楽しい博士課程(後期)の過ごし方
そうる
第1話 新しい研究室とすみれ色の彼女
新しい環境に飛び込むときはいつも胸が高鳴る。
知らない街、知らない建物、そして知らない研究室。
余裕を持って家を出たため、大学には約束の時間の30分前に到着した。初めて来た大学の構内を一通り散策し、10時ちょうどに教授室である205号室のドアノブに手をかける。
菅原教授とはメールでのやり取りだけで実際に会うのは今日が初めてだ。メールの文面からは穏やかな印象を受けたけど実際のところは分からない。一度、ゆっくりと深呼吸し、昨日から考えてきた挨拶の言葉を思い出してから、思いきってドアを開ける。
******
そして今、僕はこれまでの人生で経験したことがないほど心臓が速く脈打ってるのを感じている。
それもさっきまでとは全く違う理由で。
ドアの向こうにいたのは下着姿の少女だった。
透き通るような白い肌は窓から射し込む日の光を柔らかく反射し、小さくはない胸を覆ったすみれ色の下着と美しいコントラストを作っている。腰まで伸びた黒い髪は魔力の影響だろうか薄っすらと赤い光を放射し、細く引き締まったウエストラインをより一層強調していた。
(やばい、やばい、やばい、やばい、やばい・・・・・・)
頭のなかでそう繰り返しながらも僕は彼女から目を離すことができずにいた。彼女もなにが起こったのかわからないといった表情で僕の方を見ていた。しかし、僕の目と彼女の目があった瞬間、彼女の呆けていた顔が突如豹変し、聞き取れないほどの速度で何かを呟き始めた。
(これは・・・・・・高速詠唱⁉ まずい!)
そう思うやいなや、彼女が前方に伸ばした掌からチリチリという音とともに炎が溢れ始める。なにが起こっているのかを察した僕は慌てて自分の手を前に突き出す。しかし、彼女の掌から溢れ出た炎は膨張を続け、今では火球となって僕の目の前を覆い尽くしていた。火球はチリチリと音をさせ、今にも破裂しそうだ。
「だめか……⁉」
火球はキュッという音とともに一度大きく収縮しそして轟音を立てて破裂した。僕は咄嗟に両手で顔を隠し目を閉じる。
と、その瞬間、飛び散った火片が眼前で急に消え去った。
「……⁉」
残された少女は呆気にとられた表情でこちらを見つめていた。
「……助かった」
僕がほっと胸を撫で下ろしたまさにそのとき、目の前に鈍器のような何かが飛んできて、そして僕は気を失った。最後におぼろげに視界にとらえたものは
(細胞の魔法生物学・・・?)
******
「なるほど。つまり君は私の部屋である205号室に入ろうとして間違えて20Sの女子更衣室に入ってしまったわけだ」
菅原教授はやや呆れながらも穏和な口ぶりでそういうと僕の横に立っている少女に目を向けた。
「というわけなので、今回ばかりは許してあげてくれないかな。北条くん」
彼女は今ではきっちりとアイロンのかかった白いブラウスと濃紺のフレアスカートを身に着けていた。腰まであった長い髪は頭の後ろできれいに結ばれている。首元につけたすみれ色のリボンタイは彼女によく似合っていたものの、さっき見た彼女の下着姿が思い出され、僕は少し赤面した。
「でも、先生!」
彼女は先程からこちらを一切見ようとせず菅原教授に僕を大学のハラスメント委員会に突き出すべきだと頑なに主張していた。菅原教授は少し困った顔してこう続ける。
「それに、君は彼に魔法を使おうとしたね。魔法大学の大学院生は許可無く他者に魔法を使用することは決して許されない。たとえそれが正当防衛であったとしてもね。今回はたまたま、発動に失敗したから良かったものの、事が公になれば今年から君が受けるはずの魔術振興会特別研究員の資格もどうなるか分からないよ」
「……っ!」
「あと、CELLをぶつけたのもね……」
少女はじっと下を向いて押し黙っている。
「じゃあ、この話はこれで終わりだね。改めて紹介しよう。彼はこの4月からうちの研究室に編入する博士課程1年の渡辺ノボル君だ。彼女は修士からうちに所属していて今年博士課程になる北条ほむら君。今年のD1は君たち二人だけだから仲良くして欲しい」
「……北条です」
彼女は極めて不満そうな顔でこちらを一瞥すると、一言そう発してまた押し黙ってしまった。
「研究室メンバーへの正式な紹介は明日のミーティングでするとして。北条君、渡辺君に研究室を案内してあげてくれるかな。彼のデスクはもう用意してあるね? あとPCはとりあえず今年卒業した今邑くんが使っていたものを使って。研究の都合でよりハイスペックなものが必要になったら改めて申請してくれればいい」
北条と呼ばれた少女は俯いたまま返事をしようとしなかった。菅原教授はにっこりと微笑んで
「いいね? 北条君」
******
教授室を出た北条さんは、まるで僕のことなど存在しないかのようにすごい速度で廊下を歩いていた。僕はどうしていいかわからず、とりあえず北条さんの後ろをついていくことにした。
「さっきは本当にごめん。本当はノックをするべきだったんだけど緊張してて、その……」
そう声をかけると、北条さんは急に立ち止まりこちらに振り返った。
「そんなことより、あなたあのとき何したの? 菅原先生はたまたま発動に失敗したって言ったけど、そんなことあり得ない! 私はたしかに術式展開を成功させたはずよ!」
「あ、あぁ……。あれはクトゥグア系統の爆炎魔法だよね。北条さんてすごいんだね。あんな上位魔法を高速詠唱で正確に発動できるなんて。さすが魔術振興会の特別研究員に採用されるだけのことはある」
「私はそんなおべっかを聞きたいわけじゃないんだけど?」
「あー、えーっと、実はあの魔法は修士の頃に解析したことがあって、あれのバージョン1.7以前にはバッファオーバーフローで発動停止させられるバグがあるんだよ。最新のバージョン1.8、あ、これはまだRC版なんだけど、それだとフィックスされてるんだけどね。北条さんが発動に使っていた詠唱式はおそらくバージョン1.67か1.68っぽかったからダメ元で対抗術式をインジェクションしたんだ。あれだけの高速詠唱に間に合うかは自信なかったんだけど上手くいってよかったよ。あ、ちなみに最新バージョンでのバグフィックスにコントリビュートしたのはぼく……」
気がつくと北条さんはげんなりした顔でこちらを見つめていた。
「あなたの専攻ってもしかして……」
「……情報魔法学専攻です」
「げ、もしかして……あなた、
「げ、って……」
「だって、情報魔道士って実験もせずに毎日PCの前に座っていかがわしいアニメとかばっかり見てる集団でしょ?」
「いや、それは偏見だから! 情報魔法学は既存の魔法術式群を計算機を使って解析することで多数の魔法に共通する要素を体系化する立派な学問なんだよ」
そう言いながらも僕は少し後ろめたい気持ちになった。実際、情報魔法学の研究室にオタク趣味の学生は多い。
「で、それって実際の魔法研究の役に立ってんの?」
「たしかに一昔前は地味な学問だったかもしれない。でも、イルミナティ社が開発した次世代魔法術式デコーダ<Next Generation Spell decoder(NGSd)>の登場と計算機の能力向上によって今もっとも熱い学問と言っても過言じゃないんだよ!」
「ふーん、それでその熱い学問を専攻する学生がなんでまたうちの研究室に?」
「修士まで所属していた研究室の先生が民間企業に移ることになって……。先生と相談したんだけど、これからの情報魔法学者は計算機の前に座ってるだけじゃなくて実際の魔法研究の現場を知っておかないとだめだって。先生と菅原教授は呪研で研究員をやっていたときの盟友で博士課程から編入できるように持ちかけてくれたんだ」
北条さんはしばらく何かを考えていたようだったが、
「まぁいいわ」
そう呟くと、ふっと溜息をついて眉間の皺を緩めた。
「改めて、私は北条ほむら。この研究室ではあなたのたった一人の同級生よ。菅原研へようこそ」
「渡辺ノボルです。いろいろよろしくお願いします」
そう言って握手すると彼女は相好を崩した。その表情を見て僕はまた赤面した。
僕がどうしていいかわからずもじもじとしていると、彼女は急に顔を近づけて僕の顔を覗きこんだ。
「ところで聞いたことあるんだけど、情報魔法学の学生はみんな二次元専門で三次元の女の子の裸には興味ないんだよね?」
そう言うと彼女はいたずらっぽく笑った。
僕は自分の顔が火照るのを誤魔化すように叫んだ。
「いや、だからそれ偏見だから!」
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