其之六 変遷
母や兄と別れて十日。大任を託された孔明は叔父に伴われ、
九江郡は
巣湖周辺には
鄭宝は
「止めたほうがいいぜ。
鄭宝が言ったのは、廬江郡の
「
その鄭宝の
そして、どうやら魯粛とも関わりがあるらしかった。それは魯粛の私兵がわざわざ鄭宝と接触して、このような会見が実現していることで分かる。
この状況を見れば、確固たる証拠はなくとも、水面下で対袁術連盟が形成されつつあるということは、孔明にとって容易に推測可能なことであった。
『あの人はただ親切なわけじゃない。内心は勇ましく、そして、
孔明は魯粛の顔を思い出し、
魯粛も
『侠の精神は強い団結力を生む。いずれ一つになるのだろうか?』
孔明はこの疎開の旅路で知った
孔明は
戦国時代の
戦国
『その前に
張儀は蘇秦と同学の
秦に対抗して合従する国々に対し、秦と対抗するよりも秦と結ぶ利を説いて、合従から離脱させたのである。
しばらく、孔明の想像は
鄭宝は巣湖のほとりに
『地勢を利用した
砦の中を歩いて観察しながら、孔明はそんな分析をしていた。
その昔、漢の将軍だった
が、目の前にあるのはそれとは違う。こうも退路を明らかに示していては、いざ形勢が不利となった場合、活路を求めて兵は敵に背を向け、軍は一気に
血の気が多い荒くれ者たちの集まりだとしても、軍としてのまとまりは決して強くはない。 孔明は鄭宝集団が秘める内なる弱さを見抜いて、早めにここを出た方がよいと感じた。だが、向かうべき場所は閉ざされている。廬江の包囲という新たな問題を前にして、進むに進めなくなってしまった。
砦に留まることになったその夜、諸葛玄と孔明は
「兄上たちは江水を渡った頃でしょうか?」
「うむ」
諸葛玄の返事はどこか空虚なものだった。
「無事に江東へ着いてくれるとよいのですが……」
「軍も一緒だ。
諸葛瑾は慎重な
小さな波が湖岸に寄せては返す。進むかどうか答えは出ていない。いや、迷っているのは諸葛玄だけで、孔明の気持ちは少しも揺れ動いていない。ただどのように事態を打開するか、静かにその策を
「……廬江が落ちれば、陸太守が無事でいられる可能性は低い。包囲が解かれなければ、ここで立ち
諸葛玄は判断に
「叔父上は袁術に仕えることもお考えでしたね」
「ああ、最悪の場合はそういうことも考えてある。……どうかしたのか?」
意外な言葉に諸葛玄が問い返す。
「いえ……」
孔明は思い直して返答を濁してみたが、諸葛玄がそれを促した。
「何だ、気になるではないか。よい方案があるのなら、遠慮せずに言ってみよ」
「では……。
「うむ、聞こう」
諸葛玄は少年ながらに才知の
孔明はそんな叔父を
「廬江は数カ月に及ぶ包囲にも守りは堅く、未だに落ちる様子はないと聞きました」
それは鄭宝に従う兵士からの情報だった。陸康がそうして奮戦している間に鄭宝は勢力を集めているのだ。
「その様子だと袁術軍はきっと攻め疲れているに違いありません。そこで叔父上が
「なるほど。それで袁術に仕える気があるかどうか聞いたのだな」
「ですが、配慮に欠けた愚策でした。お忘れください」
「いや、妙案かもしれん。うまくいけば、廬江を助けると同時にお前の責務も
孔明が愚策だと
「避けることばかり考えていたから苦労してきた。袁術のもとで働いたとしても、漢臣であることには変わりない。むしろ、袁術を利用して、江南の地に赴任させてもらうように頼んでみるのもありかもしれん」
袁術は南に勢力圏を伸ばしていた。江南の
「よく考え付いたな」
「
諸葛玄は甥の確かな知識に
諸葛玄が孔明の策に身を委ねてから、孔明は鄭宝の砦で半月余りを過ごした。
その間の保護者は
「
孔明がほぼ毎日のように湖畔で時を過ごす葛玄に尋ねた。孔明もさすがに自由の
「
道士の葛玄は砦内に充満する戦前の緊張した雰囲気にではなく、大地を
「そうなのですか」
「平時であれば修行するのには悪くない場所だが、今はそれは
「先生は新たな修行の場を求めて疎開を決めたのですね」
孔明は葛玄が自分たちに同行しているのは、単に疎開だけが目的ではないことにようやく気が付いた。
「まさしく」
葛玄は目を閉じ、心を澄ませたまま、それを認めた。
「具体的にどこへ向かわれるのか、お決まりになりましたか?」
「この龍脈を辿った先を行ってみようとは思ってはいるが、それがどこへ続いているのか、まだ分からぬな」
世界は陽気と陰気が入り混じり、あるいは、交代して形作られている。
例えば、天と地。山と河。昼と夜。太陽と月。天・山・昼・太陽はそれぞれ陽であり、地・河・夜・月はそれぞれ陰である。人は天地の間に存在し、陰陽が入り混じった存在だ。基本的には男が陽、女が陰だが、この陰陽の気が合わさって子が誕生する。故に人間は陽気だったり、内気だったり、強気で勇敢だったり、弱気で
生命の誕生は陽気の爆発である。生命は陽気のエネルギーを享受して成長し、やがて、その陽気もピークを過ぎると陰気へと変質して、
そして、人が死んだ後、陰気は地下深くへと下降し、いずれまた陽気へ変質して地上へ、天上へと上昇するのである。
よって、死後、人の魂は陽気の〝
ちょうどこの時代はインドから伝わった仏教が広まりを見せる頃で、そうした陰陽説のサイクルと仏教の
「地下には龍脈が走り、地上には大きな湖がある。どういうことか分かるか?」
葛玄が言う龍脈とは、地下を巡る陰気の大きな奔流のことだ。その影響が特に具体的地形として現れ出た場所が河や湖だということも、孔明は葛玄から教えられた。水もまた陰を象徴した物質である。
「何か特別な力を秘めた場所だということですね」
「そうだ。そして、そなたは今、その力を引き出す霊宝を持っている」
「この銅爵のことですか?」
孔明が
「いい
目を見開いた葛玄が薄暗くなった湖面を指差して言い、孔明はその指先を見つめた。特に何かあるわけではない。湖面にはほとんど波もなく、穏やかな表情を保っている。それが突如崩れた。水面がぶるぶると波立ち、放射状に波紋が広がった。
そして、その波紋の中心から飛び出してきたのは、黒い
水中から飛び出てきたそれは上空高くまで急上昇して、形を整えると、
「この烏は
葛玄のそんな言葉を肯定するかのように、烏が「ガァ」と鳴いた。
「人は陰陽の気をその身に宿す。それを自在に操れるようにするのも道士の修行の一環。私はまだ修行中の
葛玄の道術を見、言葉を聞いて、思い起こすことがあった。二年前。泰山。
霧に煙るその
ということは、あれは青龍爵の神秘的な力が影響した現実の出来事だったのだろうか。そう考えると、どうして袁秘が家を捨ててまでこの霊宝を守ることを使命としてきたのか、それが只ならぬ実感として孔明の胸に迫った。同時に今まで以上の重責がのしかかる気がして、孔明は思わず息を呑んだ。
袁術が根拠地とする寿春に辿り着いた諸葛玄は、すぐに袁術と面会した。
「これはよく来てくれた。歓迎するぞ、
曹操との戦に敗れ、何人かの将軍を失い、幾人かの幕僚が見切りをつけて去って行った。そんな時の諸葛玄の来訪である。袁術はそれが余程嬉しかったようで、歓待してそれを迎え入れた。虚栄を張るように珍品で飾り付けられた部屋。横には着飾った
袁術はわざわざ威風を吹かすように、遠く離れた
「大漢を
「そのつもりでやってきました」
諸葛玄は心にもないことを言う袁術に心にもない答えで応じた。いや、袁術が心を入れ換え、漢の再興に尽力するというのなら、その覚悟はある。それを確認する進言をして、その腹を試す。
「早速ですが、お聞き入れ願いたいことがございます」
「何かな?」
「廬江のことです。廬江の陸康は忠義を知り、
「わしは漢の衰微を心から憂い、故に董卓討伐の義軍に参加した。だが、盟主となった袁紹は勇気なく戦おうともしなかった。奴は救国の大志なく、
自分のことは棚に上げ、袁術は自らを
曹操との戦における敗戦で、軍の立て直しを迫られた袁術は揚州を力ずくで奪取し、廬江の陸康にも武器
『……やはり、君子にはあらずか』
袁術の虚言が放つ空虚さを感じて、予期した通りの落胆が諸葛玄の心を満たした。だが、甥たちを無事に廬江へ入れるためには、ここで引き下がるわけにはいかない。
「なるほど、そうでございましたか。しかし、それでも一旦軍を引き揚げた方がよろしいでしょう。王者とは無駄な戦をしないもの。陸康に改心の機会を与えるのです。袁公のために私が自ら陸康の説得に当たりましょう」
諸葛玄は寿春への道中で考え抜いた
〝
「そなたが行ってくれるというのなら、信じてもよい。だが、
野望の実現のために、廬江の土地も伝説の神器も
「その時は兵を新たにして、改めて攻めればよろしいでしょう」
諸葛玄は袁術の意に沿うようにそんな進言をして、それを納得させた。
廬江の
「陸康の爺さんに根負けしたようだな。お前たちはすぐに廬江へ行って、爺さんによろしく伝えてくれ。こいつは俺からの
鄭宝は兵糧を満載した
『大軍が通った跡だ……』
孔明の脳が本人の意思を無視して、視界に映る映像と過去の惨劇の記憶を勝手に結び付ける。徐州。曹操軍。惨劇。
伝え聞く仏教の地獄絵図がそのまま再現されたような、あの恐怖の記憶は孔明の脳裏から消えることはない。それは夜、悪夢へと
「息が乱れているな。息を整え、心を平静に保て」
葛玄は孔明がまた
孔明はその循環を実践しながら、独自の対処法も忘れなかった。それは何でもいい、何かに意識を集中させて、強制的に思考を働かせることだ。息を整えながら、孔明は必死に現実を観察し、頭をフル回転させて、吐き気をどこかへと追いやろうと試みる。
『……大きな野戦があった形跡はない』
周囲に死体が転がっていないのを見て、孔明は廬江の戦いぶりを想像した。
激しい攻城戦が続いたというよりは、袁術軍は包囲を続けて城内を圧迫し、兵糧の
『大丈夫だ。この霊宝をちゃんと手渡したら、あんなことにはならない』
そう思うことで何とか落ち着きを取り戻した孔明の視界に舒の県城が見えてきた。思った通り、城外に死体が転がっていないのを見て、孔明は安心した。
城門には戦の
それでも、いかなる侵入を拒むように堅く閉ざされたままであったが、魯粛の私兵が鄭宝からの兵糧を運んできたことを伝えて、ついに廬江の城門が開いた。
城内は思った以上に人で溢れていて、敵軍が後退したのもあって活気にも溢れていた。それはこの舒県が廬江の中心都市というだけでなく、近隣の民衆たちがこぞってこの城に避難してきていたためであった。
『この地の太守様が大層立派な方であるのは間違いないようだ』
城に入った後も孔明は冷静に
孔明の察する通り、彼らはこの混乱の時代に五年以上もの間、安定統治を続ける廬江太守の評判を聞き知り、その
孔明は吐き気と戦った疲労感を抱えながらも、休む間も惜しんで郡府へ直行した。
鄭宝と袁秘の名を持ち出して太守に面会を申し出ると、一行はほとんど待たされることなく郡府へと招き入れられ、太守自らの出迎えを受けた。
「ようこそ参られた。廬江太守の陸康にござる」
孔明は陸康の拱手に慌てて返礼し、もう一度自己紹介をして、用件を告げた。この待遇はまさしく袁秘の名によるものだと悟った孔明は、その胸に抱える命運の大きさを改めて理解したのだった。
「まだ若いのに大任ご苦労でござった。部屋を用意致すので、お子たちはそちらでゆるりと休ませるがよろしかろう」
陸康は葛玄を孔明の父か何かと勘違いしたのか、孔明の姉とその手に引かれた
「お気遣い感謝致します。さぁ、二人は行って休んでいなさい」
保護者であることには変わりない葛玄は陸康の言葉に甘え、
ゆったりとした歩みながら、真っ直ぐな姿勢を保つ陸康の後ろ姿からははっきりと品行方正な性分が
すれ違う官吏たちは陸康の姿を認めると、足を止めて一礼を
『落ち着いた雰囲気がある。この事態にも動じない豪胆さと沈着さを
廬江太守の陸康は長年の苦労をその身に刻んできたかのような人物だった。
陸康は
泰山から救出されて以来、劉備に守られて徐州に到達した袁秘が徐州に留まらずに太史慈の軍に同行をしていたのは、最初から廬江の陸康のもとへと向かうためであった。実は袁秘は楽安時代にも陸康の庇護を受けていたことがあり、親交が厚く、その忠義心と誠実な人柄を深く信頼していたのだ。
孔明たちは太守の政務室へと招き入れられ、そこで青龍爵の引き渡しを行った。
孔明は両の
あの時、あのお方もこんな感覚だったのだろうか。孔明は袁秘の心情を
龍の彫刻の目にはめられた青の宝石は以前より輝きを増しているように見える。
その間、陸康も湧き上がってくる興奮を抑え、己の心を落ち着かせる時間とした。
しっかりと神器を見納めた孔明は丁寧に神器を包みながら、ゆっくりと陸康の前に進み出て青龍爵を差し出した。
「確かに
陸康は孔明から丁重に青龍爵を受け取りながら、
量り知れぬ重責と同時に、かつて同志が帯びていた使命を引き継ぐことになる。
「その思い、この老体が守り抜こう」
青龍爵に視線を落とし、陸康が決意を込めて袁秘に、そして、今は亡き男に誓った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます