其之三 疎開の旅
父の
儒教モラルのもとでは、豪華な葬儀は孝行の一つだとされたが、言われた通り、質素な葬儀にして費用を
親の死に際しては、
この一年の間にも天下の情勢は変化していた。一番大きな変化といえば、
この年の四月、袁術は軍勢を北上させて
袁氏は後漢の名門で、この当時、もっとも影響力がある一族だった。つまり、この名門を継ぐ方が実質的に天下を動かす中心人物になると見られていたわけである。二人のもとに人が集まり、取り巻きができて、
袁術は北方の
一方、袁紹は旧友で
曹操は兗州へ侵入した袁術軍を急襲してこれを破った。出鼻を
「袁術が淮南に
市場からの帰り道、
安車は婦女子用の座席付き馬車だ。諸葛家には兄嫁・
諸葛瑾は父の遺言を
「
野心的な袁術が領土拡張に走ることは想像できた。南陽を基地にして、再び
「叔父上は袁術とも交際をしていましたね」
叔父の
「儀礼上のことだ。立場に頭を下げていたに過ぎない。個人的な付き合いは深くはない。
諸葛玄が下役人時代のことを思い出して言った。袁術はかつて
「戦が上手なのは、やはり、曹操でしょうか?」
それには諸葛玄も
「だが、兗州は河北の袁紹と淮南の袁術、そして、この
諸葛玄は首を振って、河北と兗州を疎開先から除外した。疎開するのだから、戦地から遠く離れていなければ意味がない。戦禍が及ばない新天地――――。
「……となると、やはり
「龍脈?」
「大地に走る大きな
孔明も父に言われたことを忠実に実践し、喪に服している間、ひたすら学問に打ち込んだ。もっぱら、昔の書物を読み
その賢者というのが、
名が諸葛玄と
「その考え方は孝先の影響だろうな」
諸葛玄は老荘思想については軽視しているわけではないが、あまり興味を持っていない。が、老荘思想であろうと、
「確かに江南は開けていない分、争いの地にはなりにくい」
諸葛玄が疎開先の候補として考えていたのも江南の地である。ただ具体的な場所までは決めかねていた。
江南とはその字のごとく、
「
「そうだな。徐州も不穏になってきた。
誰しも進んで慣れ親しんだ土地を離れたくはない。瑯琊の諸葛氏もいくつかの家に分かれており、疎開を決めたのは孔明の一家だけであったが、諸葛家が疎開するという
諸葛氏と葛氏の間にはある言い伝えがあって、諸葛氏の祖先はもともと葛氏であったといい、陽都の北東二百五十里(約百キロメートル)の
ある時、陽都に移ることになったのだが、陽都にはすでに別の葛氏が暮らしていた。そこで区別をするために諸県から来た葛氏、〝諸葛〟と名乗り始めたというのである。瑯琊諸葛家は前漢の文帝の時代に
この時代では、地方官僚の諸葛珪が一番の
長旅になる。荷物は衣類などの必要最低限のものだけを携帯することにし、
ささやかな別離の
「また会いましょうね!」
母が亡くなった後、お世話になった親戚のおばさんの声が聞こえ、孔明は車上からその優しげな顔を振り返った。よく一緒に遊んだいとこも手を振って別れを惜しんでいる。頭では疎開の必要性をよく理解して、
「さようなら!」
孔明も手を振り返して別れを惜しんだ。心に言い聞かせる。何も永遠の別離ではない。
『きっと、また……すぐに……』
軽く涙を
陽都から
各城邑で休息し、食糧を調達しながら移動する予定であった諸葛玄は開陽の城外に優に
「……いったい、何の騒ぎだ?」
身を乗り出すようにして、それを
諸葛瑾も母と妹、弟を車に残して叔父に続いた。城門の付近にこの渋滞の
「叔父上、あれは元の
諸葛瑾が中央政府の下役人となっていた叔父を頼って、洛陽に遊学していた頃、官僚のトップの一人が太尉の曹嵩であった。
「確かにそうだ。なるほど。曹公の荷駄というのなら、頷ける」
諸葛玄も視線の先に
先の皇帝である
官僚のトップである太尉の
それだけの資産を誇る曹家であるから、このような乱世では、常にその財産を狙われる恐れがあった。予州
ともあれ、曹嵩の多過ぎる荷駄のせいで、諸葛家と他家の馬車・荷車は開陽城外で待機せざるを得なかった。しばらく
六月、徐州
曹嵩もこれを不安に思ったのかもしれない。
「兗州に向かうのだろう」
諸葛玄が曹嵩の疎開先を察して言った。凡人・曹嵩の
「護衛軍のようですが、少な過ぎませんか?」
孔明は勝手な心配をした。思い出すのは泰山で人質になった体験だ。あんなに荷物を満載した車列をぞろぞろと引き連れていたら、目立って仕方がない。泰山の
「泰山郡も兗州だからな。そこまで迎えがやってきているのだろう。兗州は今や三十万の兵を
それは護衛もない、先行き不透明な諸葛家の未来とは余りにも対照的だ。
曹嵩の軒車が諸葛一家とすれ違う。直接の面識はないが、諸葛玄はかつて官僚の最高位にあった曹嵩に
孔明が見送るその視線の先で、どこからか飛んできた一羽の
「死の予兆だ」
いつの間にか孔明の隣に
「
孔明が葛玄を雅号で呼んで、尋ねた。〝烏有〟というのは、昔、前漢の
「烏は本能的に死の臭いを感じ取る。
「え?」
遠ざかって行く曹嵩の軒車の屋根で、また烏が一鳴きし、それをうっとおしく思った曹嵩が護衛の将軍に追い払わせた。突き出された槍の穂先を難なくかわして飛び立った烏は、今度は近くの木の枝にとまると、また「ガァ」と鳴いた。
諸葛玄は開陽に入ると、
「随分とものものしい雰囲気ですね」
孔明が叔父の隣を歩きながら、開陽の感想を述べた。城下の警備体制はかなり厳重で、城中には兵士の姿が多く見かけられた。陽都より警戒体制が厳しいのは当然だとして、常時泰山の黄巾賊に備える必要があった奉高よりも多い気がした。
「闕宣という賊を警戒してのことだろう。あとはここを治める
開陽を統治しているのは徐州牧・
臧覇は
「どんな人物が為政者かによって、
叔父が言わんとするところを孔明はすぐに理解した。為政者の施策が城下に反映されて、それが人々を通して表れるということだろう。施策が民の望むものであれば、民の顔には笑顔が溢れ、望まないものであれば、不満が顔に出る。
そう思って見ると、城下の人々の間に不安に
「では、頼れるお方ということでしょうか? 曹公に護衛兵を付けたのは、ここを統治している方の意思決定でしょう?」
「
それを聞いた孔明は少し首を
「私は侠というものがよく分かりません。
「本の中に全ての答えがあるのではない。答えが一つだけとも限らない。もっと人の心を見よ。法に
諸葛玄には子がない。妻にも先立たれた。一家の
叔父にそう諭された孔明は宿への帰り道、注意深く城下の人々を観察した。
心を見る。それは声を聞くことだ。気が付いたのは、城下には兵士以外にも壮年の
「大将には世話になってるからな。いざって時は俺たちの力、貸してやらにゃあな」
「久しぶりに暴れるか、腕がなるな!」
「山の連中も一声かければ、すぐに集まってくる」
その威勢のいい雰囲気はどことなく泰山の黄巾賊のものと似ている感じがした。
『元
彼らの武闘派理論と向こう見ずな姿勢は相変わらず理解できない孔明だったが、侠の精神が大きな団結力となり得ることは分かった。
『黄巾の乱の背後にも侠の精神があったのかもしれない。社会的弱者が結束し、強者に対抗するための力を得る。それが宗教や侠の中にあるのか……』
孔明は生まれて間もない頃に起きたという一大宗教反乱に想いを
彼らは
天候が不良であったため、孔明たちはさらに一日を開陽で過ごした。
そして、滞在三日目の朝、驚くべき情報が飛び込んできた。曹嵩が殺された。
「何だと?」
驚いたのは、臧覇である。曹嵩殺しの主犯は臧覇が護衛を任せた
報告では、泰山郡に入ってすぐ、華県で休んでいたところを襲ったらしい。泰山郡の太守は
張闓は護衛の任を応劭に引き継ぐ前に事を実行したのだ。
「あの
臧覇が剣を抜いて
この事件は単なる強盗殺人では済まない。武侠集団のリーダーとして自分の信用が失墜するだけでなく、曹嵩殺害の首謀犯として容疑をかけられて、三十万の大軍を擁す曹操の恨みを買うことになる。
臧覇は
「私がすぐに
運良く
「頼む」
臧覇は他に手がないといった感じで、目を
「持ちつ持たれつでございます。日頃お世話になっておりますし、ここは私らの故郷でもありますから」
卞秉がそう理由を口にした。卞秉の本貫はここ瑯琊開陽で、姉が曹操の側室となっている。その
現場が近いだけあって、曹嵩殺害の報はすぐに開陽城下に広がった。
「すぐに
諸葛玄がそう言って、皆に出発の
「徐州殿はあまり
諸葛瑾が叔父に忠言し、それには諸葛玄も同意するように頷いた。
徐州牧は陶謙、
王朝は衰退し、年齢的にも立場的にも、自分より上の者が少なくなったことが陶謙の抑制を効かなくさせる要因となった。自分は一州の
そこに利己的な性格も合わさって、陶謙はこの度の闕宣の反乱にあたっても、討伐するどころか、同調するような動きを見せ、周りの不信感を
実は裏で陶謙が手を回したのではないか――――人によっては、そう
陶謙と曹操は直接的ではないが、敵対していたのである。
諸葛玄は甥の忠告に同意して言った。
「分かっている。陶徐州は言動が合致しない人物だ。曹操も徐州が命じて殺させたと思うだろう」
『そんな人が一州を治めているのか……』
叔父の口ぶりで、孔明は叔父が陶謙を嫌っているのが分かった。
陶謙は地元の名士を
まさに一石二鳥の方法だった。
「
甥の言葉に諸葛玄も頷く。広陵郡は徐州の最南で、太守は陶謙が出向させた名士・
趙昱は
清廉で良識があり、優れた行政手腕がある。賊から城を守り抜いた実績もある。
そんな趙昱を
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