其之三 疎開の旅 

 父のひつぎを守って、孔明らは瑯琊ろうや陽都ようとに帰郷した。陽都には母と姉が待っていて、物言わぬ夫、故人となった父の姿に涙した。

 儒教モラルのもとでは、豪華な葬儀は孝行の一つだとされたが、言われた通り、質素な葬儀にして費用をはぶいた。

 親の死に際しては、服喪ふくも三年、実質二十五カ月が通例である。が、これも遺言ゆいごん通り、一年に止めた。喪が明けたのは、初平しょへい四(一九三)年の六月である。

 この一年の間にも天下の情勢は変化していた。一番大きな変化といえば、袁術えんじゅつ淮南わいなんに移ったことだろう。

 この年の四月、袁術は軍勢を北上させて袁紹えんしょうを討とうとした。袁術と袁紹は兄弟であるが、仲が悪かった。袁紹がめかけの子であるにもかかわらず、袁家本家の家督を継いだからである。袁術は年こそ紹よりも下であったが、正室の子であった。

 袁氏は後漢の名門で、この当時、もっとも影響力がある一族だった。つまり、この名門を継ぐ方が実質的に天下を動かす中心人物になると見られていたわけである。二人のもとに人が集まり、取り巻きができて、派閥はばつが形成されるのは自然の流れだった。彼らにとっても、この後継バトルの行方ゆくえに人生の浮沈ふちんがかかってくる。 それぞれ主人を後押しし、二人の争いを加熱させた。やがて、どちらも郡守ぐんしゅの座に収まり、兵力をようするようになった。今や乱世だ。家督継承を諦めきれない袁術の胸に、彼の取り巻きたちにも、袁紹を討って、力ずくで後継者の座を勝ち取ろうという野心がふくらんだ。こうして、一つの家の兄弟喧嘩げんかが州郡を巻きこむ戦争へと発展した。

 袁術は北方の公孫瓉こうそんさんと同盟し、幷州の黒山賊という山賊集団や異民族の匈奴きょうどとも連携し、三方向から袁紹を挟み撃ちにしようと画策した。

 一方、袁紹は旧友で兗州牧えんしゅうぼくとなっていた曹操そうそうと結託し、これをはばもうと動いた。

 曹操は兗州へ侵入した袁術軍を急襲してこれを破った。出鼻をくじかれた上に執拗しつような追撃を受け、袁術は大打撃を受けて南へと敗走した。しかし、これで袁術の軍勢が潰滅したというわけではなく、袁術は揚州ようしゅう刺史ししを追い出して、淮水わいすい以南を新たな支配地とした。

「袁術が淮南にることになるとは、予想がつかなかったな」

 市場からの帰り道、安車あんしゃの座席に揺られながら、諸葛玄しょかつげんが独り言にように言ってうなった。

 安車は婦女子用の座席付き馬車だ。諸葛家には兄嫁・宋氏そうしが残されていた。彼女はきんや孔明の生母ではない。父の後妻、つまり、彼らにとっては継母ままははである。継母であろうと、生母と同じように孝行を尽くさなければならないのが儒教のしきたりだ。

 諸葛瑾は父の遺言を慇懃いんぎんに実践して、母親孝行に徹した。その孝行ぶりは地元の評判となるほどで、母や妹、おさない弟のために安車の修繕しゅうぜんを言い出したのも、実は瑾であった。このところ、諸葛瑾は常に母のことを考え、諸葛玄は天下の情勢のことを考えていた。諸葛玄の口から、また独り言がれる。

厄介やっかいな人物が近くにやってきたものだ……」

 野心的な袁術が領土拡張に走ることは想像できた。南陽を基地にして、再び襄陽じょうよう攻略をはかりつつ、袁氏の郷里である予州方面に勢力を広げるのではないか――――袁術に対する諸葛玄の予想はそんなところだった。曹操に敗れたことで袁術の力は大きくがれたものの、野心はついえてはいないはずだ。力をたくわえ、いずれまた他国を侵略するだろう。

「叔父上は袁術とも交際をしていましたね」

 叔父のつぶやきを聞いて、御者ぎょしゃを務める諸葛瑾が前を見据みすえながら聞いた。

「儀礼上のことだ。立場に頭を下げていたに過ぎない。個人的な付き合いは深くはない。驕慢きょうまんだし、あまり良い印象はないな。戦も不得手ふえてらしい」

 諸葛玄が下役人時代のことを思い出して言った。袁術はかつて瑯琊相ろうやそうを務めていたことがある。諸葛玄は今こそ無官であるが、一家をやしなうためには疎開先を治める実力者に出仕しなければならない。交友があったとはいえ、袁術に仕えるのは気が進まない。

「戦が上手なのは、やはり、曹操でしょうか?」

 それには諸葛玄もうなづいた。曹操には〝乱世の奸雄かんゆう〟という有名な評価があった。

 劉岱りゅうたい死後の兗州牧に収まった曹操は、先の青州黄巾賊こうきんぞくとの戦いに完勝して、その軍勢を手中に収めて勢力を増した。袁術軍を破ったのは、その力があったからこそである。

「だが、兗州は河北の袁紹と淮南の袁術、そして、この徐州じょしゅうに挟まれ、再び戦地となるのは間違いない。河北もしかり。安らげる場所ではない」

 諸葛玄は首を振って、河北と兗州を疎開先から除外した。疎開するのだから、戦地から遠く離れていなければ意味がない。戦禍が及ばない新天地――――。

「……となると、やはり江南こうなんでしょうか? 母上の地元がですし、りょう龍脈りゅうみゃく的に呉がよいと勧めていました」

「龍脈?」

「大地に走る大きな気脈きみゃくのことをいうそうです」

 孔明も父に言われたことを忠実に実践し、喪に服している間、ひたすら学問に打ち込んだ。もっぱら、昔の書物を読みあさり、内容を自分なりに咀嚼そしゃくしてみることだったが、弟子入りというわけではないものの、地元の賢者のもとを訪れて、その話に耳を澄ますようなこともしていた。

 その賢者というのが、葛玄かつげんあざな孝先こうせんという人物であった。

 名が諸葛玄とまぎらわしいので、人からは「烏有うゆう先生」という雅号がこうで呼ばれている。

 五経ごきょうにも精通していたが、儒教よりも老荘思想に傾倒こんとうするようになって、修行のために山にこもる日々がほとんどで、家にいることは滅多めったにないという一風いっぷう変わった人物であった。

「その考え方は孝先の影響だろうな」

 諸葛玄は老荘思想については軽視しているわけではないが、あまり興味を持っていない。が、老荘思想であろうと、おい貪欲どんよくに知識を増やそうとする姿勢には大いに賛成だった。そして、この一年の研鑽けんさんにより、孔明の知識はより豊かになり、深く精錬せいれんされ、儒学だけでなく老荘学にも見識を広げ、その聡明ぶりは飛躍的な成長を見せていた。

「確かに江南は開けていない分、争いの地にはなりにくい」

 諸葛玄が疎開先の候補として考えていたのも江南の地である。ただ具体的な場所までは決めかねていた。

 江南とはその字のごとく、江水こうすい(長江)の南側の地域を指すが、抽象的でその範囲は広い。具体的には、彭蠡沢ほうれいたく鄱陽湖はようこ)以東の地域を言う。中でも、江水の最下流域は〝江東こうとう〟と区別して呼ぶことがあった。

おおむね私も賛成です。昔から呉には中原ちゅうげんから多くの人たちが避難していますし、住むのに不便はないと思います。それに江東は海路で徐州とつながっていますから、平和になれば、すぐ瑯琊へ帰ることもできます」

「そうだな。徐州も不穏になってきた。仲秋ちゅうしゅうの頃までには動けるようにしておこう」

 董卓とうたくの乱以来、中原から多くの民衆が徐州に避難してきた。しかし、徐州の安寧も長くは持たないだろう。疎開の必要性をひしひしと感じていた諸葛玄は八月の吉日きちじつを選んで、瑯琊の地を離れることに決めた。


 誰しも進んで慣れ親しんだ土地を離れたくはない。瑯琊の諸葛氏もいくつかの家に分かれており、疎開を決めたのは孔明の一家だけであったが、諸葛家が疎開するといううわさを聞きつけて、三家が同行したいと申し出た。そのうちの一組、と言っても独りだが、それが葛氏の葛玄だった。

 諸葛氏と葛氏の間にはある言い伝えがあって、諸葛氏の祖先はもともと葛氏であったといい、陽都の北東二百五十里(約百キロメートル)のしょ県に住んでいた。

 ある時、陽都に移ることになったのだが、陽都にはすでに別の葛氏が暮らしていた。そこで区別をするために諸県から来た葛氏、〝諸葛〟と名乗り始めたというのである。瑯琊諸葛家は前漢の文帝の時代に諸葛豊しょかつほう司隷しれい校尉こうい(首都圏警備長官)となって以来、瑯琊地方の名族とされてきた。が、特別裕福というわけではなかった。

 この時代では、地方官僚の諸葛珪が一番の出世頭しゅっせがしらであって、その珪も亡くなり、中央政府の下役人を務めていた玄も辞職して帰ってきた。

 長旅になる。荷物は衣類などの必要最低限のものだけを携帯することにし、召使めしつかいの夫婦二人を一緒に伴うことにした。屋敷は親戚へ預けることにし、家財は売り払って路銀へ替えた。俸禄ほうろくで得ていた扶持米ふちまいの蓄えは少なかったが、それも親戚一同に分け与えた。

 ささやかな別離のうたげの後、諸葛玄は安車に兄嫁と孔明の姉弟していを乗せ、御者を瑾に任せた。荷駄にだを召使いの夫婦に任せ、自らは孔明と軺車ようしゃに乗り込んだ。そして、親戚一同に見送られる中、孔明たちは南へ向けて出発した。

「また会いましょうね!」

 母が亡くなった後、お世話になった親戚のおばさんの声が聞こえ、孔明は車上からその優しげな顔を振り返った。よく一緒に遊んだいとこも手を振って別れを惜しんでいる。頭では疎開の必要性をよく理解して、粛々しゅくしゅくと準備を手伝ってきた孔明であったが、いざこうして別れを前にすると、心に万感ばんかんの思いが込み上げてきて、身を乗り出さずにはいられなかった。親戚みんなの顔とこの素朴そぼくながらも穏やかな景色をずっと記憶にとどめておくことができたら――――感傷的になった孔明の目にうっすらと涙がにじんだ。

「さようなら!」

 孔明も手を振り返して別れを惜しんだ。心に言い聞かせる。何も永遠の別離ではない。

『きっと、また……すぐに……』

 軽く涙をぬぐって、孔明は彼らの姿が見えなくなるまで、そのせつなくも美しい光景をまぶたの裏に焼き付けた。


 陽都から沂水きすいを右手に見ながら、街道を南下する。この街道は徐州を南北につらぬきながら、徐州の主な城邑じょうゆう(都市)を結ぶ幹線道路だ。およそ百里(約四十キロメートル)行くと、泰山郡から流れてくる武水ぶすいと沂水が合流する。そこに瑯琊国の国都である開陽かいようがあった。

 各城邑で休息し、食糧を調達しながら移動する予定であった諸葛玄は開陽の城外に優に百輌ひゃくりょうを超える荷車にぐるまが溢れているのを見て、

「……いったい、何の騒ぎだ?」

 身を乗り出すようにして、それをうかがい見た。孔明もその車列の長さを目で追った。思わぬ渋滞にはまってしまい、諸葛玄と孔明は車を降りて、様子を見に出た。

 諸葛瑾も母と妹、弟を車に残して叔父に続いた。城門の付近にこの渋滞のぬしを見つけて、諸葛瑾が指差して言った。

「叔父上、あれは元の太尉たいい曹嵩そうすう様ではありませんか?」

 諸葛瑾が中央政府の下役人となっていた叔父を頼って、洛陽に遊学していた頃、官僚のトップの一人が太尉の曹嵩であった。

「確かにそうだ。なるほど。曹公の荷駄というのなら、頷ける」

 諸葛玄も視線の先に軒車けんしゃ(四頭立ての貴族用馬車)に乗り込む曹嵩を認めた。

 先の皇帝である霊帝れいていは商売好きで、宮中に金がないのを知るや、売官制度を始めた。その名の通り、官職を売ったのである。この制度によって、官僚に任命された者は官職に応じて金銭を納付しなければならなくなり、枯渇こかつしていた宮中の財布はみるみるうるおっていった。しかし、この制度の弊害へいがいは財力がなければ、いくら資質がふさわしくとも官職には就けないことにあった。清廉な者は倹約をむねとし、あまり蓄財をしないので、彼らには不利な政策である。逆に金さえあれば、資質が不相応ふそうおうな者でも高官に就けた。

 官僚のトップである太尉の売値うりねは一億銭で、たいへんな巨額である。当然、任命の沙汰さたを受けても、そのせいで辞退する者が相次いだ。困った皇帝は曹嵩にこの話を持ちかけた。曹嵩は特別ひいでた才能がない凡人ではあったが、先の大宦官だいかんがん曹騰そうとうの子として、金には困らなかった。曹嵩は気前よく一括いっかつ払いで官僚の最高職を買ったのだ。

 それだけの資産を誇る曹家であるから、このような乱世では、常にその財産を狙われる恐れがあった。予州はい国を故郷とする曹嵩はそれを察して、まだ本格的に戦火が及んでいない隣国徐州に難を避けていたのである。

 ともあれ、曹嵩の多過ぎる荷駄のせいで、諸葛家と他家の馬車・荷車は開陽城外で待機せざるを得なかった。しばらくって、千人ほどの兵隊たちが曹嵩の車列の前後について移動を始めた。どうやら開陽を出発するところらしく、泰山方面に向かうようだった。

 六月、徐州下邳かひ国で闕宣けっせんという男が皇帝を自称し、数千の衆を集めて反乱、略奪を繰り返した。これがなかなか鎮圧されず、勢いが増しているという。

 曹嵩もこれを不安に思ったのかもしれない。

「兗州に向かうのだろう」

 諸葛玄が曹嵩の疎開先を察して言った。凡人・曹嵩の嫡子ちゃくしこそ、乱世の奸雄・曹操なのだ。

「護衛軍のようですが、少な過ぎませんか?」

 孔明は勝手な心配をした。思い出すのは泰山で人質になった体験だ。あんなに荷物を満載した車列をぞろぞろと引き連れていたら、目立って仕方がない。泰山の山谷さんこくには黄巾賊の連中が隠れている。前年の戦で多くが兗州牧の曹操に降ったというが、それを拒否して徹底抗戦をとなえる過激派がまだ山中に盤拠ばんきょしている。当然、彼らの目にも止まるだろう。

「泰山郡も兗州だからな。そこまで迎えがやってきているのだろう。兗州は今や三十万の兵をようすというし、曹公も安心して余生を送れる」

 それは護衛もない、先行き不透明な諸葛家の未来とは余りにも対照的だ。

 曹嵩の軒車が諸葛一家とすれ違う。直接の面識はないが、諸葛玄はかつて官僚の最高位にあった曹嵩に拱手きょうしゅして、敬意を表した。曹嵩は同乗する貴婦人とじゃれあっていたが、それに気付いて軽く頷いた。

 孔明が見送るその視線の先で、どこからか飛んできた一羽のからすが曹嵩の軒車の屋根にとまって、何度も「ガァ!」と低く鳴いた。

「死の予兆だ」

 いつの間にか孔明の隣にたたずんでいた葛玄がぽつりと口にした。少年の孔明とあまり背丈せたけが変わらない。黒頭巾ずきんを被り、道士服に身を包んでいる。

烏有うゆう先生、どういうことですか?」

 孔明が葛玄を雅号で呼んで、尋ねた。〝烏有〟というのは、昔、前漢の司馬相如しばしょうじょの「子虚賦しきょふ」という賦(詩文の一種)の中に登場する架空の人物である。が、彼がこの雅号を名乗っているのは、実際に一羽の烏を飼っているからであった。

「烏は本能的に死の臭いを感じ取る。のお方の死が近いことを訴えているのだ」

「え?」

 遠ざかって行く曹嵩の軒車の屋根で、また烏が一鳴きし、それをうっとおしく思った曹嵩が護衛の将軍に追い払わせた。突き出された槍の穂先を難なくかわして飛び立った烏は、今度は近くの木の枝にとまると、また「ガァ」と鳴いた。


 諸葛玄は開陽に入ると、早速さっそく宿を手配し、兄嫁らを休ませた。瑾に彼女たちの世話を任せ、自らは孔明を連れて街に出た。情報を集めるためだ。開陽は瑯琊国の中心であるし、陽都よりも得られる情報量は多い。安全な疎開を実現するためにも、様々な情報を集め、場合によっては計画を修正していかなければならない。一家の命運を預かる身となった諸葛玄は慎重だった。

「随分とものものしい雰囲気ですね」

 孔明が叔父の隣を歩きながら、開陽の感想を述べた。城下の警備体制はかなり厳重で、城中には兵士の姿が多く見かけられた。陽都より警戒体制が厳しいのは当然だとして、常時泰山の黄巾賊に備える必要があった奉高よりも多い気がした。

「闕宣という賊を警戒してのことだろう。あとはここを治める為政者いせいしゃ性分しょうぶんもあるな」

 開陽を統治しているのは徐州牧・陶謙とうけんの部下で、臧覇ぞうはという軍人である。

 臧覇はあざな宣高せんこうという。泰山郡県の人で、陶謙に従って徐州の黄巾賊討伐に活躍した義賊上がりの人物である。荒っぽいが、男気おとこぎがあるとして、人々からの評判も良かった。

「どんな人物が為政者かによって、城邑まちの雰囲気も変わるものだ。それによって、安全なのか危険なのかも察することができる」

 叔父が言わんとするところを孔明はすぐに理解した。為政者の施策が城下に反映されて、それが人々を通して表れるということだろう。施策が民の望むものであれば、民の顔には笑顔が溢れ、望まないものであれば、不満が顔に出る。

 そう思って見ると、城下の人々の間に不安におびえる様子は見られず、疎開をしようという動きも見られなかった。

「では、頼れるお方ということでしょうか? 曹公に護衛兵を付けたのは、ここを統治している方の意思決定でしょう?」

きょうの精神に富む人物だと聞いている。金が動いたのも間違いないだろうが……」

 それを聞いた孔明は少し首をかしげながら、顔を曇らせた。

「私は侠というものがよく分かりません。韓子かんしは侠は武をもって禁をおかす、と言っています。一方で、司馬公しばこういわく、侠は時に義に外れることあるも、その言は必ず信、そのおこないは必ず果と……」

 いにしえの賢人である韓非かんぴは侠の精神を否定しているが、司馬遷しばせんは侠に理解を示している。侠とは度胸どきょうと勇気にものを言わせる武闘派独特の理論であって、それとはかけ離れた自分にはよく分からない――――まだ子供の孔明の考えはそんなところだった。

「本の中に全ての答えがあるのではない。答えが一つだけとも限らない。もっと人の心を見よ。法にのっとれば侠は悪となるも、情に根差せば侠は正義。人というものは道理だけで物事を判断し、動くわけではないのだ」

 諸葛玄には子がない。妻にも先立たれた。一家の大黒柱だいこくばしらとなった諸葛玄は孔明を我が子のように思って教えさとす。諸葛玄はこの聡明な息子に本の知識だけに頼らない、人の心を理解できる大人に育ってもらいたいと望んでいた。この避難行は孔明にとっては、天下の事情を知り、市井しせいの人々を見るよい機会なのだ。

 叔父にそう諭された孔明は宿への帰り道、注意深く城下の人々を観察した。

 心を見る。それは声を聞くことだ。気が付いたのは、城下には兵士以外にも壮年の男衆おとこしゅうが多いことだった。彼らの話に耳を澄ませていると、多くが樵夫きこり猟夫またぎ生業なりわいにしている人々だと分かった。彼らは普段、泰山系の山々に分け入って、そこでおのや弓などを使ってそれぞれの仕事に従事している。

「大将には世話になってるからな。いざって時は俺たちの力、貸してやらにゃあな」

「久しぶりに暴れるか、腕がなるな!」

「山の連中も一声かければ、すぐに集まってくる」

 その威勢のいい雰囲気はどことなく泰山の黄巾賊のものと似ている感じがした。

『元黄賊こうぞくという連中が多いのかもしれない。……そうか。彼らは鎧をまとっていない民兵だ。ここの大将のもとに結束しているのか』

 彼らの武闘派理論と向こう見ずな姿勢は相変わらず理解できない孔明だったが、侠の精神が大きな団結力となり得ることは分かった。

『黄巾の乱の背後にも侠の精神があったのかもしれない。社会的弱者が結束し、強者に対抗するための力を得る。それが宗教や侠の中にあるのか……』

 孔明は生まれて間もない頃に起きたという一大宗教反乱に想いをせた。

 彼らは飢民きみん流民るみんの集まりだったが、官軍の精鋭も手を焼く強さを見せたという。


 天候が不良であったため、孔明たちはさらに一日を開陽で過ごした。

 そして、滞在三日目の朝、驚くべき情報が飛び込んできた。曹嵩が殺された。

「何だと?」

 驚いたのは、臧覇である。曹嵩殺しの主犯は臧覇が護衛を任せた張闓ちょうがいという将軍だという。おびただしい財産を目の前にして欲に目がくらんだのだろう。

 報告では、泰山郡に入ってすぐ、華県で休んでいたところを襲ったらしい。泰山郡の太守は応劭おうしょうで、曹操の依頼を受けて、護衛兵を派遣していた。

張闓は護衛の任を応劭に引き継ぐ前に事を実行したのだ。

「あの奸賊かんぞくめっ!」

 臧覇が剣を抜いていきどおった。依頼を引き受けたからには必ず守るのが侠の精神である。それを踏みにじられた。加えて、華県は臧覇の郷里である。

 この事件は単なる強盗殺人では済まない。武侠集団のリーダーとして自分の信用が失墜するだけでなく、曹嵩殺害の首謀犯として容疑をかけられて、三十万の大軍を擁す曹操の恨みを買うことになる。

 臧覇はにわかに生死存亡の窮地きゅうちに立たされてしまったのだ。

「私がすぐに定陶ていとうおもむいて、事の次第を説明致します」

 運良く修羅場しゅらばを脱し、この急報を届けに帰ってきた卞秉べんへいという壮年の男が臧覇に進言した。袁術を破った曹操が兵を休めている場所が定陶だった。卞秉は曹操の情報に詳しい。

「頼む」

 臧覇は他に手がないといった感じで、目をつぶって唸るように答えた。

「持ちつ持たれつでございます。日頃お世話になっておりますし、ここは私らの故郷でもありますから」

 卞秉がそう理由を口にした。卞秉の本貫はここ瑯琊開陽で、姉が曹操の側室となっている。その縁故えんこを頼って、曹嵩は徐州に入ってからしばらく開陽に留まっていたのである。


 現場が近いだけあって、曹嵩殺害の報はすぐに開陽城下に広がった。

「すぐにとう。曹操が報復にやって来るかもしれない」

 諸葛玄がそう言って、皆に出発の支度したくをさせた。にわかに戦の暗雲が立ち込める状況に諸葛家の疎開に同行してきた一行の間で意見が割れた。二家がこれ以上進む方が危険だと訴えて、陽都に戻ると言い出した。葛玄だけは引き続き諸葛家に同行するという。闕宣の軍勢は予州に入った。鋭鋒えいほうは西へ向けられたわけだ。この機会にとりあえず徐州の州都である東海国たん県まで向かおうというのが諸葛玄の決定である。

「徐州殿はあまりせいがよろしくないと聞いております。郯に着いても長居しない方がよいかと思います」

 諸葛瑾が叔父に忠言し、それには諸葛玄も同意するように頷いた。

 徐州牧は陶謙、あざな恭祖きょうそという。もう六十を過ぎ、人生の最晩年を迎えている人物であるが、子供時代から〝不羈ふき〟との評価があって、老年になってもそれは矯正きょうせいされていない。不羈とは、自由気ままに行動して、束縛を受けないことをいう。

 王朝は衰退し、年齢的にも立場的にも、自分より上の者が少なくなったことが陶謙の抑制を効かなくさせる要因となった。自分は一州のあるじだ。やりたいようにやる。

 そこに利己的な性格も合わさって、陶謙はこの度の闕宣の反乱にあたっても、討伐するどころか、同調するような動きを見せ、周りの不信感をあおった。それとほぼ同じタイミングで起こった曹嵩殺害……。

 実は裏で陶謙が手を回したのではないか――――人によっては、そう邪推じゃすいしてしまう。陶謙は二袁の抗争において、袁術と手を組んで、曹操をおびやかした。

 陶謙と曹操は直接的ではないが、敵対していたのである。

 諸葛玄は甥の忠告に同意して言った。

「分かっている。陶徐州は言動が合致しない人物だ。曹操も徐州が命じて殺させたと思うだろう」

『そんな人が一州を治めているのか……』

 叔父の口ぶりで、孔明は叔父が陶謙を嫌っているのが分かった。

 陶謙は地元の名士を幕下ばくか招聘しょうへいしながらも、一方で彼らの規矩準縄きくじゅんじょうとした進言をけむたがった。規律を守り、身をつつしみ、君子たるべき立派な行いをしなければならない――――束縛を嫌がる陶謙にはおもしろいわけがない。そこで陶謙がとったのは、彼らを太守や県令として地方に出向しゅっこうさせることであった。そうすれば、名士を冷遇したことにはならないのと同時に、その地方に自分の息がかかった者を送りこめる。

 まさに一石二鳥の方法だった。

広陵こうりょう郡まで下れば、ひとまず安心でしょう。江東もすぐです」

 甥の言葉に諸葛玄も頷く。広陵郡は徐州の最南で、太守は陶謙が出向させた名士・趙昱ちょういくという人物が務めていた。

 趙昱はあざな元達げんたつという。非常な孝行者として有名で、おのれを清くして学を好み、悪を憎み、耳はよこしまを聞かず、目はみだりに視ず――――という典型的な清流派官僚である。趙昱も瑯琊の出身で、同国きょ県の県長となって良政を敷き、黄巾賊の蜂起に対しても、いち早く兵を集めて城を防衛して民を守り、国の模範と称された。莒県は陽都から近く、彼の評判は陽都で過ごしていた孔明少年も耳にした。

 清廉で良識があり、優れた行政手腕がある。賊から城を守り抜いた実績もある。

 そんな趙昱をしたって、多くの民衆が広陵に集まってきていた。


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