三国夢幻演義 龍の少年
光月ユリシ
其之一 命の山
軺車は二頭立ての立ち乗り馬車で、高速移動を可能としているため、かなりのスピードだ。車内には体を揺れから支えるための
十二という年齢の割には長身の少年が体を
『やっと
何度か往復したことがある街道。見覚えがある景色。それだけに、まだ半分の道程しか来ていないことが分かって、少年は一層
この少年こそ、歴史に
字とはいわば、もう一つの名前で、社会に出てからは本名ではなく、字で呼び合うのが礼儀とされた。男子の場合、成人した際に字を付けるのが習わしなので、後に〝孔明〟と名乗るものの、この時はまだ字はない。
孔明少年は兄の
諸葛瑾は
二人の父の
丞というのは郡の副官で、民政を担当し、郡の長官である太守を補佐するのが役目である。泰山郡の
諸葛氏の本籍地は
蒙陰は陽都と奉高のちょうど中間地点だ。ここから
細い山道は
孔明少年は嘆息するしかなかった。自ら
「亮、疲れていないか?」
陽都を出発して以来、休む間も惜しんでの移動だ。
「大丈夫です」
孔明少年が
父が職務中、病に倒れた――――そのような急報が陽都に届けられたのである。
『きっと、大丈夫……』
孔明少年は心の中でそう言い聞かせ、自分を落ち着かせようとした。
父はまだ四十過ぎで、この時代であっても、寿命というには少し早過ぎる。
自分たちが奉高に着く頃には病も
山並みを覆う新緑の木々の景色をその
春を迎えた山の緑は鮮やかに輝いていて、生命力に
孔明少年の瞳にはそれが希望の象徴のように映ったのだ。
時に、後漢の
が、孔明少年のその期待はあえなく打ち砕かれた。
父が住まう奉高の
「よく来てくれた……二人とも……」
そして、
諸葛瑾は
「瑾、後のことは……叔父とよく相談をして……決めよ。これからも母に……よく仕えるのだぞ……」
「はい、父上……」
諸葛瑾は十九の青年だ。涙を浮かべながらも、口元を引き締め、しっかりと父の言葉を胸に刻み込んだ。それを見届けた諸葛珪は視線だけを動かして、今度は次男に語りかける。
「亮……。叔父の言うことを……よく聞いて……学問に励むのだぞ……」
死にゆく父の、弱弱しい言葉が孔明少年の心にやわく刺さった。孔明が
息も絶え絶えの父はそれを息子たちに伝えると、目を閉じて最期の眠りに入った。
孔明は父が眠る
死者の魂はどこへ行くのか――――。死後の世界は存在する。死者の魂はその世界で、現世と同じ様に生きる。それが古代中国の死生観であった。
その死後の世界であるが、天上と地下、二つのあの世があると考えられた。
また、後漢の大学者・
「……亮、しっかりするんだ」
諸葛瑾が
我に返った孔明の口から、
「……兄上。死はこうも突然訪れるものなのですか?」
抑揚のない言葉が難しい質問となって漏れた。三年前に母を失っている。
その時も死という辛い現実は突然やってきて、九歳の少年から母を奪い、連れて行ってしまった。
「……無念だが、受け入れるしかない。しっかり父の最期を
弟を
「はい……」
父の死――――それが目前に迫っている。孔明はそれを感じて
少年の未熟な精神はそれを受け入れる準備はまだ整っていない。
口では「はい」と答えたものの、心ではそれを否定する。衝動的に父を回復させる手段を探した。自分が蓄積した知識の中にそれを探すことで、孔明少年は忍び寄る無慈悲な現実に対抗しようとした。
翌朝、まだ日が昇っていないにもかかわらず、孔明が寝室からいなくなっていることに気付いた諸葛瑾は弟の行方を探した。悲しみにうちひしがれ、どこかで独り泣いているのかもしれない。しかし、屋敷のどこにもその姿はない。
冷静に弟の性格を考えてみた時、
「まさか……」
諸葛瑾はふと後方にそびえる泰山を振り返った。その
そして、その予感が当たった。諸葛瑾は父の書斎に、父のために泰山に祈りを捧げるという弟の書き置きを見つけ、顔色を失った。
「これはまずいことになった」
諸葛瑾は慌てて泰山太守のもとへ走った。
天下に五聖山あり――――
それは泰山が太陽が昇る東方に位置するからである。
かつて
封禅というのは、天地の神を
が、今は
「
泰山の麓の山道。突然暗闇から現れた一団が孔明少年を取り囲んだ。
その状況に内心恐怖し、足が固まってしまった孔明であったが、恐怖を上回る使命感が平静さを失わせなかった。もともと冷静で、落ち着いた性格でもある。
体を硬直させながらも、
「父の延命祈願に訪れました」
孔明は素直に答えた。
「そりゃ、孝行息子なこった。だが、これ以上は行かせられねぇ」
「どうしてですか?」
「ここは俺たちの縄張りだからな。山頂まで行きたかったら、通行料を払いな」
「そのようなことは泰山の法で認められていないと思いますが」
父を救いたい一心の孔明は無法者の言い分に堂々と反論した。しかし、年に似合わぬその態度がさらに山賊たちの
「生意気なガキだ。金がねぇんなら、その身を金に換えるんだな」
男たちは有無を言わせず、孔明少年を拘束して縛り上げた。
孔明少年が生まれる前、後漢の朝廷内で
〝清流派〟というのは腐敗体制を糾弾し、儒教精神に
この両者の政争は清流派の敗北に終わった。敗因はひとえに行政のトップである皇帝が暗愚であったからだ。世の中の事態を全く把握していない皇帝は濁流派の
この時、
そして、
腐りきった漢朝を打倒して、新たな体制を打ち立てようという動きは全国に浸透しつつあった太平道を通して、
太平道の教祖・
泰山郡が属する
黄巾賊の本拠を攻略し、本隊を壊滅させた政府の鎮圧軍はすでに解体されており、残党討伐は各地の郡太守に
応劭、
孔明少年の父・諸葛珪はその対応のために多忙を極めたのである。
そして、安全面を考慮して、状況が落ち着くまで家族を陽都に帰らせていた。
応劭は諸葛珪の子息がやってきたと聞かされ、てっきり諸葛珪の
話を聞いた応劭が嘆息した。
「今や泰山は賊の
「何とか兵を出せませぬでしょうか?」
諸葛瑾が険しい表情を作る応劭に嘆願する。
「昨年の戦で兵力が
応劭はそう事情を語り、心苦しくも諸葛瑾の要請を断るしかなかった。
半年ほど前、応劭の
青州は泰山郡の北に隣接する。黄巾の乱時もそれほど激戦地とならず、
「これは新たな反乱の予兆のように思う……」
「そんなものに弟の命を呑み込ませるわけにはいかないのです!」
諸葛瑾が珍しく声を荒げた。死の間際にある父から後事を託されたばかりだ。
弟を思う兄の気迫が応劭を動かした。神妙な顔つきで応劭が呟いた。
「恐らく我が著作を読んだ上での行動であろう。私にも責任がある……」
泰山上に
応劭の著作『
不老不死を求めた秦の始皇帝も漢の武帝も、封禅の儀式と合わせて、泰山に金篋玉策を求めた。その帳簿を書き換えれば、永遠に匹敵する命を手に入れられる。
孔明は知的好奇心に溢れ、読書好きな少年であった。父の赴任先の奉高で過ごした時も、『風俗通義』の写本を手に入れると、それを何度も読み込んだ。
「急ぎ州府に書簡を出してみよう。今、州軍が黄賊討伐に動いている。義に厚い
応劭はそう言って、諸葛瑾を慰めた。
〝使君〟というのは州の長官である〝
現兗州刺史は
劉岱は前漢の皇族の
泰山を覆った闇を朝日がゆっくりと溶かしていく。辺りが大分明るくなって、孔明少年は自分を拘束した男たちが一様に頭巾を被っていることに気が付いた。薄汚れているが、黄色の頭巾である。
『
孔明少年はこの時初めて彼らが黄巾賊だと知った。しかし、逆に怖さは薄らいでいった。闇を
「――――黄賊の多くは道に迷いし、善良な民……」
父が言ったそんな言葉が記憶に残っていた。そう思ってみてみると、不思議と皆悪人には見えなかった。
「私をどうするつもりですか?」
誰に問うでもなく、
「奴隷として売り飛ばされることになるだろうな。ほら、さっさと歩け」
孔明の問いに背後の男が答えて、
「太平道の教義とは人さらいを勧めるものなのですか?」
孔明はそれに反発して、感情を抑えながらも喰ってかかった。こんなところでいわれのない拘束を受けるのは納得できない。
「……ちっ、本当に生意気な
「なぜ戦にそう
大賢良師とは、太平道の教祖・張角のことである。
「戦だってやりたくてやってるわけじゃねぇ。だがな、腐った組織をぶっ壊さない限り、俺たちは生きていけねぇんだよ。死ぬまでずっと
「腐った組織というのは何を指しているのですか?」
「もちろん、政府に決まってるだろ」
それを聞いて、孔明は首を
「もうあなた方が戦うべき政府はなくなったと思うのですが」
「どういう意味だ?」
「腐敗政治を主導した
宦官は去勢され、
太平道を教導した張角は元々は清流派の人物だったというし、太平道や黄巾賊の打倒すべき相手はそんな宦官一派だったはずである。
しかし、三年前の政変で悪の
憎むべき相手も、倒すべき象徴も無くなってしまったのである。
「うぅ……む……」
波乱と激動の日々の中に見失っていた理念を子供にずばり指摘されて、孔明少年のすぐ前を歩く黄巾の男が言葉に詰まって
「
それに聞き入ったのか、返す言葉が見つからなかったのか、元農夫、現黄巾賊たちによる反論はなく、孔明はさらに続けた。
「すでに大漢には天誅が下りました。それなのに、戦を続ける必要はないじゃありませんか。そもそも
孔明の言葉は知らず知らずのうちに熱を帯びていた。
老子は軍事手段や武力行使を
「もう黙れ。後には引き返せんのだ」
「あなた方のしていることは天が見ているのですよ」
「黙れと言った!」
「止めろ」
それを制したのは黙って会話を聞いていた初老の男だった。立ち止まって年季の入った声で
「その少年の言うことには一理ある」
その男の言葉には他の男たちを律するだけの重みがあった。長年、太平道の教義に身を捧げ、先の激戦も生き残った古株である。それだけに、近年の太平道の変遷には疑義を抱かざるを得ない。大賢良師の教導が無くなってしまった今、自分たちは何のために戦い続けているのか。打倒漢朝のスローガンも今は
孔明少年の真っ直ぐな正論は彼らの心の奥を確かに打った。彼らは黄巾を被っていても、やはり、その正体は道に迷いし善良な民なのだ。
「大賢良師が今の我等を見て、何と
「進めばよいではありませんか。ただし、良い方向に」
すかさず孔明が提案する。初老の男が首だけを回して、縄目の孔明少年を真っ直ぐ見つめた。
「よい方向とは?」
「先の戦いの反省から、政府は多くの清流官僚を登用し、各地の太守や刺史に任命致しました。今の泰山太守は清名ある
孔明少年の落ち着いた話しぶりは、道に迷った彼らを教え導くようだった。
刺史を尊称して〝使君〟というのに対し、太守を尊称して〝府君〟という。
一瞬の沈黙があって、
「……ふふ、子供に身の振り方を教えられるとはな。だが、悪くない」
初老の男が他のメンバーに向き直って言った。
「私はそろそろ
〝大方〟とは黄巾賊独自の称号で、地方部隊のリーダーを指し、軍の指揮官でもある。〝小方〟はその下のサブ・リーダーのようなものだ。古参のその男は名を
「滕小方、官軍に降るおつもりですか?」
「俺は構わないぜ。親が先に降っているし、命が助かるならな」
「確かに管大方は亡き
「しかし、降るにしても、受け入れてもらえるだろうか?」
彼らは一様に滕豊に従う姿勢を見せた。相当その男に信頼を寄せているようだ。
だが、彼らの不安は半年前に泰山侵攻をやったせいで、もう降伏が認められないのではないかということである。応劭率いる官軍と激戦を行い、敗れて泰山に逃げ戻った。この時、多くの黄巾非戦闘員が逃げ遅れ、応劭に降伏している。
泰山丞・諸葛珪は彼らのために衣食住を用意させ、再び反徒とならないように教導しなければならなかった。
「それなら、私を救助したということにして、一緒に連れて行ってください。私は泰山丞・諸葛珪の息子ですから。私からも事情を説明致しましょう」
孔明が機転を
「泰山の丞の息子? それが何やってんだ?」
「ですから、父が
孔明がその場にいる黄巾の男たち全員に訴えた。
「よし、取引成立だ。お前たちはその少年を上まで連れて行ってやれ。私は他の者たちにも声をかけてみる。確かな目的がないのに、これ以上仲間が死ぬのは見たくない」
滕豊が孔明の意を
「だが、少年よ。父を失う悲しみは分かるが、本来、生も死もその価値に優劣はない。死とは単に自然に帰るということなのだ。魂は自然と調和してこそ安寧を得る」
「老荘の〝
それは自然界のルールを尊重し、ありのままを受け入れよという教えだ。
即応した孔明少年に目を見張って、滕豊が
「本当に賢い少年だな。君は将来、この
そう言って、孔明少年を縛る縄を解いてやった。再び自由の身となった孔明。
道が開けた――――。孔明少年の頭に蓄えられた知識と小さな胸に抱えた愚直さが切り開いた泰山
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