第12話 愛と千夜一夜

 きっと気のせいだ。恵美子も悪い人に見えなかった。予知だって本当に悪い内容だったかなんて分からない。だからきっと、全て莉子の杞憂なのだ。

 そのはずなのに、なぜだろう。嫌な予感が消えない。胸の辺りがひどくざわつく。

 ――ダメだ。やみくもに走ってもどうにもならない。ちゃんと冷静になって……。

 立ち止まり、雨に濡れた前髪を荒っぽくかき上げた。落ち着くために努めてゆっくり呼吸する。

 今までの予知が二、三日で現実になったことから考えても、雨が降る今日である可能性はとても高い。視たのは、傘をさして踏み切りに立つ清吾。空が暗くて正確な時間は分からないが、出かけて間もないというので何も起こっていないことを祈るばかりだ。

 あの踏み切りはどこだったのだろう。

 特徴はあった。片側からしか遮断機が下りないタイプだった。車道が別れていない、狭い踏み切りなのだ。

 けれどこの辺りに、そんな踏み切りはいくつあるのか。沿線を探し回ってもきりがないだろう。

 ――どうすれば……。

 ネットで調べて、近い場所からしらみ潰しに探していく?それで間に合うのだろうか。清吾の顔が目の奥にちらついて焦りばかりが募る。考えがまとまらない。打ち付ける雨さえ思考の邪魔をする。首筋にまとわりつく髪が不快でさらにイライラした。

 ふと、恵美子との会話を思い出した。確か彼女は、莉子の高校の近くに職場があると言っていた。

 ――もし、ストーカー対策として、先生ができうる限り、園山さんの送り迎えをしてるとしたら。 

 ……一つ、ある。高校の近くに一つだけあるのを知っている。

 莉子は再び走り出した。

 帰り道とは逆方向のため、あまり来たことのない地区だった。たくさんの店で賑わう大通りを抜けて入りくんだ道になると、自分がどこにいるのかたちまち分からなくなった。

 白い校舎の学校や巨大な貯水槽を通りすぎると、突き当たりに線路が見えた。線路沿いをひたすら走り続ける。

 当たるかどうかも分からない予知のために奔走している自分は、どうかしていると思う。それでも清吾の穏やかな笑顔が浮かぶと、足を止めるわけにはいかないと思うのだ。

 まともに息ができなくなり、足が上がらなくなってきた時、遠くに見覚えのある灰色の傘が見えてきた。隣には花柄の傘が並んでいる。遮断機が下りているため二人は立ち止まっていた。警告のように点滅する赤い光と電子音が更なる焦燥を誘う。

 彼らの背後に、フードを目深にかぶった男が忽然と現れた。雨音のせいかゆっくり近付く影に気付かないようだ。

「先生!!」

 清吾がこちらを振り返る。

 男の足が速くなる。獲物を狙う獣のように。パーカーのポケットから出した手に握られているのはナイフ。清吾の手から傘が滑り落ちるのが、やけにゆっくり見えた。自分の足があまりに遅くてもどかしい。

 ネイルに彩られた恵美子の手が、清吾の背中を突き飛ばそうとした。が、清吾は踏みとどまった。反対に、恵美子を庇おうと男に背を向ける。

 ――ダメ!!

 莉子はがむしゃらに走ったが、もう膝が震え、うまく動けない。間に合わない。

 絶望が胸をかすめたその時、莉子の横をものすごい早さで誰かが駆け抜けた。その背中に見覚えがある――――大上だ。

 助かった、とは思わなかった。なぜか更なる嫌な予感が胸を塗り潰していく。清吾の制止の声が遠くに聞こえた。

 男の手が降り下ろされるのにも構わず、大上がぶつかっていった。その勢いでもつれ合うように両者が転がる。清吾も素早く駆け寄り、男を取り押さえた。ホッと息をつくも――――地面に転がったままの大上が、動かない。

 まろぶように駆け寄り体を揺する。ぐっしょり濡れた服が冷たい。

「―――――大上君!!」

 絶叫が、雨の打ち付ける音に吸い込まれていった。



 莉子は病院にいた。俯き、ただひたすら祈り続ける。傍らには紙のように白い顔をして眠る大上がいた。

 彼がなぜあの場にいたのか分からない。莉子を追って来たのかもしれないし、ただの偶然だったのかもしれない。いや、偶然にしてはできすぎている。やはりどこかで莉子を見かけ、なにかを感じて追いかけてきたのだろう。そして考えなしに飛びだした莉子を庇った。大上が狙われていたあの時と同じ。莉子は助けられるだけでなにもできなかった。

 胸を占めるのは後悔ばかりだ。

 予知だとか、嘘みたいな話をして。彼は奇跡みたいに信じてくれて。でもそのせいで――――こんな結果になってしまった。

 大上の手を握りしめる。握った瞬間は冷たく感じる彼の体温。けれどじわじわと熱が伝わってきて、ようやく少し安心する。大丈夫。きっと大丈夫。

 ――お願い。起きて。早くいつもみたいに、笑って。

 あまりに静謐な寝顔に、永遠に目を覚まさないのではないかと怖くなる。太陽のような温かい笑顔が、好意のにじむ柔らかな声が、馬鹿みたいにいくつも頭に浮かぶ。

「……起きてよ。バカ」

 そしてまたいつものように、冗談みたいに好きって言って。

 長い間俯いていた莉子だったが、ぱっと顔を上げた。わずかに指先が動いた気がしたのだ。

 大上の目がうっすら開き――――莉子を映していた。その瞬間、愛おしげに抱きしめるような彼の瞳を好きだと思った。

「……莉子ちゃん、ケガ、ない?」

 かすれた声にぎゅっと眉を寄せた。怒っていないと気がゆるんで泣いてしまいそうだった。

「自分の方が気を失ってたくせに、私なんか心配してる場合?」

 言った直後に相手は病床だと気付く。けれど莉子が自己嫌悪に陥っているというのに、大上は嬉しそうに笑った。

「つめてー。さすが莉子ちゃん」

「それ褒めてないから」

 いつものやり取りに安堵する。この人が動いて、息をして、笑っている。それがかけがえのないことだと思えた。

「俺、結構長く寝てた?」

 窓の方に首を巡らせ、大上は少し不安そうに聞いた。

「あれからそんなに時間は経ってないよ。一時間くらい」

 外は暗いが、それは雨のためだ。莉子も気付いていなかったが先ほどまで降っていたようで、窓辺の木にいくつもの雨粒が光っている。

「本当に、よかった。殴られただけだから大丈夫だろうと思ってたけど、それでも怖かった」

「殴られただけ?」

「あと転んだ時に頭を打ったみたいだけど」

 大上は勢いよく跳ね起きて肩口を覗き込む。そこには大判の湿布が貼ってあるだけだった。それを見た瞬間、彼は空気の抜けた風船のように力を失った。へなへなとベッドに倒れ込み、耳まで赤くなった顔を腕で隠す。

「うっわマヌケ。刺されたかと思った。恥ずかしー……」

 Aはナイフを降り下ろしたように見えたが、単に柄で強く殴っただけだったらしい。それでも大上が目覚めない間は不安だった。以前莉子自身が、特に外傷もないのに寝込み続けたことがあったから。

「骨が折れてなかったことを喜びなよ。そもそも刺されてたら、すぐ家族に連絡してる」

 大上が再び身を起こした。

「家族に連絡してないの?」

「七時になっても起きなかったら連絡しようって、先生と話してた。しておいた方がよかった?」

「いや、心配させたくないから助かる。ありがとね」

 最近の大上は怪我続きだ。両親もさぞ心配するだろう。

 その時、病室の扉がノックされた。入ってきたのは清吾だ。

「よかった、大上君。目が覚めたんですね」

「センセ?ってことは、ここは月森診療所…………?」

 清吾の顔を見て、彼はようやくここがどこなのか分かったらしい。打ち身だけで大きな外傷もなかったので、月森診療所に運び込んだのだ。

 傍らで清吾が大上を覗き込む。手早く目の動きや脈拍を調べ始めた。

「気分はどうですか?」

「最高だね。目が覚めたら莉子ちゃんが隣にいて、俺の手を握ってくれてるなんて」

 言われてようやく、大上の手を握りっぱなしだったことに気が付いた。真っ赤になって慌てて離すと、彼は残念そうに唇を尖らせた。清吾は何も言わなかったが、なぜか大上とにっこり微笑みあう。それぞれ背筋が凍るような迫力があったのは気のせいだろうか。

 清吾はカルテにペンを走らせながら、一つ頷いた。

「うん、大丈夫そうだね。意識もはっきりしてるようだし。まだ必要な検査があるから、大きい病院に行ってもらうことになるかもしれないけど」

「えー、それじゃ親に連絡しないでもらった意味ないじゃん……」

「まぁ、親の心配は甘んじて受けなさい。どうせあの場にいた全員、警察に事情を聞かれるんですから」

「警察?」

 不穏な言葉に大上は敏感に反応した。

「被害者側の調書というものも必要なんですよ。結局親に心配かけるのは同じです」

 莉子も住所と連絡先を聞かれたから、後日連絡が来るだろう。けれど怪我もしておらず、恵美子とほとんど関わりのない莉子は、あの場で一番無関係な人間だ。聞かれることもたかが知れている。

「……園山さん、大ごとにしたくないって言ってたのにね」

 あの予知で視た恵美子の手は、危害を加えようとしていたのではなく、守ろうとする手だったらしい。断片的な予知はつくづく意味が汲み取りにくいと実感した。

 大上のことばかりで気が回らなかったが、恵美子の心情を思うと辛かった。怪我はなくても精神的なダメージは計り知れない。

 Aは清吾に取り押さえられた後、すぐ警察に引き渡されていた。

「あの男はナイフを持ってましたからね。何より人を傷付けました」

 捕まって当然とばかり、清吾は淡々としている。

「園山さん、大丈夫だったの?」

 大上も神妙な表情になった。

「彼女も怪我はありませんよ。……『仕方ない』と言っていました。不思議なんですが、ちょっと吹っ切れたような様子で」

「…………そっか」

 仕方ない。莉子はその言葉が好きではなかった。子どもだからかもしれないが、潔癖な心に、ただ現実を諦めているようにしか感じられなかった。けれど――――。

 ……そういう考え方も、あるのだろうと、思った。そう考える他ない状況も。

 すっきりしていたというのなら、自分で言っていた通り彼女の心はより深く、豊かになったのかもしれない。

「あなた方を巻き込んでしまったと気にしていました。今度正式に謝罪したいと」

「謝罪なんていらないよ」

「ホント。大したケガじゃないし」

 莉子は少し考え、こうつけ加えた。

「…………謝罪なんていいから、またお話したいって、伝えてほしい」

 清吾は優しい顔で頷いた。

 彼が出ていくと、莉子は再び俯いた。前髪を乱暴に掻いて視線を上げる。

「大上君が倒れた時……目の前が真っ暗になった。あんな思いは二度としたくない」

 大上を睨むように見据える。

「約束して。絶対、二度、金輪際、危険な真似はしないって」

「……俺より、莉子ちゃんのがムチャしようとしてたけど、」

「いいから」

 病室に静寂が訪れる。窓の外で秋の虫が鳴いていた。

 しばらくすると大上が、静かに沈黙を破る。

「…………ムリ。てゆーか莉子ちゃんが傘も差さずに走ってるの見かけて、嫌な予感したから追っかけたけど……ナイフの前に飛び出そうとするから、ホント、心臓止まるかと思ったのは俺の方。そっちこそ約束して。なんかあったら俺を頼るって」

「そんなの、私だって約束できない」

 大上を失うかもしれない。一生この人の笑顔が見られないかもしれない。そう思った時の、背筋を通り抜けていった虚無感。あれを味わうくらいなら自分が傷付く方がずっとましだ。

 気付いてしまった。というより、思い知ったという方がしっくりくる。

 認めてしまえば、それは当たり前みたいにそこにあった。自分でも分からないくらいずっと前から。

 …………それだけで毎日が楽しくなる、という人がいた。心を豊かにするとも。

 莉子は、途方もないものだと思った。

 大上のことを考えるだけで胸が痛い。切ない。だがその痛みごと愛おしい。ただそこにいるだけで、この人のもたらす何もかもが。

 ――好き。だから。

「とにかく。約束なんて、できない。絶対に」

 断言すると、なぜか大上は吹き出した。

「頑固だなぁ。なら、お互い気を付けるしかないね。俺は莉子ちゃんが無茶しないように見張ってる。莉子ちゃんも、俺を見ててね?」

 いつものいたずらっぽい笑顔なのに、やけに甘く感じる。好きと自覚したからだろうか。

 硬直してしまった莉子に、大上は不思議そうに首を傾げる。

「どうかした?」

「……ううん。なんでもない」

 ――私と大上君は、いわゆる両思いってやつなのかな。

 気持ちに余裕が出てくると、しょうもない疑問が頭に浮かんだ。

 もし両思いなら好きだと言うべきだろうか。でも今さらな気もする。もう好きじゃないと言われるかもしれない。元々本気じゃなかったってことは?

 ぐるぐる考えた後、莉子は大上をしっかり見据えた。彼は断られる可能性があっても、何度も気持ちを伝えてくれた。ならば莉子も逃げるわけにはいかない。声が震えないように大きく深呼吸する。

「……私、好きな人がいるの」

 ものすごく気力の必要な一言だった。心臓が痛いくらい暴れている。

 大上は笑った。いつもの太陽みたいな笑顔ではなく、柔らかく灯ったろうそくの炎に似ていた。

「莉子ちゃんて…………ホント真面目。そゆとこ好き」

 好き、の言葉に喜んだのも束の間、大上が続けた言葉に眉を寄せた。

「センセなんでしょ」

「……………え?」

 なんでそうなる。と思った。

「莉子ちゃんの好きな人。分かるよ。ずっと見てるもん」

 全然分かってない。

 なぜ彼は悲しそうに笑っているのだろう。これからフラれるとでも思っているのだろうか。

「あの、大上君なんだけど」

「え?」

「私、大上君が好きなんだけど」

 緊張はすっかり追いやられ、莉子は怪訝な顔で告白した。なんだか間抜けな告白になってしまったと気付いたがもう遅い。大上が口を半開きにした間抜け顔をしているから、丁度いいかもしれない。

「…………………え。だってセンセの予知視た時、すんごい動揺してたよね?」

「身近な人の危険な予知は初めてだったからね」

「センセが園山さんと歩いてるの見た時、すんごい落ち込んでたよね?」

「あれは、子どもの頃から知ってる人の彼女だと思うと気まずくなっちゃって。でもそれだけだよ」

 長い付き合いの清吾は莉子にとって兄のような存在だ。多少嫉妬の気持ちもあったが、それは大好きな兄を取られてしまったという子ども染みたやきもちだった。大上が考えているような感情ではない。

「え?え?てゆーかいつの間に?だってそんな素振り、全然なかったよね?」

「それ聞く?」

「聞かなきゃ実感わかない」

 長い沈黙の後、莉子はしぶしぶ答えた。

「――――たぶん、ずっと好きだったんだと思う。自分が気付いてなかっただけで、だいぶ前から」

 大上が倒れたのは、あくまで気付くきっかけにすぎない。

 消え入りそうな声ではあったが、室内が静かなためしっかり聞こえていると思う。なのに大上は、なんの反応も見せない。やはり迷惑だったのだろうか。不安になって莉子は言い募った。

「あの、大上君と付き合いたいとかじゃなくて、一緒にいられるだけでいいの。それだけで十分――――」

 最後まで言い終える前に抱きすくめられた。髪が触れ合う距離に全身が強張る。彼の息遣いを感じ、心臓がことり、と音を立てる。

「ちょ、」

「俺は莉子ちゃんみたいに、そばにいるだけで十分なんて思わない。誰にも渡したくないし、触りたい。たくさん、俺しか知らない莉子ちゃんが見たい」

 少し体を離し、大上の切れ長の目が莉子を捉える。至近距離で細められた瞳は熱情を宿して魅力的に光る。 

「好き。莉子ちゃんの全部が欲しい」

 彼の熱が移ったみたいに全身がかっと熱くなる。すぐに距離をとらないとおかしくなりそうだ。

「大上君、離して」

「ムリ。莉子ちゃんが煽るからいけない」

「煽ってない」

「二人きりで、ベッドの上で、好きな子に好きって言われたら、もうガマンできないに決まってるでしょ」

 熱い吐息が耳に吹き込まれ背中が震えた。欲望にかすれた声があまりに艶っぽく、体に力が入らない。

「ダメだよ……」

 咎める声は頼りなく、制止の役に立たなかった。

「じゃあ、キスはいい?」

「キ……」

 恋愛初心者の莉子にはハードルが高すぎる気もしたが、彼の愛情に溢れた眼差しを受けていたら、どうなってもいいような気分になってくる。

 ためらいの末、わずかに頷く。大上が切なげに瞳を細めた。彼の腕に一瞬力がこもったが、莉子を傷付けないためか、すぐにゆるめられる。

 ――もっと強くしてもいいのに。

 はしたない思考が脳裏をかすめ、莉子は一人悶えた。

 大上の顔がゆっくり近付いてくる。長い睫毛が震えるのに見惚れていたが、唇にかかる熱っぽい息に自然と目を閉じた。

 柔らかく重なった唇は、信じられないほど甘い。


 ◇ ◆ ◇


 秋風が吹き過ぎ、莉子は乱れる髪をおさえた。

 近頃昼間でもめっきり寒くなって、吹く風がひんやりしてきた。そろそろ本当にセーターが必要になるだろう。

 大通りを歩いていると、見慣れた背中に目が吸い寄せられた。身長の高さだけが理由じゃなく、不思議とどこにいても彼の姿は真っ先に目に入る。

 その光景だけで、わけもなく心がはやる。莉子は早足になって追い付いた。

「大上君」

「あっれ、莉子ちゃん?」

 大上が驚いた様子で振り返った。莉子は彼の隣に並んだが、緊張で少しぎこちなくなってしまった。今までこれを平気な顔でやっていた彼を尊敬する。

 ――えっと。私たち、付き合うってことでいいんだよね?

 お互い気持ちを伝えあったしキスもしたが、付き合おうという話にはなっていない。それでも恋人と名乗っていいのだろうか。経験のない莉子はいまいち自信がない。

 考え込んでいると、大上が自然に莉子の手を握った。ほっとする。やはり付き合っているという認識でいいらしい。

「おかしいな。今日も俺が見つけられると思ってたんだけど。莉子ちゃん、教室出るのちょっと遅かった?」

「え?えっと、友達に捕まっちゃって」

「それってもしかして」

「……うん。なんでかばれちゃった」

 彼氏ができたと親しい友人に悟られてしまい、根掘り葉掘り聞かれていた。なんとか途中で逃げ出したが、そのためにいつもより下校時間が遅れてしまったのだ。

 肩が震えている気がして大上を見上げると、口元に手を当て、必死に笑いを堪えているところだった。

「……何で笑うの」

 冷えた声で問うと、彼は愛おしげに莉子を見つめた。

「だって、それだけ顔に出ちゃってたってことでしょ?嬉しいじゃん」

 以前からそうだが、彼は思っていることをはっきり口にする。赤い頬を隠そうと俯く莉子には真似できない素直さだ。

 緊張が少しほぐれた頃を見計らったかのように、大上は指を絡めてきた。いわゆる恋人つなぎだ。これではますます顔を上げられない。

「そ、そういえば、教室出る時間になにかあるの?」

 気分を切り替えるために聞いたことくらい、大上にはお見通しのようだった。嬉しそうに指先をくすぐられる。

「ふふ。帰り道、莉子ちゃんと会うためのコツだよ」

「どういうこと?」

「種明かししちゃうとね、莉子ちゃんていつも同じような時間に帰ってるんだよ。俺は教室出るタイミングを合わせるだけでいいってわけ。これだけで結構運命感じちゃうでしょ?」

「待ち伏せされてるんじゃないかって寒気を感じた」

「ヒデー。でも似たようなもんか」

 本気でストーキングを疑っていたのだが、なんとも単純なからくりだった。呆れて肩の力が抜ける。

「今日は、月森診療所に行かなくていいんだよね」

「うん。つーかほぼ治ってるんだけど……ってあれ?なんで知ってるの?」

「先生から電話あったの。園山さんから、改めて私たちに会いたいって連絡があったらしいよ」

「園山さんが心配だから会うのは構わないけど、謝るためとかだったらホントに遠慮だな~」 

「……先生にもばれちゃってるから、会いづらいしね」

 なぜ、いつバレたのか分からないが、あの日大上と診療所を出る時には『おめでとう』なんて言われていた。何に対してなのか分かった瞬間、恥ずかしさで死ねると思った。

「そりゃあの時の莉子ちゃん見てれば、俺らが両思いなんてすぐ分かっちゃうよー。手なんか握ってずっとそばにいて泣きそうな顔して……ごめんごめんごめんなさい。調子こきました」

 大上を横目で睨みながらため息をつく。

「大上君に何かひどいことされたら、相談しろって言われたよ」

「えー……その相談、絶対別れる方向に話持ってくじゃん」

 奪う気満々だなあの人、と大上がぶつぶつ呟く声は、莉子には届かなかった。

「そうだ。最近、予知はどう?回数が減ったとか何か変化はあるの?」

「ううん。普通に視るよ。危険そうなものはないけど」

「そっか。まぁでも、どんな予知視たって大丈夫。俺がついてるからね」 

 馬鹿じゃない、と言おうと思ったのに、大上が言うと本当に大丈夫そうな気がしてくるから不思議だ。莉子ははにかみながら、ありがとうの気持ちを込めて、きゅっと手を握り返す。

「うん。頼りにしてる」

 その瞬間、大上がなぜか立ち止まった。手で覆っているが真っ赤になった顔を隠しきれていない。

「…………莉子ちゃんカワイすぎでしょ。ホント何でそんなカワイイの。もう俺ツラい。莉子ちゃんがカワイすぎてツラい」

「別にかわいくないから」

 大上こそ、いちいち恥ずかしいことを言わないでほしい。つられて赤面しそうだ。

「ねぇ、ぎゅってしていい?」

「えぇ?今すぐ?」

 周りは下校中の生徒でいっぱいだ。目立つ大上のせいでやたらと注目を集めている。咄嗟に手を離そうとしたが、ぐっと握られ阻止された。

「だってガマンできない。ダメ?」

「…………ここじゃないなら」

「ダメダメダメダメッ!カワイすぎる!」

 これでも精一杯妥協したのに、大上は子どものようにぶんぶん首を振った。

「じゃあ、ここじゃないならキスもしていい?」

「…………………」

「いっぱいさわっていい?どこもかしこも」

「いい加減にして」

「だって今すぐ莉子ちゃんにさわんなきゃ、俺死んじゃうかもしれないよ?」

「ウソつき」

 大上らしいくだらない嘘だ。くだらなくて、愛しい。

 ――ずっとこうしてたいな。

 人が人を思う沢山の気持ちが、光みたいに眩しく感じて、莉子は思わず目を細めた。

 秋の透き通るほど青い空の下、二人は笑い合いながら寄り添って歩いた。



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オオカミくんの優しい嘘 浅名ゆうな @01200105

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