其之二 龍の目覚め

 この頃の青州刺史せいしゅうしし(青州ぼく)は二人いた。一人は田楷でんかい、一人は臧洪ぞうこうといった。

 彼らは正式に朝廷から任命された刺史ではない。皇帝は董卓とうたくという稀代きだいの悪雄によって洛陽らくようから西へ連れ去られ、前漢の都だった長安ちょうあんにいた。皇帝を拉致らちした董卓は意のままに勅令ちょくれいを発して、各地の刺史太守たちを従わせ、コントロールしようとした。しかし、董卓の主導する傀儡かいらい政権に反発する群雄たちの中にはそれには従わず、独自に刺史・太守を任命する者もいた。

 田楷は幽州ゆうしゅうから勢力を広げていた公孫瓉こうそんさんによって任命され、公孫瓉と争う袁紹えんしょうはそれに対抗して臧洪を青州刺史に任命した。当然争いが起こる。

 刺史は本来は州内の巡察を公務とするが、戦乱の時代である。四年前に刺史は軍権と行政権を併せ持つ〝ぼく〟とあらためられた。しかし、まだ〝刺史〟の呼び方が一般的で、田楷も臧洪もそれぞれ軍隊を率いて、青州刺史を称しての赴任であった。

 田楷は本来の青州刺史の任地であるせい国に駐屯し、臧洪は青州で最も西寄りで袁紹の勢力圏に隣接する平原へいげん国に入った。平原しょう(相は国王に代わって執政する)の劉備りゅうびも公孫瓉に任命された人物であったが、それを避けて田楷が駐屯する斉国に留まっていた。

 劉備はあざな玄徳げんとくという。幽州涿たく郡涿県の人で、後に成人した孔明が仕えることになる人物である。彼も前漢の皇族の子孫にあたる人物だというが、ほぼ無名に等しいほどに没落しており、賎民せんみんと何も変わらない生活を送っていた。

 そこから身を起こし、黄巾の乱に際して、義勇軍を率いて各地の黄巾討伐に功を上げてから、少しはその名を知られるようになってきた。その劉備のもとに軍使が到着した。

子義しぎが?」

 劉備はその若武者の名を鮮明に覚えていた。前年、劉備は北海相ほっかいしょう孔融こうゆうの援軍要請を受け、これを救援して黄巾軍と戦った。この時、孔融からの使者として来訪したのが太史慈であり、この戦いの隙に臧洪が平原に入ったのである。

「通せ」

 よろいを着込んだ劉備がかつて孔融の書簡を届けたその若者を迎えた。颯爽さっそうとした若武者が劉備の前でひざまずいて、書簡を差し出した。名を太史慈たいしじあざなを子義という。

「劉備様、劉兗州りゅうえんしゅうからの書簡をお持ち致しました」

「兗州殿から?」

 他州の長官からの書簡というのだから、劉備が怪訝けげんに思うのも仕方がない。劉備は受け取った書簡に目を通してつぶやいた。

「黄賊の背後を襲ってほしいか……」

 近頃、勢力を保ちながらも青州に孤立していた黄巾賊は幷州へいしゅう山間部を拠点とする黒山賊こくざんぞくと合流しようとする動きを見せていた。

 黒山賊は山賊集団である。黄巾の乱の勃発時に黄巾軍と同調して蜂起ほうきして以来、敗残の黄巾賊を吸収する形で急激に勢力を増していた。

 前年、北上して冀州きしゅうに入った青州黄巾賊は公孫瓉軍に打ち破られ、黒山賊との合流を断たれた。なので、此度こたびの移動は兗州経由で黒山賊に合流しようとする動きにほかならず、黒山賊の先発隊はすでに兗州の東武陽とうぶようというところまで迫っているらしかった。東武陽県はとう郡に属し、その東郡太守は曹操そうそうといった。

 百万と号する黒山賊と、百万と号する青州黄巾賊の合流。これが実現したなら、もはや州郡が力を合わせても到底及ばない巨大勢力となる。

「現在、兗州には黄賊の大群が押し寄せており、劉兗州自みずから鎮圧軍の指揮をとられております。しかしながら、続々と到着する敵勢のために苦戦をいられており、僭越せんえつながら、私が劉備様への援軍要請をお勧めいたしました」

 太史慈が凛々りりしいおもてを上げて言った。太史慈は青州東萊とうらいこう県の人で、同じ東萊郡出身の劉岱を頼って、その麾下きかに入ったばかりだった。

 広大な中国では方言や生活習慣の差異がいちじるしい。ゆえに同郷という地縁の影響は非常に大きかった。劉備も同じ幽州人で、同門の公孫瓉を頼って今の地位を得ている。

「分かった、すぐに軍を動かそう。一応、田楷殿に許可をもらう」

 長年、黄巾賊の討伐に従事してきた劉備はその切迫した事態をよく心得こころえていた。


 泰山の最高峰は約千五百メートル、河北かほくの平原地帯からは峰々が切り立つようにそびえて見え、泰山上からは済水せいすいの流れと広大な河北平原の風景が眼下に見渡せる。

 奉高の屋敷を発って三日、新しい朝が間近に迫る中、孔明はついに泰山のいただき辿たどり着いた。山頂付近には〝天街てんがい〟と呼ばれる修行者や参拝者のための建物群が立ち並んでいる。老荘寺院の道観どうかん霊廟れいびょうなどがあるのだが、今はどれも黄巾賊たちによって占拠され、そこに数百もの黄巾の賊徒たちがひしめき合って軍営を連ねていた。

 それを見た孔明が黥面げいめんの男に尋ねる。

「どうして、泰山の頂にまで陣を張っているのですか?」

「泰山は俺たち太平道にとっても大事な場所なんだよ。この太平頂たいざんちょうを守るのは、俺たちにとって何より重要なことだ」

 張角がその教えを太平道と名付けたのは、泰平という意味だけでなく、泰山との結び付きを深く意識したからでもあった。〝太〟は〝泰〟と通じ、同義である。

 張角は泰山の頂を〝太平頂〟と呼んだ。そして、反乱を起こすに際して、兗州・青州方面軍に真っ先に泰山地方を確保させた。その残党軍が今もなおこの地を温床として活動しているのだ。

「何度も官軍の攻撃を退けてきた。最初は半信半疑だったが、こうしてここを確保できているのも、本当にあのお宝のお陰かもな」

 黥面の男が真顔になって、仲間に同意を求めた。

「ここの者たちにも山を下らせるとして、あの男の処遇はどうする? 滕小方とうしょうほうは何も言っていなかったが」

「一人残しても仕方ねぇし、一緒に連れて行こう。この童子ガキの言葉一つを当てにするのは心もとない。俺たちの身の保障と引き換えにお宝を献上するのがいいかもしれん」

「そうだな。それがいい。名門・袁氏えんしに連なる男らしいからな。連れて行って損はねぇだろう」

「どなたですか?」

「お前は知らなくていい」

 黥面の男は孔明の問いを一蹴いっしゅうした。どうやらそれは彼らにとっての極秘事項らしい。孔明もそれ以上、その話に執着することはなく、目的のものを探し求めた。

 伝説であろうと神話であろうと、今は信じて探すしかない。が、大分明るくなってきたとはいえ、まだ日の出前である。暁闇ぎょうあんが辺りの景色を包み隠す中、伝説上の秘宝が簡単に見つかるはずもなかった。焦りが募り、父の容体が気になった。麓に目をやる。泰山の東麓に奉高の城邑じょうゆうがある。城邑の向こうの稜線からようやく姿を現した朝日がゆっくりと大地に注がれて、闇に覆われた風景を少しずつあらわにしていく。

 光が影を作り出し、風景を際立たせていく。奉高のそばを流れる汶水ぶんすい水面みなもが朝日に照らし出されて、キラキラときらめいて見えた。それは息を呑むほど美しい光景だった。こんな美しい日に父はくのか――――。

 孔明は思わずかぶりを振って、自分の愚かな考えを打ち消した。そうさせないために来たのだから。

 孔明はふと朝日に照らされ姿を現した石碑せきひに目をやった。それは始皇帝が建立こんりゅうさせたと伝わる無字碑である。その名の通り、何も文字が刻まれていない。何のためだろうか?

「おい、もう親父おやじの延命を祈願したのか?」

 焦燥感を帯びた声がして、孔明が振り返った。見ると、黥面の男が片手に後ろ手に縛られた男を連れていて、もう片手に銅爵どうしゃくを持っていた。

「いえ、まだ……」

「さっさと済ませろ。すぐに山を下るぞ。官軍が攻め寄せて来やがった」

「えっ?」

 それを証明するかのように、山頂に陣取る黄巾軍が慌ただしく動き、まだ朝日の十分届かない北麓ほくろくの谷間、薄闇の中に無数の篝火かがりびが浮かんでいるのが見えた。

『北側からということは、応太守の軍じゃないな……』

 孔明は冷静に状況を見極めていた。自分のために兄が応劭に救助を願い出たという予測はつかなかった孔明だったが、ふと、初志を置き去りにしてしまっている自分に気付いて、慌てて地面にひざまずくと、

「……つつしんで泰山府君に願いたてまつります。我が父が今しばらく命を長らえますように、どうか玉策ぎょくさくをお書き換えください」

 叩頭こうとうして泰山の神・泰山府君に父の延命を祈願した。

 孝行息子のそれを見た黥面の男は内心感心しながらも、うそぶくように言った。

「ふん、そんな伝説……。大賢良師がご健在なら、その延命も叶えられただろうがな……」

 張角は符水ふすい治療であらゆる病気を治療できたといわれ、太平道の教祖となる前は、〝大医たいい〟と称して人々の関心を集めた。陰気を浄化するという呪文を書いた札を聖水に浸して水にその効能を与え、その水を患者に飲ませるという方術である。

 ところが、張角自身が死病を得てしまう。自らの符水術も効果を表さず、張角がとった延命の最後の手段が伝説の金篋きんい玉策を探し出して、その命数を書き換えることであった。しかし、それは叶わず、張角はやまいに没した。結局、金篋も玉策も依然として伝説のままであった。以降も泰山に盤拠ばんきょした黄巾賊であったが、もうそんな伝説を真に受けて、金篋玉策を探し求めることはなかった。が、今――――。

 孔明の願いに天がこたえたのか。泰山の天候が急変し、霧が立ち込め始めた。

 それは風に流され、太陽に向かうようにがけの向こうに細長く伸びて、空中にを描いた。そして、それは不思議なことにそのまま形を留め、朝日を受けて白く輝いて見えた。飛梁ひりょう。宙に架かるかすみの橋。さらに形容するならば、

白虹はくこう日をつらぬく。まさか……」

 その現象を見た人質の男、袁秘えんひが目を見開いて茫然と呟く。

 白虹貫日はくこうかんじつ――――真心が天に通じた時に起きる吉兆とされ、また一方で、兵乱が起こり、危機が迫る凶兆だともいう。

 さすがにそんな意味までは知らない孔明は、ただ陽光に溶け込む白虹の先を凝視ぎょうししていた。伝説の現象の先に伝説のものがある。孔明はそれを垣間かいま見たのだ。

 何も文字を刻んでいなかったはずの無字碑の表面に〝太陰開闢たいいんかいびゃく〟の四字が浮かび上がった。あの向こう側に命の帳簿、玉策はある――――。

 無意識のうちにそれを確信した孔明は石碑の変化にも気付かず、崖の先へと歩いていく。

「おい、どこへ行く?」

 それを黥面の男が見咎みとがめて言った。彼らにとって、孔明は無事に降伏を叶えるための切り札なのだ。死んでもらっては困る。

 が、それにも構わず、孔明は恐れる様子もなく崖の端から霞の橋に足をかけようとした。

「おいっ!」

 黥面の男が叫んで警告したが、さらに立ち込めた霧が山頂を覆って、孔明のその後を包み隠した。悲鳴は聞こえなかった。が、自ら悲鳴を上げることになった。

「うわ、動いた?」

 黥面の男が持っていた銅爵に彫刻されていた龍が命を吹き込まれたかのように動き出して、柄の表面をぐるぐると回ったのだ。それに驚いて、男はその霊宝れいほう青龍爵せいりゅうしゃくを思わず放り出してしまった。青龍爵が霧の中に消え、その下の地面に落ちるかすかな音がした。その拍子ひょうしに青白い霊気が弾けて発散した。細く伸びた霊気は霧の中を泳ぐようにして、一瞬で孔明の足下に達し、うつろな霞の橋を踏みしめようとした孔明に確かな大地の感触を与えた。宙に架かる霞の橋に孔明が立つ。

 常識では計れない異世界へ足を踏み入れたのだ。孔明はこの現象を分析することも忘れて足を踏み出すと、そのまま橋を渡って、瞳に映る異世界の入口をくぐった。


 仙界は俗世ぞくせを離れた秘境であり、あの世とこの世の境界に存在する。不老不死を得た仙人の住まう所である。故に、常人は見ることができず、立ち入ることもできない。しかし、どういうわけかそこに足を踏み入れた孔明は視界不良の辺りを見回しながら、

『……ここを仙界というのだろうか?』

 と、そんな感想を独り思う。霊気が立ち込め、一切の音が遮断された世界。黄巾賊が擾乱じょうらんにふためく声も聞こえない。足下は岩で覆われており、泰山の様子と変わらない。ひんやりと漂う霊気を払いのけながら進むと、目的のものはすぐに見つかった。不老不死の霊獣である龍が彫刻された岩の台座の上にまばゆく光り輝く黄金の箱。金篋。孔明は迷わずそれを開けた。その中にあったのは霞の巻き物、玉策。

 孔明は念願の玉策が消えてなくならないようにそっと手に取って台座の上に広げた。勢いで巻き物のしんが台座から音もなく転がり落ちて、霞を散らしながら、延々と広がっていく。生まれ来る全ての人の命数を記した果てしなく続く命の帳簿。無数の名がそこには記されているのである。孔明は端から順に目で追って、父の名を探してみたが、容易に見つかるはずもなかった。それでも、気の遠くなる作業にもかかわらず、孔明はあきらめずにひたすら父の名を探す。

 出身地と名前の下に数字が書き込まれている。命数だろう。それが際限なく羅列されている。すでに孔明は台座を離れ、永遠に広がる巻き物に沿うように数十歩移動していた。その時、視線の脇で大きく霊気が弾けた。怪訝けげんに思った孔明がその下の名を確認する。

 ――――東萊牟平劉岱公山四十二。

 初めて知っている人物の名を見つけた。確か隣の兗州を治める清流刺史だ。

 その先でまた霊気が弾けた。孔明がまた確認に急ぐ。

 ――――隴西ろうせい臨洮りんとう董卓仲潁ちゅうえい六十一。

 それは誰もが知っている悪名だった。皇帝を傀儡化して専横をふるう現代の奸雄。

 確か董卓は父よりも一回り上の世代だと聞いた。董卓の年齢は知らないが、その命が長くないことを示すものだ。奸雄の最期も近い――――孔明がそう思った時だった。その意思を咎めるように弾けた霊気が寄り集まって、黒い大きな塊を形作った。

 それはさらに大きくなったかと思うと、とぐろを巻いた龍へと変化した。龍が頭をもたげ、口を開いて咆哮ほうこうを上げる。黒い龍が発したすさまじい霊気の勢いを受け、孔明の細い体は枝葉のように吹き飛ばされた。次の瞬間、再び泰山の気を帯びた龍が孔明の体にまとわり付き、その体を包むようにした。それは異世界から弾き出されて泰山の崖下に落ちていこうとする孔明をふわりととどめ、風となって泰山の上へと運んだ。

 そして、龍気はクッションとなって、泰山の大地と孔明の体の間に集まると、すっとほどけて消えた。

 孔明はちょうど山頂に戻ってきた滕豊とうほうの前にうつ伏せに倒れ込んだ。泥が跳ねて、孔明の顔を汚す。それを見た滕豊が、

「おい、大丈夫か?」

 うめく孔明を抱え起こしながら聞いた。滕豊の後ろには大勢の黄巾賊が従っている。

 彼らは一様に天を見上げ、不安そうな声を漏らす。急速に発達した暗雲が天を覆おうとしているのだ。異世界から溢れ出した霊気が黒くにじんで上昇し、暗雲のもととなっていた。黒く分厚い雲が朝日をさえぎり、泰山を暗く覆って、闇夜に戻す。ガラガラと天を割るような雷鳴が聞こえたかと思うと、激しい雷雨が始まった。暗闇を切り裂いてまばゆ稲光いなびかりが走り、泰山の頂に集まった黄巾賊を雷撃が襲う。

 とどろく雷鳴。上がる悲鳴。黄巾賊の擾乱じょうらんぶりに拍車がかかる。

「すぐに山を下りるぞ!」

 滕豊が賊徒たちを先導して下山を促す。そこに黥面の男がやってきて報告した。

「滕小方、袁家の人質が消えやがった!」

「構うな。今我等に必要なのは、この少年の方だ!」

 再び雲間から光がほとばしり、耳をつんざく雷鳴が続いた。孔明も黄巾の賊徒たちも思わず耳を塞いで身を伏せた。雷鳴が終わるのを待って、顔だけを上げて辺りを確認しようとした孔明だったが、その視界は白く閉ざされていた。

 白い眩惑げんわくの世界。目がくらんで、一時的に視力が奪われたのだ。何も映さない孔明の瞳にふと影が走った。千切れた暗雲のようなそれが細長く伸びた巨体をうねらせる。

 あの黒い龍だ。自分を追って異世界から出て来たのか。

 しかし、その黒い龍は現実世界で生きることはできない。もだえるように回転しながら、泰山の麓に落下するようにして、孔明の白い視界から消えた。

 直後、視力を取り戻した孔明の瞳は焦点を結ぶことなく、顔は青ざめていた。

 落雷に畏怖いふした。黒い龍に恐怖した。だが、放心する真の理由――――伝説の金篋玉策を見つけながら、父の命数を書き換えることはできなかった。父を助けられたかもしれない千載一遇せんざいいちぐうのチャンスを逃したことに、孔明の心は酷く動揺した。

「ここにいては命がない。さぁ、行くぞ」

 落胆し、茫然自失でいつくばる孔明を再び滕豊が抱え起こす。孔明は力なくも走り出さざるを得なかった。涙が溢れる。それは雨といっしょになって、孔明の頬を伝った。雨に打たれながら走っているうちに、独りでに冷静な思考が戻ってきた。

 これはただの嵐ではない。おそれ多くも、天命を書き換えようと試みた自分の行いは天の怒りを買ったのだろうか。父の命は――――。


 滕豊に率いられた黄巾賊二百余名が泰山太守・応劭に降伏を願い出て、それが受け入れられた。それに伴い、孔明も無事に帰還して兄を安堵させた。

 諸葛瑾は孔明の気持ちを知って叱ることはせず、諸葛珪の意識が戻ったことを知らせた。

「え、父が……!」

 孔明は雨に濡れ、泥に汚れた服を着替えると、父の病床へ急いだ。父・諸葛珪は依然としてベッドの上だったが、上半身を起こせるまでに回復していた。

「父上……」

 父が助からないと失意に沈んでいた孔明はその姿に心底安堵あんどして、感嘆で言葉を詰まらせた。そんな息子を迎えた諸葛珪はくぼんだ目を細めて孔明を見た。

「……亮か。死を直前にひかえた者は……不思議な体験をする……」

 諸葛珪は目を閉じながら、長い息をついた。そして、時々咳せき込みながらも、夢幻の世界での体験を語り始めた。現実と似て非なる世界を旅したこと。青い龍に遭遇し、襲われたこと。その龍に呑み込まれ、体外に排出されて感じたこと――――。

「……どうやら四十九日の余命を得たらしい」

 最後にそう告白した。おとぎ話のように聞こえるが、元々生真面目きまじめな性格の父だ。

 自分自身も不可思議な体験をした。死の淵から生還した父の言葉は孔明には真実にしか聞こえなかった。


 四十九日という月日は短いながらも、諸葛家に意義ある一家団結の時をもたらした。孔明にとっては叔父にあたる諸葛玄しょかつげんが兄の死に目に間に合った。

 諸葛玄はあざな胤誼いんぎという。諸葛玄が地方の勤務先から昼夜兼行で奉高に辿り着いた時、諸葛珪は体を支えられながらも歩けるまでになっていた。

「兄上、お加減は?」

「体を動かせる上に口もきける。これ以上望むものはない」

 諸葛珪は息子たちに介助されながら応接間の上座かみざにつくと、弟に混乱する天下の情勢を問うた。

「……襄陽じょうようはどんな具合だ?」

 諸葛玄は荊州けいしゅうの襄陽というところに勤めていた。奉高からは直線距離でも千五百里(約六百キロメートル)以上も離れている。

 二年前、洛陽が戦禍にすたれ、董卓は長安遷都を強行した。洛陽の住人を強制的に連行し、都勤めをしていた役人らも長安へ向かわざるを得なかった。諸葛玄もその中にいた。しかし、董卓の政権下でまともな政権運営が行われるはずがない。諸葛玄は長安入りしてからしばらくして、長安を脱出した。政府の要人たちは逃げ出さないように董卓による監視下に置かれていたが、下級官吏に対して、そのまでの厳しいマークはない。

 諸葛玄は長安を脱すると、荊州へ向かい、旧知の蒯越かいえつを頼った。蒯家には孔明の一番上の姉が嫁いでいて、諸葛家とは姻戚関係にあったのだ。

 蒯越は荊州牧の劉表りゅうひょうに仕えており、彼の口利きで諸葛玄も劉表の下で働くことになった。襄陽は奉高や故郷の陽都よりずっと長安に近いため、天下の情勢を知るのにも都合が良かったし、劉表の方も長安の様子を知る諸葛玄を重宝ちょうほうしたのだ。

「難民の流入が止まりませんが、劉荊州が人民の慰撫いぶに努めており、安定しております。劉荊州の清名と中原の戦禍が及んでいないせいもあって、今のところ平穏そのものです」

「そうか……」

 それを聞いた諸葛珪が目を閉じたまま呟いた。劉表はあざな景升けいしょうといい、兗州えんしゅう山陽さんよう高平こうへい出身の清流派官僚である。

 諸葛珪は吹き荒れる戦乱の嵐を避けるため、疎開そかいを考えていた。疎開するといっても、誰かの支配地に移るわけだから、必然的にその地の風土や情勢、当地の実力者を吟味ぎんみする話になる。疎開先として最適なところはどこなのか。誰が安寧をもたらしてくれるのか。それを議論する家族会議だ。

「清名があるに越したことはないが、今は乱世だ。戦に強くなければ民を苦難から守ることはできない。いくら清名があっても、戦が下手な者のもとにながき安寧は求められない」

 父のそれは兗州刺史の劉岱のことを言った発言であることを、孔明は察した。

 劉岱は黄巾賊をあなどって、あえなく戦死してしまった。つい先日入ってきた情報である。劉表は文人であり、武人ではない。襄陽の北の南陽郡には袁術えんじゅつという野心家が居座っている。この年の初め、袁術は配下の孫堅そんけんに襄陽を攻撃させたばかりだ。

 孫堅は勇猛で、戦にけ、襄陽を攻略する寸前まで攻め込んだものの、流れ矢に当たって不慮の戦死をげた。劉表は運良く襄陽を保ったに過ぎない。

「ああ、大事なことを言い忘れていました。董卓が死んだそうです」

 諸葛玄が最新かつ重大ニュースを告げた。奉高にはまだその一報は届いていない。

「何? ……確かなのか?」

 その知らせに諸葛珪が窪んだ目を見開いた。諸葛玄は深く頷いて、

呂布りょふが董卓を裏切って、長安の宮城で天誅を加えたそうです。長安から荊州に逃げて来た者たちが多数おりまして、口々にそう言っています」

「おお!」

 諸葛珪がひざを打って歓喜した。それには黙って話を聞いていた孔明もハッとした。

 劉岱といい、董卓といい、玉策に記されたことが現実となっている。霊気が弾けたようなあれは、命の終わりを意味するものだったのだ。

「それは何よりの吉報きっぽうだ。それで陛下へいかはどうなさっている?」

 諸葛珪は少しだけ上気じょうきした様子で弟に尋ねた。

「未だ長安におられます。董卓よりはましでしょうが、李傕りかく郭汜かくしが呂布を破り、兵権を握って陛下を監視下に置いているそうです」

「何と……」

 諸葛珪は嘆息するのと合わせて、肩を下ろした。

「どれもこれも豺狼さいろうだ」

 諸葛珪は吐き捨てるように感情を露わにした。呂布も、李傕と郭汜も、董卓配下の荒くれ武将である。けものたぐいで、人の道というものを知らない。長安は再び乱れるだろう。

「しかし、李傕と郭汜が相手なら、関東の諸将が再び結集すれば、破るのは容易たやすいのではありませんか?」

 息子の意見に父は首を振った。

「かつて諸将が団結したのは董卓の力が強大で脅威を感じたからだ。李傕と郭汜では何の脅威にもならない。すでに朝廷の権威は失墜しっついし、各地で群雄が割拠して争っている。この状況では、二度と諸将が結集することはあるまい。仮に、群雄の誰かが西を征して陛下をお救いしたとしても、それが第二の董卓にならないとも限らない」

 死を間近に控えているからであろうか、一家の長として家族の行く末を案じる諸葛珪の洞察は鋭かった。

「この度董卓が死んだのはまさに寝耳に水であった。強大を誇った権力者や清名を馳せた実力者があっさりといなくなる。逆もあり得る。今はまだ名も知られていない人物が突如として頭角を表すかもしれない。この先、事態がどう推移するか、それらをよく観察して、誰が滅び、誰が生き残るかを見極め、身の振り方を決めなければならない」

 長男は父の遺言を頭に刻みつけるように聞き、兄亡き後の家長となる弟は戦乱の時代を生き抜く知恵に頷く。まだ十二の孔明はこの家族会議に父の介助として顔を出しているだけで、ただ黙ってそれを聞いていた。

「私が生きているうちにそれを見極めることはできない。今後のことは全て胤誼に任せる。それと、私の死後のことだが、薄葬はくそうにせよ。は一年でよい。節約に努め、今後のことに備えるのだ……」

 そう言い残し、孔明の父・諸葛珪が亡くなったのは、息を吹き返してからきっちり四十九日後のことだった。

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