第3話 不埒な先輩と真夜中の研究室
「まぁ、冗談はこれくらいにして。そうね……、買い物がしたいんだったら、鴨川沿いを歩いて三条の方に行くのもいいかな。お天気もいいことだし。それか、静かなところの方が良ければ、疏水のあたりを散策するのもおすすめ」
「うーん……」
僕が考えていると、不意に北条さんのトートバッグから携帯電話の着信音が聞こえた。携帯電話を取り出し、着信相手を確認した彼女の顔が一瞬曇る。
「ちょっと、ごめん」
そう言い残すと、北条さんは携帯電話を持って店の入口の方へと歩いていった。
北条さんは電話の相手となにか口論をしているようだったが、ここからでは話の内容まで聞き取ることはできなかった。やがて、彼女は諦めたように着信を切ると、申し訳なさそうな表情でこちらに戻ってきた。
「ごめんなさい。急に今すぐ実家の方に戻らないといけなくなって……」
彼女はトートバッグから財布を取り出して自分の分の会計を支払おうとした。しかし、慌てているのか、なかなか手につかないようだった。
「いいよ。ここは出しておくから。週明けにでも研究室で渡してくれればいいよ」
「本当にごめん。この埋め合わせは絶対にするから」
そう言い残すと彼女は早足で店を出ていった。僕は去っていく彼女の後ろ姿を窓越しにしばらく眺めていた。
************
北条さんがいなくなって手持ち無沙汰になった僕は、もはや独りで出歩く気にもなれず、そのまま研究室に戻ってきた。
誰もいないスタッフルームに入り、自分のデスクに座ると、今日一日の出来事をぼんやりと振り返る。
今日見せてもらった北条さんの研究内容は本当に面白いと思った。すでに似たような研究はないのかと思い、念のためにインターネット上の魔法論文検索サイトである『
僕はなんとか自分の知識で彼女の研究の手伝いができないかと考えていた。そこに不純な動機が一切ないといえば嘘になるが、そもそも菅原教授からは僕のプロジェクトに関しては、「他の研究室メンバーとしっかりディスカッションして、そこからなにか新しいものを生み出してくれればそれでいい」と言われていた。
僕は自分の研究や北条さんの研究について考えながら、なにげなくPubMagicの検索窓に北条さんの名前を入れた。即座に同姓同名の著者が書いたと思われる論文がずらずらと表示された。僕は検索クエリに菅原教授の名前を追加し、もう一度検索ボタンを押した。
出てきたのは1件の論文だった。
掲載されている雑誌は『
(
そのとき、後ろの方でスタッフルームのドアが開く音が聞こえた。
僕が振り返ると、そこには、ぼさぼさの髪をした長身の女性が立っていた。
「か、烏丸さん!?」
それは僕がミーティング以来、一度も会うことのなかった菅原研究室博士後期課程3年の先輩、『
「あー、えーっと……、斉藤くんだっけ?」
「渡辺です」
「あー、ごめんごめん。渡辺くん」、烏丸さんは悪びれる様子もなくへらへらと笑っている。
「烏丸さん、どうしたんですか?」
「ん? 今から仕事」
僕は振り返ってパソコンの時計を見た。時刻はいつの間にか22時をまわっていた。
烏丸さんは僕のことなど気にしない様子で、僕とは反対側の壁に面した自分のデスクへと歩いていく。手には缶ビールの入ったコンビニのポリ袋を持っていた。
烏丸さんは背が高い。北条さんも女性としては背の低い方ではないが、烏丸さんは僕と同じくらいかそれ以上の身長がある。また、容姿も端麗で、その色素の薄い虹彩と肌は僕に西洋の
僕は自分のPCに向かいながら考えていた。これは今まで会うことすらできなかった烏丸さんの研究内容について教えてもらう絶好のチャンスかもしれない。後ろからは烏丸さんが自分の席でごそごそとなにかをする音が聞こえる。仕事の邪魔をしてしまうことになるかもしれないが、明日は日曜日なのだし、少しくらい遅くなっても大丈夫だろう。(もっとも、僕は平日でも烏丸さんが日中にいるのを見たことがないが。)
僕は意を決して、烏丸さんに話しかけるべく振り向いた。
「烏丸さん、すいません。ちょっと研究のことについて聞き……、ぶっっっ!!!」
僕は慌てて自分のデスクの方へ向き直った。
「ん? なに?」
「なにって……、どうしてズボン穿いてないんですか!!!」
そう。烏丸さんはさっきまで穿いていたはずのジーンズを脱いで、白い太ももを露わに足を組んで座っていた。その隙間から一瞬見えた水色のショーツはまだ僕の目に焼き付いていた。
「いやぁ、このカッコじゃないと集中できなくて」、烏丸さんは呑気な口調で返事をする。
「だいたい、きみは編入初日にほむらの下着姿見たんでしょう? 今さら私の下着くらいで動揺しなくてもいいじゃん」
「なんでそんなこと知ってるんですか!?」
「いや、みんな知ってるって。事務の河合さんとか、きみのことを『
僕は膝から崩れ落ちそうになるのをデスクを支えに必死にこらえた。
「とりあえず、ズボンを穿いて下さい」
「えー、嫌だよ。めんどくさい。きみがなにか話をしたいのなら、きみが我慢しなさい」
「いや、僕は烏丸さんの研究内容について教えてもらえたらと思っただけで……」
僕は声が裏返らないように気をつけながら、絞り出すように返答する。
「ん、いいよ。じゃあ、こっちにおいで」
急に烏丸さんの声のトーンが変わった。
僕はなるべく目線を下に向けないように気をつけながら、烏丸さんのデスクの方へ歩いていった。烏丸さんは近くにあった椅子を自分の横へ引き寄せるとぽんぽんとその座面を叩いた。PCに向かう烏丸さんの横に座ってしまうと、もはや烏丸さんの太ももは見えず僕は少し安心した。しかし、そう思ったのもつかの間、横に座った烏丸さんの太ももが僕の太ももに軽く触れ、僕はまた赤面してしまう。
「これを見て」
烏丸さんが素早くキーボードを叩くと、PCの画面上にスペクトルマップのアニメーションが表示される。烏丸さんは表示されたアニメーションを手に持ったペンで指し示した。
「これは魔力の流体シミュレーション」
「え? 魔力って流体なんですか?」、僕は驚いて尋ねる。
「そう仮定してシミュレーションしてる。実際、通常のナビエ・ストークスに魔力項……と私が勝手に呼んでるんだけど、それを追加してパラメータを適当に与えてやると割ときれいに近似できる、……ものもある」
烏丸さんはそう言うと再びキーボードを叩いた。今度はPCの右側に先程のシミュレーション結果のようなものが複数表示され、左側にはそれと対応しているであろう魔法を発動している北条さんの動画が映っていた。
「魔法の近縁度とパラメータの類似度にも相関が認められる。でも、そのパラメータがなにを意味しているのか、どうやって決められているのかがわからない」
僕は画面をのぞき込んだ。気がつくと烏丸さんの顔が僕の顔のすぐ横にあって、僕は気恥ずかしくなった。烏丸さんからはシャンプーの匂いに混じって少し甘ったるい匂いがして、その匂いを嗅ぐと僕はなんだか頭の芯が軽く痺れるような感じがした。
「詠唱式を比較することでパラメータを指定するような要素を洗い出せませんか?」
僕は自分でも気づかないうちに質問を口にしていた。
「一応、一通りは試してみたけどいまいちだね」
烏丸さんはそう言うとデスクの隅に置いてあった飲みかけの缶ビールを口にし、そのまま話を続けた。
「まぁ、魔法の詠唱式自体、長い年月をかけて経験的に決められていったものだし、その中にはまだまだ意味の分かっていない要素の方が多い。そもそも、今の詠唱式なんてものは所詮、人間が発声可能な形に修飾されたもので、実際のところ、どの程度本質的かなんてわからないよね」
「それって……もしかして、アセンブラ仮説?」
「……さすが、情報魔道士」、烏丸さんはにやりと笑った。
「アセンブラ仮説……、現在使われている魔法の詠唱式は人間が発声可能なように改変されたものでそれ自体は魔法を制御する力を持たない。しかし、人間は自身が持つ魔力中枢において無意識的にそれを『
「『古きものの言語』がわかるようになれば、魔力を制御しているパラメータもわかるかもしれないね」
「そんなことができたらクローリー賞ものですよ」
「発想が小っさいなぁ。『古きものの言語』がわかるってことは魔力を思うがままに操れるってことだよ。望めば世界征服だってできるさ」
烏丸さんは笑いながら缶ビールの残りを呷ると、急に僕の方へ顔を近づけ、耳もとでこう囁いた。
「2人でやろうか? 『古きものの言語』の解読。それで世界を征服するの」
烏丸さんは少し酔っ払っているようだった。
「よし。じゃあ前祝いだ」
そう言うと、烏丸さんは足下の引き出しからなにかを取り出そうとした。屈んだ烏丸さんの胸元からはピンク色のブラジャーと白い乳房が見えて僕は慌てて目を逸した。
僕はぼんやりと以前ネットで見かけた『女が下着の上下をあわせるのは特別な日だけだ』というどこかの女性の投稿を思い出して、つい吹き出してしまった。
烏丸さんは「どうしたん?」と不思議な顔をして僕に尋ねたが、僕は「なんでもないです」と言って誤魔化した。
烏丸さんは古そうなウイスキーボトルと2つのグラスを手にしていた。グラスにウイスキーを注ぐと烏丸さんはそのうちの1つを僕に手渡してくれた。僕はそのウイスキーをちびちびと啜った。
烏丸さんはしばらく自分の研究について楽しそうに話していたが、ふと黙り込むと、ぽつりとこう呟いた。
「まぁ、あのシミュレーションのもともとのアイデアは今邑の置き土産なんだけどね」
「いまむらさん……、ですか?」、僕はさっきネットで見つけた論文を思い出した。
「知らない? 天才・今邑礼二。去年までうちの研究室に在籍していて、大学院時代に『Magic』2本と『Necronomicon』に論文を通した有名人。今はもうミスカトニック大学のカーター研に留学しちゃったけど。あと、去年までのほむらの実質的なメンターでもあった」
「あの2人はけっこう仲が良かったからねぇ……、2人は付き合ってるって噂もあったよ」
烏丸さんの言葉を聞いて僕はどきっとした。
「まぁ、たぶんそんなことはないよ。2人とも研究バカだから。……たぶんね」
烏丸さんはそう言って笑いながらグラスを呷った。
「今邑さんもやっぱり黒魔法の医療応用かなにかを研究してたんですか?」
「今邑は応用なんかには興味ないよ。あいつが本当に知りたかったのは、****についてだ」
僕は急に自分の意識が遠くなっていくのを感じた。それほどウイスキーを飲んだわけでもないのに、烏丸さんが話している言葉がもはや聞き取ることすらできなくなっていた。烏丸さんはまだ楽しそうになにかを話している。しかし、それは僕にとってはもはや他の世界の出来事のように感じられた。やがて、僕は完全に意識を失った。
************
目が覚めると、僕は自分のデスクの上でうつ伏せになっていた。窓からはもう明るい陽の光が差し込んでいる。体を起こすと肩からなにかがするりと落ちた。足下を見るとさっきまで僕の肩にかけられていたであろう毛布が床に落ちていた。
僕は椅子から立ち上がってあたりを見渡した。烏丸さんはもう帰宅したらしく部屋には誰もいなかった。
足下に落ちている毛布を拾い上げると、僕はそれを自分の顔に近づけてみた。毛布からは昨日嗅いだ烏丸さんの甘ったるい匂いがした。僕はため息をつくと、その毛布をきれいに折りたたみ烏丸さんの椅子の上に置いた。
僕は毛布の置かれた烏丸さんの椅子を眺めながら、昨夜そこに座っていた烏丸さんのことを思い出していた。彼女の白い太ももとそこから伸びるすらりとした長い足について思い出していた。
(先輩……、そういうの持ってるならもっと早く使って下さいよ)
僕は心のなかでそう呟くと、もう一度大きくため息をついた。
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