其之七 廬江の少年たち
二年前まで
地方の一下士官から身を起こし、
孫堅の活躍の背景には
陸康は孫堅の活躍と成長をその目で見て来た。それなのに……。
「何という皮肉か。
陸康が深い嘆息の後に呟いた。
孫策、
「我が方の使者が後将軍の意向を伝えたはずだ。
馬上の孫策が片手に槍を
孫策が言う使者とは
「申し訳ございません。袁術が兵を共に出すというのを説き伏せられず……」
そう、陸康に弁明した。
「気になさるな。貴殿の甥子から事情は
対する陸康は
「いくらかの
陸康が
陸康が言う負けられない理由の一つが一族の長としての責務である。
陸康は呉の出身だが、自身の家族だけでなく、他の
孔明たちは太守府の敷地内にある太守邸を間借りして滞在していたが、その屋敷に陸一族が暮らしていた。
「また敵が攻めてきたみたいです」
諸葛家が過ごす間に陸氏の少年たちがやってきて、孔明にそれを教えた。
「太守様に聞いたのかい?」
「いえ、大叔父様の様子を見てそう思っただけです。大叔父様がまた
孔明はそれを聞いて耳を澄ませてみた。喚声は聞こえてこない。少なくとも、太守府の敷地の中からは戦の雰囲気を感じ取ることはできない。
「なるほど。そうだとしたら、また静かな戦だね」
「静かな戦?」
「城を包囲して、人も食糧も出たり入ったりできないようにする。そして、君の大叔父さんが困って、城を明け渡すのを待つ作戦さ。戦わずして人の兵を屈することが戦における最善の方法だって、兵法書にある」
「ああ、『
孔明の話し相手になっているのは二歳下の陸氏の少年だった。名を
議の父は
その窮地に現れたのが長沙太守・孫堅の軍で、陸駿はそれによって命拾いした。
予章郡と長沙郡は隣り合っているのだが、予章郡は揚州、長沙郡は荊州に属しており、当時の法では、州境を越えて軍を動かすのは
原因は孫堅の上司の立場にあった袁術が孫堅の武将と兵を吸収し、自らの野望のために彼らを使い始めたからである。揚州にやってきた袁術が手始めに攻めたのが
そして、袁術側の指揮官だったのが
そうして、一家の長を失った一族の婦女子たちの面倒を長老の陸康がみることになったのだ。ちょうど諸葛玄が孔明たち兄家族の面倒を見ているのと似ている。
乱世であったし、どこの家でもこのような母子家庭や
今、陸康のもとに身を寄せている陸氏のうち、陸議は十二歳ながら、最も年長の男子であった。他にも陸議よりも幼い二人の少年が
「父上は強い人ですから、城を明け渡すなんてしませんよ」
まだ七歳の陸績が自信たっぷりに言って、胸を張った。
「そうだろうね」
それには孔明もにこやかに
いざ戦という状況になって、民を捨てて逃げ出す
孔明はそれを陸議に尋ねてみた。
「城内に兵士はどれくらいいる?」
「二千くらいです」
「少ないね。それが敵に知られたら、騒がしい戦になるかもしれない」
「でも、大叔父様は城内の大人の人たちに手伝ってもらって、みんなで城を守っています」
「うん、確かに太守様はそれができるお人のようだ。見習わなくちゃいけない」
孔明は廬江の粘り強さは陸康の指導力と求心力にあると分析していた。
民衆が太守を信頼尊敬し、太守のために協力を惜しまない。それが
侠の精神の根底にあるのは、恩義に報いるためには死を
対して、陸康に力を与えているのは、官と民の間にある「信」の精神。
「君のお父上は君子の手本のような人物だよ」
陸績はそれを聞いて、嬉しそうに顔を上気させた。
それからも少年たちはおよそ子供らしくない、大人顔負けの会話を続けた。
「戻られましたか」
太守府の門前で
「
「はい」
「例の物の引き渡しも終わったことだ。すぐここを出ようと思う」
「あれが
葛玄が神器を所有する上での最大の難点を指摘しながら呟いた。
乱世において、強大な力を秘めたそれは新たな戦いの火種となってしまう。それは過去の歴史においてもそうだった。
「誤算だった。袁術がこうもすぐに軍を派遣するというのは」
「それだけ、あの霊宝に
「全く厄介なことに関わってしまったものだ……」
こんな展開になって、諸葛玄はこの疎開を後悔していた。戦乱を避けるために故郷を出たというのに、
複雑な思いを抱えながら、諸葛玄が孔明ら甥子たちのもとへ歩み寄った。
「叔父上、お帰りでしたか」
「ああ、済まんが、すぐに荷物をまとめてくれ。ここを
「袁公のもとに向かうのですね」
聡明な孔明はそれがすぐにどういうことか理解した。
「そうだ。お前たちは呉に行けるように取り計らってもらう」
「行ってしまわれるのですか?」
孔明の傍らにいた陸議が残念そうに尋ねた。
「ん?」
「太守一族の方々です」
「あ、ああ……」
陸氏の少年を見て、諸葛玄はさらに複雑な心境になった。この状況で自分たち一家だけが抜け出して、安泰を求めようとすることに。陸氏も大変な状況にある。
いや、陸氏だけでなない。廬江の民は一致団結して、これから訪れる苦難を乗り切ろうといている。しかし、他人のことを構っていて、自分の一家を危機に
一向に開城の様子はない。城外では孫策が
「いつまで待たせる気だ……!」
孫策の苛立ちの原因は何も今に始まったことではない。
父が死んだ時、孫策は十八歳。諸葛家の孔明や陸家の陸議と同じように、孫家もまた家長を失い、一家としては没落の
孫策は父を
それどころか、
降伏勧告の使者として城内に入った諸葛玄からも
「落ち着かれませ。陸康殿の性が
今にも攻撃命令を発しそうな若い孫策をなだめたのは、
呂範、
「今後のために兵も城も損なわずに取るべきです」
「分かっている。ここを取れば、俺が太守だ。思い出深い地でもある。できるだけ、無傷で手に入れたい」
孫策は十五歳でこの廬江
そして、この廬江を攻略することができたら、太守に任じると袁術から約束されている。勇猛果敢な父の遺伝子をよく受け継ぎ、将来を
「あと一刻待って何の応答もなかった場合、攻撃を開始する!」
孫策が城内に向けて、声高らかに叫んだ。
一方、孫策の性質を知らない諸葛玄は城外の緊張が
「父を呼びに参りますので、こちらで少々お待ち下さい」
孔明よりは数歳下に見える少年にそう言われて、諸葛玄は応接間に取り残された。
太守府の屋敷を間借りしているもう一つの家族。それが
「お待たせ致しました」
少年に伴われて現れたのは
王融は一人で歩くのも困難なほど
「これは申し訳ございませんでした。甥子からこちらに王家の方々がいらっしゃると聞いて伺いましたが、病に伏せっておられるとは知らず……」
「いやいや、気になされますな。病というほどのものでもありません。私も妻も体の調子が優れないだけで……。瑯琊で虐殺があったと聞いて、気が塞がってしまったようです。わざわざ同郷の方がお見えだというのに、長話もできません。失礼をお許しあれ」
「いえ、ご
王融がゆっくりと座に就く間に王祥少年が父と客人である諸葛玄に茶を差し出し、一礼して退出していった。それを待って、諸葛玄が尋ねた。
「瑯琊で虐殺があったというのは?」
この年の夏、再び曹操が徐州を攻め、徐州住民を
諸葛玄はそれを聞かされ、半年前にその地獄の淵にいたことを思い出して、王融と同じように気が塞がるようだった。
『子供たちには伝えないでおこう』
諸葛玄は心にそう決めると、乾いた喉に茶を流し込んで一息ついた。
「先日、利発そうな少年が挨拶に来てくれましたが、甥子さんでしたか。私も隣にやってきたのが諸葛家の方々と聞き知った時は驚きましたよ。事情を聞きました。今回のことを思えば、疎開は正しい決断でした。私たちも帰れません。お互い大変ですな」
王氏は瑯琊国
王叡は
その当時の長沙太守は孫堅で、王叡は荊州南部で起こった反乱を孫堅と共に鎮圧した。
ちょうどこの頃、孫堅は家族を旧知の陸康のもとへ預けていたため、陸康は両家の間にいさかいが起こらぬように配慮しなければならなかった。
孫家は廬江一の有力豪族である周家に世話になっていたこともあり、陸康は王家のために太守邸の一部屋を用意して、何かと面倒を見てやった。だが、それは孫策には陸康が王家に肩入れしているように見えた。そして、そんな時、父が戦死したという悲報が届けられた。孫家が悲しみに包まれる中、王叡の子の
孫策の脳裏に苦い記憶が
「この孫策をなめるなよ……」
孫策はギリッと歯ぎしりして、
「そういう態度が何を招くか、たっぷりと教えてやる。攻撃開始!」
孫策が天に掲げた剣を無礼者たちが
荷づくりの途中だった孔明がふと外に目を向けると、早足で歩いてきた王家の少年と目が合った。王祥は一礼すると、そのまま孔明の視界を通り過ぎていった。
王祥は自分をさらに
『別れて二カ月余り。兄上たちは今頃呉に着いているだろうか……』
ぼんやりと兄と母のことを考えながら、孔明は何となく王祥を目で追った。
まだ十歳の少年ながら、王祥は家計を助けるために毎日のように街へ出、
『立派な少年だ』
自らも少年の
これまでの激動と苦難に満ちた経験が孔明少年の精神を急速に成長させていたのは間違いない。確かに孔明の背丈はすでに小さな大人くらいにまでなっていたし、その思考はずっと大人びていた。だが、孔明もまだ十四の少年である。時々、両親のいない寂しさを感じて、感傷的になってしまうことがあった。父の顔は思い出せても、まだ幼い時に亡くなった生母の顔ははっきりと思い出せない。継母は兄と共に行ってしまった。今、孔明が孝行を尽くすとしたら、父親代わりになってくれている叔父に対してだ。だからこそ、叔父の決断には従わなければならない。
ぼんやりと王祥の背中を見つめながら、孔明はそんなことを考えていた。
荷づくりの手は完全に止まっている。屋敷の前には小さな庭があり、まだ陸家の少年たちが何やら話をしていた。その後ろを王祥が爽やかな
孔明の視線が移り、屋敷の
孔明は姉の目を盗んで葛玄の側に駆け寄ると、今後の身の振り方を尋ねてみた。
「
銀杏の幹に手を当て、目を閉じて意識を集中させていた葛玄は一言だけ答えた。
「龍脈を
予想通りの答えだった。この龍脈がどこへ通じているのか、それは分からない。
つまり、葛玄の行き先もまた分からないということだ。
実は葛玄の郷里は江南の丹陽郡
彼の祖先、
葛氏も前漢末期の動乱時から後漢初期にかけて変遷を繰り返してきた一族だった。
葛玄は自身のルーツを辿り、故里に修業の場を求めて瑯琊に帰ってきていたのだ。
瑯琊は秦の始皇帝の時代に日本へ渡ったという方士・
ここで烏有先生ともお別れかもしれない――――孔明の心に
「どうされましたか?」
「木がざわめいている……」
「え?」
「気が乱れているのだ。これは……恐怖か?」
葛玄は
天高く直立する銀杏の大木は初秋を迎え、季節を先取りするかのように早くもその葉を黄色く色付かせ始めている。
地面には黄色の葉が数枚散らばっていたが、それはごく当たり前の自然の摂理の中の光景だ。孔明は不吉な変化を感じ取ることはできなかった。
葛玄が感じ取ろうとしているのは大地の気の流れと同じ、樹木の中を流れる気の静動だ。
樹木は大地に根を下ろし、静かに
「間違いない、恐れている」
おもむろに目を開けた葛玄が断言した。木が恐れているなど、普通の人間が聞けば冗談のように聞こえるだろう。が、葛玄の能力をよく知る孔明は
「いったい何を恐れているというのですか?」
「分からぬ。人の言葉をしゃべっているわけではないからな」
孔明の脳が現在置かれている状況と葛玄の
実際の恐怖といえば、城外の敵兵だろう。敵兵は武器を手に、この城を攻略しようとしている。孔明の頬を秋風が
『風……』
晴天。雲はあるが、雨雲ではない。銀杏の枝葉はまだ風に
城外から城内へと吹く風だ。
「火」
ぽつりと口にした孔明の一言は葛玄を納得させるものだった。
「確かにそうかもしれない。木は火に弱い。それで騒いでいるのか」
道理を得た葛玄が目を見開いて呟いた。
気の乱れとは、陰陽のバランスが大きく崩れた結果である。そして、火は陽。
どういう理由か、
葛玄の言葉を聞いた孔明の頭に「騒がしい戦」という単語がぽんと浮かんだ。
そして、それを証明するかように、太守府の
攻撃が始まったらしい。それを知った諸葛玄は孔明らを残し、即座に太守府を飛び出して行った。孔明は一時であれ、袁秘があれだけ避けていた袁術という男のもとに向かわずに済むことに安堵して屋敷に戻った。姉の
「どこに行っていたの。早く手伝って。たくさんあるんだから」
ようやく戻ってきた弟を見
しかし、姉のそんな言葉をよそに孔明は玲の隣に陣取ると、今度はせっせと荷をほどき始めた。孔明の不可解な行為に玲が驚いて声を上げる。
「ちょっと何をやっているの?」
「またしばらくここに留まることになりそうですから」
思わず荷造りの手を止めた玲が聞いた。荷を
「叔父上がそうおっしゃったの?」
「いえ、そうじゃありません。戦が始まってしまっては、当分の間、外に出られません。荷物をまとめたままだと不便じゃありませんか」
「ええ、それは確かなの?」
姉は驚きの表情を大きくして、弟にその
「間違いありませんよ。先程の太鼓は戦が始まったのを知らせる合図でしょう。叔父上は戦が始まる前に城を出ようとして、急いで荷づくりするようおっしゃったのです。でも、叔父上の計画に反して、城を出る前に戦が始まってしまったみたいですね。叔父上が慌てて出て行かれた様子を見れば、それくらい分かります」
孔明は冷静に状況を説明するように言って、また姉を驚かせた。
「……また戦なの?」
玲が肩を落として言った。玲も弟が聡明なのをよく知っている。大の叔父ですら、この十四の弟の判断を頼りにしているのだ。なので、孔明にそう言われると、それは
「仕方がありません。もうどの城門も閉じられてしまっているでしょうから、私たちはここに留まるしかありません。でも、ここにいた方が安全かもしれません。城の守りは堅く、太守も戦慣れしたお方です。私たちは旅の疲れを
姉の気持ちを察した孔明はそう言って
鄭宝のところと比べたら、兵は少ないが、陸康が頼りになる人物である上に官民が一体となっている。「信」でまとまった力は粘り強さとなって、敵を押し返す原動力となるだろう。それに、陸康に手渡したあの霊宝が本当にこの地に加護をもたらしてくれると信じている。
「それもそうね。もう、しばらく移動はしたくないもの」
弟がそう言えば、姉の気持ちも楽になる。
「では、姉上。後はお任せしてよろしいですか?」
「お任せって、どうするの?」
「気になることがありますので、外を見てきます」
「何が気になるの、外は危ないのよ」
「あの……、ああ、王さんのところの少年がさっき外に出て行ったのを見たんです。王さんは病気だし、行って連れ戻した方がいいかと思って。烏有先生も一緒です。安心してください。見つけたら、すぐに戻ります」
孔明は
本当に気になったのは葛玄の言った言葉だ。城内にどのくらい火の手が回っているのか、確認しておかなければならない。これ以上姉を不安にさせたくなかったので、それを言うのを控えた。
「そういうことなら……。でも、気を付けるのよ」
「はい」
孔明は立ち上がって答えると、勢いよく外へ走り出していた。
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