其之九 江南動乱
そもそも諸葛玄の廬江太守就任の話は
ところが、気まぐれな袁術はそれを
この頃、袁術は
「好事とはいかないまでも、凶事でもない」
諸葛玄は孔明にそう言って、予章太守の任を引き受けたことを伝えた。
昔の地縁が生き、念願の江南の地に任地を与えられたのだから、疎開中の諸葛家にとって、これは大きな
「とにかく今は
乱世だ。徐州を出てから災難が続き、戦乱に
行き先が予章だと聞いて、葛玄は再び諸葛家に同行することにした。予章には
『
この世界には目には見えない力が存在する。それをもっと知りたい。
志学の頃を迎え、学欲
再興の
皇帝の玉座を模したような
「
「はい」
「よろしい。さ、それを渡せ」
「その前にお伺いしたいことがございます」
「何じゃ? ……ああ、盧江の件か」
孫策の顔に不満の色が
「あれは
袁術はつらつらと理由を並べながら、逆に
だが、孫策の利用価値について十分に理解している袁術は孫策の鼻先に代わりの餌をぶら下げるようにして言う。
「じゃが、神器を手に入れたその功績はしかと認めよう。
『馴染みはある!』
孫策は叫びたい気持ちを心の内に抑えて、袁術に交換条件を提示した。雄飛のために、今は辛抱する時だ。
「……では、亡父の将兵をお返しください。彼らは私の命令に忠実に従ってくれます。皆、呉の出身ゆえ、呉を攻略するためなら死力を尽くしてくれましょう」
「ふ……よかろう。では、ほれ、早くよこせ」
袁術はそれをあっさりと認めて、差し出した手をこまねいた。孫策は再び込み上げるものを押し殺して、背後に控えていた
これらは全て欲深く派手好きな袁術の気を引くために周瑜が考えた策、演出である。そして、八歳の少年が孫策に
「ん……見覚えがある
「陸績と申します。以前後将軍様にお目通りし、
「おお、思い出したぞ。陸康の子であったな」
袁術が目を見張った。陸績は袁術が揚州にやってきたばかりの頃、陸康の代理として、袁術を表敬訪問したことがあった。その時、蜜柑がおやつとして出されたのだが、それを母親に食べさせたいとの一心から、いくつか隠して持ち帰ろうとした。
ところが、それが袁術の目の前で
意地の悪い袁術が、
「――――お前は盗みを働くために来たのか?」
と質問したところ、六歳の陸績は
「――――父のために書簡を届けました。母のために蜜柑を
その聡明な返答と孝行心に袁術も感心したという。
王祥は凍った川に鯉を求め、陸績は母のために蜜柑を求め、共に後世「
「はい。此の度の寛大なご処置に感謝の意を表すため、返礼の品をお持ちしました」
陸績が
「後将軍様が天下の珍品をお求めだとお聞きしました。どうぞお収めください」
「ははは、
袁術はこの気の
絶対的な存在である袁術を満足させることで、孫策は飛躍のチャンスを手に入れ、陸家は安全を保障されたのだった。こうして、陸一族は仇敵である孫家に救われる形となって、孫策に伴われて呉へ向かい、その後、孫家に仕えることとなる。
広葉樹の森と竹林が入り混じった山景。
季節は夏の終わりを迎えていたものの、そこに満ちる空気はひんやりとして新鮮で、呼吸してそれを取り込む度に心身が洗い清められるようだった。
十五になった孔明は大自然の精気を受けて一段と成長した身体を折りたたむように渓流の真ん中に鎮座する大岩の上に座って、渓流と小さな滝が生み出す心地よい水の
予章太守となった諸葛玄は南昌にいる。南昌は予章郡の郡治で太守の赴任地だ。
姉や弟も一緒だ。家族の顔が浮かぶ。みんな元気でやっているだろうか――――近くの岩の上で
家族を想う純粋な愛情も、今に限っては邪念に等しい。
「余計なことを考えるでない。心身を俗世と切り離すことができなければ、精神は
葛玄の指摘が耳を打ち、孔明は静かに反省した。
半年前、孔明が叔父と離れて山に入ったのは方術修行と心身の
特に自分を悩ます徐州の惨劇の記憶を抑制するためにも、葛玄に従い、山谷に入って心身を鍛練するのが良い方法だと思ったのだ。事情を察した諸葛玄もそれを認めてくれた。
『
孔明は家族のことを頭から追い出し、気を引き締め、再び水の音に耳を澄まそうとした。だが、そうしようとした途端、背後から家族の声が聞こえてきたものだから、集中力が
「……
幻聴ではない。それは紛れもなく姉・
「姉上!」
孔明は姉の声に驚いて振り返ると、岩から飛び下りて、二人のもとに駆け付けた。
修行の場は烏有先生の
「あっ!」
阿参が苔に足を滑らせた。孔明と玲が手を
「いったいどうしたのですか、姉上。こんなところまで……」
「大変なことになってしまったわ」
嘆息に似た吐息と共に姉の口から漏れた第一声はやはり不吉なものだった。
孔明は寝床しかないくたびれた
「先日、
新しい太守――――つまり、袁術が叔父を予章太守に任命したように、誰か他の実力者が朱皓という人物を太守に任命したのだ。
一つの郡に二人の太守。当然、対立が起こる。叔父が南昌を追い出されたということは戦で敗れたということだろうか。しかし、廬江の時のように城内に
「戦になったのですか?」
「いいえ、戦になる前に叔父上は城を出たの。私たちに亮のところへ行けと言って……」
「それで叔父上は今どこに?」
「分からないわ」
玲は首を振った。孔明は姉が語る限定的な情報と時勢とをすり合わせてみた。
叔父が南昌を放棄したと考えるなら、戦力差が大き過ぎて、最初から戦いにならないと踏んだためだろう。そんな軍勢を調達できる群雄は誰か。常識的に考えるなら、予章近辺に割拠する群雄となる。となると、揚州牧の
「城を出る前に叔父上は何か言っていましたか?」
「城内は安全じゃないから、急いで城を出るように言われただけよ。荷物をまとめる
孔明はまた考え込んだ。城内の方が安全でないというのは、おかしな話である。
『……そうか。叔父上が予章に入ってまだ日が浅い。郡兵の人心を得、軍を掌握できていなかったら、逆に反乱に
諸葛玄は軍を率いての赴任ではなかった。前任の太守・
『きっと朱皓という人物は
静寂に包まれた幽谷。心身を
思考を洗練するのに適した環境下にあったせいか、孔明の脳裏に次々と
朱皓は
一方は大衆の人気が高い英雄の子で、漢王朝から派遣された正式な太守。
一方は名門豪族の出自ではあるが、奸雄として各地を
諸葛玄の心がどうであれ、どちらに民衆の心が傾くかは
孔明は姉弟のことを葛玄に任せて、半年ぶりに山を下り、南昌に入っていた。
予章で一番情報が集まるのは郡都である南昌なのは疑いようがない。南昌では孔明と諸葛玄の関係を知る者はほとんどいない。諸葛玄が南昌に到着した後、孔明は家族が落ち着くまで数日滞在しただけで、その後、葛玄を追って修行のために山へ入ったのだ。叔父を追い出した人物が統治していようと、それほど恐れることはなかった。
江北と江南とでは文化が大きく異なっている。それは戦乱の歴史と関係があった。
後漢の間、政治・経済と文化の中心はずっと洛陽とその周辺だった。それはもう一つの大河、
戦乱が拡大すると、江水の北側、つまり、江北地域まで戦火が達することはあっても、江南にまで及ぶことはほとんどなかった。中国全土を戦乱の
特に予章郡では時々辺境で異民族が反乱を起こす程度で、郡都の南昌が戦火に
地理的に政治文化の中心から遠く離れていたことに加え、そのような事情もあって、予章の民衆は穏やかであり、素朴で飾り気がない。城兵を見ると、それは顕著だ。常に戦火に晒されていた廬江の兵と比べると、予章の兵たちの兵装は一時代前の旧式のもので、どこか緊張感に欠ける彼らの態度は厳しい実戦を経験したことがないことを
『これなら、叔父上も戦いを避けて賢明だった』
孔明は城門の近くに
「今度の太守が連れてきた兵、ありゃあ何だか気味が悪いなや……」
「徐州の奴らだってなぁ。
「いつまで居座るつもりなんだかなぁ。早えとこ帰ってくれればいいんだけどよ……」
「太守は
「徐州の奴らもそうだけんども、ただでさえ難民でいっぺえだってのに、これ以上人が増えたら、収拾つかなくなるべさ」
「前の太守が難民の受け入れを許可してからこっち、
「困ったもんだなや。騒ぎがおきなけりゃいいんだけんども……」
彼らは不満が溜まっているらしく、現地の
中原の戦乱により、江南諸郡の人口は急激に増加していた。特に予章郡は呉・会稽両郡が現在孫策の攻撃により戦地となっていることもあり、揚州の中でも一番の増加率であった。それは当然、様々な問題をもたらす。食糧、住居、治安……。
南昌の城外は中に入り切れなかった避難民たちがそこら中に掘立小屋を建てて、まるでスラム街のように変貌していた。それを許可したのが叔父だと知って、孔明は急ぎ足でその場を去って南昌に入城すると、いつものように市井の人々の話から状況を分析しようと試みた。
裏通りを歩いていると、露店で食事をしている男たちが太守についての噂話をしているのが耳に入った。訛りはあるが声が大きいので、少し離れた場所からでも注意深く聞いていれば、内容は十分に把握することができた。
「また新しか太守様だってなぁ」
「今度の太守様っつうのは、どげん人だかね?」
「よう知らんけんども、朱儁将軍のお身内っちゅう話よ」
「んなら、揚州人かね」
「そらぁ、歓迎じゃね。前のは何つったけね? ありゃ北の人間じゃろうし」
広大な中国では北と南、東と西では随分文化が異なる。故に同郷意識が強く働きやすい。
後漢の制度では、この同郷意識からくる官民
朱皓の故郷は揚州会稽郡で予章郡と隣接する。予章も会稽もたいへん広大で、実際に南昌と会稽の郡都である
『そういう理由もあったか。地方に行くほど人々は保守的で、排他的心理が働くのは仕方のないことかもしれないけど……。まだまだ人の心がわかっていない』
叔父に不利な条件を一つ見落としていたことを知って、孔明は頭を
同じ言葉を話す人物に親近感が湧くのは世界のどこであっても、いつの時代であっても、変わらない。勝手気ままな袁術は後漢の制度を無視して、このシンプルかつ普遍的な条理を
『やはり袁術のもとにいたら、凶事に付きまとわれる。これは離れるいい機会だ』
孔明は一族の
朝廷を乗っ取り、洛陽を焼き、長安遷都を強行した
諸葛玄に代わって予章太守となった朱皓であったが、今は喪に服している。長安に勤めていた父の死が伝えられたからだ。長安では董卓子飼いであった
父母に対する服喪期間は通常三年である。律義者の朱皓は喪に服すために辞職願いを長安へ送ったものの、大混乱の最中にある長安からは一向に返答が届かないでいた。
その長安では董卓亡き後、側近だった部将同士で権力争いが起き、それに
つまり、二人は全く同時代を生きることになるわけで、この興平二(一九五)年秋の時点で、
しかし、今の孔明には少年皇帝の
『たった半年山に籠っていただけなのに、時勢の変化は目まぐるしい。時勢に
孔明はそれを痛感して、空白の時間を取り戻すように城内を歩き回って情報収集に励んだ結果、様々なことが分かった。叔父の諸葛玄は南昌の西、
そんな局地的な戦況に輪をかけているのが、民衆同士の
群雄たちによる利己的な争いが戦乱を起こし、それによって、多くの避難民が生まれ、江南の人口を短期間で急増させた。それによる
孔明はこの複雑にこんがらがった予章の問題を解消するために情報を整理していった。
『一つずつ解決していかなければならない。まずは叔父上のことだ』
諸葛玄が立て籠った西城は南昌から贛水を隔てて数里のところにある。
西城は城壁が素焼き
孔明はその日の夕刻には西城に辿り着いて、
玲と阿参が葛玄の世話になっているのを孔明の口から告げられて安堵した諸葛玄は、自嘲気味に自分の置かれた現状を説明し始めた。
「寂しいところだろう。昔、黄賊の乱が起こった時にここも略奪に
その言葉どおりなら、叔父が唯一の官吏として住民たちの面倒を……いや、逆に住民たちからいろいろと助けてもらっているのだろう。一兵も帯びていない叔父はすでに無力な一市民に過ぎない。しかし、続く叔父の言葉はその認識に欠けるばかりか、余りにも短絡的、かつ強気なものだった。
「私がここに留まっているのには理由がある。今ここで北へ逃げ戻っては、江南へやってきた意味を失う。廬陵の僮芝に援軍の要請を出している。もう袁術にも報告が行っているはずだ。朱皓の軍勢はそれほど多いというわけではない。袁術が応援をよこしてくれれば、再び南昌を取り戻すこともできよう」
語気を強めて言う叔父の胸には太守としての自負と責務があるのかもしれない。
だが、孔明は再起を期す叔父のその考えに危うさの気配を感じて、それを
「それでは自ら戦を招くようなものです。私たちが瑯琊を離れたのは戦を避けるためでございました。家族を守るために拠り所を得、力を持つことが大切だと叔父上は
笮融はかつて徐州で君子・
「叔父上が今こうして安泰でいられるのは兵を持たず、力をお持ちでないからです。力を持たないことも戦を避ける一つの方法ではございませんか」
烏有こと葛玄は山野に修行する道士であり、世捨て人である。欲望や権力への執着を捨て、俗世を去り、心の安寧を求めてひたすらに人生の真理を探求しようとしている。
たった半年のことであったが、葛玄と共に修行に打ち込んでいる内に、孔明はその考え方を
「叔父上は袁術の下で働いても漢臣を貫くとも仰いました。朱皓殿が朝廷から派遣されてきた正統な太守なら、彼と争うことはその決意を自ら
小利を以て大利を損なう――――『韓子』にある
孔明のまっすぐで熱い言葉は諸葛玄の心を強烈に揺さぶった。大人顔負けの知識があり、体格も大きいからつい忘れがちだが、孔明はまだ十五の少年なのだ。
「……そうだった。我ながら情けない話だ。太守という誘惑に魅せられて、いつの間にか我を見失っていた」
兄・諸葛珪から一家のことを託された。
「南昌の状況はだいたい把握できました。予章の情勢は混沌としており、簡単には片付きません。深入りはよした方が良いと思います」
「では、どうする?」
「これを機に袁術と手を切るべきです。このままおとなしくしていれば、向こうも叔父上を害すことはないでしょう。朱皓殿は劉揚州の支援を受けていると聞きました。揚州様は
諸葛玄は無言で頷き、それを認めた。太守の地位を失い、孤立無援の諸葛玄にとって、頼みの綱はこの十五の甥のみであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます