其之四 地獄の淵で
郊外の野営地で父の死を知らされた
「そなたは無事で何よりだった」
「あれは
曹操の背中を追いながら、卞秉が早口でそう付け加えた。歩みを止めることなく、曹操が返す。まるで卞秉の忠告を予期していたかのようだった。
「その張闓だが、
曹操は
「まさか、張闓は陶謙の指示で曹嵩様を
曹操はそれには答えず、城門をくぐって城壁の上へ続く階段を上がった。
「奴は父の扱い方を
父の
「見よ、この青州兵を。奴らはずっと戦いに生き、略奪を続けて荒野の中を生きてきた。まだ飼い慣らしたとはいえない
平素な口調とは対照的に、曹操の
まもなく徐州は
諸葛一家は無事に東海国
諸葛玄はすぐにでも広陵に向けて
「――――薬なら、
山野を修行の場としていた葛玄には
郯はさすが州都、人が多いだけあって、にぎわいがあった。しかし、にぎわう中にも、どこか不安が入り混じっている。活気と
曹嵩が陶謙の部下に殺されたらしいことはすでに街中に広がっていて、一部の民衆はその報復を恐れて、郯が戦場になるかもしれない可能性に動揺しているのが感じ取れた。
「群雄争覇のこの時代にいらぬ恨みを買った。もはや徐州と兗州の戦は避けられまい。できるだけ早く広陵まで下らねばなるまい」
「徐州様は兗州と戦うつもりなのですか?」
「闕宣を討つと公言して出て行ったらしいが。とにかく、曹操が攻めてくる気配を見せたなら、戦わざるを得ないだろう」
「では、様子見に出たということですね。ということは、状況次第では賊徒と手を結ぶこともあるということですか。事態は複雑ですね」
諸葛玄は
陶謙は闕宣を
大通りに交わる通りに商店街があり、その中に東海一と評判の大きな商店があった。〝
「ここで要り用のものは大概手に入れられよう」
諸葛玄が言って、その商店に足を踏み入れた。そこは主に食料品や雑貨を扱う店で、特に海産物の
「私は店主と話してくる。その間に買い物を済ませて、先に帰っておけ」
そう言うと、諸葛玄は店主に何かを告げ、孔明を残して店の奥へと消えた。
数日にわたる休息と諸葛瑾が手に入れてきた麻黄湯が
広陵太守の
太麋堂は表面的には商店を経営する、大きいという以外はごく普通の店舗であったが、主人が陶謙の要人であるらしく、その取り次ぎ次第では何でも手に入れられる店だという評判があった。事実、その人脈を生かして、裏で上客たちに対する情報提供も行っていたし、要人に対する
諸葛玄が太麋堂を利用したのは、もちろん、その辺の事情を知ってのことである。
「――――笮融というのは実に怪しい人物で、
諸葛玄が徐州情勢の詳細を求めてきた時、太麋堂の主人である
「――――そうでしたか……」
それを聞いた諸葛玄は嘆息して、趙昱の死を
「――――
「――――やはり、お勧めはしません。
麋竺の言葉に諸葛玄は首を振った。動くのも危険、
「――――陶使君が留守の間に袁術が攻め寄せてくるやもしれません。我等も袁術の動向を注視しておりますので、新たな情報があれば、またお教えいたしましょう」
結局答えの出ないまま、諸葛一家は徐州の都・郯県に留まって、麋竺の次なる情報を待ちながら、事の
麋竺は
陶謙はその財力を抱え込もうとして、麋竺を側近に登用した。
「――――そちの家は東海一の豪商だと聞く。どうすれば、そのように富を集めることができるのだ?」
陶謙の問いに麋竺が答えた。
「――――
「――――まさにそうだ。今、市井の人々が望んでいるものは何だ?」
「――――平安の一言に尽きましょう。黄賊の乱と董卓の専横で天下は大きく乱れました。使君が徐州の民に与えるべきは、ただただ平穏な時でございます。
「――――なるほど。だが、その安寧をもたらすにしても、軍備を増強しなければならんと思うが、それはどう思う?」
「――――その通りでございます。まだ青州には多くの黄賊が
「――――そのためにそちの家の財力を貸してもらいたいと言ったら、応じるか?」
「――――もちろんでございます。国のためとあらば、喜んで」
麋竺は顔を曇らせながら、そんなやり取りを思い出していた。
陶謙は軍備の増強を急いだ。そして、その過程で笮融を登用したのだ。浮図集団を率いていた笮融を取り込めば、戦力になると踏んだのだろう。その笮融が陶謙が徐州を留守にしたのに合わせるように趙昱を殺害し、広陵に居座った。趙昱が笮融の邪悪さを見抜いて、排除を陶謙に訴えようとしたというのが麋竺が
笮融、袁術、曹操……。今、徐州は野心ある奸物らに囲まれ、荒廃の
麋竺は北海国の
孔子の哲学を教義化した儒教では、親が殺された場合、その
曹操の心に激しく燃え盛る復讐の炎。その火勢は猛然として、もはや自分では消すことは
曹操の復讐戦は
死が目前に迫っている。少年孔明も伝え聞くその惨状に心底恐怖した。どうにも抑えることのできない戦慄が小刻みな震動となって、
『主は怒りを
君主は怒りにまかせて軍を興すべきでなく、将軍も憤慨にまかせて合戦を始めるべきではない。兵法家・孫子の言葉である。孔明が曹操の心の内を分析する。
『復讐心だけでここまでするだろうか。周辺の勢力に対して恐怖心を植え付けようとする狙いもあるだろうけど……』
真相を探ろうという孔明の探究心が強まるのと比例して、冷静さが緊張を解きほぐし、震えが徐々に小さくなっていく。
『三十万の黄賊を抱え込んだばかりだ。新たに捕虜を抱えようにも食糧が足りない……』
孔明の推測は当たっていた。曹操は青州黄巾賊三十万を降伏させたまではよかったが、そのせいで食糧事情に
『あえて略奪を働かせることで黄賊たちの不満を解消させたんじゃないだろうか。でも、それは決して君子の策じゃない……』
真相を探り当てた時、孔明の体はもう震えていなかった。そして、それと時を同じくするように、地獄の
固く閉ざされていた郯の城門が開かれ、喚声と共にある
「あれは
誰かが言って、先頭の白馬に乗った
孤立無援の中に現れた救援軍。決して数は多くないが、死の淵に立たされていた徐州の人々にとって、それがまさに天からの救いの手のように感じられたのは当然だった。
「民に活気が戻った。もうしばらく命を長らえることができそうだ」
「はい」
徐州民の
「このところうるさかったこの烏もすっかりおとなしくなった」
隣に立っていた烏有先生こと葛玄がぽつりと呟いた。彼の肩に一羽の烏が止まっている。
「私たちは救われるのでしょうか?」
「どうだろうか。余りにも死人の数が多すぎて、鳴き疲れただけかもしれんぞ」
孔明が視線を戻すと、
陶謙が劉備に走り寄ると、すがるようにして劉備の手を取った。その横に功労者の麋竺もいた。麋竺が日頃から進めていた北海相・孔融との
陶謙と麋竺が
「あの方は……」
泰山で黄巾賊の人質になった時、一緒に捕らわれていた人物だ。名前は知らない。
その男は劉備と共に門をくぐって州府へと入っていった。そのタイミングで思い出したように烏が「ガァ」と一声、何かを訴えた。
最後に野心の花を咲かせようとした陶謙も、それをあえなく
それは天に向いているのではなく、地を向いている。大地に根ざして生きる
「よく来てくださった。心より感謝申し上げる。この感謝の気持ちを
陶謙は悲嘆にくれる人生の最期で、ようやく民衆を
「劉備殿、これを。どうかわしの代わりに徐州を治め、曹操から民をお救い下され……」
徐州牧の
「何を申されますか。私はただ徐州殿をお救いするために
劉備はもはや平原相として復帰するのは現実的ではないことを理解しながらも、そんな発言で陶謙の申し出を断った。あくまでも官位は朝廷から
「しかし、劉備様。今は非常事態でございます。曹操のような
麋竺の言葉に嘘はなかった。曹操から徐州を守り、この地に安寧をもたらせるとしたら、戦の経験も豊富で、乱世の時代に仁義を示す劉備以外には考えられなかった。
「この話は聞かなかったことに致します。今は曹操軍を止めることだけを考えましょう」
劉備は
「お二方が
「兄貴、曹操軍が現れたぜ」
「我等が曹操を
劉備がそう言って陶謙に一礼すると、張飛と共に州府を後にした。
精鋭五百騎を率いて、勢いだけで突っ込んできた数千の青州兵先鋒隊の
「さすが
張飛が感心して兄の武勇を称賛し、
張飛隊の戦いぶりを馬上で観戦しながら、劉備が関羽に尋ねた。
「曹操は見えたか?」
「いえ、本隊はまだ後方のようです」
「そうか。ならば、曹操が到着する前にできるだけ敵の勢いを
「はっ」
関羽が再び馬首を返し、軍を率いて突撃の第二波をかけた。関羽・張飛隊のすさまじい戦いぶりに青州兵は戦意を喪失し、
「何と言う強さか……」
城壁の上からその勝利を見届けた麋竺は劉備軍の圧倒的強さに、まるで奇跡を見たかのように
「これは何としても徐州にお留まりいただかねば……」
城門へ駆ける麋竺は興奮していた。劉備が徐州十万の兵を率いたら、徐州は安泰どころか、漢朝復興の夢物語さえ実現しうる。そんな気がしたのだ。
勝利の報が伝わって徐州城内が喚声に
『弱きを助け、強きを挫く。これが侠の精神……』
何とも言えぬ
野に横たわる無数の
家屋は
この地獄を創造したのが自分であることも忘れ、破壊と殺戮の
前方に動く姿があった。一人二人ではない。集団だ。それはこちらに向かってくる。曹操が片手を上げ、進軍停止の合図を出した。
「私が参ります」
「先発した青州兵でした」
戻ってきた夏侯惇が曹操に報告した。その青州兵が舞い戻ってきたということは、どこぞの軍に敗北を
「誰にやられた?」
あの老いぼれ陶謙にもうそんな力は残っていないはずだ。曹操が疑問を抱くのも当然だった。それに夏侯惇が答える。
「兵たちから聞き取りしたところ、どうやら劉備の軍だと思われます」
「
曹操はその名を聞いて、妙に納得した。
劉備は昔からの
「お
曹操は
『さあ、お前の
まだ見ぬ相手にそう
郯城は徐州の都だけあって、厚く
「先手の勢いを削ぎ、
劉備が城に
「……
また曹操がぼつりと呟いた。『
「
「玄徳と話してからな」
夏侯惇の問いに答えた時、城門が開いて、騎馬に
関羽。背後に多数の荷車を従えている。決戦の様子はない。それに応じるように曹操陣営から夏侯惇が単騎で進み出て、関羽を迎えた。
「
「我が兄の言葉でござる」
関羽は夏侯惇の
「そこで待て」
「ふふ、あの兵糧は信義の
劉備も曹操軍が兵糧に事欠いていることは知っていた。その上での書簡と兵糧の提供である。劉備の言葉には嘘がない。
曹操は胸の中で燃え狂っていた激しい
「どこまでも甘い奴だ」
それが期待通りであるにもかかわらず、劉備をそう
劉備は
攻城戦は
曹操はもともと長期戦を考えていなかった。
「善の善なるは、戦わずして人の兵を屈するものよ」
曹操はまた『孫子』の一節を口に出して、撤退を決めた。曹操としても、劉備は敵ではなく、味方に付けたい男なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます