其之八 運命の攻防

  鳴り響くつづみの音に追い立てられるように逃げ惑う民衆の波をき分けながら、諸葛玄しょかつげん陸康りくこうのもとへ駆けた。

「何とせっかちな!」

 自分の交渉結果を待つことを事前に確認しておいたのに、城内のこの擾乱じょうらんぶりを見れば、すでに攻撃が開始されたことは明らかな事実だった。

 城内からの応答がない上に諸葛玄が戻らない。それを孫策そんさくが交渉決裂と判断したことを諸葛玄は理解していない。

 袁術えんじゅつに家族が城内にいることは伝えていない。だから、孫策もそれを知らない。

 私的理由で兵を退かせようとしたと勘繰かんぐられないためだ。それに、陸康に寝返る恐れがあると危ぶまれたら、こうして廬江の城内に入り込むこともできなかったろう。

 家族の情報を伏せたのはそんな理由からだったが、それがまた誤算を生んだ。

 諸葛玄が駆ける通りの上に男たちの集団ができていた。

男衆おとこしゅうは戦の加勢に行くぞ!」

「皆、各自の持ち場へ急げ」

「おう!」

 兵士たちではない。この城邑じょうゆうの住民だろう。彼らはそんな確認をして、四方に散った。諸葛玄はその中の一人の後を追うような形で城門の方へ急ぐ。

 城門に近付くにつれ、道に建物に矢が突き刺さっているのが目に入った。

 矢先は燃えている。火矢だ。また新たな矢の雨が上空から飛来してきて、諸葛玄の足下に、建物に、不吉な音をたてて突き刺さった。

 諸葛玄は慌てて建物の影に身を隠した。思わず、毒付く。

城邑まちを焼き払うつもりか!」

 諸葛玄は上空をにらみながら、また駆け出して、城門下で陣頭指揮していた陸康の背中を認めた。

「陸太守!」

 陸康は敵軍の城門突破に対抗するため、城門の脇に用意してあった幾多の岩塊がんかいを城門の前に積み重ねさせていた。

「おう、諸葛殿か」

「これは?」

「見ての通りでござる。申し訳ないが、外に出るのは次の機会にしてくだされ」

 諸葛玄は言葉を失った。これでは徐州の二の舞である。


 孔明が探すまでもなく、鼓の音が鳴り響く中、王祥おうしょうはすぐに太守府に戻ってきた。太守府の門前近くで王祥に出くわした孔明は、

「良かった。今、君を呼び戻しに行こうと思っていたんだ」

「戦が始まって、店が休みになりました」

 こんな状況だ。全ての商店が臨時休業を決め、間口まぐちを閉ざしたのは当然のことであった。

「うん。君はご両親のそばにいてあげた方がいい」

 孔明はそう言って、自身は城門の方へ走り出した。

「そちらは危ないですよ」

「大丈夫、確かめたいことがあるんだ」

 孔明は王祥の忠告を受け止めながらも、足を戻すことはなかった。

 確かめたいこと――――孔明が予想した通り、城内に数多あまたの火矢が射かけられていた。しかし、城外から放たれた火矢が届くのは、風に乗ったとしても、せいぜい城壁近くに建ち並んだ家屋までである。しかも、このようなことを予期してか、陸康は用意周到にも城壁近くの家屋にかめを配り、それぞれ雨水を溜めさせておいていた。

 そこにつどった城内の男衆がそれを使い、家屋に燃え移った火を片っ端から消火して、延焼するのを防いでいた。城壁の上では城兵と民兵たちが投石で敵兵を寄せ付けないように奮闘していた。城兵、民兵共に士気が高く、組織立って気迫にあふれている。陸康の指揮の下で、何度も敵の攻撃を撃退してきたことが自信となっているようだった。民衆は戦闘班、警邏けいら班、消火班、衛生班などに組織されていて、戦闘班は主に青年壮年男子が、警邏班や消火班には中年や老年男子が、衛生班や炊き出しに女性たちがそれぞれ割り当てられていた。住民皆がこの城を守るために太守を助け、奮起していた。風を切る音と共に飛んできた火矢が孔明の近くの地面に突き刺さった。

 城外からは敵兵の喚声が聞こえてきた。しかし、不思議と孔明の体に何の変化も起きなかった。息苦しさが襲ってくるわけでもなく、吐き気をもよおすでもなく、脳が勝手に徐州の惨劇を思い起こさせることもなかった。

 団結力。連帯感。戦況を自分の目で確認し、強さの要因をその身で感じたことで、漠然とした安心感が生まれてそれを防いでくれているのかもしれなかった。

 ともかく、それを体感した孔明は廬江に留まる方が安全であることに確信を持った。叔父がどう判断するか分からないが、意見を求められた時の判断は決まった。

 孔明は矢に当たらないよう、そのまま城壁沿いを走って行って、城門前に石を積み上げる作業を手伝っていた叔父の姿を見つけた。

「叔父上」

「亮、何をしている?」

 諸葛玄は驚いて、孔明を叱るように言った。

「戦が始まった。ここは危険だ、すぐに屋敷へ戻るんだ!」

「廬江に留まるのですか?」

「こうなったら仕方ない。しばらく留まって、折を見て、外へ出る」

「分かりました。それを確認したかったのです。姉上も不安がっていましたから」

 孔明はその叔父の判断を聞いて、ひとまず安心した。城内の様子を確かめたし、自分の意見も不要になった。孔明は叔父の言いつけ通り、太守府の屋敷に戻ることにした。

 上空に留意しながらも、おびえる様子もなく、全く慌てる素振りを見せない甥の後ろ姿に諸葛玄は少し複雑な心境であった。


 戦が始まって十日余りが過ぎた。依然四方の城門は堅く閉ざされ、城兵と民兵が協力して敵の侵攻を防いでいる。しかし、日を追うごとに死傷者の数が増えていく。それは敵側も同じ状況であったが、数に劣る守備側に不利に働いた。散発的ながら、火矢の攻撃は昼夜続けられた。特に厄介やっかいだったのが、深夜の攻撃だった。

 寝静まった頃に火矢が射かけられ、見張りの兵士と夜間警邏に従事していた男たちが消火班の男衆を叩き起こして、消火作業に動員する。これが連日続いて、各班の中高年の男衆に疲労の色が目立ち始めた。用意してあった消火用の水も底をつこうとしている。

「……ようやく敵の攻撃が収まってくれたわい。また夜に仕掛けてくるであろうが」

 夕刻になって、数日間、ろくに寝ずに陣頭指揮を取っていた陸康が太守府に戻ってきて、鎧を外して息をついた。

「太守、無理をされますとお体が持ちませんぞ。少しお休みになった方が……」

 陸康の帰還を待っていた諸葛玄が老齢を気遣って言った。老健だったはずの陸康の表情にも明らかな疲れの色が見て取れる。

「敵がそうさせてくれんのでござる」

「本格的な攻撃ではありません。牽制けんせいです。こちらの疲労を誘い、神経をすり減らすのが狙いです。そうしてじわじわと組織力を弱め、防衛力を低下させる作戦だと思われます。しばらくは同じような状況が続くでしょうから、太守は各署に指示を出して、今のうちに休まれた方がよろしい」

「なるほど。言われてみれば、確かにそんなふうではある。諸葛殿は兵法に通じておられるのでござるな」

 感心する陸康に、諸葛玄は幾分恥じ入って答えた。

「いえ、これは我が甥の言でございます。甥は太守の安泰こそが廬江防衛の最大の要素だと言っています」

「ほぅ、この体を気遣ってくれるのは有り難い。それにしても、何とも聡明な甥子でござるな。いくつでしたか?」

「十四です」

「十四? もっと上かと思っておった」

 陸康は孔明の背丈と凛々りりしいおも立ち、それとこの忠言で十七、八の青年かと思っていた。

「あの子の成長には私も驚くばかりです。何と言いましょうか、子供らしくないのです。責任感がそうさせているのでしょうか、袁秘えんひ殿から霊宝を託された時から、急に大人びてきました。この頃は判断力も私以上に鋭くなってきて……」

「多感な時期ですから、いろいろな経験がそうさせているのでしょうな。知識が身に付き、血肉になっていく時期でもある。不安は分かるが、成長は悪いことではありませんぞ」

「そうですが……」

 孔明は多感な少年期を戦乱の中で過ごしている。

 故郷の瑯琊ろうやを出発して一年が経つ。多くを見、多くを経験した。

 そして、学んだ知識を家族を守るために総動員している。戦乱の世の中を生き残る。そのための能力が今、孔明の中で開花しようとしていた。


 諸葛家と葛玄かつげんはそのまま陸家の屋敷を間借りして太守官邸に滞在していた。

 屋敷に諸葛玄が戻ってきて、孔明は叔父に戦況を尋ねた。孔明は叔父の言いつけを守って、この一週間は敷地の外には出なかったので、情報は叔父に頼るしかなかった。

「戦況はほぼお前の想像した通りだ。火矢の攻撃が散発的に続いている。お前の意見を伝えてみたが、陸太守は仮眠を取ってからまた出て行かれるそうだ」

「そうですか」

「消火用の水が不足してきたことを悩んでおられる。城内の池の水を民衆たちに運ばせるようなことを言っていた。私は孫策に宛てて書簡をしたためる。陸太守の説得が継続中であることを伝えて、攻撃を控えさせようと思う」

 諸葛玄は孔明にそれを伝えると、屋敷の書斎へと足を運んだ。孔明は独りになって、屋敷の庭をぶらぶら歩きながら、火矢を防ぐよい手立てがないかを考えた。

『雨が降ればいいんだけど……』

 孔明はまた空を見上げた。あかね色に染まった雲が美しく天をいろどっている。

 快晴というわけではないが、雨の降らない日が続いていた。その間に空気は乾燥し、火矢の攻撃には不利な状況が廬江を包み込んでいた。ふと、移ろう孔明の視界に陸議りくぎが入り込んできた。陸議は陸康のために夕食を運ぼうとしているところだった。

 白米をよそった茶碗と野菜料理が盛られた皿をのせた盆を両手に持っている。

 それは孔明にも見慣れた光景だった。太守官邸には陸議たち陸氏の三族と王家の家族が住んでいる。その上、諸葛家を住まわせることになったので、陸康は屋敷に戻ることはせず、政務室で寝泊まりしていた。孔明が陸議を呼び止めて聞いた。

「ちょっと聞きたいんだけど、この地方は秋に長雨になることはあるのかな?」

「はい、ありますよ。多分、あと半月もすれば」

 陸議はそれだけ答えて、慣れ親しんだ屋敷の廊下をすたすたと歩いていった。

「半月か……。う~ん……」

 それまで陸康や中高年の民衆たちの体力が持つだろうか。何か積極的に打てる手はないだろうか。孔明はまた思案に暮れた。

『雨……。水……。水は陰気を象徴した物質……。あの霊宝は陰気の力をより大きな形で引き出すことができる』

 己の連想にハッとした。青龍爵の力で雨をうことはできないだろうか。


 夜陰。昼夜の交代は潮の満ち引きと似ている。人や動物が寝静まり、静寂が辺りを包む深夜は自然界の陰気が満ちた状態である。天空に浮かぶ月もまた陰の象徴であり、月光が銀杏いちょうの木の下にたたずむ葛玄と孔明を照らしていた。

「これだけ大きく育ったのは、この下に気脈があるからだ。恐らく巣湖そうこへ通じるものだろう。だが、龍脈と呼べるほど強いものではない」

 葛玄が言って、水を満たした青龍爵を天に掲げ、銀杏の木の下に置いた。

 自然の中に身を置いて陰陽のことわりを学び、仙人の左慈さじ薫陶くんとうを受けた葛玄は仙界の秘宝が信頼できる者のもとに落ち着くのを見届けるために盧江へ付いてきた。

無為自然むいしぜん〟。世俗を避けて清静に努めるのが、道を究めるための道士の生き方であったが、半ば世俗と関わっている葛玄である。袁術という奸雄がこの霊宝を狙っているのだとしたら、無視はできない。雨乞いは仙術の一つで、まだ修行中の葛玄が意図してできる技ではない。しかし、霊宝に蓄えられた陰気を霊力として解放すれば、それはかなう。陸康もこの廬江を守り、霊宝を袁術の手に渡さぬという思いは同じだ。

 霊宝の力を使おうという申し出を承諾して再び孔明に青龍爵を託すと、自らは陣頭指揮へと戻って行った。

「霊宝とは陰の霊気が結晶化したものだと言われている。まずはその固く結ばれた霊気をほどいてやらねばならない。それにはいくつか方法がある」

 葛玄は孔明に教えるように説明し、月明かりの下でその方法を実践して見せた。

 おもむろに銀杏の枝を拾って、それで地面に〝河図かと〟という特別な紋様を描く。

 古代、河水がすい(黄河)から龍馬りゅうばが現れたという伝説があり、河図とはその背に描かれていた紋様のことで、またの名を〝龍図りゅうず〟という。占卜法である八卦はっけの元になったと伝えられる魔方陣で、一説では仙界に続く入口にもなり、出口にもなるという。

「一つは河図だ。河図を気脈の上に描くことで、大地の陰気の出口とすることができる。そして、もう一つが祝詞のりとだ。言霊ことだまを帯びた祝詞をとなえて、その門を開く」

 葛玄が目を閉じ、呼吸を整え、心を無にして再び精神を自然と調和させる。

 無為自然。そして、過去という陰に繋がるべく、屈原くつげんの詩をうたい始めた。

ここに人有り山のくまに、薜苓へきれい女羅じょらを帯とす。既にていを含みてまたく笑う。なんじわれ窈窕ようちょうたるを慕う……」

 屈原は戦国時代末期のの国に仕えた政治家であったが、奸臣の讒言ざんげんで左遷されてしまう。詩人でもあった彼は荊南長沙を放浪し、数々の詩を後世に遺した。憂国の詩は非風をはらみ、憂悶ゆうもんの心情を詠うそれは愛国心に溢れている。そして、傾国の祖国と放浪生活に絶望した挙句、ついには汨羅べきら江に身を投げて自殺した悲劇の人である。

 一方で、彼は巫祝ふしゅく(シャーマン)であったともされ、彼の詩にはその言霊が宿っているという。葛玄が口にしているのは屈原がのこした詩の一編、『山鬼さんき』という詩である。山に住む女の精霊が愛する男性を思って詠ったものだ。

赤豹せきひょうに乗って文狸ぶんりを従え、辛夷しんいの車にかつらの旗を結ぶ。石蘭せきらん杜衡とこうを帯とし、芳馨ほうけいを折りて思う所におくる。われ幽篁ゆうこうりてついに天を見ず。みち、険難にして独り後れてきたる」

 足は禹歩うほを踏んでいる。祝詞の効果を高め、方術を補助する独特なステップだ。

 まず左足を踏み出し、次に右足を左足の前に出す。そして、左足を右足に引き付けるようにして一歩と為す。今度は右足を踏み出して、左足を前に出し、右足を左足に引き付け、二歩。これを繰り返す。

たかく独り山の上に立てば、雲、容容ようようとして下に在り。ようにして冥冥めいめいああ、昼くらく、東風ひょうとして、神霊雨をふらす。霊修れいしゅうを留めてたんとし帰るを忘れしめん。とし既におそければ、だれかわれを華さかしめん」

 葛玄は禹歩を踏みながら、屈原の祝詞を唱え、河図の周りを周った。

 孔明は葛玄の所作しょさを記憶するようにじっと凝視し、屈原の祝詞の旋律に耳を澄ませた。そうしているうちに、河図の中央に置かれていた青龍爵に変化が起こった。

 銅爵にデザインされていた盤龍ばんりゅうの彫刻の目にはめ込まれていたラピスラズリの宝石に光が灯り、まるで生命が宿ったようにゆっくりと動き出して、それがぐるりと銅爵のふちを巡った。孔明は思わず声を呑んだ。

三秀さんしゅうを山間に採るに、石、磊磊らいらいとして、かずら蔓蔓まんまんたり。公子を怨んでちょうとして帰るを忘れ、君、我を思いてかんを得ざるならん。山中の人は杜若とじゃくかんばしく、石泉せきせんを飲んで松柏におおわる。君、我を思いて然疑ぜんぎおこりしならん」

 動き出した龍の彫刻は次第に動きを速め、ぐるぐるとわだかまりながら銅爵の縁を上へと移動すると、地下から噴き出す見えない気流に乗って、ついには宙へと放たれた。

いかずち填填てんてんとして、雨、冥冥たり。猿、啾啾しゅうしゅうとしてまた夜鳴く。風、颯颯さつさつとして、木、蕭蕭しょうしょうたり。公子を思へばいたずらに憂いにかかるのみ」

 龍は噴き出す陰気を受けて勢いよく上昇しながら、体を肥大化させ、急激に成長を遂げる。それに伴い、枝を彩っていた銀杏の葉が弾けるように散って、その全てが舞い落ちた。黄色の葉が大粒の雨となって地上に降り注ぎ、孔明の視界を閉ざす。

 再び視界が開けた時、龍は銀杏の大木の上空高くまで昇っていた。それは月明かりを受けて輝く巨大な雲の塊のように見えた。

 

 単に秋の長雨の季節と重なっただけか。それとも、本当に神器の加護にるものなのか。翌朝から雨の日が続いて、火矢による攻撃が収まっただけでなく、孫策軍も陣営に閉じ込められたまま動けなくなった。そして、そのまま時は過ぎ、季節は冬へと移り変わった。

 厳しい寒さの中、戦況は膠着こうちゃく状態と我慢比べが続いた。城外の孫策は意地でも廬江を攻略するという不退転ふたいてんの決意で包囲を続け、城内は食糧が乏しくなる中で、辛うじて孫策軍の包囲攻撃に耐え抜いていた。

 しかし、長引く雨と戦が城内の人々の心を憂鬱ゆううつにさせた。

「……お願いします、城門を開けてください!」

「またお前か。何度言ったら分かるんだ。さっさと帰れ!」

 冷たい小雨こさめが降り続く中、門兵に突き飛ばされて、王祥は尻もちをついた。衣服を泥まみれにし、雨に打たれても帰れない。立ち上がって、食い下がる。

「お願いします。母が病気なのです。栄養があるものを食べさせないと……!」

 王祥はこのところ、毎日のように城門へ詰めかけて開門を願った。王祥の父母の体調が悪化し、特に母の衰弱が目立ってきた。居ても立ってもいられない。もう城内には十分な食糧はなく、滋養あるものを食べさせようと思ったら、それは城外に求めるしかなかった。

「しつこいぞ。どんな理由があっても、駄目なものは駄目だ!」

 また門兵に突き飛ばされて、今度はうつ伏せに倒れ込んだ。また泥がね、王祥の顔を汚した。王祥少年はそのまま無情な雨に背中を打たれながら、涙に暮れた。

「気の毒だが……」

 門兵とて、子供相手にこんなことはしたくない。ただ開門の許可がないだけだ。

「……」

 言葉がない。城壁の上の陸康は繰り返されるその様子に胸を痛めた。

 大漢をたすけ、廬江を守るという大義で抗戦しているが、このまま孝行少年を悲しませ、領民に苦難をいる戦をいつまで続けるのか。しかし、この地の支配者が袁術に代われば、領民はもっと苦労するに違いない。降伏すれば、天下の霊宝を袁術という奸賊の手に渡すことになる。それはこの国と民に更なる悲劇をもたらすのではないか――――。

 陸康が手元の青龍爵に目を落とす。龍が不在となった銅爵だ。

「……うぅ!」

 苦悶する陸康の胸に電流が走った。陸康が苦悶に顔をゆがめ、胸を抑えてひざを屈した。


 冷たい雨の代わりにやってきたのはしんしんと降り続く雪の毎日である。

 城外は膝を覆うほどの雪に埋まり、もう戦どころではない。すでに兵たちの戦意が失われて久しい。それでも、孫策は兵を退くことなく包囲を続けた。かたくななまでの意地である。その間に年も改まり、廬江の緊張は解けぬまま、興平二(一九五)年を迎えた。新たな年は新たな歴史の始まりである。

 城外で戦陣を張り続ける孫策のもとに莫逆ばくぎゃくの友が訪れていた。

 周瑜しゅうゆあざな公瑾こうきんという。周瑜はここ廬江舒県の出身であった。周氏は廬江でも一番の有力豪族で、周景しゅうけいとその子、周忠しゅうちゅうが三公(官僚の最高職)の一つである太尉を務めた名家である。

 過去、董卓討伐に向かう孫堅が家族を廬江の周家に預けたことがあった。

 孫策と周瑜はその時に出逢った。互いに十五の時である。共に大志を抱いていた二人は息が合い、固い友情で結ばれた。断金だんきんの交わりの仲である。

「寒いな。早く中へ入れてくれ」

 冬空にかすむ故郷の城壁を遠くに眺めながら、整った容姿をしかめて周瑜が言う。

 薄いくちびるが微かに開いて、零れた白い吐息でかじかむ手を温めた。

 眉目秀麗びもくしゅうれい、「貴公子」という言葉がぴったりの美男子である。辺りの雪のように白い肌。元来中性的なのかひげも生えていない。

 対照的に孫策は父に似て精悍せいかんな顔つき。すでに髯を蓄えている。血色も良い。

「それは陸康の頑固爺さんに言えよ」

「陸康殿は我が故郷くにの太守様だ。相当お年を召されている。それをいじめるなんて、孝にもとるぞ」

「よしてくれ、そんな話。ここが公瑾の故郷じゃなくて、俺が血も涙もない男だったら、とうの昔に落城させている」

 孫策は憮然ぶぜんと言って、顔をそむけた。孫策の口から本音ほんねと白い吐息が同時に漏れて消えた。孫策はいろいろな理由で攻撃を容赦しているつもりだった。

「分かっているさ。だから、助けに来た。まずは停戦を頼むよ」

 親友だけあって、周瑜も孫策の気持ちはよく理解している。周瑜はその非凡な才能を見込まれて、袁術のもとに呼び出されていた。周瑜は孫策が力押しに踏み切る前に穏便に廬江攻略を図るその方策を袁術に進言して、それが認められて派遣されたのだった。

「先日、諸葛玄という男が降伏を勧めに中へ入ったが、しくじったらしい。公瑾なら、説得できるのか?」

「俺は陸太守の性分をよく知っている。その諸葛玄という人物よりは上手くやれる」

「……分かった」

「停戦文書は俺が書く。その方が都合がいい」

「ああ、好きにやってくれ」

 周瑜に絶対の信頼を置く孫策はそれをあっさり認めて、自らは幕舎に引き揚げた。


 城内も戦の継続が困難な状況であった。二度にわたる長期的な包囲を受けて、蓄えてあった食糧や物資が底をついた。餓死者が出るほど深刻で、その上、肝心の陸康が病に倒れ、高い士気と強固な団結力を誇った廬江の官民たちの間に動揺が広がっていた。

「陸太守、お体の具合はいかがですか?」

 諸葛玄は陸康を見舞って、太守府執務室を訪れていた。

「……ご覧の通り、寄る年波には勝てぬ」

 陸康はベッドに臥したまま、自嘲気味に笑った。やはり、無理がたたったのは明らかだ。起き上がる力さえないのか、その反動のように衰弱は激しかった。それは残された命数が幾許いくばくもないことを教えていた。それでも、よわい七十に達した陸康にとって、忠義に生きた波乱万丈の人生に一片の悔いもない。

「……昨夜、そんな文書が届いた」

 陸康が卓上の帛書はくしょを目で示した。諸葛玄がそれを取って目を通す。

「停戦ですか。周公瑾という人物が城内に入ることを求めていますな」

「公瑾はこの舒の生れ育ちだ。あの者のことは知っている。騙し打ちはないと思うゆえ、これを受けようと思っておる」

 陸康の許可が出て城門が開かれ、周瑜が故郷に招き入れられた。孫策軍が動くことはなかった。周瑜はすぐさま太守府を訪問して、陸康と面会した。

「陸太守、周公瑾でございます」

 周瑜が拝謁して、敬意を表す。臥床がしょうの陸康が軽く頷いた。周瑜は陸康が病床にあることは想像できていたので、それに驚くことはなかった。陸康もまた、周瑜が袁術の意向を受けてきたのは分かっている。

「此の度、叔父・周尚しょうしょうが丹陽太守を拝命致しました」

「……それはめでたい」

 周瑜からの停戦文書でそれは知らされていた。陸康はあえてその報告を喜んでみせた。漢王朝の力が衰微すいびしたこの時期、有力群雄が独自に太守を任命して、支配地を広げる政策を採っていた。もちろん、この地の群雄というのは袁術のことだ。

 周瑜の叔父は袁術によって、太守に任命されたのである。しかし、それが漢王朝からの正式な任命ではなく、ほぼ間違いなく袁術が私的に任命したものだと想像はついていても、確認するすべはない。そのため、周瑜が太守の印綬いんじゅを故郷の叔父へ届けるという理由を記して、舒県城へ入ることを求めたなら、陸康はそれを受け入れるしかなかった。

「諸葛玄殿はおられますか?」

「私だ」

 陸康のベッドの側に控えていた諸葛玄が口を開いた。共に袁術陣営に属してはいるが、互いのことは何も知らない。しかし、周瑜は諸葛玄が孫策に停戦を求めた書簡から、陸康を懐柔するために陸康と親密になっていることは知っていた。

 諸葛玄の顔を確認した周瑜がおもむろに向き直って、

「諸葛玄殿は新たにこの廬江の太守に任命されましてございます」

「私が?」

 唐突な周瑜の報告に驚かずにはいられなかった。袁術に従って間もない。袁術に対してまだ何の功績を挙げたわけでもない。その上、りにって廬江太守とは……。

「……なるほど。……諸葛殿、おめでとうござる」

 陸康が微かに口元を緩めて、諸葛玄の処遇を素直に喜んだ。声を発す度、残り少ない陸康の体力が削られ、失われていく。

「いや、しかし、何故……」

 諸葛玄は戸惑うばかりで、それを受け入れられない。

「袁公は名士を優遇されているのでございます」

 周瑜がそんな説明をしたが、それでも諸葛玄は就任を躊躇ためらった。

 陸康から太守の印綬を取り上げようという袁術の狙いは分かる。袁術自身が名家の出だ。名士を優遇するのも分かる。周氏は三公を輩出した立派な家柄だから、納得できる。しかし、袁氏や周氏と比べたら、諸葛氏の名声は霞んでしまうほど小さく、無力だ。陸康がそんな諸葛玄の背中を押すように言った。

「……よいではござらぬか。諸葛殿に廬江を託せるというのなら……私も……従いたい」

 陸康の声は益々弱くなっていき、それはまるで遺言のように聞こえた。

 その言葉を引き出して、周瑜は端正なおもてを崩さなかったものの、内心胸をで下ろしていた。周瑜は故郷の舒県がずっと戦場となっていることに心を痛めていた。

 陸康は頑固だ。孫策もまた功を挙げようと頑なになっている。これは両者の意地の張り合いと長引く戦を終結させるために周瑜が袁術に献策したものであった。

「諸葛玄殿が廬江の印綬を受けることによって、この戦を穏便に終わらせることができます。廬江の民のためにも、お引き受けください」

 周瑜の言葉に陸康が同意するように頷いた。陸康の気持ちをうまくなだめ、終戦に落ち着かせるその落とし所として、周瑜が選んだのがこの諸葛玄だった。

「畏まりました。謹んで拝受致します」

 諸葛玄が拱手して二人にその旨を告げた。太守という肩の荷を下ろした陸康が最後の力を振り絞って、周瑜に対した。唯一心残りなのは家族宗族のことだ。

「……これだけ抗戦しておいて、袁術は……我が一族を殺しはしまいか?」

「それについては私に万事ばんじお任せください。ご一族は郷里に戻れるように手を尽くします。袁公が欲しているものはただ一つ」

 周瑜が拱手してそれを誓い、その拱手を解いて、陸康に意図した視線を送った。

 神器というものを袁術に譲渡する代わりに陸一族の安全を保証する。

「無念だが……袁術の手に渡ることになるのか……」

「袁公の下には孫伯符がございます」

 周瑜が語気を強めて、その名を告げた。かつて神器の守護者として東奔西走した英雄の息子の名だ。周瑜は孫策から神器にまつわる話を聞いていた。

「……あの者の父である孫文台は……忠義に溢れ、神器を奸賊の手から守ろうと戦った。……袁術の下にある伯符が……文台の意思を……継げると思うか……」

「はい」

 周瑜は一瞬の躊躇ちゅうちょなく答えた。

「袁公に甘んじているのは、の者の若さゆえでございます。しかし、破虜はりょ将軍の覇気をよく受け継いでおり、その志を知れば、必ずや天下に忠義を示すでありましょう」

「……死にゆく者に……嘘は……いかんぞ?」

 陸康が虚言を封じるように最後の笑みを浮かべて、周瑜に迫った。

 周瑜がご安心を、とでも言うように端正な顔をにこやかに緩ませて答える。

「そのような無礼はいたしません。かつて陸太守が破虜将軍を助け、共に戦ったように、不肖、この私がの者の傍についてそれを見守りましょう」

 颯爽さっそうとした笑み、明朗かつ清涼とした声。

「その言……誠に……爽やかであるな……よかろう。……持ってゆけ」

 陸康はそれを目に焼き付け、耳朶じだに残し、胸に手を当て、意識を失った。


 長く閉ざされていた門が開く。この日も城門前に詰め掛けていた王祥が城門が開くのと同時に城外へ駆け出していった。叔父から開城すると聞いた孔明もそこにいた。

 孫策の兵が思わず反応して、弓を引き絞ってそれを狙った。城壁の上に立った周瑜が手を挙げて、制止を求めた。

「放っておけ、入城するぞ!」

 孫策が命じてそれを制止させ、城内へ軍を進めた。孔明と城内の兵士と民衆が孫策軍の入城を静かに見守った。信頼する太守・陸康の下で精一杯戦った。そして、その太守が開城を決めた。余計な騒動は起きず、孫策は真っすぐ太守府へ向かった。孫策軍が通り過ぎるのを待って、孔明は雪の城外へ歩き出た。

 雪原に刻まれたその足跡を追って、孔明は王祥を探した。王祥は県城から一里(約四百メートル)離れた川の上に伏せっていた。

「あっ!」

 孔明は王祥が倒れているのを見て駆け寄った。厳しい寒さで川はすっかり凍っていた。孔明の心配をよそに王祥の意識はしっかりしていた。王祥は意識的にそのような行為をとっていた。孔明にはその行為が意味するところは分からなかった。

「何をしているんだい?」

「この氷を溶かして、こいを手に入れるのです」

 無茶な、と言いかけた。だが、これは王祥の強烈な孝行心がさせていることだ。

 孔明にそれを否定することはできなかった。それ故に、どうしていいのか分からずに、孔明はただ黙って立ち尽くすしかなかった。

 人の体温で溶けるほどの氷ではない。理性的に考えれば、ただの自傷行為に見える。しかし、ここは霊宝の力が解放された場所である。見ることのできないその力は依然としてそこにあり、時に人はそれを奇跡として目撃する。

 突然、王祥の近くの氷が陥没し、そこから現れ出た何かが天空へ立ち昇っていった。そして、今度は空から二つの何かが落ちてきた。それは王祥の背後に積もった雪の上にどさっと落ちて、雪原に二つの穴を開けた。王祥がそれを確認すると、歓喜の声を上げた。

「鯉だ!」

 王祥はその両手に収まりきれないほど立派な鯉を抱え上げ、孔明に喜びの笑顔を向けた。孔明が驚いて天を見上げたが、そこにはどんよりとした雲があるだけで、もう奇跡を起こしたものを目にすることはできなかった。

 解き放たれた陸太守の魂が起こした奇跡だったのではないか――――ちょうどこの時、陸康が息を引き取ったのを後に耳にした孔明は、この現象をそう感じた。

 臥冰求鯉がひょうきゅうり――――この故事は王祥の孝行心が起こした奇跡として、後世に伝わる。




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