其之七 廬江の少年たち

 二年前まで孫堅そんけんあざな文台ぶんだいという忠勇の将軍がいた。

 地方の一下士官から身を起こし、黄巾賊こうきんぞく討伐で名を挙げ、董卓とうたく征伐戦でも先陣を切った。漢王朝を救うという大志を胸に戦功を重ね、長沙ちょうさ太守にまで昇った。

 孫堅の活躍の背景には類稀たぐいまれな武勇と厚い忠義心だけでなく、神器じんぎの守護者としての固い信念が存在した。陸康りくこうはそれを知っている。彼が十九で仮司馬かりしば(軍務副官見習い)になった頃から。

 陸康は孫堅の活躍と成長をその目で見て来た。それなのに……。

「何という皮肉か。りに選って、奸雄の手先となってこの地宝を奪おうとする者が神器の守護者の息子とは……」

 陸康が深い嘆息の後に呟いた。

 廬江ろこうの城外には孫策そんさくが一万の軍勢を率いて、降伏を求めていた。

 孫策、あざな伯符はくふ。鋭気あふれる二十歳はたちのその将軍こそ、孫堅の長子にて、廬江攻略のために現れた袁術えんじゅつの新手であった。

「我が方の使者が後将軍の意向を伝えたはずだ。すみやかに降伏し、城門を開けろ!」

 馬上の孫策が片手に槍をかかげて叫んでいた。補強修理が済んだ城門の上からそれを見ていた陸康は、また深い嘆息を残して背を向けるほかなかった。

 孫策が言う使者とは諸葛玄しょかつげんのことである。孫策軍に同行する形で廬江に到着した諸葛玄は数刻前に城内に入って、陸康に話を伝えはした。ただ、強く降伏を勧める気持ちはない。城門下で陸康が下りて来るのを待っていた諸葛玄は、

「申し訳ございません。袁術が兵を共に出すというのを説き伏せられず……」

 そう、陸康に弁明した。

「気になさるな。貴殿の甥子から事情はうかがっておりまする。先日、包囲が解かれたのは、貴殿のおかげだということも。一時であれ、包囲が解かれて、城内に活気が戻りました。私としては礼を申し上げたいくらいでござる」

 対する陸康は穏和おんわな笑顔を浮かべ、袁術側の使者である諸葛玄を漢臣の同胞として遇した。

「いくらかの兵糧ひょうろうも得られ、何より負けられぬ理由を得た。わしの体が続くうちはまだまだ戦いますぞ」

 陸康が闊達かったつに笑って、ふところをポンポンと叩いてみせた。


 陸康が言う負けられない理由の一つが一族の長としての責務である。

 陸康は呉の出身だが、自身の家族だけでなく、他の宗族そうぞくも最長老かつ出世頭である陸康を頼って、この廬江に集まっていた。姻戚いんせきを含めれば、数十人の大所帯である。

 孔明たちは太守府の敷地内にある太守邸を間借りして滞在していたが、その屋敷に陸一族が暮らしていた。

「また敵が攻めてきたみたいです」

 諸葛家が過ごす間に陸氏の少年たちがやってきて、孔明にそれを教えた。

「太守様に聞いたのかい?」

「いえ、大叔父様の様子を見てそう思っただけです。大叔父様がまたよろいを着て急いで出て行かれましたので」

 孔明はそれを聞いて耳を澄ませてみた。喚声は聞こえてこない。少なくとも、太守府の敷地の中からは戦の雰囲気を感じ取ることはできない。

「なるほど。そうだとしたら、また静かな戦だね」

「静かな戦?」

「城を包囲して、人も食糧も出たり入ったりできないようにする。そして、君の大叔父さんが困って、城を明け渡すのを待つ作戦さ。戦わずして人の兵を屈することが戦における最善の方法だって、兵法書にある」

「ああ、『孫子そんし』ですね。今、勉強しているところです」

 孔明の話し相手になっているのは二歳下の陸氏の少年だった。名を陸議りくぎという。

 議の父は陸駿りくしゅんあざな季才きさいといい、陸康の甥に当たる。六年前、陸駿が予章郡宜春ぎしゅん長を務めていた時、寇賊の大軍に城を攻められて陥落寸前に追い込まれたことがあった。

 その窮地に現れたのが長沙太守・孫堅の軍で、陸駿はそれによって命拾いした。

 予章郡と長沙郡は隣り合っているのだが、予章郡は揚州、長沙郡は荊州に属しており、当時の法では、州境を越えて軍を動かすのは法度はっととされていた。孫堅はそれをかえりみずに縁故ある陸家のために救援軍を率いたのである。孫堅と陸康は共に戦った戦友だったし、この時まで、孫家と陸家のきずなは強く関係性は良好だった。孫堅の死後、それが一転する。

 原因は孫堅の上司の立場にあった袁術が孫堅の武将と兵を吸収し、自らの野望のために彼らを使い始めたからである。揚州にやってきた袁術が手始めに攻めたのが九江きゅうこう郡で、九江都尉といであった陸駿はその時の戦で命を落としていた。都尉は郡の軍隊を指揮する。

 そして、袁術側の指揮官だったのが孫賁そんふんという人物で、孫堅の甥、孫策の従兄いとこであった。つまり、陸議の父は孫家に殺されたようなもので、二年前のこの事件以来、陸家にとって孫家は仇敵きゅうてきとなった。父を失った陸議は大叔父の陸康を頼って、廬江へ移った。

 そうして、一家の長を失った一族の婦女子たちの面倒を長老の陸康がみることになったのだ。ちょうど諸葛玄が孔明たち兄家族の面倒を見ているのと似ている。

 乱世であったし、どこの家でもこのような母子家庭や孤児こじ、未亡人が生まれていて、彼らを扶養しなければならない長老の責任は重大であった。

 今、陸康のもとに身を寄せている陸氏のうち、陸議は十二歳ながら、最も年長の男子であった。他にも陸議よりも幼い二人の少年がひかえていて、一人は議の弟のぼう、もう一人は陸康の末子のせきである。彼らは後にそれぞれ孫家に仕えて、重臣となる。

「父上は強い人ですから、城を明け渡すなんてしませんよ」

 まだ七歳の陸績が自信たっぷりに言って、胸を張った。

「そうだろうね」

 それには孔明もにこやかに微笑ほほえんで同意した。

 いざ戦という状況になって、民を捨てて逃げ出す惰弱だじゃくな郡守県令は山ほどいたが、陸康はそうではない。責任感と使命感に溢れ、民を守るという決意は岩のように固い。陸康は常日頃から戦乱に備えて食糧を備蓄していたし、賊徒から城を防衛することにかけては十分な実績があった。しかし、懸念けねんもある。

 孔明はそれを陸議に尋ねてみた。

「城内に兵士はどれくらいいる?」

「二千くらいです」

「少ないね。それが敵に知られたら、騒がしい戦になるかもしれない」

「でも、大叔父様は城内の大人の人たちに手伝ってもらって、みんなで城を守っています」

「うん、確かに太守様はそれができるお人のようだ。見習わなくちゃいけない」

 孔明は廬江の粘り強さは陸康の指導力と求心力にあると分析していた。

 民衆が太守を信頼尊敬し、太守のために協力を惜しまない。それがきょうとは似て非なる団結力を生む。

 侠の精神の根底にあるのは、恩義に報いるためには死をいとわないという強烈な義理重視と弱きを助け、強きをくじく弱者救済の思想。そのために一命をして強大な相手に立ち向かう。要約すれば、「義」の精神だ。

 対して、陸康に力を与えているのは、官と民の間にある「信」の精神。

「君のお父上は君子の手本のような人物だよ」

 陸績はそれを聞いて、嬉しそうに顔を上気させた。

 それからも少年たちはおよそ子供らしくない、大人顔負けの会話を続けた。


「戻られましたか」

 太守府の門前で葛玄かつげんがこちらに歩いてくる孔明の叔父を認めた。

孝先こうせん、世話をかけた。ここで預かってもらっているそうだな」

「はい」

「例の物の引き渡しも終わったことだ。すぐここを出ようと思う」

「あれが強欲ごうよくの者を引き寄せたのですな」

 葛玄が神器を所有する上での最大の難点を指摘しながら呟いた。

 乱世において、強大な力を秘めたそれは新たな戦いの火種となってしまう。それは過去の歴史においてもそうだった。

「誤算だった。袁術がこうもすぐに軍を派遣するというのは」

「それだけ、あの霊宝に執心しゅうしんしているということでしょうか」

「全く厄介なことに関わってしまったものだ……」

 こんな展開になって、諸葛玄はこの疎開を後悔していた。戦乱を避けるために故郷を出たというのに、はからずも、争いのうずの中心に身を置いてしまっている。

 複雑な思いを抱えながら、諸葛玄が孔明ら甥子たちのもとへ歩み寄った。

「叔父上、お帰りでしたか」

「ああ、済まんが、すぐに荷物をまとめてくれ。ここをつ」

「袁公のもとに向かうのですね」

 聡明な孔明はそれがすぐにどういうことか理解した。

「そうだ。お前たちは呉に行けるように取り計らってもらう」

「行ってしまわれるのですか?」

 孔明の傍らにいた陸議が残念そうに尋ねた。

「ん?」

「太守一族の方々です」

「あ、ああ……」

 陸氏の少年を見て、諸葛玄はさらに複雑な心境になった。この状況で自分たち一家だけが抜け出して、安泰を求めようとすることに。陸氏も大変な状況にある。

 いや、陸氏だけでなない。廬江の民は一致団結して、これから訪れる苦難を乗り切ろうといている。しかし、他人のことを構っていて、自分の一家を危機にさらすわけにもいかない。時に一家の長は非情に決しなければならない。


 一向に開城の様子はない。城外では孫策が苛立いらだちを募らせていた。

「いつまで待たせる気だ……!」

 孫策の苛立ちの原因は何も今に始まったことではない。

 父が死んだ時、孫策は十八歳。諸葛家の孔明や陸家の陸議と同じように、孫家もまた家長を失い、一家としては没落のきわに立たされた。父の軍は袁術に吸収され、父に従っていた将軍たちも次々と袁術のもとに働き口を求めた。

 孫策は父をほうむってに服した後、彼らと同じように袁術配下として一部将から再出発することになった。与えられた最初の任務が袁術の一族である袁秘を救出して連れ帰ることだった。孔明たちが東城で襲撃された時、孫策はその任務中だったのである。しかし、下命通り袁秘を連れ帰ったものの、袁術からは何の褒賞ほうしょうもない。

 それどころか、機嫌きげんを損ねた感じすらあった。孫策は袁術から真の目的のことは聞かされていなかった。だから、袁秘が神器を持っていないことを知って、袁術が立腹したとも知らない。孫策は休む間もなく、丹陽たんよう太守の叔父・呉景ごけいに加勢するよう命じられ、長江を渡った。そして、息つく暇もなく、今度は廬江攻略である。

 降伏勧告の使者として城内に入った諸葛玄からもいまだ何の音沙汰おとさたもない。

「落ち着かれませ。陸康殿の性がかたくななのは周知の事実。説得が難航しているのでしょう。今しばらく待ってからでも、遅くはありません」

 今にも攻撃命令を発しそうな若い孫策をなだめたのは、呂範りょはんという能臣であった。

 呂範、あざな子衡しこう汝南じょなん細陽さいようの人で、容貌ようぼうが優れ、風采ふうさいがあった。同郡出身の袁術のもとに避難していたが、そこで出逢った孫策と気が合い、最も早く彼に臣従を誓った。

「今後のために兵も城も損なわずに取るべきです」

「分かっている。ここを取れば、俺が太守だ。思い出深い地でもある。できるだけ、無傷で手に入れたい」

 孫策は十五歳でこの廬江じょ県に移住し、それから三年をこの地で過ごしている。

 そして、この廬江を攻略することができたら、太守に任じると袁術から約束されている。勇猛果敢な父の遺伝子をよく受け継ぎ、将来を嘱望しょくぼうされた孫策であったが、性急な性分しょうぶんもまたその身に受け継いでいた。

「あと一刻待って何の応答もなかった場合、攻撃を開始する!」

 孫策が城内に向けて、声高らかに叫んだ。


 一方、孫策の性質を知らない諸葛玄は城外の緊張がにわかに高まっているとも知らず、子たちに荷物の整理を任せて、ある家族のもとを訪れていた。

「父を呼びに参りますので、こちらで少々お待ち下さい」

 孔明よりは数歳下に見える少年にそう言われて、諸葛玄は応接間に取り残された。

 太守府の屋敷を間借りしているもう一つの家族。それが瑯琊ろうや王氏の一家である。

「お待たせ致しました」

 少年に伴われて現れたのは寝衣しんい姿の男だ。王融おうゆうあざな巨偉きょいという。少年は融の子で、名をしょうといった。王融の妻は廬江出身の朱氏で、その縁を頼りに移ってきたのだが、運悪くこの戦乱で城外は危険になってしまい、こうして陸康の世話になっている。

 王融は一人で歩くのも困難なほどせ細っており、顔色がよくなかった。諸葛玄はそれを見て、思わずびた。

「これは申し訳ございませんでした。甥子からこちらに王家の方々がいらっしゃると聞いて伺いましたが、病に伏せっておられるとは知らず……」

「いやいや、気になされますな。病というほどのものでもありません。私も妻も体の調子が優れないだけで……。瑯琊で虐殺があったと聞いて、気が塞がってしまったようです。わざわざ同郷の方がお見えだというのに、長話もできません。失礼をお許しあれ」

「いえ、ご挨拶あいさつにお伺いしだだけですから」

 王融がゆっくりと座に就く間に王祥少年が父と客人である諸葛玄に茶を差し出し、一礼して退出していった。それを待って、諸葛玄が尋ねた。

「瑯琊で虐殺があったというのは?」

 この年の夏、再び曹操が徐州を攻め、徐州住民を殺戮さつりくした。その魔の手は王氏や諸葛氏の故郷である瑯琊にも及んだという。廬江解放と共につい先日もたらされた最新情報だ。

 諸葛玄はそれを聞かされ、半年前にその地獄の淵にいたことを思い出して、王融と同じように気が塞がるようだった。

『子供たちには伝えないでおこう』

 諸葛玄は心にそう決めると、乾いた喉に茶を流し込んで一息ついた。

「先日、利発そうな少年が挨拶に来てくれましたが、甥子さんでしたか。私も隣にやってきたのが諸葛家の方々と聞き知った時は驚きましたよ。事情を聞きました。今回のことを思えば、疎開は正しい決断でした。私たちも帰れません。お互い大変ですな」

 王氏は瑯琊国臨沂りんぎ県の氏族である。瑯琊の名氏の一つで、後に〝竹林七賢ちくりんしちけん〟の一人に数えられる王戎おうじゅうしんの名臣・王導おうどう、〝書聖しょせい王羲之おうぎしらを輩出して、後世に名を残す。が、この王氏もまた、今は没落の最中にあった。その要因は荊州けいしゅう刺史しし王叡おうえいの死にある。

 王叡はあざな通耀つうよう、王融の兄で、学識があり、七年前に荊州刺史に任命された。

 その当時の長沙太守は孫堅で、王叡は荊州南部で起こった反乱を孫堅と共に鎮圧した。董卓とうたく討伐の義軍が起こると、王叡もこれに参加する意思を見せたが、孫堅といざこざがあって、自殺に追い込まれてしまった。その家族は孫堅から逃げるようにして、王融が世話になっている廬江の陸康を頼った。

 ちょうどこの頃、孫堅は家族を旧知の陸康のもとへ預けていたため、陸康は両家の間にいさかいが起こらぬように配慮しなければならなかった。

 孫家は廬江一の有力豪族である周家に世話になっていたこともあり、陸康は王家のために太守邸の一部屋を用意して、何かと面倒を見てやった。だが、それは孫策には陸康が王家に肩入れしているように見えた。そして、そんな時、父が戦死したという悲報が届けられた。孫家が悲しみに包まれる中、王叡の子の王雄おうゆうがそれを因果応報だと言ってはばからなかったことが孫策の耳に入った。悲憤ひふんに打ち震えた孫策はそれを追及しようと太守府に押し掛けたが、陸康がそれをさせないよう手を打って、部下に孫策を追い返させた。その後、孫家は孫堅の遺骸いがいを葬るため、舒県を離れることになった。

 孫策の脳裏に苦い記憶がよみがえる。それは恨みとなって心の奥底に暗く積もったままだ。城内からの反応はない。無視されているとしか思えない。あの時のように。

「この孫策をなめるなよ……」

 孫策はギリッと歯ぎしりして、遺恨いこんの味をみしめた。そして、吐き出す。

「そういう態度が何を招くか、たっぷりと教えてやる。攻撃開始!」

 孫策が天に掲げた剣を無礼者たちがひそむ城目がけて振り下ろした。


 荷づくりの途中だった孔明がふと外に目を向けると、早足で歩いてきた王家の少年と目が合った。王祥は一礼すると、そのまま孔明の視界を通り過ぎていった。

 王祥は自分をさらに寡黙かもくにしたような印象の少年だったが、毎日両親の世話を欠かさない大変な孝行者だった。王祥の母も生母ではない。継母ままははだ。継母に律義に孝行を尽くす。それは孔明に兄の孝行ぶりをしのばせた。

『別れて二カ月余り。兄上たちは今頃呉に着いているだろうか……』

 ぼんやりと兄と母のことを考えながら、孔明は何となく王祥を目で追った。

 まだ十歳の少年ながら、王祥は家計を助けるために毎日のように街へ出、丁稚奉公でっちぼうこうをしている。そうして稼いだささやかな金を食糧や薬へと替え、両親の面倒を見ていた。

『立派な少年だ』

 自らも少年の範疇はんちゅうに属しているのを忘れたかのように、孔明は大人側の視点に立って、親孝行を体現する王祥少年を静かに称えた。

 これまでの激動と苦難に満ちた経験が孔明少年の精神を急速に成長させていたのは間違いない。確かに孔明の背丈はすでに小さな大人くらいにまでなっていたし、その思考はずっと大人びていた。だが、孔明もまだ十四の少年である。時々、両親のいない寂しさを感じて、感傷的になってしまうことがあった。父の顔は思い出せても、まだ幼い時に亡くなった生母の顔ははっきりと思い出せない。継母は兄と共に行ってしまった。今、孔明が孝行を尽くすとしたら、父親代わりになってくれている叔父に対してだ。だからこそ、叔父の決断には従わなければならない。

 ぼんやりと王祥の背中を見つめながら、孔明はそんなことを考えていた。

 荷づくりの手は完全に止まっている。屋敷の前には小さな庭があり、まだ陸家の少年たちが何やら話をしていた。その後ろを王祥が爽やかな微風そよかぜのように通り過ぎて、門外へ出て行った。

 孔明の視線が移り、屋敷のそばに立つ銀杏いちょうの大木に向けられる。そこにはじっとたたずむ道士・葛玄の姿があった。

 孔明は姉の目を盗んで葛玄の側に駆け寄ると、今後の身の振り方を尋ねてみた。

烏有うゆう先生、私たちは廬江を去ることになりました。先生はどうされますか?」

 銀杏の幹に手を当て、目を閉じて意識を集中させていた葛玄は一言だけ答えた。

「龍脈を辿たどってみようと思う」

 予想通りの答えだった。この龍脈がどこへ通じているのか、それは分からない。

 つまり、葛玄の行き先もまた分からないということだ。

  実は葛玄の郷里は江南の丹陽郡句容くようというところである。

 彼の祖先、葛曩祖かつじょうそが新の王莽おうもうに叛旗して敗れ、瑯琊に遷ってきたといい、子の葛浦廬かつほろ光武帝こうぶてい車騎しゃき将軍・驃騎ひょうき将軍となり、下邳国どう県に封地を得た。しかし、それを弟に譲って、自らは長江を渡り、句容の地に隠居した。

 葛氏も前漢末期の動乱時から後漢初期にかけて変遷を繰り返してきた一族だった。

 葛玄は自身のルーツを辿り、故里に修業の場を求めて瑯琊に帰ってきていたのだ。

 瑯琊は秦の始皇帝の時代に日本へ渡ったという方士・徐福じょふくを輩出したように、方士修業には最適な土地の一つと見なされていた。その葛玄が諸葛家の疎開に同行してきたのは騒乱を避けるためではあるが、丹陽の郷里に帰るためではなく、瑯琊に代わる新たな修行の場を探し求めてのことだった。

 ここで烏有先生ともお別れかもしれない――――孔明の心に惜別せきべつの寂しさが湧き上がった時だった。大木を通して、気を感じていた葛玄が「むっ」と唸った。

「どうされましたか?」

「木がざわめいている……」

「え?」

「気が乱れているのだ。これは……恐怖か?」

 葛玄は瞑目めいもくし、意識を集中させたまま、その原因を探った。孔明も咄嗟とっさに口に手を当て、息を殺して、それを邪魔しないよう試みる。視線だけを上に向けた。

 天高く直立する銀杏の大木は初秋を迎え、季節を先取りするかのように早くもその葉を黄色く色付かせ始めている。黄葉こうようした葉の隙間から青空が覗いている。一陣の風に揺れた葉の一枚が音もなく枝を離れて、ひらひらと孔明の視線の先を舞い落ちていった。

 地面には黄色の葉が数枚散らばっていたが、それはごく当たり前の自然の摂理の中の光景だ。孔明は不吉な変化を感じ取ることはできなかった。

 葛玄が感じ取ろうとしているのは大地の気の流れと同じ、樹木の中を流れる気の静動だ。

 樹木は大地に根を下ろし、静かにたたずむ。それは陰の気質を内包する自然物であり、大地の陰気を感受できるアンテナでもある。大木や古木ほどその感度は鋭い。それが樹木の声のように感じる。

「間違いない、恐れている」

 おもむろに目を開けた葛玄が断言した。木が恐れているなど、普通の人間が聞けば冗談のように聞こえるだろう。が、葛玄の能力をよく知る孔明はおもてを引き締まらせて尋ねた。

「いったい何を恐れているというのですか?」

「分からぬ。人の言葉をしゃべっているわけではないからな」

 孔明の脳が現在置かれている状況と葛玄の台詞せりふをデータとして、推察を始めた。

 実際の恐怖といえば、城外の敵兵だろう。敵兵は武器を手に、この城を攻略しようとしている。孔明の頬を秋風がでた。孔明はまた空を見上げた。

『風……』

 晴天。雲はあるが、雨雲ではない。銀杏の枝葉はまだ風になびいている。

 城外から城内へと吹く風だ。刮目かつもく。敵兵が矢をつがえる光景が想像できた。矢の先は燃えている。

「火」

 ぽつりと口にした孔明の一言は葛玄を納得させるものだった。

「確かにそうかもしれない。木は火に弱い。それで騒いでいるのか」

 道理を得た葛玄が目を見開いて呟いた。

 気の乱れとは、陰陽のバランスが大きく崩れた結果である。そして、火は陽。

 どういう理由か、にわかに激しい陽気が創出されて、辺りの気が乱れ、それを葛玄が樹木をアンテナにして感知した。

 葛玄の言葉を聞いた孔明の頭に「騒がしい戦」という単語がぽんと浮かんだ。

 そして、それを証明するかように、太守府の鼓楼ころう(太鼓を設置した楼閣)のつづみがドンドンドンと、危急を告げるように低く、激しく、城内の隅々にまで鳴り響いた。


 攻撃が始まったらしい。それを知った諸葛玄は孔明らを残し、即座に太守府を飛び出して行った。孔明は一時であれ、袁秘があれだけ避けていた袁術という男のもとに向かわずに済むことに安堵して屋敷に戻った。姉のれい生真面目きまじめにまだ荷物をまとめていた。叔父の計らいで、召使いの夫婦は兄のきんに付いて行った。だから、家族の身の回りの世話は主に彼女が主導的な役割をはたさなければならなかった。

「どこに行っていたの。早く手伝って。たくさんあるんだから」

 ようやく戻ってきた弟を見とがめて玲が言った。玲は孔明より一つ年上だ。一番上の瑾が遊学に出、上の姉のえいが嫁いで家を出て、孔明にとって最もきょうだいとしての時間を長く過ごしているのが、この玲であった。厳しくも優しい姉である。

 しかし、姉のそんな言葉をよそに孔明は玲の隣に陣取ると、今度はせっせと荷をほどき始めた。孔明の不可解な行為に玲が驚いて声を上げる。

「ちょっと何をやっているの?」

「またしばらくここに留まることになりそうですから」

 思わず荷造りの手を止めた玲が聞いた。荷をほどく手を止めずに答える孔明。

「叔父上がそうおっしゃったの?」

「いえ、そうじゃありません。戦が始まってしまっては、当分の間、外に出られません。荷物をまとめたままだと不便じゃありませんか」

「ええ、それは確かなの?」

 姉は驚きの表情を大きくして、弟にその真偽しんぎを問いただした。

「間違いありませんよ。先程の太鼓は戦が始まったのを知らせる合図でしょう。叔父上は戦が始まる前に城を出ようとして、急いで荷づくりするようおっしゃったのです。でも、叔父上の計画に反して、城を出る前に戦が始まってしまったみたいですね。叔父上が慌てて出て行かれた様子を見れば、それくらい分かります」

 孔明は冷静に状況を説明するように言って、また姉を驚かせた。

「……また戦なの?」

 玲が肩を落として言った。玲も弟が聡明なのをよく知っている。大の叔父ですら、この十四の弟の判断を頼りにしているのだ。なので、孔明にそう言われると、それは十中八九じゅっちゅうはっく間違いない現実として、玲の心を暗くした。

「仕方がありません。もうどの城門も閉じられてしまっているでしょうから、私たちはここに留まるしかありません。でも、ここにいた方が安全かもしれません。城の守りは堅く、太守も戦慣れしたお方です。私たちは旅の疲れをいやしながら、戦が止むのを待ちましょう」

 姉の気持ちを察した孔明はそう言ってなぐさめた。単なる気休めではない。

 鄭宝のところと比べたら、兵は少ないが、陸康が頼りになる人物である上に官民が一体となっている。「信」でまとまった力は粘り強さとなって、敵を押し返す原動力となるだろう。それに、陸康に手渡したあの霊宝が本当にこの地に加護をもたらしてくれると信じている。

「それもそうね。もう、しばらく移動はしたくないもの」

 弟がそう言えば、姉の気持ちも楽になる。

「では、姉上。後はお任せしてよろしいですか?」

「お任せって、どうするの?」

「気になることがありますので、外を見てきます」

「何が気になるの、外は危ないのよ」

「あの……、ああ、王さんのところの少年がさっき外に出て行ったのを見たんです。王さんは病気だし、行って連れ戻した方がいいかと思って。烏有先生も一緒です。安心してください。見つけたら、すぐに戻ります」

 孔明は咄嗟とっさにそんな方便がすらすらとついて出たことに自分でも驚いた。

 本当に気になったのは葛玄の言った言葉だ。城内にどのくらい火の手が回っているのか、確認しておかなければならない。これ以上姉を不安にさせたくなかったので、それを言うのを控えた。

「そういうことなら……。でも、気を付けるのよ」

「はい」

 孔明は立ち上がって答えると、勢いよく外へ走り出していた。

 頭の中でつむがれた方便も、心の内側から湧き上がった勇気も、大人になる上で身に付けていくしたたかな能力であることに違いはなかった。

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