てみたら清吾だった。時間があれば学校帰りに寄ってほしいということだったので向かっていた所、またもや大上に声を掛けられたのだ。ここまできたら発信器でも付けられているんじゃないかと本気で思う。
「捕まったそうですよ、あのひったくり二人組」
今日は患者が少ないらしい。清吾は始めからじっくり話をする構えで、玲が淹れてくれたコーヒーが手渡された。
「昨日、あの時の女性が来たんです。お礼がてら診察にね」
清吾と大上が助けた女性のことだ。あの感じから、おそらくぐいぐい言い寄られただろうが、莉子はなにも聞かなかった。一切話すつもりがないと、清吾の完璧な笑顔から見て取ったのだ。
「警察から報告でもあったの?」
「はい。犯行は未遂で終わりましたが、結局実況検分やら事情聴取やら大変だったらしいですよ。昨日逮捕の連絡があったようで、犯人は十七歳の少年二人。どちらも高校を中退していて無職。犯行動機はありきたりですが、遊ぶ金欲しさだったそうです」
「うわ~、サイアク」
大上が苦いものでも飲み込んだような顔をした。砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーが原因でないことは確かだ。そういえば、初めて会った時もアイスコーヒーに信じられない量のガムシロップを入れていた。かなり甘党なのだろう。
「ひったくりも今回が初めてじゃなかったようです。だから逮捕が早かったんですね」
未成年とはいえ初犯じゃないから、今度の罪は甘くないだろうということだ。
「自分は働きもしないくせに、遊ぶ金欲しさに他人の物を盗ろうだなんて最低」
莉子は眉間にしわを寄せて思いを吐き出した。
そもそも、一度捕まった時にしっかり絞られ懲りていたら、今回の事件は起こらなかったかもしれない。少年法で刑罰が軽くなることを悪用しているとしか思えなかった。
「少年法って、できた当時は必要だったのかもしれないけど。実際、そのおかげで救われて、ちゃんとやり直せてる人も、確かにいるんだろうけど」
ミルクと角砂糖を一つ入れた熱々のコーヒーを冷ましながら、莉子は呟いた。
「子供の守り方を間違ってると思う。処罰を軽くすることが、必ずしも本人のためになるわけじゃないのに」
捕まってもどうせ大した罪にならないと考えている若者がどれだけいるだろう。今の子供たちは、メディアやSNS の発達のため、昔よりずっと悪知恵が働くのだ。
「……って、未成年の私が言うことじゃないかもしれないけど」
せめて自分は、法律に守られていることを笠に着ないで生きようと思うだけだ。
黙って莉子の言い分に耳を傾けていた清吾が、くすりと笑った。
「年寄りみたいな意見ですね」
「ほっといて」
「そんなところもカワイイよ」
「大上君はうるさい」
横やりを入れる大上をじろりと睨んだ。
「福田さんが無事でよかったけど、でも結局、予知は外れたってことだよね。襲われたのは違う人だったし」
清吾は顎に親指を当て、首を傾げた。
「予知が外れたとは、僕は考えていません。僕らが彼女に付いていたことで、ひったくりが標的を変えた。そういうことだと思います。つまりどちらかと言うと、未来が変わった、って感じじゃないかな」
「じゃあ――――……」
「とはいえ、あともう少し信じるに足る根拠がなければ、何とも言えません」
「……言うと思った」
顔に似合わず理論的な清吾らしかった。
大上の件を話せば早いのかもしれないが、彼にとって辛い出来事だったろうと思うので言いふらすような真似はしたくなかった。
「今後も、問題のありそうな予知を視たらいつでも相談してください。もっと事例を集めてみないと結論は出せませんから」
ブラックコーヒーを飲みながら淡々と話していたかと思うと、清吾はふと、柔らかい微笑を見せた。
「けど、何ごともなく済んだのは、莉子ちゃんのおかげだと思っています。お手柄だったね」
「……………」
がっかりさせておいて急に優しくなるのだからずるいと思う。これを自覚してできるようになれば近所のおば様方に、三十歳にもなって浮いた噂が一つもない朴念人、だなんて言われなくなるだろうに。
莉子は恥ずかしさをごまかすために、ぬるくなったコーヒーを飲んだ。すると、不穏な空気を察した大上が静かに口を開く。
「……先生って、天然?」
「じゃ、ありませんよ」
大上のよく分からない質問に、清吾は最上級の笑顔で返した。途端に大上が頭を抱える。
「あーホラやっぱり。だからここに莉子ちゃん一人で来てほしくないんだよな~」
「僕も莉子ちゃんだけを呼んだつもりなんですけどねぇ」
「二人とも、何の話?」
「こっちの話」
「ですよ」
莉子の質問に男二人は代わるがわる答えた。お互いから視線は反らさない。謎だ。
「そうそう。その後も順調みたいで、出産予定日は来週だそうです。それで予定どおりに産まれたら、三人で遊びに来てほしいと言われたんですよ」
清吾が思い出したように莉子を振り返った。
「え。本当にいいの?ちょっと社交辞令だと思ってた」
「あの人は社交辞令を言えるタイプではありませんよ」
本当に行っていいなら、ぜひ赤ちゃんに会ってみたい。
「莉子ちゃんが行きたいなら、遠慮することないと思うよ」
「若い子が来れば喜ぶと思いますしね」
大上と清吾が、また代わるがわる口を開く。この二人、なんだか仲がよさそうだ。
息の合った様子が微笑ましくて笑うと、清吾が応えるように笑みを深めた。大上も少し照れたように。
莉子はよく晴れた空に視線を移す。綿菓子のようなちぎれ雲が浮かんでいて、青い空をゆったりと泳いでいた。
「来週か……無事、産まれればいいね」
「産まれるよ。きっとね」
どこからか、子供の笑い声が聞こえた気がした。
それは、もう返らない命と新しい命が、あたかもバトンタッチしているようだった。
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