第2話 彼女の黒魔法と鳥籠の中の魔獣

 菅原研究室に配属になって2週間が過ぎた。


 その間、僕は引っ越しや編入に関する手続きをしたり、研究を開始するにあたって必要な講習を受けたりと忙しく過ごしていた。


 菅原研究室は、もともと宮廷大学の一つだった古都大学のシステム魔法研究科に属しており、正式名称を融合魔法システム学講座という。システム魔法研究科は数年前に設立されたばかりの、学部を傘下に持たない大学院だ。ここでは白黒青緑橙といった様々な魔法のバックグラウンドを持つ人間が集まり、従来の魔法研究の垣根を越えた野心的な研究が行われている(ということになっている)。菅原研においても、20人程度のメンバーの中に北条さんのような黒魔法に精通した大学院生がいる一方で、准教授は臨床白魔道士の免許持ちだったりする。”先生”が僕に菅原研を推薦してくれた理由もそれだった。


 その日、僕は朝からスタッフルームの一角に与えられた自分のデスクで研究のための申請書類を作成していた。昼下がりになり、一息つこうと椅子の上で体を伸ばしたちょうどそのときだった。


「渡辺くん」


 突然、名前を呼ばれた。振り返るとそこには北条さんが立っていた。


「あ、北条さん。久しぶり」


 北条さんは昨日まで海外の学会に出席しており、顔をあわせるのは10日ぶりだった。彼女は今日も清潔そうな白いブラウスに膝下まであるスカートを穿き、首元には先日とは違う種類のかわいらしいリボンタイをつけていた。


「調子はどう? もう研究室のメンバーとは馴染めた?」


「んーと……、それが……」


 僕が口ごもっていると、北条さんは大きく一つため息をついた。


「まぁ、この部屋のメンバーは自由すぎるから」


 そうだ。それが今現在、僕が抱えている悩みの一つだった。


 本来、このスタッフルームは7人部屋で、僕と北条さん以外に5人のメンバーがいる。しかし、最初のミーティングで顔をあわせた後の2週間、僕はその5人の誰にもスタッフルームで会うことがなかった(ただし、この2週間は僕自身も用事で席を外すことが頻繁にあったのだが)。


「助教の今出川さんはずっとフィールドワークに行ってるし、D3の烏丸さんは超夜型、D2の大宮さんは実験室に篭りっきりで、修士の2人も授業と実験でスタッフルームに顔を出さない、って感じね」


 北条さんは腕を組みながら、そう独りごちる。


 菅原研のスタッフルームは3つに分かれている。1つは菅原教授とは独立したプロジェクトを持つ准教授とその下で働く研究員と院生の部屋、もう1つは菅原教授が現在進めている大型プロジェクトのために雇用された研究員達の部屋、そして最後が菅原教授の直接指導の下に個別のプロジェクトを進める僕たちの部屋だった。別の部屋のメンバーとはミーティングで顔をあわせることはあるものの、部屋自体が離れていることもあって普段の交流はほとんどなかった。


 北条さんはしばらく腕を組んだまま指を顎に当ててなにかを考えていたようだったが、ふいに顔を上げると僕に向かってこう言った。


「渡辺くん、明日空いてる?」


「へ?」


 僕は突然の質問にどきっとした。明日は土曜で大学は休みだ。僕自身は特に用事もなかったので、新しく越してきた街を散策しようかなどとぼんやり考えていたが、彼女の申し出というのはひょっとすると親睦を深める的な意味でいわゆるデ


「明日、共同研究先で実験をすることになってるんだけど、もしよかったら見学にくる?」


 ぐるぐると考えを巡らせている僕をよそに、彼女は冷静にそう続けた。


「あ……、はい。えーっと、はい! 行きます! でも、いいの?」


「たぶん大丈夫。共同研究先の先生はそういうの気にしない人だから。それにせっかく新しい環境に移ったのに毎日パソコンとにらめっこじゃ、つまらないでしょ」


 そう言うと、彼女は僕のデスクのPCに目を向けながら、いたずらっぽく笑った。


「じゃあ、明日の朝9時にここに集合ね。構内の外れにある防爆実験施設まで行かないといけないから」


「……ありがとう」


 自分のデスクに戻ろうとする彼女の背中に僕は声をかけた。


「あなたのことは、菅原教授に頼まれちゃったからね」


 彼女は振り返ることなく、そう返事をした。



 *************


 翌日、僕が約束の時間の5分前に研究室に行くと、北条さんはすでにデスクに座って僕を待っていた。


 僕の姿を確認すると彼女は少し大きめのトートバッグを手に取り、「じゃあ行きましょう」と言って椅子から立ち上がった。


 防爆実験施設までの道を、彼女は左肩にトートバッグをかけ右手に日傘を持って、早足で歩いて行く。僕は彼女の斜め少し後ろを歩いた。彼女の長い髪は陽の光の下でほのかに紫色の光を発しているように見えた。


 道すがら、僕は今日の実験の内容について質問してみた。しかし、彼女は「とりあえず見てもらった方が早いから」と言ってなにも教えてはくれなかった。僕は歩きながら彼女の研究内容について考えていた。


 彼女が黒魔法、それも高位の攻性黒魔法適正を持っているのは明らかだ。初めて彼女に会った時に彼女が使った魔法は攻性黒魔法のエキスパートでなければ発動すらできない代物だった。普通の魔法研究ならばほとんど縁がない防爆実験施設を使用するというのも、攻性黒魔法の研究であれば納得がいく。そうすると彼女の研究はやはり軍事目的に関係したものなのだろうか。実際、黒魔法は軍と密接な関わりがあり、黒魔法学部を卒業した人間のほとんどがなんらかの形で軍と関わりのある職に就く。それが嫌ならば、魔法とはまったく関係のない仕事に就くしかないと言われているくらいだ。


 櫻国は以前の大戦から長い間、直接的に戦争に参加したことはないが、近年の周辺国の政情不安から軍のプレゼンスは高まっており、実際に軍関係の研究予算も年々増加している。国防の観点から攻性黒魔法の研究が重要であることは頭ではわかっているものの、その一方で、僕は彼女のあの細い指が人を殺す魔法を研究していることを想像したくはなかった。


 研究室のある建物から10分ほど歩いていくと無骨な外観の小さな建物が現れた。防爆実験施設だ。建物の前には、Tシャツとジーンズに白衣を羽織り、白髪交じりの髪を後ろでひっつめた50代くらいの女性が立っていた。女性は僕たちのことを見つけるとにこやかに笑いながら手を振ってきた。


「ほむらちゃん、おはよう!」


「おはようございます。椛島先生」、北条さんが笑顔で返事をする。


「せっかくの休日にごめんね。今日じゃないと防爆の予約が取れなくて。あ、そっちが見学者の渡辺くん? ほむらちゃんから話は聞いてるよ」


 そう言うと、椛島先生は僕の方にも笑顔を向けた。


「渡辺くん、こちらは材料魔法学科の椛島先生。魔法具作成のエキスパートで私の共同研究者よ」、北条さんが僕に椛島先生を紹介する。


「やめてよぉ。魔法適正なくてこんなことぐらいしかできないんだから」


 椛島先生は豪快に笑いながら防爆実験施設の鍵を開けた。


 防爆実験施設の入り口をくぐるとまず奥行きのない前室が現れた。建物自体はかなり昔に作られたものらしく壁など老朽化が進んでいるようだったが、目の前にある魔法障壁室シェルターに繋がる大きめの扉は錆一つなく輝いており、メンテナンスはしっかりとなされているようだった。


「じゃあ、渡辺くんはそっちの見学室の方に入って待っててくれる? 私達は実験の準備をするから」


 椛島先生はそう言うと大きめの扉の隣にある小さな扉を指差した。


 見学室は人一人が通れるくらいの細長い部屋で、一方の側面には大きなガラス窓がしつけられていた。そのガラス窓を通して魔法障壁室の中の様子を見ることができた。


 魔法障壁室は小さめの教室一つ分くらいの大きさで一面を銀色の魔法障壁で覆われていた。学内にはいくつか防爆実験施設が存在しており、大きいものでは体育館ほどの大きさがあるらしいが、この防爆実験施設はかなり小さめのものなのだろう。


 しばらくすると北条さんと椛島先生が白いつなぎの魔防衣を着て魔法障壁室に入ってきた。2人は部屋の中央に置かれた机の上になにかの装置を設置しさらに周囲の床に無造作に置かれた別の装置と配線し始めた。やがて配線が終わると椛島先生は魔法障壁室から出て、部屋には北条さん1人が残った。


 北条さんは机の前に立ってじっと目を閉じ、精神を集中させているようだった。机の中央には金色に輝く針金を格子状にきれいに編んだ鳥籠のようなものが置かれ、その中には実験用魔獣ラットが入れられていた。魔獣はおそらく麻酔がかけられているのだろう、浅く呼吸をしているようだったが四肢を伸ばして動こうとはしなかった。


「おまたせ」


 椛島先生は見学室の方に入ってくると備え付けのマイクのスイッチを入れ、「始めていいよ」と北条さんに向かって指示を出した。


 それを聞いた北条さんは右手を鳥籠の方に向けると何かを詠唱し始めた。しかし、見学室からでは彼女が何を詠唱しているのか聞くことはできなかった。やがて、彼女の手が紫色の光で光りだした。そして鳥籠も彼女の手と共鳴するかのように紫色の光を発し始めた。


「いいぞ……」、椛島先生が呟く。


 紫色の光は数分で消え、今度は彼女の手から赤い光が溢れ出した。


(あれは……、爆炎系の攻性黒魔法の光!?)


 僕はぎょっとした。あの光は忘れもしない彼女と初めて会ったときに僕が見せられたものに近いものだった。


 しかし、あのときと違って彼女の掌から炎が溢れ出すことはなかった。代わりに彼女の手から発する赤い光が鳥籠の金属に流れこみ、鳥籠全体がまばゆい赤い光を発していた。僕はその美しい光景に思わず見惚れてしまっていた。


 そのとき、無表情で詠唱を続けていた彼女の顔が一瞬、苦しそうに歪んだ。


 それとともに、それまで眠っていた鳥籠の中の魔獣の目がかっと見開かれた。ラットはガクガクと震え始め、やがてその体のあちこちに火膨れのようなものが出来始めた。火膨れはどんどん増えていき、もはや魔獣の体は原型を留めないほどに膨らんでいた。


「失敗かぁ」、椛島先生が無念そうに言った。


 北条さんが早口でなにかを詠唱すると、赤い光は消え、代わりに彼女の掌から漆黒のが流れ出した。そのが一瞬、魔獣に触れると魔獣は元の姿に戻り、そしてそのまま息を引き取ったように見えた。


(即死魔法? あんなものまで使えるのか)


 おそらく北条さんが使ったのは小動物を安楽死させる目的の即死魔法だ。それがそのまま人間に適用できるわけではないが、普通の黒魔道士ではまず扱うことのできない危険な種類の魔法であることには違いない。


「お疲れ様。データをストレージに移すからもう少し待ってくれる?」


 椛島先生はマイク越しにそう言うと、忙しそうに見学室を出ていった。


 実験が終わった後も北条さんはしばらく魔獣の遺体を眺めていた。僕はそんな彼女の様子をただ眺めていた。そのとき、彼女の唇が小さく動いた。僕にはそれが彼女が「ごめんね」と呟いたように思われた。


 前室で待っていると、更衣室から北条さんと椛島先生が出てきた。北条さんの顔は青白く魔力の使用で憔悴しているようだった。


 防爆実験施設から出ると、椛島先生は北条さんに「またデータの解析が終わったら送るから」と言い残して僕たちと別れた。僕は北条さんにもう一度、今日の実験について聞こうとした。


「ごめん。ちょっと疲れた。もし良かったら昼食でも食べながら話さない?」


 北条さんは弱々しく言った。その額には彼女には珍しくじんわりと汗が滲んでいた。


 土曜の昼過ぎで学食がすでに閉まっていたため、僕たちは大学構内から出てすぐ近くの喫茶店に入った。席につくと、彼女はトマトソースのパスタセットを頼み、僕はシーフードドリアのセットを頼んだ。


 注文した料理を食べ終え、食後のコーヒーが運ばれてくる頃には彼女の体力はだいぶ回復したようだった。そこで僕はそれとなく今日の実験について話を振ってみた。彼女はティースプーンでミルクをかき混ぜながらゆっくりと話し始めた。


「今日使った実験用魔獣だけど、あれ、肺ガンのモデル魔獣なの。それもかなり転移が進行した後の」


「え?」


「そして、椛島先生が作ったあの金色のケージは、魔力の集約点の座標と魔力のスケールをマイクロメートル単位で制御するためのグリッド、まぁ定規みたいなものね。要は、あれを介することで普段、私たちが使ってる魔法をマイクロメートルスケールの世界で使うことができるってこと。まるで小人になったみたいに」


「それってつまり……」


「そう。』なの」


 僕は呆然としてしまった。これまで攻性黒魔法はあくまで戦闘目的の技術であって、そんな使い方ができるなんて考えたこともなかった。


「もう少し詳しく説明すると、まず、索敵型黒魔法で転移したガン細胞の座標を1細胞レベルで特定する。そこへ魔力を絞った攻性黒魔法を流し込んでその細胞だけを破壊するの。in vitro下の培養細胞レベルだと成功してるんだけど、やっぱり生体は難しいね。生体自身が持つ魔力がノイズになってシステムが誤作動してしまう。それにまだまだ魔力のロスが大きすぎて普通の黒魔道士が使うには……」


 僕が黙っているのに気づいて北条さんは話を止めた。


「笑っちゃうでしょ。攻性黒魔法適正を持った人間が白魔道士の真似事なんて……」、彼女はそう言うと自虐的に笑ってみせた。


「そんなことない! これめちゃくちゃおもしろいよ! めちゃくちゃクールだ!」


 僕は思わず立ち上がってそう叫んだ。実際、現在の臨床白魔法においてガン治療はもっとも重要かつ困難なトピックのはずだった。それはガンが本来、生物が持っている生命力の帰結ということにも関係している。もし、彼女の研究が成功すれば間違いなくブレイクスルーになるはずだ。さらに、基礎魔法学的見地から見ても彼女がやろうとしている手法は極めて斬新なものだった。


 僕の突然の行動に彼女は始めぽかーんとしていたが、くすっと笑うと「ありがとう」と答えて、そして顔をほころばせた。こんなに屈託のない彼女の笑顔を見るのは僕にとってこれが初めてだった。


「渡辺くん。渡辺くんはもう気づいてると思うけど、私の髪について……」


 そう言うと彼女は自分の髪を触った。そう、彼女の髪はいつも仄かな光を放っていた。その色は日によってわずかに変わっていたが。


「これは高位の黒魔法適正者に特有の症状なの。おそらく体内の魔力がオーバーフローして放出されてるんだと思う。私はこの症状が小学校高学年のときには出ていた。だから、適性試験なんて受けるまでもなく自分が黒魔法適正者だとわかっていたの。同級生もこれを見てからは怖がって誰も私に近づこうとしなかった。陰で『魔女』って渾名が付けられてたのも知ってる」


 彼女はコーヒーに目を落とすと、再び少し憂いのある表情に戻って話を続けた。


「その一方で、軍からは何度もアプローチがあったわ。軍学校に入学すれば特待生として奨学金を出してもいいという話もあった。でも、私はそれが嫌だったから普通の魔法大学に進学した。適正の問題で黒魔法学部にしか入学できなかったけど、大学院で菅原先生のところに入れば本当に自分がやりたいことができると思った。だって、魔法なんて所詮ただの道具じゃない? 包丁と一緒。人を殺すこともできるけど美味しい料理を作ることだってきっとできる」


「私は軍の存在を否定してるわけじゃない。軍人の人達が私達のために命をかけて働いているのも知ってる。でも……、私は自分の魔法に恐怖する他の人達の顔をもうこれ以上見たくない。あの同級生たちのように。それよりも自分の魔法で笑顔になる人を1人でも増やしたい。だから、この研究は私のエゴでもあるの」


「うん」、僕はただ静かに頷いた。


「渡辺くん……。私、あなたには感謝してる。初めて会った日、あなたが私の魔法を止めてくれなかったら、私、自分で自分が許せなかったと思う。もう絶対に自分の魔法で誰かを傷つけることはしないと固く誓ってたのに……」


僕はどう答えていいのかわからず、2人の間にはしばらく沈黙が流れた。


「んー、たぶん、そのお礼は僕よりも情報魔法学に言うべきだね」


 僕がなんとかおどけまじりにそう言うと、彼女は再びくすっと笑った。


「そうね。ありがとう情報魔法学さん」


 そして、僕らは2人揃って声を出して笑った。


「そういえば、渡辺くんは今日は本当はどうするつもりだったの?」


「いや、特に用事もなかったから街を散策でもしようと思ってたよ。引っ越してきたばかりでまだよくわからないし」


「じゃあ、私が案内してあげようか? どこか行きたいところとかある? それとも情報魔道士さんは女の子とデートするよりもPCの前に座ってる方がいいのかなぁ?」


 そう言うと彼女は普段通りの少しいじわるそうな笑みを浮かべた。彼女の屈託のない笑顔も素敵だったが、この表情も好きだと僕は思った。


「いや、デートでお願いします。場所は北条さんのとっておきのスポットで」


「よろしい。でも、私のとっておきのスポットに行ったら雰囲気良すぎて私のことが好きになっちゃうかもよ」、彼女はまたいたずらっぽく笑った。


 でも、その仮定は間違ってる。僕はそう思った。

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