其之十二 歓びと哀しみと
襄陽の発展は
地元豪族の協力を得て荊州の支配を固める一方で、朝廷から派遣されてきた
それらの功績が認められ、劉表は昨年、朝廷から
こうして劉表は名実共に群雄中でも一、二を争う有力者となり、荊州の支配体制をさらに強固なものにしていった。
その中心である襄陽は地理的に中原から近いこともあって、戦乱を逃れて来た難民が次々に押し寄せて、人口も急速に増加中である。ところが、襄陽はすでにパンク状態で、漢水を隔てて対岸に位置する
劉表は有力豪族たちを優遇することで彼らの支援を取り付け、難民に食糧を配布し、その
一方で、それらマンパワーを管理・駆使して、地方都市の一つに過ぎなかった襄陽を政治・経済・軍事・文化・学問の中心都市へと作り変えていった。
諸葛家一行が襄陽に辿り着いたのは、劉表の威光が
「叔父上、ついに着きましたよ」
舟が船着き場に接岸し、孔明は襄陽の城門を目視して、後ろに座る諸葛玄に告げた。諸葛玄はいくらか体調を回復させており、安堵と苦悩が入り混じったような表情で何度か小刻みに頷いた。
江南を目指したはずの疎開の旅は予期せぬ運命のいたずらと時代の荒波に
長途南下して、西へと方角を転じ、今度は大きく北上した。諸葛玄はこの襄陽を最終目的地と定め、この苦難の旅路とその人生にピリオドを打つつもりだった。
「これで兄に対して、何とか
諸葛玄はまた一つ、小さく安堵の息を漏らした。
叔父と姉らを
繁栄を極める襄陽は確かにこの疎開の旅路で見てきたどの城邑よりもにぎわっていた。単に人が多いというだけでなく、皆が平和を享受して、一様に表情が明るい。
『叔父上は劉荊州を大層評価していたけど、これを見ると、確かに良い領主なのだろうと思える……』
孔明が大通り沿いに歩いていると、書物を抱えた青年たちがぞろぞろと同じ方向へ歩いていくのが目に入った。中には孔明とそう年が変わらないだろう少年たちもいて、孔明は興味をそそられた。彼らに付いて城門を出ると、見事な
「君、入らないのかい?」
振り返ると、ぼんやりとした目でこちらを見つめる青年が突っ立っていた。
「興味はあるのですが、ここの学生ではないので……」
この時代、学習の機会は豪族や名士の子弟に限られた。諸葛家は襄陽きっての有力豪族である蒯氏と姻戚関係があるので、その
「遠慮はいらない。ただ談笑するだけの者もいる」
そう言って、その青年はぷらぷらと中へ入って行った。見学だけなら、構わないということだろうか。余り賢そうには見えなかったが、彼もここの学生のようだ。
孔明は彼の言葉に誘われて、天下の奇才たちが集う荊州学府へ足を踏み入れた。
襄陽城外一里のところに位置する荊州学府も劉表が設立した教育機関である。
学校と研究所を併せたような学術所で、主に荊州に避難してきた一流の知識人たちを教授に迎え、学生を集めて日々知識の
洛陽廃都と長安遷都という二つの大事件の最中に焼失・
『春秋』は五経の内の一つであり、『春秋左氏伝』は
この講堂で行われているのは、いわゆる古文学クラスだ。教授は宋忠である。
風采の上がらない青年はその講堂の前を素通りした。服の
隣の講堂も通り過ぎる。そこは書道クラスで、
青年は回廊をぐるりと曲がって、その先の小さな竹林に囲まれた
「お、
「いったい、誰だい?」
学友の問いに士元と呼ばれた青年は首を振った。
「ははっ。知らない奴を連れてくるとは、やっぱり士元は変わってるなぁ」
「初めまして。諸葛孔明と申します」
この時、孔明は初めて
「……諸葛? やっぱり聞いたことがないな。
「いや」
「
その二人も首を振った。彼らは皆、孔明より年長である。それぞれ字を持っていて、字で呼び合っている。
「徐州瑯琊の出身です。昨日、襄陽に着いたばかりです」
「ああ、外地組か。じゃ、俺たちの仲間だな。ここにいるのは士元以外、みんな荊州の外から遊学で来た連中だ。……俺は
「潁川の石広元」
「汝南の孟公威」
この二人は徐庶と比べると、純然たる学士風だ。頭巾を付け、衣装も質素だ。
潁川も汝南も予州である。そして、一番の年長者で、徐庶に「西河殿」と呼ばれた人物が
「
「この方は以前、西河太守を務められたお方だ。俺たちとは格が違う」
「よせ、元直。昔の話だ。今は無官の身。学友として、そなたたちと対等の立場にある」
ただし、当時の皇帝が始めた売官制度を利用して官職を買ったために周囲の
「そう謙遜されますな、西河殿。あまつさえ太守を務めた方と肩を並べて学べるだけで、我々は鼻が高いのですから」
徐庶の言葉に石韜も孟建もしきりに頷いた。崔州平が年齢も経験も彼らの中では一段上であるのは事実だ。皆が彼を字でなく「西河」と呼ぶのは、その敬意が込められている。徐庶は最後に孔明を連れて来た青年の肩に手を置いて、
「……そして、これは襄陽の
紹介を受けた
人が集まるということはそれだけ情報も集まるということだ。彼らはそれぞれ聞き知った情報を照らし合わせて、世の情勢を語り、時代の推移を談義した。
彼らはまず、襄陽の北、南陽郡に駐屯する
建安元(一九六)年、
建安二(一九七)年春、曹操が南陽郡に侵攻すると、張繍は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。ところが、
これは孔明が長沙へ着くか着かないかの頃の出来事だ。
「曹操が張済の未亡人に手を出したことが
「全く、バカなことをする」
崔州平の仕入れてきた情報に徐庶が吐き捨てるように言った。
「まぁ、とにかくこれで曹操が再び攻めてくることはしばらくないと思いたい」
「いや、息子を殺した相手をいつまでも放っておくだろうか? 曹操は父親が殺された時、徐州に攻め込んで大
その徐庶の言葉に反応し、孔明の脳裏に刻まれた地獄の光景がフラッシュバックした。
「どうした?」
青ざめた表情で目を
「いえ……」
孔明はまた頭をフル回転させることで、この窮地を脱しようとした。だが、思考が
「それは劉荊州も分かっているさ。張繍とまた手を組んだそうだ。彼を荊州の防壁にするつもりだろう。食糧の援助も惜しまずやっている。聞けば、張繍の側には相当頭の切れる軍師が付いているそうだぞ。
「おお、そいつは興味深い」
徐庶が自分が目指すところにいるその男に関心を示した。
「さすが西河殿の情報力には
石韜が素直に情報通の崔州平を持ち上げた。
「私の場合、大概の家から客として迎え入れてもらえるから、いろいろと話が聞ける」
「やっぱり、名前ですかぁ」
「実力が伴っていなければ、いくら名があっても空虚なものとなる。少しでも実力を身に付け、名を高められるよう励めよ、諸君」
崔州平は年長者らしく、経験をふまえて堂々と言った。孟建が更なる情報を求める。
「他には何かございますか?」
「袁術が天子になった話は?」
「ああ、それは聞きました。愚かなことをしたものです。自ら名家の
建安二(一九七)年を迎え、袁術の野望が爆発した。帝位を
揚州をほぼ席巻し、強大な力を手に入れた袁術にもはや野心を隠す必要はなかった。手に入れた州土を〝
これは漢の衰退が顕著な証拠だった。これを期に滅びゆく漢を見捨て、新たな王朝に迎合しようとする者が出て来ても、不思議ではない。
孔明はこの袁術の暴挙の一因に霊宝・青龍爵の存在があるのを理解していた。
だから、
「北には曹操、南には孫策。すぐに滅ぼされるでしょう」
という、孟建の予想に対して、直ちに同意はできなかった。
本物の皇帝は昨年七月、旧都・洛陽へ辿り着いた後、翌八月に曹操が自身の拠点である
曹操は漢帝を擁立して、群雄の中で立場的には一歩抜きん出たことになる。
「他には?」
「揚州のことだが……
「えっ?」
孔明が驚いて声を上げた。思わず聞き返す。
「それは本当ですか?」
「ああ。江夏から報告があったようだ。南昌の笮融を攻め破った直後、世を去ったそうだ。後任は
また言葉を失った。これで叔父の役目ははっきりと無駄になった。いや、曹操のことがあるし、最初から無駄だったのだ。叔父を荊州への使者とするように劉揚州へ提案したのは自分だ。何も知らず、無駄だと知らず、無理をさせて……。
諸葛玄は蒯家で劉表の訪問を受ける予定だった。今頃、劉表と会見しているだろう。予章でのことを思い出すと、再び自己嫌悪が孔明を襲った。
劉繇は最期に意地を見せたようだ。笮融を破り、南昌を奪還した。そこで力尽きた。
「――――最期は明るく別れたい」
不思議と、また許劭の言葉が
「随分顔色が悪い。仲景先生に診てもらうのがいい」
孔明の様子を見て、また龐統が呟いた。石韜が思い出したように言った。
「ああ、そう言えば、仲景先生が戻られていましたね。噂では、この学府で医学を教えられるとか」
「今、みえているのか?」
「
「士元、早く言えよ、それ! すごい三人じゃないか!」
「
「すぐ行こう!」
夢の会談を想像して、興奮した石韜と孟建が徐庶を振り返った。徐庶も頷く。
彼らは龐統の従父の
「君も来い。ついでに診てもらおう」
孔明が張仲景のことを言い出すその前に、若者たちは荊州学府を飛び出していった。
隠士の龐徳公は
襄陽の南方、
「仲景先生にもお話があったようですが、私にも荊州学府で教えてほしいと要請がありました」
「ほう。ま、お前さんなら、それに足る十分な知識は持っておろう」
「いえ。君子危うきに近寄らず、です。龐公先生のお心もそうなのではないですか?」
「さすが水鏡は全てをお見通しだな」
ようやく畑の手入れを一段落させた龐徳公が司馬徽の方を振り返った。
龐徳公は幾度となく劉表の招きを受けたが、それを全て断ってきた。そして、劉表を避けるように、襄陽城内に一度も入ったことがなかった。しかし、今度は荊州学府で教授してほしいという要請があった。司馬徽にもその誘いがあったようだ。
「いえ、私だけではありません。分かる人には分かるようです。承彦先生も恐らく声をかけられたと思いますが、腰を上げないのは同様にお思いだからでしょう」
「今は娘さんの看病で、それどころではあるまい」
「劉荊州はその娘さんのために、わざわざ仲景先生を長沙から呼び戻したそうですね」
そこに突如、少々息をあげた弟子たちが押し掛けてきた。龐統が徳公に聞く。
「従父上、仲景先生はどちらですか?」
「もう帰ったよ」
「あぁ、遅かった……」
言って、孟建は天を仰ぎ、石韜ががっくりとうなだれた。
「ついさっきまで、そこにおったんだが……」
学生たちの徒労など知る由もなく、龐徳公は仲景の腰かけていた竹椅子を見ながら答え、その上に渡したはずのものが残っているのを認めて言った。
「ありゃ。仲景殿、肝心の薬を忘れていきおったわい」
「諸葛孔明と申します。仲景先生のことは存じていますので、私が届けます」
孔明が言って、その役目を買って出た。龐徳公はその見知らぬ少年にそれを託した。
「では、頼むよ。
「はい、畏まりました」
張仲景が黄承彦の娘の治療のために長沙を離れたことは知っている。
孔明は一礼して、その薬草が入った袋を手に取ると、龐徳公邸を後にした。
「諸葛……。もしかすると、今のが仲景先生が言っていた少年では?」
司馬徽が張仲景との話の中に出てきた少年ではないかと疑った。
それはまさしくその通りで、司馬徽・龐徳公・張仲景の話題の中心となっていたのは、
「ほほぉ、そうか。類は友を呼ぶものだな。士元の友達か?」
そんな従父の問いに答えず、龐統は首を
来た道を引き返す。峴山から襄陽の城邑へは一本道だ。そこから襄陽へは一本道だ。孔明は襄陽へ引き返す途中で、ばったり張仲景と再会した。
「おお、済まない。これを取りに戻ろうと思っていたところだ」
孔明から薬草の袋を手渡されて、張仲景はそれを
「龐公殿のところへ行ってきたのか?」
「はい」
「そうか。そのうち紹介しようと思っていたのだが、手間が省けた。龐公殿はああ見えても、襄陽では有名な知識人だ。薬の知識もあることだし、いろいろ学びたいのなら、知り合っておいて損はない人物だ」
「そうですか」
「……ところで、叔父上の様子はどうだね? あれから、もう
「はい。以前のように動くことは叶いませんが、痛みもなく、落ちついています。先生のお陰で無事に襄陽へ着くこともできました」
張仲景は諸葛玄の治療を兼ねて、長沙を出発してしばらく諸葛家に同行した。
そして、諸葛玄の容体が安定したのを機に孔明一行と別れ、一人襄陽の黄家へ急行したのだった。
「それは何よりだった。薬が足りなくなったら、龐公殿のところへもらいに行きなさい。もう話をしてある。顔を覚えてもらうにもいい機会だ」
「分かりました。何から何までありがとうございます」
「そのついでにだが、今日のように黄家のところの薬も受け取って、毎回届けてもらえるとありがたいのだが。弟子たちは長沙に残してきてしまった」
「はい。もちろん、構いません」
孔明はそれを
叔父の死後、一家の長としてどのようにすべきか――――それが孔明の目下の悩みで、答えらしきものも見つけられていない。
全ての答えは本の中にあるわけではない――――そう叔父に言われた。予期しないことも起こる。間違うこともある。だが、叔父は迷いながらも、何とか自分たちをこの襄陽まで無事に連れてきてくれた。自分はどのように行動し、どこに家族を導けばいいのだろう。不安は尽きないが、賢人たちとの出会いの中にヒントを得ることができるかもしれない。
「助かる。では、付いてきなさい。黄家へ案内しよう」
そして、張仲景に伴われ、孔明は黄家へ向かった。運命に導かれるように。
孔明の行動は一つの
「それはめでたい。龐家は昔から評判が高かった。受けても良いのではないか?」
諸葛玄は衰弱していく体を
婚姻によって、家と家が結びつくのが結婚である。そして、家と家の繋がりの重要性は
「叔父上も喜んでくれているし、私は別にいいわよ。一度見ただけだけど、もの静かで悪い人じゃなさそうだし……」
龐徳公の息子は
玲にはそれ以上に気にかかっていることがあって、
「それに、いくら
そんな心配もした。今、諸葛一家が世話になっているのは蒯越の屋敷であり、瑛の夫の
「蒯家と龐家の後ろ盾があれば、荊州で働くことは難しくない。お前が将来のことをどう考えているかは知らないが、いざという時に頼れる力を持っておけば、安心もできよう」
「確かにそうですね」
孔明は少し考え込んだ。これは単なる婚儀というわけではなく、衰退する諸葛家の浮沈に関わる大事だ。しかし、姉にもう二度と流浪の苦労を経験させたくない。
ただ安寧に暮らせることを結婚の条件とするなら、劉表には仕えずも名声を保っている龐家は嫁ぎ先として最適なのかもしれない。
「決めるのは家長のお前だ、孔明」
叔父は孔明を
「わかりました。姉上には龐家に嫁いでいただきましょう」
「ええ」
玲は孔明の決定に従った。この賢弟はこれからもっと成長して、その才能を輝かすに違いない。その時、諸葛家も再隆するだろう。玲は孔明の将来が楽しみで仕方なかった。
「婚儀は急ぎましょう。姉上の晴れ姿を叔父上にも見ていただきたいですからね。私から龐公先生にその
孔明のその決定に諸葛玄はにこやかに微笑んだ。この甥なら、万事任せて問題はない。我が子のようにその成長を喜ぶ諸葛玄の目にはうっすらと涙が
慌ただしい婚礼であった。長姉の瑛は妹が
そして、自ら玲の髪を
「はい、できたわよ」
「姉さん、ちょっと派手じゃないかしら?」
「いいのよ、何も気にしなくて。一生に一度のことなんだし、瑯琊の諸葛家はれっきとした名族なんだから、これくらいは当然」
瑛の時は上流階級同士の豪華な婚礼がとり行われたが、玲が行う婚礼は〝
儒教の決まりでは、家族に不幸があった時は、喪中の婚儀や就官など慶事は避けなければならない。しかし、それによって年頃の女性が何年も結婚できない事態が生じてしまう。そこで、拝時を行うことで、後に喪が生じたとしても、喪前の仮祝言を有効とみなし、結婚生活を認めるというものである。
つまり、玲の場合、今拝時を行うことで、叔父の死去前に龐家側の人間となり、喪を避けることができるわけである。
「さぁ、終わったわ。玲の門出、家族みんなで祝いましょう」
飾り付けを終えた瑛が言って、叔父と阿参、そして、孔明が待つ蒯家の門前へ妹を
「どうですか、叔父上?」
玲が顔を隠す絹のベールを引き上げて、叔父に聞いた。
「美しいぞ、玲……」
諸葛玄は嬉しさに言葉を詰まらせ、
「本当にきれいですよ、姉上」
孔明は姉の
「おめでとうございます、姉上」
阿参が無邪気に言って喜んだ。玲は恥ずかしそうに微笑んで、阿参の頭を
「さぁ、叔父上も見届けてください」
「もちろんだとも……」
諸葛玄は孔明の介助を受け、瑛と阿参といっしょにもう一台の馬車に乗り込んだ。御者は徐庶が買って出てくれた。孔明が
叔父の諸葛玄が永眠したのはそれから四日後のことだった。
孔明は家長として、葬儀を取り持った。玲が三日間を新郎の家で過ごす儀式を終え、一時的に蒯家の屋敷に戻ってきていた。瑛と玲の手助けもあって、つつがなく葬儀を終えることができた。
荊州牧の劉表をはじめ、蒯越、張仲景、龐徳公など参列者はなかなか豪華で、それは叔父の人脈と諸葛家の姻戚関係の大きさを物語っていた。しかし、生前に叔父から薄葬にするように命じられていたため、諸葛玄の墓は襄陽の郊外に盛り土をして、墓碑を立てただけのものにした。副葬品も最低限のものに止めた。
墓前に
「悲しいのに、何だか穏やかな気持ち……」
「心の準備をするのに十分な時間があったからでしょう。父上の時もそうでした……」
「そう……」
父を失ってから、この数年は叔父の存在が父のようであった。その叔父もいなくなった。
「あまり泣かないのも不孝かしら?」
「いえ、叔父上もそれは望まれないでしょう。姉上には幸せな新婚生活を送ってほしいと願っているはずです」
死者の冥福を祈って香が
「それに、きっと霊魂が生きる世界があるのだと思います。今頃、叔父上は父や母、祖先の方々と再会しているのではないでしょうか?」
「そうかもね。確かにこんなものがあるのも、みんながそう信じているからよね」
玲は香の火を移して
〝冥銭〟とは、あの世で使用するお金のことである。死者があの世での生活に困らないように願う気持ちから生まれた風習で、ちょうど漢魏の頃から始まった。
「
孔明は『
「そうね。そう信じましょう。……ところで、これからどうするつもり? 瑛姉さんのところに行くつもりはないの?」
「阿参が嫌がっていますし、学問に打ち込むには襄陽を離れないほうがいいですから」
長姉の瑛が嫁いだのはまだ阿参が生まれる前のことで、瑛と阿参はこれが初対面だった。年が離れた姉弟だし、阿参の方が遠慮気味で、すぐに
「承彦先生に
孔明は叔父の喪に服すつもりだ。近親者の死なので、服喪期間は一年となる。
「大丈夫なの?」
「ええ、心配しないでください。私も阿参も
まだ徐州の惨劇の記憶が
「昔から落ち着いた子だったけど、それ以上落ち着くつもりなの?」
玲があきれるように言った。
「学を深めるということですよ。何かあれば、その時は龐家を頼りますから」
孔明はそう言って、玲を安心させた。
「わかったわ。じゃ、私、戻るわね」
「ええ、お気を付けて」
姉が去って静かになった墓前。一人でしばらく時を過ごした孔明は心の中で叔父に感謝を告げると、羽扇をゆっくりと振った。それは「さようなら」と代弁するように揺れて、あたかも故人と少年だった過去の自分に
「さてと……」
孔明は叔父の眠る墓に背を向けると、空を仰いで未来を見据えた。涙が乾いた後の龍の瞳に映った空は
建安二(一九七)年、夏。龍の少年の物語はここで終わり、龍の青年の物語がここから始まる――――。
完
三国夢幻演義 龍の少年 光月ユリシ @ulysse
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