其之十 光明の龍
しかし、その時は
決して大きな城邑ではない。南昌と同じように避難民が城外に溢れ、どこからか手に入れてきた廃材や廃
城内も武器を携えた兵士たちで溢れており、彼らが
通りを歩く孔明の耳には故郷へ帰りたいとか、兵士を辞めたいとか、いっそ孫策のもとへ行った方がよいのではないかとか、数々の愚痴や弱音が聞こえてきた。
『今思えば、侠人の結束も廬江の団結も驚くべきものだった……』
南昌の兵もそうだったが、兵士たちの士気の低さの顕著なこと。これではいくら数を
それに比べれば、徐州で見た
廬江で見た民衆たちの団結力も見事であった。もちろん、そこにはそれらを率いる者の能力や器量が大いに関係している。
「……皆、安心せよ。彭沢は
動揺を隠しきれない兵たちを
郭泰は
わざわざ何か行為する〝
郭泰は孔明が生まれる以前に世を去っていたものの、林宗巾のファッションは一部の賢者によって受け継がれていた。
孔明はその林宗巾の男に興味を引かれて、こっそりと後を付いて回った。
「おお、
「子将様、お体は大丈夫なのですか?」
「ああ、心配ない。彭沢から精気を得、このとおりだ……」
兵士たち体を
「今は共に
〝臥薪嘗胆〟の成句や〝会稽の恥〟の
その後、軍備を整えて越に侵攻し、会稽山の戦いで勾践を破った。勾践はその時に屈辱的な条件で降伏した。以来、数々の屈辱に耐えながらも、部屋に胆を
昔の呉越は今の呉郡と会稽郡である。これは『史記』に記される歴史であるが、地元の昔話であるため、広く民衆にも
「……万物には盛衰があり、時節は遷り変わる。昇る勢いが激しければ、また落ちる勢いも激しい。孫策は今こそ飛ぶ鳥を落とす勢いであるが、その勢いもすぐに
男の淀みない弁舌は水が大地に吸収されるように兵士たちの胸に沁み込んでいった。
「子将様がそう言われるのなら……」
「それじゃ、もう少し揚州様のもとに居てみようか」
それを聞いた兵士たちは一様に落ち着きを取り戻し、不安が鎮まっていくようであった。
『確かに虚言のようには感じない。心に
孔明は林宗巾の男の言動を観察しながら、周囲の反応も探った。兵たちは口々に「子将様」と彼を出迎え、まるで救世主でも見るように熱視線を向け、彼の言葉に聞き入った。
『随分と信用がある人物のようだ。子将……いったい誰なんだろう?』
兵たちの様子に気を取られるあまり、孔明は誰かの体に顔をぶつけてしまった。
「あ、失礼しました」
「先程から私の後を付いてきているようだが……何か用かな?」
その男と目が合う。林宗巾の男。孔明がぶつかった相手こそ、
『まさか許子将様だとは思わなかった』
孔明は少し緊張した面持ちで許劭の後に続きながら、劉繇が滞在する官府へと向かった。
〝
『あの少年の
許劭もまた、後ろに続く孔明に関心を寄せていた。許劭は孔明を一目見るなり、
『――――
と、その人並み外れた能力を見抜いた。孔明が前の予章太守・諸葛玄の甥だと名乗った時もその言葉を全く疑うことをせず、こうして劉繇のもとへ伴っているのである。
「今、揚州殿を呼びに行かせた。
許劭が言って、孔明に座を勧めた。小さな応接室である。劉繇が来るのを待つ間、許劭が孔明にいくつか質問をした。
「そなた、年はいくつになる?」
「十五でございます」
「ほう、志学か。何を学んでいる?」
「いろいろ学んでいます。『論語』、『孝経』、『詩』、『書』、『春秋』、『韓子』、『史記』……。つい最近までは山に入って、老荘に打ち込んでおりました」
「なるほど」
許劭は一見して判断した自分の鑑定が間違っていなかったことに頷いた。賢さや知性は顔に
「天下の情勢についてはどう思うか?」
「揚州様が
そこに劉繇が現れた。劉繇は
その後ろから劉繇とは対照的に目つきの鋭い長身の若者が入ってきた。孔明より一回り年長に見える。劉繇と同じ様に絹の衣に冠の
「使者とは聞いたが、随分と若いな」
体格こそ大きいが、まだあどけなさが残る孔明の顔に劉繇は少し驚いた様子だった。許劭の向かいに座った男の方は隙を見せることなく、ズバリと指摘してきた。
「南昌のことでしょうが、返還するというわけにはいきません」
「その者は劉
許劭がその若者をそう紹介した。
許劭はこの劉曄を見、「よく切れるが刃こぼれがない。王が持つべき名剣である」と、その王佐の才を評した。
劉曄もまた中原の戦乱と袁術の支配を嫌って避難を考えていた頃、許劭から
「叔父は返還を求めてはおりません」
孔明は劉曄の予測をあっさりと
「では、いかなる用件で参ったのか?」
厳しい
「叔父の受け入れを認めて頂きたく参りました」
「
予想された劉繇の疑義に孔明は
「叔父は袁術の故吏であった縁で予章太守を引き受けたまでに過ぎません。叔父の立場はあくまでも漢臣。
「しかし、何度も開け渡しの書状を無視された。それについてはどう釈明する?」
実は劉繇は朱皓と
「叔父は赴任して以来、南昌に難民を受け入れていました。その民心を安んじるために離れることができなかったのです。朱皓殿が同じ政策を採られるかどうかは分かりません。もし、叔父の政策が覆されたら、難民たちはまた追いやられてしまいます。そのことに心を痛め、民心を第一に考えてのことでした」
「
劉曄が鼻を鳴らして、孔明を
しかし、孔明の落ち着きは揺らぐことなく、さらに詭弁を重ねてみせた。
「詭弁と見られないために、本当のことを明かしましょう。実は叔父は袁術から揚州様の討伐を命じられておりました。しかし、南昌に赴任してからまだ日が浅く、軍民を掌握していないからとその時を遅らせていたのでございます。その間に揚州様は兵を集めることができました。南昌の民心安定を優先させたからではありますが、結果的に揚州様を救うことになりました。朱皓殿が兵を率いて南昌に現れた時、抗戦しようと思えばできました。それをしなかったのは、揚州様に兵を向けるのは不義であり、朱皓殿を討つのは不忠であり、戦をすれば、再び民心を傷つけることになるその不仁を理解していたからです」
「……ふむ。子将、どう思うか?」
「認めてよろしいかと存じます」
「子揚はどうだ?」
「素直に受け入れてよいかどうか。諸葛玄が袁術のためにこちらの様子を内偵しないとも限りません。そうでない証を見せて頂ければよいですが」
孔明の説明に一応の道理を感じながらも、劉曄は諸葛玄のスパイ行為を
「では、一つご提案がございます」
「何だ。聞こう」
「恐れながら、揚州様がこの地に駐屯しておられるのは、劉荊州の援助を見込んでのことと存じます。我が叔父・諸葛玄は劉荊州とは懇意の間柄でございますゆえ、叔父を使者とされ、劉荊州のもとへ派遣されてはいかがでしょうか?」
「……ふふ」
許劭が思わず声を漏らしてはにかみ、反対に劉曄は顔を
敗走する劉繇をこの彭沢の地に導いたのは、実は許劭と劉曄の両名であった。
もちろん、それは孔明が指摘した通り、荊州の援軍を期待して態勢を立て直す起死回生の
許劭は心の中で孔明を『見事』と褒め、
「早速、福を呼び込みましたな。良い提案と存じます」
劉繇に向き直ると、孔明の進言を受け入れるよう忠言した。劉繇も頷く。
「よし。その申し出、認めよう。諸葛玄にはすぐにでも発ってもらうぞ」
「はい、構いません」
孔明はそれを了承して、礼を述べた。ひとまずはこれで良い。
役目を果たして一安心した孔明だったが、新たな問題が待っていた。叔父の
怪しい一団というのは、
『もはや一市民に過ぎない叔父に何の価値がある?』
生かして連れて行ったということは何か目的があるはずだ。その理由を推察して、導き出した答えに孔明は青ざめた。
『袁術か……!』
叔父には力を持たないことが戦を避ける一つの方法だと言った。しかし、力というのは何も軍事力をいうだけではない。名声や人間関係、縁故もまた力だ。笮融は諸葛玄の持つ縁故の力を狙ったのだ。笮融は袁術に寝返るつもりなのだ。
『しまった……!』
自分の予測が間違ってくれればよい。孔明は心を乱しながら、南昌に急いだ。
とにかく、南昌でそれらを確認しなければならない。それによっては、打つ手が変わる。南昌は以前より不穏な空気に包まれていた。南昌の兵士たちと浮図集団との間で
浮図(仏教)は後漢代に入って浸透し始めた新興宗教である。かつて洛陽には白馬寺があり、そこでは西域からやってきた僧侶たちが
しかしながら、全国的にはほとんど知られておらず、江南の田舎者から見れば、浮図集団は得体のしれない異物でしかなく、特に集団で
笮融は徐州にいた頃、
だが、中には純粋な信者ではない者も混ざっている。彼の下には同じ穴の
『城内で対立がこうも鮮明になっているということは、やはり、笮融の心に劉揚州を見限り、袁術へ寄ろうという考えがあるからだ』
孔明は自分の予測が正しいことを証明するかのような事実に苦悩した。
諸葛玄は袁術への口
『たぶん、官府の中だろうけど、入り込むのは無理だ。劉揚州に動いてもらうしかない』
孔明は南昌の事情を一通り調べると、すぐに彭沢に引き返した。
「笮融ですか……あの男、やはり信用が置けません。廬陵の
孔明の話を聞いた劉曄がまた目を鋭くして言った。
「どういうことか?」
「密かに笮融の動きを探らせておりました。笮融は僮芝と書簡を往復させているようです。二人は同郷。何か良からぬことを
同郷という要素もまた力となりえる。許劭が朱皓を評すことで、事態を分析した。
「不幸があったとはいえ、律儀者の文明では笮融を抑えきれませんでしたか。文明の孝行心は評価に値しますが、少々人が良過ぎるところがあります。笮融に政務を任せて喪に服しているというのも、それ
「文明を責める気はないが、それが事態を
劉繇は朱皓と共に南昌を攻略したいと申し出た笮融の言葉を思い返し、生真面目そうな顔を曇らせて後悔した。許劭がそれを
「仕方ありません。そうでもしなければ、この彭沢で厄介事が起きていました。それにあの男は凶相持ち、心にどす黒い闇を抱えております。遠ざけるのが一番でした」
『……なるほど。食糧が足りないから、笮融軍を南昌に差し向けて朱皓の援軍とする一方、食いぶちを減らしたわけか……』
孔明は劉繇たちの会話で、笮融の軍が
実は劉繇の配下には、もう武将と呼べる人材が
そうだったから、札付きと言っても、笮融の戦力は貴重だったのだ。それが不穏な動きを見せている。
「しかし、こうなってしまったら、事態は一刻を争います。笮融が僮芝と手を組んで反旗を
「ど、どうする?」
劉曄の指摘に劉繇が慌てた。
「笮融がどう動くかでしょう。……君は南昌の様子を
許劭が孔明に顔を向け、優れた明察を期待した。
「私が感じたところによりますと、笮融陣営と朱皓陣営の対立は時を追うごとに大きくなるはずです。笮融は叔父を味方に引き入れようとしているのかもしれません。叔父は袁術と縁故がありますから、袁術に寝返ろうという腹なのではないでしょうか?」
「何と。
劉繇は手を当てるようにして、青ざめていく顔を隠した。劉曄が機知を利かせて言った。
「目下のところ、袁術の関心は北の徐州に向けられております。孫策は会稽の攻略を
劉繇が孫策と戦い、諸葛玄が予章を統治していた頃、袁術は徐州牧となっていた劉備を攻めた。そこに
曹操は直接的にも間接的にも袁術と対立してきており、劉繇陣営から見れば、敵の敵は味方という発想になる。
その曹操が本拠地を構えているのが、予州
「分かった。すぐに発ってくれ」
「はっ」
劉繇が少し顔色を戻して言い、劉曄はすぐさま席を立って、部屋を退出していった。それを見送ってから、孔明が付け加えて言った。
「袁術は
孫策が袁術に不満を持っていることは廬江太守の座を
「相反させるのだな。それは良い。両家とは浅からぬ縁がある。私が書簡を
武器は剣や槍ばかりではない。書簡や弁舌もまた武器となり得る。
「それともう一つ。笮融が朱皓殿を除き、南昌の兵が吸収されるのを防がなければなりません。そこで、使者を南昌に派遣し、揚州様が朱皓殿に代わって笮融を予章太守とするよう上奏したと伝えるのはいかがでしょうか。事を荒立てずに正式な太守となれるのなら、笮融もおとなしくその沙汰を待つでしょう。これでしばらく時間を稼ぐことができますし、その間に揚州様は兵と兵糧を集めます。そして、出兵の準備が整い次第、すぐに軍を南昌へ進め、我が叔父と朱皓殿に内応させて笮融を一気に討ち果たします」
「なるほど、見事な策だ。すぐに
薛礼は元
叔父を救い出し、奸賊を排す策――――当代一の人物鑑定家・許劭が認める少年の言葉に劉繇もただ従うだけだった。
「今夜、私の部屋に来てくれたまえ。今後のことを話したい」
許劭の言葉に孔明は力強く頷いた。十五の少年の知略が並いる大人たちを動かしている。
孔明が許劭が仮住まいする屋敷の一室を訪れた時、許劭は病床にあった。
いや、彭沢に逃れてきて以来、ずっと病魔に体を
「……来てくれたか」
「お加減が悪いのですか?」
客間に現れた寝衣姿の許劭。その体調がすぐれないのは一目で孔明も分かった。
何せ人に支えられてやっと立っているような状態なのだ。夜陰に燭台の
死期が近い者のそれであることに、孔明はショックを受けた。
「……江南の気候に
許劭は介助を受けながらゆっくりと座に腰を下ろすと、その使用人を下がらせた。
「……君を呼んだのは、今後のことを……相談しておきたかったからだ……」
「ご安心ください。叔父上が戻り次第、荊州に向かいます。私が揚州様に進言したのはそのための策でございます」
「……わかっている。私の方も長沙太守の
「ありがとうございます」
孔明は許劭のその配慮に頭を下げた。
「分かっていると思うが……これはただ諸葛玄殿を助けたい思いからだけではない……」
「はい、もちろん存じております」
劉繇は劉表配下で江夏太守の
袁術は孫策を疑い、丹陽太守となっていた
ところが、孫策はこれを追い払ってしまい、袁術と孫策の対立は決定的になった。
これは一時的に揚州牧・劉繇の立場を延命させるものではあったが、孫策が攻め寄せて来ないことを保証するものではない。依然として、北には袁術配下の劉勲がおり、南は笮融の自立が時間の問題となっている。
「……もう我等には……それしか方策は残されていないのだ」
それ――――荊州の劉表が大軍を率いてやってくること。それは諸葛玄の説得
「兵士たちには……さんざん忠義とは何たるか……報国とは何たるかを説いて、劉揚州を見捨てぬよう励ましてきた。……今さら我等が兵士たちを置いて、他の地へ逃げ出すわけにもいかない。宗室の揚州殿がそんな行いをすれば……それこそ民心を失い、忠義は廃れ、漢は滅ぶ。……敗軍の将とはいえ、劉揚州は紛れもない
許劭は孔明の考えを先読みするかのように言って、進退を決したことを告げた。
共に荊州へ退いて再起を期したほうがよいのでは――――そんな考えが
「さて……暗い話はここまでにしよう。最期は明るく別れたい……」
許劭は話を切り換えると、消沈して
「人を視ることは未来を視ることだ。……そこには時々……明るく輝かしいものもある。特に若者が持つ可能性の光は……はなはだ美しく輝いて、見える……」
許劭は人相見としての魅力を語りながら、孔明の若く、
意識の世界――――意識の断片と化した許劭の全周囲に深遠なる宇宙が広がっていた。精神宇宙。この精神の宇宙空間にそれぞれ人の魂が星という形で浮かんでいる。
眼前に見えるのが、眼前に座る少年の星だ。それは時に激しく
「迷いがあるな……」
ぽつりと呟きながらも、許劭の意識はさらに孔明の星へ近付いて、その奥へと潜行する。分厚い
器量が
それは形を為していた。光の軌跡が形作るのは
「おお、見える。見えるぞ!」
許劭が興奮して言った。脳裏に見える意識の映像だ。
許劭の意識が見つめる中、輝く龍は天を悠然と飛翔しながら、その口に暗雲を、その体に暗い未来を呑み込んで行く。
「
許劭の口からそんな最後の人物評が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます