第11話 雨と千夜一夜

 ――本当におかしなことになった。

 清吾と大上が参考書を探している間、莉子たちは同じビル内にあるカフェでお茶をすることになった。方便だった参考書さがしを本当にする羽目になった大上は、可哀想としか言いようがない。

 しかし莉子は莉子で結構な窮地に陥っていた。怪しんでいた女性と二人きりになってしまったのだ。

 そもそも人見知りのため、知らない人と一緒というこの状況自体が許容量をはるかに越えている。

 視線を上げることもできずコチコチに固まっていると、正面からくすりと笑いがこぼれた。

「そんなに緊張しないで。本当に事情を話すだけだから」

 先ほどまでの明るいものと違う、耳に染み入るような優しい声だった。警戒心が勝手にゆるみ、莉子はゆっくりと顔を上げた。

 やはり華やかな印象は変わらなかった。清吾と同じくらいの年齢だろう。白いジャケットに合わせていたのはオフホワイトのミニタートルで、襟元にパールのビジューが光る。ボルドーのペンシルスカートが大人っぽい。整った顔立ちで、リップは真紅。なのにきつい印象にならないのが不思議だった。

 コーヒーを飲む彼女の手元を注視する。ネイルは――――赤だ。

 鼓動が早くなる。カップに伸ばした手が震えないよう、細心の注意を払った。

「ごめんなさい、まだ名乗ってなかったわね。私は園山恵美子。よろしくね」

「あ、えっと、有坂莉子、です」

 莉子も慌てて返した。

 恵美子はコーヒーに口を付けて一息つくと、いきなり本題に入った。

「まぁようするに、男避けなのよ」

 その言葉に、恵美子をじっと見ていた男を思い出す。

「最近付きまとわれて困ってるの。さっきも見たでしょ」

「それって……ストーカーってヤツですか」

「とは、言いたくないわね。一応知り合いだから。警察沙汰にしたくなくて、だから先生にお願いしたの。付き合ってるふりをして、諦めてもらおうと思ってね」

「……すみませんでした」

「いいのよ。あなたは何も悪くないじゃない。ぶっちゃけ言葉を選んだってストーカーはストーカーだし」

 なんだか複雑そうだ。莉子はそれ以上口を挟まず、続く話を待った。

 恵美子も月森診療所の近くに住んでいて、数年前からお世話になっているらしい。

「あの先生、強引に頼めば何でも聞いてくれるでしょ。気が弱いからじゃなくて、優しいから」

 恵美子はゆっくりとカップを置いた

「私、電話相談受付センターで働いてるの。細かい仕事内容は、守秘義務があるから言えないんだけど」

 そこに電話してきたのが、あの男だったという。無職で部屋に籠りがちだという男は、日常の些細な悩みを相談した。

「仮に、Aってことにしましょうか。Aは他人に話すことですっきりしたみたいで、本当に感謝してたわ」

 よほど嬉しかったのか、Aは次の日も、そのまた次の日も電話してきた。

 規則で、同じ相談員と何度も当たらない仕組みになっている。ある時、同僚の一人がAの相談を受け付けた。Aは翌日、話したいのは恵美子だけだと電話を寄越した。

「……正直、嬉しかったの」

 通常ならば相談内容を相談員全員で共有することで、相談者と一定の距離を保つ。相談者の方も話したいだけの場合が多いので、一人の相談員に執着することがあっても規則だと言えば諦める者が大半だった。

 それなのに、Aは恵美子でなければ絶対嫌だという。

「嬉しかった。必要とされてるんだって、実感したの」

 いけないことと思いながらも、何度もAと電話した。やがて職場での発覚を恐れて、恵美子は自らの連絡先を教えてしまった。それが、問題の始まりだった。

「だから本当に、自業自得なのよね。……でも、毎日の電話は楽しかった。私はどんどん彼に興味がわいたわ。どんな顔してるんだろう。どんなふうに笑うんだろうって」

 恵美子はついにAと会うことにした。

 二人での食事は盛り上がった。

 雰囲気も容姿も彼はイメージ通りで、笑った時に下がる目尻や、不器用な所、女性に慣れていないのか、たどたどしい話し方にも好感を持った。一緒にいたいという気持ちは強くなった。

「でも向こうは違った。何でか噛み合わないの。……気付いちゃった」

 会うごとに、話すごとに気持ちの差が見えてくる。Aはもっともっとと恵美子の話を聞きたがるばかりで、彼女の気持ちなんて置いてきぼりだった。

 次第に話題も減ってくる。それでも彼が求めるままに言葉をつむいだ。楽しい話。家族の話。子供の頃の思い出。テレビで話題になった話。あれこれ話す内に、恵美子は苦しくなった。なぜこんな思いをしてまでAと一緒にいるのか分からなくなった。耐えきれず手を離したのは――――恵美子の方だった。

「結局、彼が見ていたのは私じゃないんだって気付いたの。Aは彼自身にしか興味がなくて、話を上手にする人であれば、何でもいい。彼にとって私は、綺麗に映る鏡みたいなものだったの」

 だから、恵美子は逃げた。一緒にいればいるほど辛くなるだけだと分かったから。

 恵美子は軽い口調で話しているが、それがなおさら彼女の苦悩を浮き彫りにしているような気がした。

 恵美子の話を聞いて、千夜一夜物語を思い出した。


 愛する妻に裏切られたゆえ猜疑心が強くなってしまった王。疑心から、一晩過ごした女の首を次々切っていく。このままでは国から女がいなくなる、そんな時。大臣の娘であるシェヘラザードが妻にと名乗りを上げた。

 機転をきかせたシェヘラザードは、夜が来るたび王様に物語を語った。わくわくする冒譚険や恋物語に、王様はどんどん引き込まれていく。けれど物語の最後を締めくくるのはいつもこの言葉。「続きはまた、明日」。そうして千日を過ごし、シェヘラザードは三人もの子供を産んだ。

 改心した王様とシェヘラザードは幸せに暮らす――――。


 けれどシェヘラザードは、千夜を過ごす間、何も考えなかったのだろうか。千日もの間、一体どんな思いで、王様に話を聞かせていた?振り向いてくれない王様の子どもをどんな気持ちで産んだ?恵美子のように、耐えきれなくなる夜はなかったのだろうか。

「何でそんな話、私なんかに……」

 正直戸惑った。

 この話は、恵美子のとても私的な部分だ。初めて会った何の関係もない子供にするような話じゃない。

「ちゃんと説明しないと納得してくれないでしょ?先生と一緒にいたわけだし」

「…………?」

「好きなんでしょ、先生が」

 恵美子が何を言っているのか本気分からない。莉子は怪訝な顔で否定した。

「そんな気持ちは一切ありませんが」

「そうなの?だから尾行までしたんだと思ってた」

 予知が視えることを知らないから誤解されるのだろうが、なんでそうなる、と思った。けれど全く別の言葉が口を突いていた。

「……恵美子さんは、恋って何だと思いますか?」

 言った途端、顔から火が出そうになった。これだって会ったばかりの相手に聞くことではないし、場違いもいい所だった。

 けれど恵美子は間を置かず答えた。まるでその疑問を、何度も何度も自分自身に問いかけてきたように。

「心を豊かにするものだと、思うわ。たとえ苦いだけでも胸に残るもの。想いが届いても、届かなくても」

 そう言った恵美子の瞳があまりに強くて、潔くて、莉子は真っ直ぐ見つめ返せた気がしなかった。


  ◇ ◆ ◇ 


 何でこんなことになってしまったのだろう。

 大上は何度目かのため息を押し殺した。隣の本棚を物色中の清吾をちらりと見る。ただの方便にすぎなかったのに、彼は真剣そのものだ。それほど親しくもない大上のために。

 ――いい人なんだよなぁ。ホンット。

 難しい顔をしていた清吾が、ようやく顔を上げた。

「たぶん、これがいいと思います。僕のおすすめの参考書。でも時代遅れかもしれないなぁ」

「…………ありがとーございます」

 悲しいことに、デート資金として多めにお金を持ってきている。参考書の一冊くらいなら十分買えそうだ。本当に悲しいことに。

「あと、これとこれもおすすめなんだけど……」

「センセ、さすがに買いきれないっす」

「ですよね」

 薦められたものは全てスマートフォンにメモして、スポーツ整体の手技本と参考書だけ購入することにした。とりあえず参考書なら無駄にならない。

 せっかく莉子とデートができると思っていたのに、なんだか散々な一日だ。会計中、どっと疲れを感じた。

「…………今日は、本当にデートだったんですか?」

 エスカレーターで下っていると、清吾が突然聞いてきた。

 大上は背後に視線を向けた。穏やかな清吾の表情からは、彼が何を考えているのか読めない。

「――――センセに、関係ある?」

 清吾が莉子へ向ける感情がどういう種類のものなのか、大上には窺い知ることができない。他人の思いに敏感な彼には非常に珍しいことだった。

 清吾は冷静な様子で口を開いた。

「僕はね、大上君。君と莉子ちゃんが付き合っても構わないと思っています。君が本気であれば、ね」

 強い視線が大上を射抜く。それだけで清吾の想いがどれほどのものなのか、分かってしまいそうな。

「ただし、君がもし軽い気持ちで莉子ちゃんを傷付けるなら――――絶対に許さない」

 冷々とした声で言いきると、清吾はいつもの穏やかな顔に戻り、大上を追い越してエスカレーターを下りていった。


  ◇ ◆ ◇


 水曜日の診療時間が午前中のみになるからだろうか、火曜日の診療所は混み合っていた。莉子は受付終了時間ぎりぎりに駆け込んだが、診察待ちではない。母親から頂き物の葡萄を預かって来たのだ。

 ついでに話ができればと思ったので、診察が終わるのを待つことにした。暇つぶしに雑誌を眺める。そうしながらも、頭の中で日曜の出来事をずっと考えていた。

 あの後四人は合流し、何となく一緒に食事をとった。駅前に昔からある雰囲気のいい洋食店で、気になっていたがずっと入れずにいた店だった。けれど、なぜ昼食までこの面子なのかという疑問が頭に渦巻いていたため、せっかく頼んだ名物のナポリタンの味さえよく覚えていない。今度またゆっくり来ようと固く誓った。

 その後は特に何をするでもなく解散したため、結局予知を視たことは清吾に話していない。せめて忠告だけでもしておけばよかった。

 ――でもまぁ、何も起こらないか。

 恵美子もいい人そうだったし。

 そもそもああいった意味深な予知は、いつも危険に直結していたから、重く考えすぎていたのかもしれない。気の回しすぎという可能性は十分ある。

 そんなことをぼんやり考えていると、目の前に誰かが立つ気配がした。

「どうしたの、ボーッとして」

「玲さん」

 玲はいつものようにマグカップを差し出している。匂いからして中身は紅茶のようだ。

 一人だけ特別扱いされていれば、周りもいい気はしないだろう。心配になって辺りを見回すと、あれだけ賑やかだった待合室は莉子だけになっていた。

「もうあなただけよ。ゆっくりしなさい」

 莉子はマグカップをありがたく受け取った。それでもぼんやりしている莉子を、ソファに腰を下ろした玲が笑った。

「玲さん?」

「あぁ、ごめん。莉子ちゃんさ、ちょっと変わったね。綺麗になった」

 玲は微笑ましげに莉子を見つめ、にやっとする。

「恋でもしてるの?」

「こ……」

 衝撃的な言葉すぎて絶句してしまった。自分にあまりに縁がなさすぎて、遠い国の言語のようにすら感じる。

 けれど、恵美子にもそんな指摘をされた。何かが変わり始めているのかもしれない。

 莉子は、思いきって胸の内を打ち明けてみることにした。

「最近、考えさせられることが多くて。その…………恋について」

「…………ふーん」

「……今、馬鹿みたいって思ったでしょう」

「え?全然?」

「うそ。絶対変な間があった」

「そんなことないわよ」

「……………………」

 言い合っていても仕方ないので、一息ついて話を進めた。

「玲さんは、恋って何だと思いますか?」

「何その恥ずかしい質問」

「今、色んな人に聞いてるんです」

「えー……」

 莉子の本気を感じてか、玲は目を合わせようとしない。

「私が恋とか語るなんて、恥ずかしいんだけど。三十二歳だし、バツイチだし」

「たくさんの考え方を聞きたいんです」

「えー……十代って何でこう恥ずかしいのかしら。絶対あの頃に戻りたくないわ」

 ぶつぶつ文句は言いつつも逃げられないと思ったのか、玲は観念して口を開いた。

「――――私は、恋なんて語れる年じゃないけど。ただこれだけは思うわ。好き、だけじゃダメだってこと」

 マグカップをもてあそびながら、玲は目を伏せる。いつもの彼女らしくない横顔。莉子には普段見せない、大人の女の顔だ。

「だって結婚って、どれだけ妥協できるかなのよ」

 彼女の口から、ふと苦笑がこぼれた。

「夢がなさすぎよね。でもホントなの。相手のためにどれだけ譲ることができるか。逆に言えば、譲れないなら一生一緒になんていられない。どちらかが我慢しすぎてパンクしちゃう」

 玲は、譲れなかったのだろうか。譲れなかったことを悔いているのか。

 その時、診察室のドアが開いた。

 玲は「あー、地獄だったわ」とか呟きながら、そそくさと話を切り上げた。莉子はマグカップを返して立ち上がる。

「おや、莉子ちゃん」

 その声に思考が止まった。

 診察室から出てきたのは、子どもの頃からとてもお世話になっている、月森達三郎だったのだ。

 ――今日、おじいちゃん先生だったんだ。

 平日は大体清吾が診察しているから、今日も彼だろうと勝手に思っていた。驚きながらも使命を全うしようと、母から預かった葡萄を渡す。

 ――なら、先生はどこにいるの?

 しゃべりながら、頭は全力で動いていた。

 かすかな音に気付き、莉子は目を見開いて診療所を出る。一歩踏み出すと、頬に冷たさを感じた。雨だ。

 さあっと血の気が失せた。予知の映像が脳裏を駆け抜ける。

 立ち止まったままの莉子を不審に思い、達三郎が近付いてくる。

「突然どうしたんだい?――――おや、とうとう降りだしたか」

「…………おじいちゃん先生。今日って降る予報だった?」

「天気予報見て来なかったのかい?日曜からずっと雨の予報だったよ。抜けてるうちの息子でさえ、ちゃんと傘を持っていったのに」

 莉子はばっと振り返る。

「先生、出かけてるんですか?いつ頃?どこに?」

 急き込んで聞く莉子に、達三郎は少し戸惑ったようだ。

「ついさっきかな。どこに行くかまで聞いておらんよ」

 莉子は呆然とした。

 信じられなかった。自分のことで頭がいっぱいで、こんなに大切なことを忘れていたなんて。

 予知の場面では、清吾がグレーの傘をさしていたのだ。

 達三郎が中に引っ込んでいた玲を呼ぶ。莉子のために傘を頼んでいるらしい。玲がすぐにやって来た。

「莉子ちゃん、傘忘れたんならこれ……」

 彼女の言葉を最後まで聞かず、莉子は走り出した。

「莉子ちゃん!?」

 玲の戸惑う声が遠くに聞こえた。

 どんどん激しくなる雨が、頬に打ち付け始めていた。


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