其之五 別離の日
徐州の危機は去り、年が明けた。一九四年は〝
沛県は予州沛国の都で、〝
劉備軍がその小沛に移動するのと時を同じくして徐州を離れようとする者たちがあった。
「――――
それが一家の長である
城内には、諸葛家と同じような事情で北から移ってきた家族がいくつかあった。
皆、此度の戦乱で逗留を余儀なくされた者たちである。主なところは瑯琊
莒県の徐氏は地元の県長を務めたことがある君子・広陵太守の
諸葛家も彼らと一団となって、城門の前に隊列を作った。
「出発」
号令したのは南下する劉備軍に同行して徐州入りをした
劉備の命で太史慈が集めた敗残兵は皆、
太史慈を中心とした千ほどの軍民一行は
ところが、そこには馬車を運搬できる大型船はなく、諸葛玄は仕方なく馬車を
一行がいくつかの船に分乗する際、孔明は一家の乗った船には同船せず、
「ご一緒してもよろしいですか?」
「構わないが」
気になるその人物の許しをもらい、葛玄と一緒に船に乗り込んだ。
船が岸を離れ、ゆっくりと
「私は
男はそれを聞いて
そういえば、自分が逃げ出す直前、黄巾賊に捕まった少年がいた。はっきりと顔を覚えているわけではないが。
「……ああ、あの時の子供か。君も助かったのだな。良かった」
「差し
「ああ、申し訳なかった。
「袁」と聞いて真っ先に思いつくのは、官僚のトップ〝
「失礼ですが、
「身内は身内なのだが、私はとうの昔に
公路というのは、
「もし、君たちが公路のもとに向かうつもりなら、考え直した方がよい」
「いえ、私たちは江南に避難するつもりです」
「そうか。それが賢明だ」
袁秘の態度は静平で落ち着いており、その声も穏やかで、清らかな感じがした。
間違いなく悪い人物ではない。彼が
船が対岸へと辿り着く。孔明は袁秘に一礼をし、船を下りて先に渡っていた叔父たちのもとへ向かった。それを見送った袁秘は船を下りると、じっと淮水の流れを振り返った。水の流れは気の流れを表わしている。視線を上流部へと向ける。
そして、河岸に
「徐州にいた時から何やら大きな霊気を感じておりました。それはきっと名のある
袁秘のその様子を見ていた葛玄が
「いや、ご心配なく。私は
葛玄が警戒感を示す袁秘にそう言ってみたものの、
左慈は〝
「霊宝は良き事に用いれば世に
葛玄はそれだけを伝えると、孔明の後を追うようにゆっくりと
袁秘はそれを見届けると、ようやく警戒心を解いて、両手に包んだ
その言い伝えから〝
気のせいかもしれない。だが、袁秘には淮水の水を得た龍の瞳がほのかに
山賊ではない。笮融か袁術か、あるいは、反旗を
とにかく、どこぞの軍隊だ。大軍というわけではない。
「袁秘様は民とともに先をお急ぎください。
劉備から袁秘護衛の任務も託されていた太史慈は民と袁秘を守るため軍を率いて反転し、迎撃に向かった。
「東城まであと少しだ。さぁ、急げ!」
馬上の
孫邵は
「我等も急ぐぞ」
新たに
だが、相手が誰であろうと関係ない。太史慈は軍を指揮する敵の大将らしき武将に狙いを定めると、猛然と騎馬を突入させて、あっと言う間にそれを突き殺した。
大将が討たれれば、指揮系統が乱れ、兵にも動揺が走るものだ。これで敵兵は崩れて逃げ出すかと思いきや、そうはならなかった。
「私に続け!」
一騎、無謀にも太史慈に向かってくる騎馬武者があった。
「そこをどけっ!」
太史慈は向かってきたその敵の
「なにっ?」
次の瞬間には自分の首元を槍の穂先がかすめ、さらに、もう一撃が鎧の一部を
「
不敵な笑みを浮かべて馬首を返したその若武者に今度は太史慈が仕掛けた。
筋骨
「うぐ……!」
激しい衝撃が頭部を揺らし、強烈な耳鳴りが襲って、
丹陽兵は勇猛なことで知られている。それが袁術軍を
「ちっ、情けない奴らめ」
若武者は自軍の弱兵ぶりを
「袁術の下にあんな者がいるのか……」
ただ驚きとなって、そんな感想が口から漏れただけだった。
後漢の郡国制度でいうならば、東城は下邳国の最南端である。そのすぐ南は揚州の
「天の兄上が我等にご加護を与えてくださっているのかもな」
諸葛玄が胸の前で手を組んで、それに感謝するように言った。
同行する袁秘が抱える霊宝・青龍爵がかつて甥を救い、徐州を危機から守り、今も何らかの加護を与えていることは諸葛玄は知らない。もちろん、孔明もだ。
「はい」
孔明は叔父の言葉を信じて、
そして、これも青龍爵の加護の一端なのか定かではないが、東城には疲れた避難民に援助の手を差し伸べる有徳の者があった。
「皆様方、ささやかではございますが、温かな食べ物を用意してございます。召し上がって、長旅の疲れをお
魯粛は召使いたちに指示して、難民たちを自らの広大な屋敷内に招き入れ、倉を開いて食糧を配給した。
「若いのに立派な振る舞いだな」
諸葛玄が頭上の魯粛を見て、率直にそれを褒めた。
魯粛は
昔から魯家を知る人たちは家業をおざなりにして、軍事に明け暮れる魯粛を変人扱いしたものだったが、後に東城が
魯粛は太史慈ら兵たちにも酒宴を用意してやり、その労を
「こちらに袁永寧様はいらっしゃいますか?」
諸葛一家のすぐ脇に袁秘が座っていたが、警戒して返事をせずにいた。
しかし、孔明が
「あなた様が袁永寧様でしょうか?」
「いかにも」
袁秘が溜め息交じり、観念するように答えた。
「袁術様からあなた様を見つけ次第、
魯粛はそう言って、
「では、その通りにするがよい」
袁秘はあっさりとそれを
泰山から救出された後、唯一信頼できる一族の
「はい。誠に申し訳ございません」
魯粛は頭を下げて、そうすることを
「構わぬ。公路から
魯粛の礼節と仁愛の心を察して、袁秘の口から恨み
それどころか
「流浪の身にこのもてなしは感じるものがあった。そなたの心の表れと思う。礼を言わせてもらう」
袁秘はその温かさを
「そう言って頂けると幸いでございます……」
後ろめたさを押し殺すように再び一礼すると、魯粛はその場から静かに引き下がった。
魯粛の報告があって、二千の袁術軍が来襲したのは二日後のことであった。
揚州
「我は後将軍
「あの若造か!」
魯粛と共に城閣上にあった太史慈は馬上の若武者を見て、わき腹の痛みを思い出したかのように
「あの程度の軍勢、追い返して見せる!」
太史慈は
「お待ちあれ。仮にあの軍勢を
「しかしだな……!」
袁秘の護衛を任された身としては、黙って護衛対象を引き渡すなど容認できかねる。魯粛が昨夜の決定をもう一度繰り返して
「昨晩のことをお忘れですか。これは袁秘殿ご自身の判断でございます。我々が余計なことをしては、事態を悪くしてしまうだけですぞ」
「その通りだ、
孫邵にもそうたしなめられて、太史慈も振り上げた
「心配は無用。あれでも、一応身内であるから、
袁秘はそう言ってやることで、やるせなさに打ち震える太史慈をなだめた。
そして、
「少年」
袁秘は同じく申し訳なくこちらを見つめる孔明に声をかけた。孔明のもとに歩み寄って
「泰山で会ったのも、今ここに共にいるのも何かの運命だ。我が頼みを聞いてもらいたい」
孔明は袁秘の
魯粛という人物に視線を読まれて、このような事態を招いてしまったのは自分のせいだと自覚していたからだ。
「いったい、何でしょうか?」
「これを
袁秘はずっと守り続けてきた霊宝を取り出して、おもむろに孔明の
「
国の命運を託すかのような重厚な
「重いが、頼むぞ」
孔明は差し出された霊宝を丁寧に受け取った。両手に感じた重量感は大したものではない。しかし、それに込められた意味を感じた時、それは
「必ずお届け致します」
孔明の実直で決意に満ちた返答を聞いた袁秘は穏やかな笑みを浮かべ、頷いた。
長年の重責から解放された実に晴れやかな笑顔だった。肩の軽くなった袁秘は、
「では、公路の世話になるとするか。どうもてなしてくれるかな?」
どこか吹っ切れたような言葉を残すと一人、
袁術の軍勢が引き揚げ、東城の民衆の心に落ち着きと平穏が戻った。
唯一ざわつく心を抱えているのは、突如大事を託された孔明少年である。
「先程は何を話していたのだ?」
二人の様子を近くで見ていた諸葛玄が懐に目を落としている孔明に聞いた。
「はい。これを廬江の太守様に渡すように頼まれました」
孔明は袁秘に託されたものを懐から出して見せた。霊宝・青龍爵。
その真の価値を知らない諸葛玄ではあったが、
「なぜ、お前にこのようなものを?」
諸葛玄が疑念を持つのも当然だった。諸葛玄は甥と袁秘は同じ避難民の境遇とはいえ、淮水を渡る際に同船しただけの関係であるとしか思っていない。
「実は以前、泰山でお会いしたことがあります。共に命長らえ、またこのように出会った命運を重んじられたようでございます」
「命運? ただの偶然でないということか?」
「本当にこれを命運というのか、それは分かりません。ですが、私はあの方の頼みを聞き届けたいと思います」
「……」
諸葛玄はすぐには返答できず、視線を兄嫁らの馬車に向けた。
太史慈の軍が明日にも東城を出て、南下を開始する。魯粛から食糧の
軍の護衛がなくなるのだから、群盗に
「あれは天下の情勢を左右する霊宝。盧江に届けた方がよいと思います」
諸葛玄の心が迷っているところに、烏有こと葛玄がふらりとやってきて、
「霊宝……」
その言葉の重みがいまいちピンと来なかった諸葛玄は、再び孔明に視線を向けた。
賢明実直な甥はその重責をしっかりと理解している風である。自らに大任を課し、その霊宝を大事そうに抱えてこちらを
一家の長である諸葛玄がそんなものは放っておけと孔明に命じることは簡単だった。しかし、孔明の
まだ子供ながらに信義を貫こうとするこの甥の心を、正しさを教えるべき大人の自分が
「
心を決めた諸葛玄が諸葛瑾を呼んだ。
「何でしょう、叔父上」
「急用ができて廬江へ下らねばならなくなった。私は亮たちを連れて廬江へ行く。お前は母を連れて先に江東へ渡れ」
「えっ?」
「心配するな。用を済ませたら、我等もすぐに江東へ向かう」
「……わかりました」
諸葛瑾は叔父の決定に異論を挟まなかった。母親の安全を第一に考える孝行者としては、共に盧江行きを勧めない叔父の考えがすぐに理解できたのだ。
またしても加護があったと言えなくもない。それも目に見える形での加護である。
諸葛瑾が魯粛に相談して、魯粛が孔明らに百名の私兵をつけてくれるというのだ。
太史慈軍と比べれば心もとないが、それでも、護衛があるとないとでは大違いである。
「
「いや、理由はどうあれ、賢人の行く手を
魯粛は大局を見通す
諸葛瑾が魯粛と一夜のうちに打ち解けたのは、ひとえに魯粛のそんな性格による。
魯粛の私兵が得られたことで、諸葛玄は孔明の姉弟を預かることにした。
乱世の避難行である。どちらも無事が保障されるわけではないし、目的地に辿り着いた後のことや、予定が狂った場合のことも算段しておかなければならない。
諸葛瑾は学問を
太史慈の軍が出立するのに合わせ、諸葛瑾が
諸葛玄と孔明もそれと同時に出発した。兄と弟、叔父と甥はしばらく共に同じ道を進み、一番下の弟の
そして、別れの時が来る。街道の分岐点は一家が別々の道を歩む運命の分岐点となった。
「
諸葛玄はいつもはおとなしい均が母にしがみ付いて泣きじゃくるのを単に寂しいからだと決めつけた。〝阿参〟は三男の諸葛均の幼名だ。それは長兄の諸葛瑾も同じで、
「大丈夫だよ、阿参。またすぐに会えるから」
そう声をかけて
「では、叔父上。先に行って待っております」
「うむ。こちらのことは心配するな」
諸葛玄は阿参を引き取りながら、諸葛瑾に言った。
「亮、しばらく妹と弟のことを頼むぞ」
諸葛瑾は孔明に向かって言い、
「はい、兄上。母上をよろしくお願いします」
孔明は
孔明の姉の
ただ、そうではないことを、一番の幼子である阿参の直感が一番正しかったのだということを悟るのは、さらに後年になってからである。
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