第4話 二人の綺麗じゃない結末


「―――――バカ!!」


 莉子を現実に引き戻したのは鋭い声と、腕を掴む強い痛み。

 大上が庇うように莉子の体を抱きしめた。彼のシャツに顔を押し付けられる。

 軽自動車は、ものすごいスピードで目の前を駆け抜けていった。

 警戒をゆるめず遠ざかる車を注視していたが、戻ってくる気配はない。ようやく少しだけ肩の力を抜いた。 

 助かった、と思った瞬間、心臓が飛び出しそうなほど鼓動し、冷や汗がどっと吹き出した。足の先から痺れるほど冷たい何かが込み上げて全身が震える。まだエンジン音が耳の奥に残っているみたいだ。

 守るつもりが、すっかり庇われてしまったことに気付く。飛び出した莉子を、大上が体を張って引き戻したのだ。もし彼の助けがなければ大怪我をしていたかもしれない。いや、あのスピードなら打ち所によっては、死ぬこともあり得ただろう。

 しばらく互いに身動ぎ一つできずにいたが、努めて深呼吸することで徐々に冷静さを取り戻す。莉子は、いつまでも離れずにいる大上の背中を叩いた。

「……ありがとう、大上くん」

 もう大丈夫、の意味を込めたつもりが、なおさら抱きしめる力が強くなった。まさかこんな状況で不埒な気持ちになったわけでもあるまいと、半ば呆れつつ腕から抜け出そうと試みる。だが、全く振りほどけない。

 女子の中では背が高い方なのに、すっぽり彼の腕に収まっている。急に寄る辺のない気持ちに襲われた。これではまるで普通の女の子みたいだ。守ってあげたくなるような、非力でか弱い女の子という生き物。

 シャツから柔軟剤の匂いがふんわりとして、やけに焦る。らしくない思考を振り払った。なんだか顔が熱い。

「ねぇ、離してってば――――」

 平静を装いながら顔を上げた瞬間、言葉を失った。

 大上は、限界まで目を見開いていた。その瞳はガラス玉のように透明で、目の前にいる莉子さえ映していなかった。顔は信じられないくらい青ざめ、それなのに全身汗まみれだ。莉子の声もまるで耳に入っていない。明らかに様子がおかしかった。

「――――ダメだ……」

「え?」

「死んだら、どうするんだ……」

 震える呟きが、空気に溶けてしまいそうなほど密やかに、莉子の鼓膜を打った。

 大上がますます強く抱きしめる。骨が軋むほどの力に恐怖を覚え、悲鳴に近い声で叫んだ。

「大上君!」

 すると、彼の体がぴくりと動いた。少しずつ弛緩するように、ゆっくりと腕がほどけていく。

 莉子は痛む腕をさすりながら大上を見上げた。

「……ケガは?」

「あ…………少し、サイドミラーが」

 まだ頭が働いていないのか、大上は問われるがままに答える。あのスピードで当たれば痛いに決まっているのに、そんな素振りは見せない。もしかしたら感覚が麻痺しているのか、あるいは、痛み以上の何かが彼を支配しているのか。  

「一応病院に行こう。この時間からでも診てくれるとこ知ってるから」

「でも…………」

 有無を言わさず大上の手を引いて歩きだす。こんな不安定な彼を一人にしておけない。莉子は近所の診療所へと向かった。


  ◇ ◆ ◇

 

 子供の頃からお世話になっている診療所は、診察時間外に飛び込んできた莉子たちを優しく迎えてくれた。

 腰にサイドミラーがかすったということだったが、触診した限り骨に異常はみられず、軽い打ち身だろうということだった。患部は赤くなり始めていたが、湿布を貼れば一週間もしないで治るという。念のためレントゲンを撮るそうで、大上はもう一度来院することを約束していた。

 何度も礼を言って診療所を後にする。

 莉子たちは並んで歩いていた。外はもうすっかり暗くなり、昼間の暑さが嘘のようにひんやりとしていた。この地に寝苦しい夜がやって来るのは夏本番の一週間ほどで、秋口に入る今頃は、朝晩にはブレザーの下にセーターが欲しくなる程だった。

 時間が経って莉子はなんとか落ち着いていたが、大上はひどく沈んでいる。何か考え込んでいるようにも見えた。かける言葉が見つからず、ただ黙々と歩く。

 薄暗い街灯が照らすT字路に差し掛かった。右に行けば事故に遭いかけた道。つまり大上の家の方角だ。莉子の家は反対方向。

 大上が静かだと調子が狂う。拒絶されてもしつこく追い回す莉子がよっぽど気持ち悪いのだろうか。

 先程様子がおかしかった理由も聞きたいし、何より話の続きをしたかったのだが、沈黙に負けて話しかけることすらできなかった。

 莉子が街灯の下でゆっくり立ち止まると、大上も足を止めた。だいぶ勇気が必要だったが、言わなければならない言葉を口にした。

「――――ごめんなさい。助けられちゃった。私が守るつもりだったのに」

 自分は冷静な方だと思うし、危急の際にも対処できると考えていた。大上を守ることができると。

 だが違った。車が向かってくるのを見た瞬間、何も考えられなかった。やみくもに動く莉子を庇った大上の方が、よっぽど冷静だったように思う。むしろ自分さえいなければ彼は怪我しなかったかもしれない。

 情けなさに落ち込む莉子を穴が開きそうなほど見つめ、「いや、そんなの謝んなくていいんだけど」と、大上がぽつりとこぼした。

「…………守るためにいたの?俺を?」

「他に、何があるの?」

「いや……マジですんごく好かれてんだと、思ってたから」

「バカじゃない」

「いやいや。あんな堂々と救われた宣言されたら、誰だってそう思うでしょ」

 拒絶の前と変わらない、人懐っこい表情とふざけた言葉。恥ずかしさと腹立たしさもあったが、何より莉子はほっとしていた。だから勢いに任せて本心をさらけ出した。

「守りたかったの、大上君を。ケガ、しないでほしかった」

 キッパリ言いきった後に、ものすごい羞恥心に襲われた。確かに堂々と恥ずかしいことを言っている。思わず周囲を見回してひと気がないことを確認してしまった。

 一人で焦る莉子を見て、大上はとうとう吹き出した。

「うん。俺、決めたわ」

「何を?」

 赤くなる頬を隠しながら見上げると、彼は静かに微笑んでいた。さっぱりした表情はどこか潔く、街灯のぼんやりした灯りに不思議と映える。そのくせ眼差しはどこまでも優しくて、不覚にも莉子は怯んだ。

 そんな僅かな動揺もお見通しみたいに、大上は綺麗な笑みを深めた。

「警察に話すよ、全部」


 ◇ ◆ ◇


 日曜日の朝。

 地方新聞にある記事が載っていた。


『薬物所持容疑の男 逮捕』


 扱いは小さく、見出しも素っ気ない。けれど逮捕された人物がごく近所ということもあり、莉子にはすぐ分かった。

 大上を何度も襲ったのは、この男だ。そして、あそこまでされても大上が庇い続けた理由も、これだったのだ。

 男の名前は木田嘉之。三十六歳。建物を解体する作業員。

 警察は以前からこの男をマークしていたらしい。その容疑が固まったので逮捕、となったようだ。

 だが詳しいこと――――木田が凶行を繰り返していたことや、それを大上が警察に証言した事実は一切載っていない。もしかしたら大上本人が、新聞には載らないよう配慮を頼んだのかもしれない。

 これで、事件は完全に決着した。もう大上の安全が脅かされることはない。

 それでも優しい彼のことだから、苦いやりきれなさを抱いているのだろう。

 平和な朝の光の中、莉子は大上の胸中に思いを馳せた。


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