其之六 変遷

 母や兄と別れて十日。大任を託された孔明は叔父に伴われ、魯粛ろしゅくが付けてくれた私兵団に守られて、九江きゅうこう南部の巣湖そうこに到着した。

 九江郡は袁術えんじゅつの影響下にあったが、まだ袁術の勢力が進出してきて日が浅く、その支配力は全域には及んでいない。

 巣湖周辺には土着どちゃく豪族の鄭宝ていほうが独自に勢力を集めていた。彼らの勇ましくも飄々ひょうひょうとした雰囲気は徐州じょしゅう開陽かいようで見たものに酷似こくじしており、孔明はそれがきょうの集団であると見抜いた。それは団結力と武勇を頼りに一旗げようとする動きにほかならず、近く袁術と衝突するだろうことは明らかだった。

 鄭宝は諸葛玄しょかつげん一行を迎え入れて、歓待した。

「止めたほうがいいぜ。廬江ろこうにはずっと袁術の兵がへばり付いていやがるからな、行ったところで、入り込めやしねぇ」

 髭面ひげづら巨漢きょかんの鄭宝は上半身を裸にして、噴き出した汗をぬぐいながら、そう忠告した。

 鄭宝が言ったのは、廬江郡の郡治ぐんちであるじょ県が袁術軍の包囲攻撃を受けているという意味である。舒県はちょうど巣湖の対岸だ。

おれとしては、是非行ってもらって、陸康りくこうじいさんにもう少し踏ん張ってくれよとハッパかけてもらいたいんだがなぁ」

 その鄭宝の台詞せりふに孔明は内心納得した。鄭宝は廬江太守と提携しているのだ。

 そして、どうやら魯粛とも関わりがあるらしかった。それは魯粛の私兵がわざわざ鄭宝と接触して、このような会見が実現していることで分かる。

 この状況を見れば、確固たる証拠はなくとも、水面下で対袁術連盟が形成されつつあるということは、孔明にとって容易に推測可能なことであった。

『あの人はただ親切なわけじゃない。内心は勇ましく、そして、したたかだ』

 孔明は魯粛の顔を思い出し、穏和おんわな態度の奥に隠された豪気ごうきを想像した。

 魯粛も東城とうじょうにおける侠団の首魁しゅかいのようなものだろう。魯粛が孔明らに護衛を付けたのは、単に袁秘えんひに対する贖罪しょくざいの気持ちからだけではない。恐らく鄭宝との接触も考えてのことだ。

『侠の精神は強い団結力を生む。いずれ一つになるのだろうか?』

 孔明はこの疎開の旅路で知った臧覇ぞうは劉備りゅうび・魯粛・鄭宝といった侠人たちの合従がっしょうを想像してみる。彼らが対袁術や対曹操そうそうで共闘する未来があるだろうか。

 孔明は蘇秦そしんになったつもりで、彼らを説得する論理を頭の中に草稿そうこうしてみた。

 戦国時代の縦横家じゅうおうか(外交学の一派)蘇秦が実行した外交策が合従策である。

 戦国七雄しちゆうしんせいえんちょうかん)のうち、巨大勢力となった秦に残りの六国が同盟し、共同戦線で対抗しようというものだ。

『その前に張儀ちょうぎが現れるかな?』

 張儀は蘇秦と同学の論客ろんきゃくで、合従説に対抗する連衡れんこう説を説いた。

 秦に対抗して合従する国々に対し、秦と対抗するよりも秦と結ぶ利を説いて、合従から離脱させたのである。

 しばらく、孔明の想像はふくらみ続けて止むことはなく、我に返ったのはすっかり空が暗くなった後のことだった。


 鄭宝は巣湖のほとりに堅牢けんろうとりでを築いていた。巣湖はよい漁場であると共に、周辺は豊かな穀倉地帯である。この豊穣ほうじょうの地を支配することで、鄭宝は力を保持している。砦には大量の食糧が備蓄されていて、湖上には巣湖の船を集積させてあった。

『地勢を利用した背水はいすいの砦か……。でも、これらの船は戦いに敗れた時、湖上に逃げ出せるように備えてあるように見える。こんなに堂々と退路を用意していたら、武侠ぶきょうの集団といえど、意外ともろいかもしれないなぁ……』

 砦の中を歩いて観察しながら、孔明はそんな分析をしていた。

 その昔、漢の将軍だった韓信かんしんは川を背にして陣を築き、わざと退路を絶つことで兵士に死力を尽くさせ、戦いに勝利した。いわゆる〝背水の陣〟である。

 が、目の前にあるのはそれとは違う。こうも退路を明らかに示していては、いざ形勢が不利となった場合、活路を求めて兵は敵に背を向け、軍は一気に瓦解がかいする。

 血の気が多い荒くれ者たちの集まりだとしても、軍としてのまとまりは決して強くはない。 孔明は鄭宝集団が秘める内なる弱さを見抜いて、早めにここを出た方がよいと感じた。だが、向かうべき場所は閉ざされている。廬江の包囲という新たな問題を前にして、進むに進めなくなってしまった。

 砦に留まることになったその夜、諸葛玄と孔明は湖畔こはんの流木に腰掛けて、暗く波打つ湖岸を見つめていた。孔明は波の音に耳をましながら、兄たちのことに想いをせた。

「兄上たちは江水を渡った頃でしょうか?」

「うむ」

 諸葛玄の返事はどこか空虚なものだった。

「無事に江東へ着いてくれるとよいのですが……」

「軍も一緒だ。子瑜しゆの方は心配には及ばぬ」

 諸葛瑾は慎重な性分しょうぶんだ。無理はしない。母を連れているから、なおさら万事に慎重を期すだろう。むしろ、心配なのは自分たちの方である。

 小さな波が湖岸に寄せては返す。進むかどうか答えは出ていない。いや、迷っているのは諸葛玄だけで、孔明の気持ちは少しも揺れ動いていない。ただどのように事態を打開するか、静かにその策をつむいでいる。

「……廬江が落ちれば、陸太守が無事でいられる可能性は低い。包囲が解かれなければ、ここで立ち往生おうじょうだ。どうしたものかな?」

 諸葛玄は判断にきゅうして、甥に意見を求めるように言った。ぽつりと孔明がつぶやく。

「叔父上は袁術に仕えることもお考えでしたね」

「ああ、最悪の場合はそういうことも考えてある。……どうかしたのか?」

 意外な言葉に諸葛玄が問い返す。

「いえ……」

 孔明は思い直して返答を濁してみたが、諸葛玄がそれを促した。

「何だ、気になるではないか。よい方案があるのなら、遠慮せずに言ってみよ」

「では……。拙案せつあんながら、廬江へ入るための策を考えてみました」

「うむ、聞こう」

 諸葛玄は少年ながらに才知の片鱗へんりんを見せる甥の知恵に大いに期待を持った。

 孔明はそんな叔父を気遣きづかって、神妙な様子でそれを披露ひろうした。

「廬江は数カ月に及ぶ包囲にも守りは堅く、未だに落ちる様子はないと聞きました」

 それは鄭宝に従う兵士からの情報だった。陸康がそうして奮戦している間に鄭宝は勢力を集めているのだ。

「その様子だと袁術軍はきっと攻め疲れているに違いありません。そこで叔父上が寿春じゅしゅんおもむき、袁術に一旦軍を退くように進言します。廬江をあきらめるつもりはないでしょうが、旧知の叔父上がうまく説得すれば、受け入れる可能性があると思います。私たちは包囲が解かれたのを見て、城に入り込みます」

「なるほど。それで袁術に仕える気があるかどうか聞いたのだな」

「ですが、配慮に欠けた愚策でした。お忘れください」

「いや、妙案かもしれん。うまくいけば、廬江を助けると同時にお前の責務も完遂かんすいできる」

 孔明が愚策だと自嘲じちょうしたそれに諸葛玄はひざを打つとともに、大人顔負けの聡明さを発揮する甥の才知を再認識して、じっと孔明を見つめた。

「避けることばかり考えていたから苦労してきた。袁術のもとで働いたとしても、漢臣であることには変わりない。むしろ、袁術を利用して、江南の地に赴任させてもらうように頼んでみるのもありかもしれん」

 袁術は南に勢力圏を伸ばしていた。江南の丹陽たんよう郡では、太守の周昕しゅうきんを袁術配下の呉景ごけいが追い払い、そのまま丹陽太守に居座っている。丹陽郡の東が郡である。どこかその近くに任地を与えられれば、一家再会もかなうというものだ。

「よく考え付いたな」

いにしえく事を制する者は、わざわいを転じて福とし、まけりて功を為す。『史記しき』にある蘇秦の話を思い出しました」

 諸葛玄は甥の確かな知識にうなづいた。窮地を脱す甥の妙案に納得した諸葛玄はすぐに寿春へと向かった。


 諸葛玄が孔明の策に身を委ねてから、孔明は鄭宝の砦で半月余りを過ごした。

 その間の保護者は葛玄かつげんである。

烏有うゆう先生、今日も湖面をながめておいでですが、何かあるのですか?」

 孔明がほぼ毎日のように湖畔で時を過ごす葛玄に尋ねた。孔明もさすがに自由のかない砦の中の生活に時間を持て余していた。

龍脈りゅうみゅくを見ているのだ。どうやら、この地は泰山の正南に当たるらしい」

 道士の葛玄は砦内に充満する戦前の緊張した雰囲気にではなく、大地をめぐる気の様子に心を澄ませていた。

「そうなのですか」

「平時であれば修行するのには悪くない場所だが、今はそれはかなわぬな」

「先生は新たな修行の場を求めて疎開を決めたのですね」

 孔明は葛玄が自分たちに同行しているのは、単に疎開だけが目的ではないことにようやく気が付いた。

「まさしく」

 葛玄は目を閉じ、心を澄ませたまま、それを認めた。

「具体的にどこへ向かわれるのか、お決まりになりましたか?」

「この龍脈を辿った先を行ってみようとは思ってはいるが、それがどこへ続いているのか、まだ分からぬな」

 世界は陽気と陰気が入り混じり、あるいは、交代して形作られている。

 例えば、天と地。山と河。昼と夜。太陽と月。天・山・昼・太陽はそれぞれ陽であり、地・河・夜・月はそれぞれ陰である。人は天地の間に存在し、陰陽が入り混じった存在だ。基本的には男が陽、女が陰だが、この陰陽の気が合わさって子が誕生する。故に人間は陽気だったり、内気だったり、強気で勇敢だったり、弱気で臆病おくびょうだったり、硬派・軟派、剛直ごうちょく柔和にゅうわなど、性格や性質にそれぞれ陰陽の影響を受けている。

 生命の誕生は陽気の爆発である。生命は陽気のエネルギーを享受して成長し、やがて、その陽気もピークを過ぎると陰気へと変質して、おとろえ、死という終息へと向かっていく。そこには天と地を巡る陰陽のサイクルがある。決して目にすることはできないそれだが、確かにそれはあって、天から下りてきた、あるいは、地下から上がってきた陽気が胎児の体内へと入り、陽気のエネルギーとなって、成長を促す。

 そして、人が死んだ後、陰気は地下深くへと下降し、いずれまた陽気へ変質して地上へ、天上へと上昇するのである。

 よって、死後、人の魂は陽気の〝こん〟と陰気の〝はく〟に分かれると後漢の大学者・許慎きょしんは説いている。孔明が父の病床を見舞った際、二つに分かれた父の霊魂を見たのは幻想だったかもしれないが、そんな知識があった故のことだった。

 ちょうどこの時代はインドから伝わった仏教が広まりを見せる頃で、そうした陰陽説のサイクルと仏教の輪廻転生りんねてんせいの思想がリンクして、人口に膾炙かいしゃしている時代でもあった。

「地下には龍脈が走り、地上には大きな湖がある。どういうことか分かるか?」

 葛玄が言う龍脈とは、地下を巡る陰気の大きな奔流のことだ。その影響が特に具体的地形として現れ出た場所が河や湖だということも、孔明は葛玄から教えられた。水もまた陰を象徴した物質である。

「何か特別な力を秘めた場所だということですね」

「そうだ。そして、そなたは今、その力を引き出す霊宝を持っている」

「この銅爵のことですか?」

 孔明がふところを抑え、葛玄が頷いた。上空を雲が覆い、陽光をさえぎる。

「いい塩梅あんばいに空が曇ってきた。……まあ、見ておれ」

 目を見開いた葛玄が薄暗くなった湖面を指差して言い、孔明はその指先を見つめた。特に何かあるわけではない。湖面にはほとんど波もなく、穏やかな表情を保っている。それが突如崩れた。水面がぶるぶると波立ち、放射状に波紋が広がった。

 そして、その波紋の中心から飛び出してきたのは、黒いかたまり

 水中から飛び出てきたそれは上空高くまで急上昇して、形を整えると、つばさを羽ばたかせてゆっくりとその肩へと舞い降りてきた。よく見れば、足が三本生えている。

 唖然あぜんとする孔明が目で追ったそれは葛玄のからすであった。烏を形作れなかった小さな陰気の塊が羽となって、孔明の目の前にふわりと落ちてきた。孔明がそれを手ですくい上げる。途端にそれは煙のように溶けて消えてしまい、孔明の指先に何も残さなかった。

「この烏は霊鳥れいちょうでな、陰気を集めて形を為しておる」

 葛玄のそんな言葉を肯定するかのように、烏が「ガァ」と鳴いた。

「人は陰陽の気をその身に宿す。それを自在に操れるようにするのも道士の修行の一環。私はまだ修行中のにわか道士でしかないが、条件さえそろえばこんな方術をろうせる。そなたが持つその霊宝は道士にあらずとも、陰気の力をより大きな形で引き出せる代物。君子が手にすれば、国を守る加護となるが、奸臣の手に渡れば、天下を乱す力となる。悪人の手に渡してはならぬものだ」

 葛玄の道術を見、言葉を聞いて、思い起こすことがあった。二年前。泰山。

 霧に煙るそのいただきにおいて、孔明は黒い龍を見ている。それはリアリティに満ちた幻覚として記憶に克明こくめいに刻まれていたが、あの時、袁秘がいた。

 ということは、あれは青龍爵の神秘的な力が影響した現実の出来事だったのだろうか。そう考えると、どうして袁秘が家を捨ててまでこの霊宝を守ることを使命としてきたのか、それが只ならぬ実感として孔明の胸に迫った。同時に今まで以上の重責がのしかかる気がして、孔明は思わず息を呑んだ。


 袁術が根拠地とする寿春に辿り着いた諸葛玄は、すぐに袁術と面会した。

「これはよく来てくれた。歓迎するぞ、胤誼いんぎ

 曹操との戦に敗れ、何人かの将軍を失い、幾人かの幕僚が見切りをつけて去って行った。そんな時の諸葛玄の来訪である。袁術はそれが余程嬉しかったようで、歓待してそれを迎え入れた。虚栄を張るように珍品で飾り付けられた部屋。横には着飾った女官にょかんはべらせている。

 袁術はわざわざ威風を吹かすように、遠く離れた上座かみざから諸葛玄に対した。

「大漢をたすけ、世を正しく治めるためにそなたの力が必要じゃ。これからわしの力になってくれ」

「そのつもりでやってきました」

 諸葛玄は心にもないことを言う袁術に心にもない答えで応じた。いや、袁術が心を入れ換え、漢の再興に尽力するというのなら、その覚悟はある。それを確認する進言をして、その腹を試す。

「早速ですが、お聞き入れ願いたいことがございます」

「何かな?」

「廬江のことです。廬江の陸康は忠義を知り、能守のうしゅとの評判。それを攻めるは漢を助けることになりません。ただちに兵をお退きください」

 にわかに袁術の顔が引きった。もともと人相にんそうの悪いその顔がさらに邪悪さの度合いを増す。傷口が開いたかのような細い目を釣り上げて、

「わしは漢の衰微を心から憂い、故に董卓討伐の義軍に参加した。だが、盟主となった袁紹は勇気なく戦おうともしなかった。奴は救国の大志なく、詭弁きべんを弄すだけの偽善者よ。わしは袁紹とその一党を討ち果たし、再度義軍を募って陛下をお救いするつもりでおる。それなのにだ。陸康はこのわしの呼びかけを無視し、協力をこばんでおるのだ。これは反逆の意思がある明確なあかし。速やかに討ち果たすべきであろう」

 自分のことは棚に上げ、袁術は自らを燦然さんぜんと虚飾して、堂々と言い放った。

 曹操との戦における敗戦で、軍の立て直しを迫られた袁術は揚州を力ずくで奪取し、廬江の陸康にも武器兵糧ひょうろうの供出を要請した。信義忠節に厚い陸康からすれば、袁術はよそからやってきたトラブル・メーカーでしかない。そんな自分勝手な厚かましい要求など断って当然である。袁術はそれを反逆の意思ありと言いがかりをつけて攻めたて、恣意的しいてきな侵攻を揚州全域に拡大している。これが漢を救おうとする者の言動だというのか。

『……やはり、君子にはあらずか』

 袁術の虚言が放つ空虚さを感じて、予期した通りの落胆が諸葛玄の心を満たした。だが、甥たちを無事に廬江へ入れるためには、ここで引き下がるわけにはいかない。

「なるほど、そうでございましたか。しかし、それでも一旦軍を引き揚げた方がよろしいでしょう。王者とは無駄な戦をしないもの。陸康に改心の機会を与えるのです。袁公のために私が自ら陸康の説得に当たりましょう」

 諸葛玄は寿春への道中で考え抜いた台詞せりふで、袁術の虚栄心をなだめた。

四世三公しせいさんこう〟(官職の三つの最高職に四代にわたって人材を輩出した)の名門・袁氏の正統を主張し、人一倍名声を気にする袁術は諸葛玄の言葉に気をよくして、表情を緩めた。

「そなたが行ってくれるというのなら、信じてもよい。だが、翻意ほんいしなかった場合はどうするのだ? 再び協力を拒むようなら、これを許すわけにはいかぬぞ」

 野望の実現のために、廬江の土地も伝説の神器もあきらめるつもりは毛頭ない。

「その時は兵を新たにして、改めて攻めればよろしいでしょう」

 諸葛玄は袁術の意に沿うようにそんな進言をして、それを納得させた。


 廬江の重囲じゅういが解かれた――――後日、孔明は鄭宝に呼び出されて、それを知らされた。それを聞いても孔明には自身の策を誇る気持ちはなく、あくまでも叔父がうまく袁術を説得した結果だと捉え、むしろ、叔父の口舌こうぜつを称えた。

「陸康の爺さんに根負けしたようだな。お前たちはすぐに廬江へ行って、爺さんによろしく伝えてくれ。こいつは俺からの土産みやげだ」

 鄭宝は兵糧を満載した数隻すうせきの船を示した。それは陸康に更なる奮戦を促すための差し入れだ。魯粛の私兵たちにそれを運び入れさせるつもりだ。荷車を積んだ船もあった。孔明たちは直ちに巣湖を対岸に渡った。魯粛の私兵たちが荷車に兵糧を積み替えるのを待って、廬江郡治の舒県を目指した。巣湖から伸びる道は細く、踏みならされた感じもなく、人の往来が多くないことを孔明に知らせた。ところが、舒県へ通じる街道に出ると、それが随分と荒れているのが目に付いた。あちこちで路肩が削られ、道端の草木が踏み倒されている。道には深いわだちの跡がくっきりと刻まれ、それがずっと伸びていた。

『大軍が通った跡だ……』

 孔明の脳が本人の意思を無視して、視界に映る映像と過去の惨劇の記憶を勝手に結び付ける。徐州。曹操軍。惨劇。死屍累々ししるいるい。血の海。灰の大地。

 伝え聞く仏教の地獄絵図がそのまま再現されたような、あの恐怖の記憶は孔明の脳裏から消えることはない。それは夜、悪夢へと変貌へんぼうして無意識の少年を襲い、昼は事あるごとに脳が記憶に新しい惨劇の映像を再生して、孔明を悩ませた。それを思い起こす度に体は酷く汗ばみ、動悸どうきが速くなって、強い吐き気をもよおすのだ。

「息が乱れているな。息を整え、心を平静に保て」

 葛玄は孔明がまたしき残像に取り付かれているのを知って、以前教えた呼吸法を実践するように言った。自然界のことわりとして、日中は陽気が溢れる。深く息を吸い、体に陽気を取り込む。そして、深く息を吐いて、陰気と化した気を外に排出する。

 孔明はその循環を実践しながら、独自の対処法も忘れなかった。それは何でもいい、何かに意識を集中させて、強制的に思考を働かせることだ。息を整えながら、孔明は必死に現実を観察し、頭をフル回転させて、吐き気をどこかへと追いやろうと試みる。

『……大きな野戦があった形跡はない』

 周囲に死体が転がっていないのを見て、孔明は廬江の戦いぶりを想像した。

 激しい攻城戦が続いたというよりは、袁術軍は包囲を続けて城内を圧迫し、兵糧の枯渇こかつを待つ作戦を採ったのだろう。敵の戦意をくじきつつ開城降伏を迫ったのだろうが、陸康は折れずに持ちこたえたのだ。そして、逆に袁術軍の方が疲労を蓄積させていったに違いない。叔父はその辺りを巧く説明したのだろう。

『大丈夫だ。この霊宝をちゃんと手渡したら、あんなことにはならない』

 そう思うことで何とか落ち着きを取り戻した孔明の視界に舒の県城が見えてきた。思った通り、城外に死体が転がっていないのを見て、孔明は安心した。

 城門には戦の痕跡こんせきが生々しく残っていて、分厚い木製の門扉は大きくゆがんでいた。

 それでも、いかなる侵入を拒むように堅く閉ざされたままであったが、魯粛の私兵が鄭宝からの兵糧を運んできたことを伝えて、ついに廬江の城門が開いた。

 城内は思った以上に人で溢れていて、敵軍が後退したのもあって活気にも溢れていた。それはこの舒県が廬江の中心都市というだけでなく、近隣の民衆たちがこぞってこの城に避難してきていたためであった。

『この地の太守様が大層立派な方であるのは間違いないようだ』

 城に入った後も孔明は冷静に市井しせいを観察し、分析することを続けた。袁秘がなぜこの地へ向かおうとしていたのか。その答えは目の前にある。

 孔明の察する通り、彼らはこの混乱の時代に五年以上もの間、安定統治を続ける廬江太守の評判を聞き知り、その庇護ひごを頼りにしてやってきたのだ。

 孔明は吐き気と戦った疲労感を抱えながらも、休む間も惜しんで郡府へ直行した。

 鄭宝と袁秘の名を持ち出して太守に面会を申し出ると、一行はほとんど待たされることなく郡府へと招き入れられ、太守自らの出迎えを受けた。

 白髪しらが頭に黒のかんむり、決して体は大きくないものの、堂々とした貫禄かんろくを漂わせている。

「ようこそ参られた。廬江太守の陸康にござる」

 孔明は陸康の拱手に慌てて返礼し、もう一度自己紹介をして、用件を告げた。この待遇はまさしく袁秘の名によるものだと悟った孔明は、その胸に抱える命運の大きさを改めて理解したのだった。

「まだ若いのに大任ご苦労でござった。部屋を用意致すので、お子たちはそちらでゆるりと休ませるがよろしかろう」

 陸康は葛玄を孔明の父か何かと勘違いしたのか、孔明の姉とその手に引かれた幼子おさなごを見て、そう配慮してくれた。

「お気遣い感謝致します。さぁ、二人は行って休んでいなさい」

 保護者であることには変わりない葛玄は陸康の言葉に甘え、れいきんの世話を任せ、役人に付いて行かせた。そして、自らは霊宝の行方を見届けるため、孔明と陸康に従った。孔明は歩きながら、くせになりつつある人物観察の目を働かせた。烏有先生のように気を感じ取るという芸当はまだできないが、陸康という人物の表面に現れ出たもの、あるいは、その中からかもし出るものを見て、感じるのだ。

 ゆったりとした歩みながら、真っ直ぐな姿勢を保つ陸康の後ろ姿からははっきりと品行方正な性分がにじみ出ている気がした。鄭宝のような豪放磊落ごうほうらいらくさは感じない。

 すれ違う官吏たちは陸康の姿を認めると、足を止めて一礼をささげる。

『落ち着いた雰囲気がある。この事態にも動じない豪胆さと沈着さをあわせ持つ優れた人格者のようだ……』

 廬江太守の陸康は長年の苦労をその身に刻んできたかのような人物だった。

 陸康はあざな季寧きねいという。江東の呉郡呉県の出身で、廬江に遷る以前は青州の楽安らくあん太守として、青州黄巾賊の侵攻を防ぎ、郡の安泰を保った。

 泰山から救出されて以来、劉備に守られて徐州に到達した袁秘が徐州に留まらずに太史慈の軍に同行をしていたのは、最初から廬江の陸康のもとへと向かうためであった。実は袁秘は楽安時代にも陸康の庇護を受けていたことがあり、親交が厚く、その忠義心と誠実な人柄を深く信頼していたのだ。

 孔明たちは太守の政務室へと招き入れられ、そこで青龍爵の引き渡しを行った。

 孔明は両のてのひらの上に置いた神器の重さを感じながら、記憶に留めるようにもう一度眺めた。これでようやく責務を果たせる。安堵。少し体の力が抜けた。

 あの時、あのお方もこんな感覚だったのだろうか。孔明は袁秘の心情をおもんぱかった。

 龍の彫刻の目にはめられた青の宝石は以前より輝きを増しているように見える。

 その間、陸康も湧き上がってくる興奮を抑え、己の心を落ち着かせる時間とした。

 しっかりと神器を見納めた孔明は丁寧に神器を包みながら、ゆっくりと陸康の前に進み出て青龍爵を差し出した。

「確かにうけたまわった」

 陸康は孔明から丁重に青龍爵を受け取りながら、おもてを厳しくした。

 量り知れぬ重責と同時に、かつて同志が帯びていた使命を引き継ぐことになる。

「その思い、この老体が守り抜こう」

 青龍爵に視線を落とし、陸康が決意を込めて袁秘に、そして、今は亡き男に誓った。

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