其之十 光明の龍

 彭沢ほうたく彭蠡沢ほうれいたく鄱陽湖はようこ)のことである。中国最大の面積を有するこの湖は膨大な水をたたえ、南北三百里にわたって横たわっている。そして、彭沢の城邑じょうゆうはその名が示す通り、彭蠡沢の側に位置し、湖が江水と繋がる合流点の東岸にあった。

 諸葛玄しょかつげん袁術えんじゅつから予章太守に任命されて廬江から南昌へ移る際、その道程で彭沢を通り過ぎていたので、孔明にとって初めての城邑ではなかった。

 しかし、その時は劉繇りゅうよう孫策そんさくに敗れて逃げ落ちてくる以前のことで、こんな物々しい雰囲気は漂っていなかった。

 決して大きな城邑ではない。南昌と同じように避難民が城外に溢れ、どこからか手に入れてきた廃材や廃煉瓦れんがを利用して掘立ほったて小屋を建てて、冬の寒さを凌いでいた。

 城内も武器を携えた兵士たちで溢れており、彼らがいただく主人こそ、揚州牧(揚州刺史)の劉繇であった。しかし、そこに絶対的な主従関係があるわけではなく、敗戦続きだということもあって、忠誠心も結束も固くないようだった。

 通りを歩く孔明の耳には故郷へ帰りたいとか、兵士を辞めたいとか、いっそ孫策のもとへ行った方がよいのではないかとか、数々の愚痴や弱音が聞こえてきた。

『今思えば、侠人の結束も廬江の団結も驚くべきものだった……』

 南昌の兵もそうだったが、兵士たちの士気の低さの顕著なこと。これではいくら数をそろえても無駄で、兵たちの心の弱さが敗戦に直結してしまうということを示している。

 それに比べれば、徐州で見た劉備りゅうびの将兵たちの強さは出色していた。戦に臨む強い心と結束力で数に勝る敵軍を見事なまでに打ち破ったのだから……。

 廬江で見た民衆たちの団結力も見事であった。もちろん、そこにはそれらを率いる者の能力や器量が大いに関係している。

「……皆、安心せよ。彭沢は恵沢福地けいたくふくち、劉揚州は高貴有徳のお方。もうしばらくこの地に留まっておれば、おのずから天運がもたらされる。今しばしの辛抱であるぞ」

 動揺を隠しきれない兵たちを慰撫いぶして回る人物がいた。林宗巾りんそうきんを被った壮年の学者風の男。林宗巾は後漢中期の人物鑑定家・郭泰かくたいが被っていた頭巾のことである。

 郭泰はあざなを林宗、当代一の人物鑑定家として全国に名を知られていた。ある日、雨の中を歩いていた時、頭巾の角が雨に濡れて折れ曲がった。彼をうやまう人々がそれを聞いて、わざと頭巾の角を折り、「林宗巾」と名付けて真似まねしたという。

 わざわざ何か行為する〝折角せっかく〟という言葉はこの故事から生まれた。

 郭泰は孔明が生まれる以前に世を去っていたものの、林宗巾のファッションは一部の賢者によって受け継がれていた。

 孔明はその林宗巾の男に興味を引かれて、こっそりと後を付いて回った。

「おお、子将ししょう様だ」

「子将様、お体は大丈夫なのですか?」

「ああ、心配ない。彭沢から精気を得、このとおりだ……」

 兵士たち体をいたわられながらも、「子将」と呼ばれた人物は弁舌を止めなかった。

「今は共に臥薪がしんし、嘗胆しょうたんする時である。皆も知っていよう。かつて呉の夫差ふさが越王勾践こうせんを破ったのは、日々たきぎの上で寝、雪辱せつじょくを忘れぬようにしたためだった。そして、勾践が再び夫差に勝利したのは、会稽の恥をすすぐために苦いきもめて、屈辱を忘れぬようにしたためであった……」

〝臥薪嘗胆〟の成句や〝会稽の恥〟のことわざで知られるこの逸話は、春秋時代、呉と越の間で行われた戦争で生まれた。呉王闔閭こうりょが越王勾践に敗れ、子の夫差に復讐を誓わせて死ぬと、夫差は薪を敷いた上で寝ることで、その痛みを父の恨みとして忘れないようにした。

 その後、軍備を整えて越に侵攻し、会稽山の戦いで勾践を破った。勾践はその時に屈辱的な条件で降伏した。以来、数々の屈辱に耐えながらも、部屋に胆をるして日々それを嘗めて過ごし、その苦みを復讐のかてとした。そして、苦節二十年、ついに夫差に勝利し、屈辱を晴らした――――。

 昔の呉越は今の呉郡と会稽郡である。これは『史記』に記される歴史であるが、地元の昔話であるため、広く民衆にも流布るふしており、江南では誰もが知る逸話であった。

「……万物には盛衰があり、時節は遷り変わる。昇る勢いが激しければ、また落ちる勢いも激しい。孫策は今こそ飛ぶ鳥を落とす勢いであるが、その勢いもすぐにかげる。……古来、有徳の君子に従う者には必ず天佑がもたらされてきた。その恩恵にあずかりたいのなら、皆で劉揚州をお守りし、恥を雪ぐ機会を待つのだ」

 男の淀みない弁舌は水が大地に吸収されるように兵士たちの胸に沁み込んでいった。

「子将様がそう言われるのなら……」

「それじゃ、もう少し揚州様のもとに居てみようか」

 それを聞いた兵士たちは一様に落ち着きを取り戻し、不安が鎮まっていくようであった。

『確かに虚言のようには感じない。心にいつわりがないからだろう』

 孔明は林宗巾の男の言動を観察しながら、周囲の反応も探った。兵たちは口々に「子将様」と彼を出迎え、まるで救世主でも見るように熱視線を向け、彼の言葉に聞き入った。

『随分と信用がある人物のようだ。子将……いったい誰なんだろう?』

 兵たちの様子に気を取られるあまり、孔明は誰かの体に顔をぶつけてしまった。

「あ、失礼しました」

「先程から私の後を付いてきているようだが……何か用かな?」

 その男と目が合う。林宗巾の男。孔明がぶつかった相手こそ、許劭きょしょうあざなを子将という。郭泰亡き後、その名を全国にとどろかす当代随一の人物鑑定家であった。


『まさか許子将様だとは思わなかった』

 孔明は少し緊張した面持ちで許劭の後に続きながら、劉繇が滞在する官府へと向かった。

汝南じょなんの許子将〟の名声は孔明でも知っていた。しばらく廬江包囲の中にあり、山谷で修行の日々を送ったため、許劭が劉繇のもとに身を寄せたというニュースを知らなかっただけだ。しかし、この出逢いには驚かざるを得ない。

『あの少年のうつわ、もっと深く覗いてみたいものだが』

 許劭もまた、後ろに続く孔明に関心を寄せていた。許劭は孔明を一目見るなり、人相見にんそうみ慧眼けいがんを働かせ、

『――――秀外恵中しゅうがいけいちゅうな少年であるな』

 と、その人並み外れた能力を見抜いた。孔明が前の予章太守・諸葛玄の甥だと名乗った時もその言葉を全く疑うことをせず、こうして劉繇のもとへ伴っているのである。

「今、揚州殿を呼びに行かせた。しばし、こちらで待たれよ」

 許劭が言って、孔明に座を勧めた。小さな応接室である。劉繇が来るのを待つ間、許劭が孔明にいくつか質問をした。

「そなた、年はいくつになる?」

「十五でございます」

「ほう、志学か。何を学んでいる?」

「いろいろ学んでいます。『論語』、『孝経』、『詩』、『書』、『春秋』、『韓子』、『史記』……。つい最近までは山に入って、老荘に打ち込んでおりました」

「なるほど」

 許劭は一見して判断した自分の鑑定が間違っていなかったことに頷いた。賢さや知性は顔ににじみ出る。その表情を見れば、嘘ではないことも分かる。

「天下の情勢についてはどう思うか?」

「揚州様が後将軍こうしょうぐんと敵対していることは知っています」

 当意即妙とういそくみょう。こちらの聞きたいことを即座に理解し、明快に答える。たった一つの返答に傑出した才覚を感じ、許劭は少しはにかみながら頷いた。人物鑑定家として、このような傑物に出逢える至福。生涯を通じても、そうそうお目にかかれるような才能ではない。

 そこに劉繇が現れた。劉繇はあざな正礼せいれい、青州東莱とうらい牟平ぼうへいの出身の前漢皇族の末裔まつえいである。小柄だが、名門君子らしく藍染あいぞめの絹の着物に尚冠しょうかん(小型の冠)をいただき、その温和な表情はいかにも文官肌な人物を感じさせた。

 その後ろから劉繇とは対照的に目つきの鋭い長身の若者が入ってきた。孔明より一回り年長に見える。劉繇と同じ様に絹の衣に冠ので立ち。その男は孔明をちらりと見やると、許劭と向かい合うようにして座に付いた。

「使者とは聞いたが、随分と若いな」

 体格こそ大きいが、まだあどけなさが残る孔明の顔に劉繇は少し驚いた様子だった。許劭の向かいに座った男の方は隙を見せることなく、ズバリと指摘してきた。

「南昌のことでしょうが、返還するというわけにはいきません」

「その者は劉子揚しようという。私が見てきた中でも、十指じゅっしに入る逸物だ」

 許劭がその若者をそう紹介した。

 劉曄りゅうようあざなは子揚。揚州九江郡成悳せいとくの人で、彼もまた宗室に連なる者で、後漢をおこした光武帝の庶子である阜陵質ふりょうしつ王・劉延りゅうえんの子孫に当たる。母の遺言ゆいごんに従い、父の奸臣であった男を十三の時に殺して排除したという豪胆な逸話を持つ。

 許劭はこの劉曄を見、「よく切れるが刃こぼれがない。王が持つべき名剣である」と、その王佐の才を評した。

 劉曄もまた中原の戦乱と袁術の支配を嫌って避難を考えていた頃、許劭から招聘しょうへいの手紙を受け取り、こうして劉繇のもとに身を寄せていた。

「叔父は返還を求めてはおりません」

 孔明は劉曄の予測をあっさりとくつがえして言った。出鼻をくじかれた形の劉曄がムッとして、

「では、いかなる用件で参ったのか?」

 厳しい口調くちょうで孔明に問いただした。

「叔父の受け入れを認めて頂きたく参りました」

せぬことを言う。諸葛玄は袁術のもとで働いておるのだろう。我等はその袁術と戦っておる」

 予想された劉繇の疑義に孔明はよどみなく反論する。

「叔父は袁術の故吏であった縁で予章太守を引き受けたまでに過ぎません。叔父の立場はあくまでも漢臣。朱皓しゅこう殿と刃を交えず、南昌を引き渡したのはその証拠でございます」

「しかし、何度も開け渡しの書状を無視された。それについてはどう釈明する?」

 実は劉繇は朱皓と笮融さくゆうの軍を派遣する前に諸葛玄に南昌の開け渡しを求めた書簡を幾度か送っていた。諸葛玄はそれらを無視してきたのである。

「叔父は赴任して以来、南昌に難民を受け入れていました。その民心を安んじるために離れることができなかったのです。朱皓殿が同じ政策を採られるかどうかは分かりません。もし、叔父の政策が覆されたら、難民たちはまた追いやられてしまいます。そのことに心を痛め、民心を第一に考えてのことでした」

詭弁きべんではないのか?」

 劉曄が鼻を鳴らして、孔明をにらみつけた。確かに詭弁ではある。

 しかし、孔明の落ち着きは揺らぐことなく、さらに詭弁を重ねてみせた。

「詭弁と見られないために、本当のことを明かしましょう。実は叔父は袁術から揚州様の討伐を命じられておりました。しかし、南昌に赴任してからまだ日が浅く、軍民を掌握していないからとその時を遅らせていたのでございます。その間に揚州様は兵を集めることができました。南昌の民心安定を優先させたからではありますが、結果的に揚州様を救うことになりました。朱皓殿が兵を率いて南昌に現れた時、抗戦しようと思えばできました。それをしなかったのは、揚州様に兵を向けるのは不義であり、朱皓殿を討つのは不忠であり、戦をすれば、再び民心を傷つけることになるその不仁を理解していたからです」

「……ふむ。子将、どう思うか?」

「認めてよろしいかと存じます」

「子揚はどうだ?」

「素直に受け入れてよいかどうか。諸葛玄が袁術のためにこちらの様子を内偵しないとも限りません。そうでない証を見せて頂ければよいですが」

 孔明の説明に一応の道理を感じながらも、劉曄は諸葛玄のスパイ行為をいぶかしんでいるのである。しかし、孔明はそれに対しても完璧な返答を用意してあった。

「では、一つご提案がございます」

「何だ。聞こう」

「恐れながら、揚州様がこの地に駐屯しておられるのは、劉荊州の援助を見込んでのことと存じます。我が叔父・諸葛玄は劉荊州とは懇意の間柄でございますゆえ、叔父を使者とされ、劉荊州のもとへ派遣されてはいかがでしょうか?」

「……ふふ」

 許劭が思わず声を漏らしてはにかみ、反対に劉曄は顔を強張こわばらせた。

 敗走する劉繇をこの彭沢の地に導いたのは、実は許劭と劉曄の両名であった。

 もちろん、それは孔明が指摘した通り、荊州の援軍を期待して態勢を立て直す起死回生のはかりごとであったのだが、十五の少年に容易たやすく看破されている。

 許劭は心の中で孔明を『見事』と褒め、

「早速、福を呼び込みましたな。良い提案と存じます」

 劉繇に向き直ると、孔明の進言を受け入れるよう忠言した。劉繇も頷く。

「よし。その申し出、認めよう。諸葛玄にはすぐにでも発ってもらうぞ」

「はい、構いません」

 孔明はそれを了承して、礼を述べた。ひとまずはこれで良い。

 

 役目を果たして一安心した孔明だったが、新たな問題が待っていた。叔父の失踪しっそうである。孔明が西城に戻った時、そこに叔父の姿はなかった。住民らの証言で、怪しい一団に連れられていったということは分かったが、行き先がどこかまでは知り得なかった。しかし、経緯いきさつから見ても、南昌であることはほぼ確実だろう。

 怪しい一団というのは、浮図ふとの集団に相違ない。背後には間違いなく笮融がいる。

『もはや一市民に過ぎない叔父に何の価値がある?』

 生かして連れて行ったということは何か目的があるはずだ。その理由を推察して、導き出した答えに孔明は青ざめた。

『袁術か……!』

 叔父には力を持たないことが戦を避ける一つの方法だと言った。しかし、力というのは何も軍事力をいうだけではない。名声や人間関係、縁故もまた力だ。笮融は諸葛玄の持つ縁故の力を狙ったのだ。笮融は袁術に寝返るつもりなのだ。

『しまった……!』

 自分の予測が間違ってくれればよい。孔明は心を乱しながら、南昌に急いだ。

 とにかく、南昌でそれらを確認しなければならない。それによっては、打つ手が変わる。南昌は以前より不穏な空気に包まれていた。南昌の兵士たちと浮図集団との間でいさかいがあったらしく、それは朱皓と笮融の対立と言えた。

 浮図(仏教)は後漢代に入って浸透し始めた新興宗教である。かつて洛陽には白馬寺があり、そこでは西域からやってきた僧侶たちが経典きょうてんの翻訳をしながら、布教活動を行っていた。また、光武帝の三男である楚王(劉英りゅうえい)が浮図を信仰していた。

 しかしながら、全国的にはほとんど知られておらず、江南の田舎者から見れば、浮図集団は得体のしれない異物でしかなく、特に集団で読経どきょうする様子は不気味にさえ思えた。

 笮融は徐州にいた頃、陶謙とうけんの下で下邳かひ相となり、浮図集団のリーダーを自称して、浮図に入信した者には徭役ようえきを免除した上、食糧を無償で分け与えるという方針で信者を集めた。戦乱の時代であったから、食糧さえ保障してやれば、信者を集めることは簡単だった。そして、その立場を利用して、州郡の兵糧を強奪しては信者たちの腹を満たし、金銭を横領して仏塔を建て、信者たちの心を満たして求心力に換えた。

 だが、中には純粋な信者ではない者も混ざっている。彼の下には同じ穴のむじなとばかり、行き場のないごろつき共が多数集まっていて、彼らが主に戦闘や略奪を行ってきた。典型的アウトサイダーの彼らが問題行動を起こすのは当然の成り行きと言えた。聞こえてきた話では、彼らが城内に寺社や仏塔の建設を要求し、さらに食糧を独占し始めたのが原因らしい。喪中の朱皓が謹慎していることをいいことに好き勝手にやり始めたのだ。残念ながら、叔父の情報は聞けなかった。

『城内で対立がこうも鮮明になっているということは、やはり、笮融の心に劉揚州を見限り、袁術へ寄ろうという考えがあるからだ』

 孔明は自分の予測が正しいことを証明するかのような事実に苦悩した。

 諸葛玄は袁術への口き役として、城内のどこかで軟禁に等しい状態でいるに違いない。

『たぶん、官府の中だろうけど、入り込むのは無理だ。劉揚州に動いてもらうしかない』

 孔明は南昌の事情を一通り調べると、すぐに彭沢に引き返した。


「笮融ですか……あの男、やはり信用が置けません。廬陵の僮芝とうしと連絡を取っているとの情報もあります」

 孔明の話を聞いた劉曄がまた目を鋭くして言った。

「どういうことか?」

「密かに笮融の動きを探らせておりました。笮融は僮芝と書簡を往復させているようです。二人は同郷。何か良からぬことをたくらんでいるのかもしれません」

 同郷という要素もまた力となりえる。許劭が朱皓を評すことで、事態を分析した。

「不幸があったとはいえ、律儀者の文明では笮融を抑えきれませんでしたか。文明の孝行心は評価に値しますが、少々人が良過ぎるところがあります。笮融に政務を任せて喪に服しているというのも、それゆえでしょうな……」

「文明を責める気はないが、それが事態を厄介やっかいにしているのだ。ここで裏切られては困る。嗚呼ああ、奴の言葉を良しとしたのは、やはりまずかったな」

 劉繇は朱皓と共に南昌を攻略したいと申し出た笮融の言葉を思い返し、生真面目そうな顔を曇らせて後悔した。許劭がそれをなぐさめる。

「仕方ありません。そうでもしなければ、この彭沢で厄介事が起きていました。それにあの男は凶相持ち、心にどす黒い闇を抱えております。遠ざけるのが一番でした」

『……なるほど。食糧が足りないから、笮融軍を南昌に差し向けて朱皓の援軍とする一方、食いぶちを減らしたわけか……』

 孔明は劉繇たちの会話で、笮融の軍がていよく追い出されたのだと知った。

 実は劉繇の配下には、もう武将と呼べる人材が枯渇こかつしていた。孫策との度重なる戦いで主だった将軍たちは戦死しており、太史慈たいしじ行方ゆくえが分からなくなっている。

 そうだったから、札付きと言っても、笮融の戦力は貴重だったのだ。それが不穏な動きを見せている。

「しかし、こうなってしまったら、事態は一刻を争います。笮融が僮芝と手を組んで反旗をひるがえせば、それに乗じて孫策が攻め寄せてくるかもしれません。そうなれば、荊州の援軍があったとしても、予章一郡の確保さえままならなくなるでしょう」

「ど、どうする?」

 劉曄の指摘に劉繇が慌てた。

「笮融がどう動くかでしょう。……君は南昌の様子をつぶさに見てきたと言ったな。笮融の動きが予測できるか?」

 許劭が孔明に顔を向け、優れた明察を期待した。

「私が感じたところによりますと、笮融陣営と朱皓陣営の対立は時を追うごとに大きくなるはずです。笮融は叔父を味方に引き入れようとしているのかもしれません。叔父は袁術と縁故がありますから、袁術に寝返ろうという腹なのではないでしょうか?」

「何と。りに選って袁術に寝返られたら、我等は袋のねずみだ」

 劉繇は手を当てるようにして、青ざめていく顔を隠した。劉曄が機知を利かせて言った。

「目下のところ、袁術の関心は北の徐州に向けられております。孫策は会稽の攻略を目論もくろんでおり、すぐにこちらに兵を向けることはありません。廬江の劉勲りゅうくんの対策として、鄭宝ていほうという侠勇きょうゆうに書簡を送っております。それでもご心配なら、私を許へおつかわしください。私が事情を説明し、曹操軍に袁術を牽制してもらいます。帰途には鄭宝に面会してこれを説得し、味方に引き入れてみせます」

 劉繇が孫策と戦い、諸葛玄が予章を統治していた頃、袁術は徐州牧となっていた劉備を攻めた。そこに呂布りょふという董卓を討った奸雄が絡んできて、曹操そうそうや劉備の思惑も絡み合い、徐州情勢はいよいよ複雑になっている。

 曹操は直接的にも間接的にも袁術と対立してきており、劉繇陣営から見れば、敵の敵は味方という発想になる。

 その曹操が本拠地を構えているのが、予州潁川えいせん郡の郡都・許県であった。

「分かった。すぐに発ってくれ」

「はっ」

 劉繇が少し顔色を戻して言い、劉曄はすぐさま席を立って、部屋を退出していった。それを見送ってから、孔明が付け加えて言った。

「袁術は猜疑心さいぎしんの強い人物のようですから、孫策に翻意ありと書簡を送ると良いでしょう。そうすれば、勝手に孫策を疑って、孫策の動きも封じられます。同時に孫策にも書簡を送ります。袁術に逆心あり、共にこれを討つべし……」

 孫策が袁術に不満を持っていることは廬江太守の座を反故ほごにされたことで知っている。これは廬江で見てきたことが役に立った。許劭が賛同して言った。

「相反させるのだな。それは良い。両家とは浅からぬ縁がある。私が書簡をしたためよう」

 武器は剣や槍ばかりではない。書簡や弁舌もまた武器となり得る。

「それともう一つ。笮融が朱皓殿を除き、南昌の兵が吸収されるのを防がなければなりません。そこで、使者を南昌に派遣し、揚州様が朱皓殿に代わって笮融を予章太守とするよう上奏したと伝えるのはいかがでしょうか。事を荒立てずに正式な太守となれるのなら、笮融もおとなしくその沙汰を待つでしょう。これでしばらく時間を稼ぐことができますし、その間に揚州様は兵と兵糧を集めます。そして、出兵の準備が整い次第、すぐに軍を南昌へ進め、我が叔父と朱皓殿に内応させて笮融を一気に討ち果たします」

「なるほど、見事な策だ。すぐに薛礼せつれいを送ろう」

 薛礼は元彭城ほうじょう相で、徐州時代から笮融と行動を共にしてきた人物であった。

 叔父を救い出し、奸賊を排す策――――当代一の人物鑑定家・許劭が認める少年の言葉に劉繇もただ従うだけだった。

「今夜、私の部屋に来てくれたまえ。今後のことを話したい」

 許劭の言葉に孔明は力強く頷いた。十五の少年の知略が並いる大人たちを動かしている。


 孔明が許劭が仮住まいする屋敷の一室を訪れた時、許劭は病床にあった。

 いや、彭沢に逃れてきて以来、ずっと病魔に体をむしばまれていた。劉繇や兵たちを動揺させないために、無理をして気丈に振る舞っていたのだ。それが限界を迎えようとしている。

「……来てくれたか」

「お加減が悪いのですか?」

 客間に現れた寝衣姿の許劭。その体調がすぐれないのは一目で孔明も分かった。

 何せ人に支えられてやっと立っているような状態なのだ。夜陰に燭台のともしびが揺れて、精気の失われてやつれた許劭の顔をより鮮明にした。

 死期が近い者のそれであることに、孔明はショックを受けた。

「……江南の気候に馴染なじめない上に負け戦の連続だった。年も年だ。体に負担がかかったとしても、仕方ない」

 許劭は介助を受けながらゆっくりと座に腰を下ろすと、その使用人を下がらせた。

「……君を呼んだのは、今後のことを……相談しておきたかったからだ……」

「ご安心ください。叔父上が戻り次第、荊州に向かいます。私が揚州様に進言したのはそのための策でございます」

「……わかっている。私の方も長沙太守の張仲景ちょうちゅうけいに書状を送っておいた。……行けば、ねんごろに取りなしてもらえよう……」

「ありがとうございます」

 孔明は許劭のその配慮に頭を下げた。

「分かっていると思うが……これはただ諸葛玄殿を助けたい思いからだけではない……」

「はい、もちろん存じております」

 劉繇は劉表配下で江夏太守の黄祖こうそのもとへ援軍要請の使者を送っていたが、未だ応答はない。廬江太守に袁術配下の劉勲が居座っている。それを警戒して、江夏の兵力を動かせなのかもしれない。一方で、許劭の書簡は効果を発揮した。

 袁術は孫策を疑い、丹陽太守となっていた周瑜しゅうゆの叔父・周尚しゅうしょう更迭こうてつして、新たな太守として身内の袁胤えんいんを派遣した。

 ところが、孫策はこれを追い払ってしまい、袁術と孫策の対立は決定的になった。

 これは一時的に揚州牧・劉繇の立場を延命させるものではあったが、孫策が攻め寄せて来ないことを保証するものではない。依然として、北には袁術配下の劉勲がおり、南は笮融の自立が時間の問題となっている。

「……もう我等には……それしか方策は残されていないのだ」

 それ――――荊州の劉表が大軍を率いてやってくること。それは諸葛玄の説得如何いかんだ。劉繇や許劭にしたら、今ここで諸葛玄に死なれては困るのである。

「兵士たちには……さんざん忠義とは何たるか……報国とは何たるかを説いて、劉揚州を見捨てぬよう励ましてきた。……今さら我等が兵士たちを置いて、他の地へ逃げ出すわけにもいかない。宗室の揚州殿がそんな行いをすれば……それこそ民心を失い、忠義は廃れ、漢は滅ぶ。……敗軍の将とはいえ、劉揚州は紛れもない由緒ゆいしょ正しき君子。漢室をたすけたいというその志は本物だ。……だからこそ、私も……揚州殿を支えると決めた。……もう覚悟も決まっている。……我等は揚州からも使命からも、死からも……逃げるつもりはない」

 許劭は孔明の考えを先読みするかのように言って、進退を決したことを告げた。

 共に荊州へ退いて再起を期したほうがよいのでは――――そんな考えがよぎった孔明は許劭の深くも重い言葉を聞いて、劉揚州の立場を欠いた浅はかな考えに恥じ入った。そんなことではいけないのだ。救国の思いがあるなら、苦難にあろうと退いてはならない時がある。宗室ともなると、その責務はより一層大きい。それを支える者も同様だ。志操を高く掲げ、意志を強く保ち、国のために尽くす覚悟がなければ、その立場に立ってはいけない。孔明はそれを学んだ。

「さて……暗い話はここまでにしよう。最期は明るく別れたい……」

 許劭は話を切り換えると、消沈してうつむいていた孔明を目の前に呼び寄せた。

「人を視ることは未来を視ることだ。……そこには時々……明るく輝かしいものもある。特に若者が持つ可能性の光は……はなはだ美しく輝いて、見える……」

 許劭は人相見としての魅力を語りながら、孔明の若く、凛々りりしく、大きな可能性の秘められた双眸そうぼうをじっと見据えた。そうして意識を集中させていくと、許劭の意識は孔明の意識とシンクロする。やがて、するりとその中へ入り込み、意識の世界を目撃するのだ。一種の異能である。が、これこそが許劭の人物鑑定法の真骨頂しんこっちょうであり、その鑑識眼が当代随一と評される所以ゆえんであった。

 意識の世界――――意識の断片と化した許劭の全周囲に深遠なる宇宙が広がっていた。精神宇宙。この精神の宇宙空間にそれぞれ人の魂が星という形で浮かんでいる。

 眼前に見えるのが、眼前に座る少年の星だ。それは時に激しくきらめきを発しながらも、表面は暗い雲に閉ざされて、内部を覆い隠している。稲光いなびかりに似た煌めきも、重くうごめく暗雲も、孔明の意識と無意識が形作ったものだ。

「迷いがあるな……」

 ぽつりと呟きながらも、許劭の意識はさらに孔明の星へ近付いて、その奥へと潜行する。分厚い懊悩おうのうの雲を抜け、その下をうかがう。しかし、雲下は煩悶はんもんかすみに覆われてやはり暗く、何も見えない。心象風景だけでなく、深さ、広さ、全てが見通せない。

 器量がつかめない――――許劭の意識が戸惑ったその刹那せつな、眼下から強烈な光がほとばしった。それは朝日が闇を溶かしていくように溢れ、ようやくそこが広大な蒼穹そうきゅうと大洋が広がる世界だと教えてくれた。不可視の世界を照らし出す光源は大洋の深淵にあった。ぐるぐると螺旋らせん状に回転しながら浮かび上がってくる光の渦。

 それは形を為していた。光の軌跡が形作るのはまばゆく、煌めく、巨大な、龍。

「おお、見える。見えるぞ!」

 許劭が興奮して言った。脳裏に見える意識の映像だ。

 燦然さんぜんと光輝く龍は膨大な水飛沫しぶきを巻き上げて大海から飛び出すと、許劭の意識の直前をかすめて天へ昇った。暗くたちこめる分厚い雲に突入し、穿うがたれた雲間から龍の放つ光が陽光のように差し込んで、孔明の心象風景を明らかにした。

 許劭の意識が見つめる中、輝く龍は天を悠然と飛翔しながら、その口に暗雲を、その体に暗い未来を呑み込んで行く。

 懊悩おうのうの雲をふんだんに呑み込んだ龍の体は青白い輝きを発し、最後は耳をつんざくような咆哮ほうこうを上げ、許劭の意識を宇宙の彼方かなたへと吹き飛ばした……。

暗澹あんたんたる世を輝かせる大才……まさに〝光明こうみょうの龍〟なり……」

 許劭の口からそんな最後の人物評がこぼれると、天下第一と称された稀代きだいの人物鑑定家はそのまま帰らぬ人となった。


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