第5話 二人の終わりじゃない始まり
月曜日。莉子は最後の授業が終わると同時に、急いで帰り支度をしていた。
「莉子~、ドーナツ食べ行こう?今日100円だよ」
とことこ近付いてきたのは仲のいいクラスメイトだ。
「ごめん。ちょっと用事があって」
莉子は今日も大上を待つつもりでいた。今彼がどんな気持ちでいるのか気がかりだった。
謝ると、クラスメイトはかわいらしく口を尖らせる。
「え~、なんか最近付き合い悪い~」
「あれじゃない?やっぱりあのウワサ、本当だったんじゃん?」
「いや~、ショック~!」
もう一人がにやにや笑いながら話しに加わった。すでに教室から出ようとしていた莉子は、なにやら不穏な言葉に足を止めた。
「……なに、あのウワサって」
「莉子、カレシできたでしょ」
莉子は一気に半眼になった。
衝撃的だがある程度予想もつく話だった。大上と帰っている所を、多分色んな人に目撃されている。
男女が一緒に帰るだけで噂になるなんて、なんとも非合理的だと思う。その程度のことでいちいち騒ぐような元気は莉子にない。しかし、よくよく周囲に気を付けてみれば、他のクラスメイトらも興味津々といったふうに聞き耳を立てている。なんて恐ろしい状況だろう。
詳細を説明してもややこしい。莉子はとにかく空とぼけて乗りきることにした。
「そんなわけないじゃん。私だよ?」
「いや自分で言うなよ。てゆーか他のクラスの子が言ってたし。めっちゃ仲良さそうだったって」
「そんなことありません。普通に歩いてただけです」
「ほら!一緒にいたのは否定しないじゃん!」
誘導尋問にあっさり引っかかってしまった。まずい。
「と、とにかく。誰とも付き合ってないから」
言い捨てて教室を出ようとしたが、動揺のあまり前方不注意だった。ドアの向こうに立っていた誰かと正面からぶつかる。
「あ、すみません」
「いえ、こちらこそ」
覚えのあるやり取りに、体が固まった。恐るおそる相手を見上げる。
紺色のブレザーに赤のネクタイ。細身のグレーのスラックス。均整の取れた体を包むのは、間違いなく長渡高校の制服。
「迎えに来ちゃった、莉子ちゃん」
青ざめる莉子をよそににっこり笑ったのは、ここにいるはずのない大上だった。
教室中に驚愕が走る。
「莉子のカレシ!?マジ!?」
「ちょっと~、莉子はそう簡単に渡さないんだからね~!」
「ウッソ、イケメン!」
「紹介して!」
「莉子に男作る気あったんだ!」
「つーか、男に興味あったことに驚くわ!」
「どう知り合ったのー?」
ドアの前に人が押し寄せ、思いおもいに口を開く。
「名前は?同学年?何組?」
「あれ?つーかこの学校にこんなイケメンいた?」
「え~?そういえば……」
あまりの迫力に棒立ちになっていたが、次々上がる疑問の声にようやく我に返る。
「ま、またね!!」
背後から追いかけてくる声を振りきって、莉子は大上の手を引きながら走った。
澄んだ高い空に、バットがボールを捉える快音が響く。夏の大会も終わり、三年生が引退した野球部の練習にはひた向きさが見える。
莉子と大上は校庭を見下ろす屋上に来ていた。
屋上は、休み時間や昼時には人で賑わうが、放課後になれば誰もいなくなる。聞かれたくない話をするには丁度いい場所だった。
莉子は息を整えると、大上を冷たく睨んだ。
「どうして?」
「友達の兄ちゃんが長渡校の卒業生でさ。借りられちゃった」
大上は楽しそうに答える。にやにや笑う彼には莉子の苛立ちなどお見通しのようだった。
「大丈夫だって。しばらくは大変かもしれないけど、人の噂も七十五日って言うじゃん?」
「七十五日もこれが続いたらストレスでおかしくなる」
「まぁ、俺は噂がホントになっちゃっても全然いいんだけどね」
「私は困る。こんな目立つことされるのも」
「ごめんって。もうしないから怒らないで」
反省の色が見えない態度にますます腹立たしさが募る。温度を下げる視線の先で、大上は校庭を見下ろしていた。
「ここに、莉子ちゃんは通ってるんだね」
『だから何』と、棘を満載にして返そうとしたが、急に穏やかに変化した口調に莉子も冷静になった。彼の気持ちを考えれば、事件のことを知る莉子とは会いたくなかっただろう。
「……どうして?」
先程と同じ問いかけだったが、今度はなぜ来てくれたのかを聞いた。大上にはすぐ伝わった。
「莉子ちゃんには、全部話さなきゃと思って」
彼の声は柔らかく包み込むみたいで、とても優しい。
「私も、会いに行こうと思ってた」
「そうなの?俺たち気が合うね~」
「……あのさ、いちいち口説かなきゃしゃべれないの?」
「うん。莉子ちゃんがカワイイせいだよ」
クラスメイトの莉子への評価を見ているくせに大上の姿勢はぶれない。ここまでくるとうっかり尊敬してしまいそうだ。
大上の笑顔も軽口も、本当にいつも通り。事情を知らない者には何も悟らせない程。それだけに、悲しい。
「……新聞で見たよ、麻薬を所持してた木田って男。あの男が犯人だったんだね」
莉子が切り出すと、大上は悲しげに目を伏せた。
「ごめん。犯人って言わないで。なんか、俺が痛いんだ」
「――――ごめん」
知人に命を狙われていたのだ。それがどれほど辛いことか、ちゃんと理解していなかった。あまりの無神経さに落ち込む。
けれど大上は怒らなかった。見せたのは、空気がほどけるような柔らかい笑み。
「ありがとう、莉子ちゃん。いっぱい心配してくれて」
大上は鉄柵に背を預けて腰を下ろした。莉子も寄り添うようにそこへ座る。
「全部莉子ちゃんの予想通りだよ。俺を狙ってたのは知り合いだし、その原因も分かってた。……偶然、麻薬を使ってる所を見ちゃったんだ」
ぽつりと、大上は話し出した。
早朝、一人で散歩していた大上は、公園に見知った顔があることに気付いた。それが、木田嘉之だった。普段の彼なら仕事の準備を終えてとっくに車に乗り込んでいる時間。それに、ツツジの低木の影に身を潜めているように見えた。何となく違和感を覚えた大上が足音を忍ばせて近寄ると、気付いた木田は慌てて走り去ったという。木田が座っていた場所には、注射器が落ちていた。さすがに何をしていたか想像がついた。
「でも俺、その場に咄嗟に埋めたんだ、注射器。木田さんは口封じに襲って来たんだろうけど、こんなことにならなきゃ警察にも言うつもりなかった」
「……でも、それって罪になるんじゃない?犯人隠避とか」
「よく知ってるね」
遠慮がちに聞くと、大上は静かに微笑んだ。
確かに彼のしたことは、犯人隠避という罪に当たるらしい。けれど警察に赴き素直に全てを話したため、今回かぎりは厳重注意で済んだとか。本人がとにかく反省していたのもいい判断材料だったようだ。
「普通に考えて、殺されそうになるなんて思わないじゃん。まぁ、薬の副作用で普通じゃなかったんだろうけど」
笑う大上の横顔を、じっと見つめた。
「…………大丈夫?」
「ん?何が?」
無言のままじっと見つめ続けると、彼の笑顔にひびが入った。ぎこちない仕草で、困ったように顔をそむける。
乾燥した冷たい風が二人の間を吹き抜けていく。
「……あんまり、俺を甘やかさないでよ。これ以上好きになったらどうするの」
弱々しい軽口を、莉子は無視した。
大上はほろ苦く笑み、乱暴に髪をかき混ぜた。
「こっちに引っ越してきたホントの理由。弟が、死んだからなんだ」
突然の告白に莉子は目を見開いた。そういえば、彼が引っ越してきた理由を聞いていなかった。
「十三歳だよ。中学から始めたサッカー部の朝練に行く途中だった。その日はホント寒くて、道が凍ってて。スリップした車が突っ込んできて―――――ほとんど即死だったよ」
「―――――だからあの時、」
莉子は言いさし、口をつぐんだ。
――だから、私が轢かれそうになった時、あんなに怯えてたんだ。
莉子が目の前で轢かれかけたことは、彼にとって自身の危険より恐ろしいものだったのだろう。当て逃げされそうになっても平気な顔をしていたのに、おかしいと思っていたのだ。あの時、亡くなった弟と莉子が重なって見えたのかもしれない。
けれどそれは勝手すぎる考えだ。
もし今回大上に万一があれば、彼の家族が心に受ける傷は計り知れない。
――私だって、絶対いやだ。
それくらいのことは大上も理解しているのだろう。身勝手と知りつつ、彼は木田を庇い続けたのだ。だから莉子は、あえて何も言わなかった。言うまでもないことだった。
「……加害者のドライバーは誠実な人で、ホントに心から謝ってくれた。だけど、どれだけ謝られても、弟は返ってこない。やりきれなかったよ」
相手が結婚したばかりで、我がことのように泣きながら謝る妻と、小さな子供を抱えていたから余計に。
「うちの家族、結構仲はいい方だったんだけど、なんかうまくいかなくなった」
少しずつ、歯車がずれていくような気がした。どこにいても、何をしていても弟のことを考えてしまう。一緒に過ごした思い出が多すぎて、家族全員がぎこちなく、悲しみから抜け出せない。
新しい地でやり直そうと決断したのは父だった。家を手放し、それまでの生活を捨て、また一から始めるために。このまま家族がばらばらになれば、あの子も悲しむからと。
「だから、こっちに来た当初は、結構気持ちも落ちててさ。それでもクラスに溶け込むために無理して笑って。……そんな時、声をかけてくれたのが、木田さんだったんだ」
越してきた頃から大上は、毎朝の散歩を日課にしていた。早朝の、人の少ない世界に身を置いているとほっとしたという。
無理に笑わなくていい。気を遣わなくていい。嘘ばかりで塗り固めた自分じゃなく、ありのままでいられる時間を持つことで、ようやく息を吸えるような。
「木田さんは、『おはよう』って。それだけ。あの人にとっては近所同士の、なんてことないただの挨拶だったんだろうけど……スゲー嬉しかったんだよなぁ」
次の日も、そのまた次の日も。明るい笑顔で当たり前のように繰り返される言葉。けれどそれが魔法のように、生きることを、前を向くことを思い出させてくれた。
「あの車、三台ともレンタカーだったんだって。犯人を特定されないように車種替えたんだと思うけど、逆にそこを警察に怪しまれてたみたい。警察に行ったら、とっくに木田さんのことマークしてたんだよね。そりゃそうだよな、二週間で三台も借りてちゃ。しかも最近のあの人、結構挙動不審だったし」
乾いた笑みを張り付けていた大上が、ゆっくりと項垂れた。長めの前髪の向こうに表情が隠れる。
「…………俺が、あそこまで追い詰めたんだ」
懺悔のような呟きは、かすかに震えていた。
「木田さんの奥さんも子供も、知ってたから。警察に言えば、あの人達はどうなっちゃうんだろうって思ったんだ。告げ口するみたいで、それってなんか、わざとあの家族を不幸にするみたいで」
それは優しさだけでなく、弱さも少しあったのだろう。自分の一言で大きく運命が変わる人たちがいる。それは、とても重い責任だ。背負いきれなくて逃げ出しても仕方がないくらいに。
だからこそ彼は後悔している。自分の弱さに負け、すぐに警察へ行かなかったことを。
「早く言えばよかった。遅くなればなるほど、後戻りできなくなる。もっと深みにはまる。奥さんにも子供にも、その方がずっと悲しい」
ただ薬物に手を出しただけなら、初犯であれば執行猶予がついたかもしれない。だが木田には殺人未遂の容疑も加わっている。おそらく大上が何を言っても、実刑判決は免れないだろう。
「幸せな家庭を壊された俺が、他の幸せな家庭を壊す。なんか、皮肉っぽいよね」
彼が他人のことで、なぜこうまで苦しんでいるのか分かった気がした。
一つのきっかけで幸せはあっけなく崩れ去ってしまうことを、苦しいくらい知っているのだ。
顔を上げ、へらりと笑う大上に、莉子はため息をついた。
「馬鹿みたい」
それは思いもよらない言葉だったようで、不意を突かれた大上は目を丸くさせた。莉子の目論み通りに笑顔の仮面が剥がれ落ちる。
「悪いのは、家族がいる身で薬物に手を出した方。その人の弱い心。あなたが追い詰めたんじゃない」
大上の顔は見なかった。ただ真っ直ぐ正面を向いて、思ったままを告げる。
「でも、警察に早く相談すればよかったっていうのは、正しいと思う」
「―――――」
全て吐き出し終えた莉子は、ようやく大上に向き合った。
放心しているようだった彼は、目が合うと、痛いような顔で笑った。眩しさに目を細めているようにも見えた。
「莉子ちゃん、泣いてもいい?」
莉子はゆっくり立ち上がり、まるで無関心みたいな顔をしながら、鉄柵に頬杖をついた。
「私の許可なんていらないでしょ」
傷付いている相手に優しい言葉の一つもかけてやれない自分を恨めしく思いながら、ポケットのハンカチを無造作に突き出す。
しばらく目の前のハンカチを凝視していた大上が、声を上げて笑う。苦手なりに気を遣っているというのに失礼な男だ。
「莉子ちゃん、付き合ってください」
「イヤです」
「じゃあ、連絡先教えてください」
「…………いいよ」
否定以外が返ってくるとは思っていなかったらしく、大上は声を上ずらせる。
「え!?いいの!?」
「私も、聞こうと思ってたから。……日曜日、大上君のこと、ずっと心配だった」
向き合っていないから素直に本音を言えた。大上の気配が再びしんみりする。
「……莉子ちゃん、ホント俺のこと、甘やかしすぎ」
情けない声は、それでも先程までよりずっと明るい。
「……ありがと」
ぽつんとこぼれた感謝の言葉と共に、すぐに嗚咽が聞こえ出した。
莉子は校庭を駆け回る運動部員たちを眺めることに専念する。ただ、野球も陸上もサッカーも、ルールに詳しくない上知り合いもいない。自然、思考が巡り始める。
中学三年生のませた妹にボーイフレンドができたこと。来月の中間テストのこと。改めて感じる、突然授かった予知能力の不思議さ。
怪我だけで済んだから、未来は変えられたと言っていいだろう。ただ、大上がこんな結末で納得しているかというと、違う気がする。彼にとっての最良の未来は何だったのだろう。
莉子が救われたように大上の心を守りたかったが、それができたとは到底思えない。こっそりため息をつく。
嗚咽とともに鼻水をすする音が聞こえる。風が吹いて、大上から柔軟剤の匂いがした。清潔感のある石鹸のような香り。反射的に、庇われた時のことを思い出した。
――そういえば、男の子にあんなふうに抱きしめられたの、初めてだ。
あれはもちろん抱きしめるとか、そんな甘い言葉とは不釣り合いな状況だった。大上にも全く他意はなかっただろう。
けれど―――――。
「…………………………」
大上が泣いていて、莉子には都合がよかったかもしれない。勝手に思い出して赤くなっているなんて、格好悪すぎる。
熱をもった頬を、莉子はまだ強い日差しのせいにした。
どこまでも高い蒼天に、運動部が練習する声と、秋の虫たちのにぎやかな声が、高らかに競い合っていた。
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