其之二 龍の目覚め
この頃の
彼らは正式に朝廷から任命された刺史ではない。皇帝は
田楷は
刺史は本来は州内の巡察を公務とするが、戦乱の時代である。四年前に刺史は軍権と行政権を併せ持つ〝
田楷は本来の青州刺史の任地である
劉備は
そこから身を起こし、黄巾の乱に際して、義勇軍を率いて各地の黄巾討伐に功を上げてから、少しはその名を知られるようになってきた。その劉備のもとに軍使が到着した。
「
劉備はその若武者の名を鮮明に覚えていた。前年、劉備は
「通せ」
「劉備様、
「兗州殿から?」
他州の長官からの書簡というのだから、劉備が
「黄賊の背後を襲ってほしいか……」
近頃、勢力を保ちながらも青州に孤立していた黄巾賊は
黒山賊は山賊集団である。黄巾の乱の勃発時に黄巾軍と同調して
前年、北上して
百万と号する黒山賊と、百万と号する青州黄巾賊の合流。これが実現したなら、もはや州郡が力を合わせても到底及ばない巨大勢力となる。
「現在、兗州には黄賊の大群が押し寄せており、
太史慈が
広大な中国では方言や生活習慣の差異が
「分かった、すぐに軍を動かそう。一応、田楷殿に許可をもらう」
長年、黄巾賊の討伐に従事してきた劉備はその切迫した事態をよく
泰山の最高峰は約千五百メートル、
奉高の屋敷を発って三日、新しい朝が間近に迫る中、孔明はついに泰山の
それを見た孔明が
「どうして、泰山の頂にまで陣を張っているのですか?」
「泰山は俺たち太平道にとっても大事な場所なんだよ。この
張角がその教えを太平道と名付けたのは、泰平という意味だけでなく、泰山との結び付きを深く意識したからでもあった。〝太〟は〝泰〟と通じ、同義である。
張角は泰山の頂を〝太平頂〟と呼んだ。そして、反乱を起こすに際して、兗州・青州方面軍に真っ先に泰山地方を確保させた。その残党軍が今もなおこの地を温床として活動しているのだ。
「何度も官軍の攻撃を退けてきた。最初は半信半疑だったが、こうしてここを確保できているのも、本当にあのお宝のお陰かもな」
黥面の男が真顔になって、仲間に同意を求めた。
「ここの者たちにも山を下らせるとして、あの男の処遇はどうする?
「一人残しても仕方ねぇし、一緒に連れて行こう。この
「そうだな。それがいい。名門・
「どなたですか?」
「お前は知らなくていい」
黥面の男は孔明の問いを
伝説であろうと神話であろうと、今は信じて探すしかない。が、大分明るくなってきたとはいえ、まだ日の出前である。
光が影を作り出し、風景を際立たせていく。奉高の
孔明は思わずかぶりを振って、自分の愚かな考えを打ち消した。そうさせないために来たのだから。
孔明はふと朝日に照らされ姿を現した
「おい、もう
焦燥感を帯びた声がして、孔明が振り返った。見ると、黥面の男が片手に後ろ手に縛られた男を連れていて、もう片手に
「いえ、まだ……」
「さっさと済ませろ。すぐに山を下るぞ。官軍が攻め寄せて来やがった」
「えっ?」
それを証明するかのように、山頂に陣取る黄巾軍が慌ただしく動き、まだ朝日の十分届かない
『北側からということは、応太守の軍じゃないな……』
孔明は冷静に状況を見極めていた。自分のために兄が応劭に救助を願い出たという予測はつかなかった孔明だったが、ふと、初志を置き去りにしてしまっている自分に気付いて、慌てて地面に
「……
孝行息子のそれを見た黥面の男は内心感心しながらも、
「ふん、そんな伝説……。大賢良師がご健在なら、その延命も叶えられただろうがな……」
張角は
ところが、張角自身が死病を得てしまう。自らの符水術も効果を表さず、張角がとった延命の最後の手段が伝説の
孔明の願いに天が
それは風に流され、太陽に向かうように
「
その現象を見た人質の男、
さすがにそんな意味までは知らない孔明は、ただ陽光に溶け込む白虹の先を
何も文字を刻んでいなかったはずの無字碑の表面に〝
無意識のうちにそれを確信した孔明は石碑の変化にも気付かず、崖の先へと歩いていく。
「おい、どこへ行く?」
それを黥面の男が
が、それにも構わず、孔明は恐れる様子もなく崖の端から霞の橋に足をかけようとした。
「おいっ!」
黥面の男が叫んで警告したが、さらに立ち込めた霧が山頂を覆って、孔明のその後を包み隠した。悲鳴は聞こえなかった。が、自ら悲鳴を上げることになった。
「うわ、動いた?」
黥面の男が持っていた銅爵に彫刻されていた龍が命を吹き込まれたかのように動き出して、柄の表面をぐるぐると回ったのだ。それに驚いて、男はその
常識では計れない異世界へ足を踏み入れたのだ。孔明はこの現象を分析することも忘れて足を踏み出すと、そのまま橋を渡って、瞳に映る異世界の入口をくぐった。
仙界は
『……ここを仙界というのだろうか?』
と、そんな感想を独り思う。霊気が立ち込め、一切の音が遮断された世界。黄巾賊が
孔明は念願の玉策が消えてなくならないようにそっと手に取って台座の上に広げた。勢いで巻き物の
出身地と名前の下に数字が書き込まれている。命数だろう。それが際限なく羅列されている。すでに孔明は台座を離れ、永遠に広がる巻き物に沿うように数十歩移動していた。その時、視線の脇で大きく霊気が弾けた。
――――東萊牟平劉岱公山四十二。
初めて知っている人物の名を見つけた。確か隣の兗州を治める清流刺史だ。
その先でまた霊気が弾けた。孔明がまた確認に急ぐ。
――――
それは誰もが知っている悪名だった。皇帝を傀儡化して専横を
確か董卓は父よりも一回り上の世代だと聞いた。董卓の年齢は知らないが、その命が長くないことを示すものだ。奸雄の最期も近い――――孔明がそう思った時だった。その意思を咎めるように弾けた霊気が寄り集まって、黒い大きな塊を形作った。
それはさらに大きくなったかと思うと、とぐろを巻いた龍へと変化した。龍が頭をもたげ、口を開いて
そして、龍気はクッションとなって、泰山の大地と孔明の体の間に集まると、すっと
孔明はちょうど山頂に戻ってきた
「おい、大丈夫か?」
彼らは一様に天を見上げ、不安そうな声を漏らす。急速に発達した暗雲が天を覆おうとしているのだ。異世界から溢れ出した霊気が黒く
「すぐに山を下りるぞ!」
滕豊が賊徒たちを先導して下山を促す。そこに黥面の男がやってきて報告した。
「滕小方、袁家の人質が消えやがった!」
「構うな。今我等に必要なのは、この少年の方だ!」
再び雲間から光が
白い
あの黒い龍だ。自分を追って異世界から出て来たのか。
しかし、その黒い龍は現実世界で生きることはできない。
直後、視力を取り戻した孔明の瞳は焦点を結ぶことなく、顔は青ざめていた。
落雷に
「ここにいては命がない。さぁ、行くぞ」
落胆し、茫然自失で
これはただの嵐ではない。
滕豊に率いられた黄巾賊二百余名が泰山太守・応劭に降伏を願い出て、それが受け入れられた。それに伴い、孔明も無事に帰還して兄を安堵させた。
諸葛瑾は孔明の気持ちを知って叱ることはせず、諸葛珪の意識が戻ったことを知らせた。
「え、父が……!」
孔明は雨に濡れ、泥に汚れた服を着替えると、父の病床へ急いだ。父・諸葛珪は依然として
「父上……」
父が助からないと失意に沈んでいた孔明はその姿に心底
「……亮か。死を直前に
諸葛珪は目を閉じながら、長い息をついた。そして、
「……どうやら四十九日の余命を得たらしい」
最後にそう告白した。おとぎ話のように聞こえるが、元々
自分自身も不可思議な体験をした。死の淵から生還した父の言葉は孔明には真実にしか聞こえなかった。
四十九日という月日は短いながらも、諸葛家に意義ある一家団結の時をもたらした。孔明にとっては叔父にあたる
諸葛玄は
「兄上、お加減は?」
「体を動かせる上に口もきける。これ以上望むものはない」
諸葛珪は息子たちに介助されながら応接間の
「……
諸葛玄は
二年前、洛陽が戦禍に
諸葛玄は長安を脱すると、荊州へ向かい、旧知の
蒯越は荊州牧の
「難民の流入が止まりませんが、劉荊州が人民の
「そうか……」
それを聞いた諸葛珪が目を閉じたまま呟いた。劉表は
諸葛珪は吹き荒れる戦乱の嵐を避けるため、
「清名があるに越したことはないが、今は乱世だ。戦に強くなければ民を苦難から守ることはできない。いくら清名があっても、戦が下手な者のもとに
父のそれは兗州刺史の劉岱のことを言った発言であることを、孔明は察した。
劉岱は黄巾賊を
孫堅は勇猛で、戦に
「ああ、大事なことを言い忘れていました。董卓が死んだそうです」
諸葛玄が最新かつ重大ニュースを告げた。奉高にはまだその一報は届いていない。
「何? ……確かなのか?」
その知らせに諸葛珪が窪んだ目を見開いた。諸葛玄は深く頷いて、
「
「おお!」
諸葛珪が
劉岱といい、董卓といい、玉策に記されたことが現実となっている。霊気が弾けたようなあれは、命の終わりを意味するものだったのだ。
「それは何よりの
諸葛珪は少しだけ
「未だ長安におられます。董卓よりはましでしょうが、
「何と……」
諸葛珪は嘆息するのと合わせて、肩を下ろした。
「どれもこれも
諸葛珪は吐き捨てるように感情を露わにした。呂布も、李傕と郭汜も、董卓配下の荒くれ武将である。
「しかし、李傕と郭汜が相手なら、関東の諸将が再び結集すれば、破るのは
息子の意見に父は首を振った。
「かつて諸将が団結したのは董卓の力が強大で脅威を感じたからだ。李傕と郭汜では何の脅威にもならない。すでに朝廷の権威は
死を間近に控えているからであろうか、一家の長として家族の行く末を案じる諸葛珪の洞察は鋭かった。
「この度董卓が死んだのはまさに寝耳に水であった。強大を誇った権力者や清名を馳せた実力者があっさりといなくなる。逆もあり得る。今はまだ名も知られていない人物が突如として頭角を表すかもしれない。この先、事態がどう推移するか、それらをよく観察して、誰が滅び、誰が生き残るかを見極め、身の振り方を決めなければならない」
長男は父の遺言を頭に刻みつけるように聞き、兄亡き後の家長となる弟は戦乱の時代を生き抜く知恵に頷く。まだ十二の孔明はこの家族会議に父の介助として顔を出しているだけで、ただ黙ってそれを聞いていた。
「私が生きているうちにそれを見極めることはできない。今後のことは全て胤誼に任せる。それと、私の死後のことだが、
そう言い残し、孔明の父・諸葛珪が亡くなったのは、息を吹き返してからきっちり四十九日後のことだった。
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