第11話 夏祭り

「せんぱい! 今年の祇音祭りにみんなで行きませんか?」


 松ヶ崎さんが突然そんなことを言い出したのは7月初めの月曜日。定例ミーティングが終わり、ちょうどみんなでスタッフルームに戻ろうとしていたときだった。


「祇音祭り? 人が多くて疲れるだけだよ」、と北条さんがつれない返事をする。


 祇音祭りは毎年7月にこの第75行政区で行われる大きなお祭りだ。その起源は千年以上前、まだ第75行政区が櫻国の首都だった時代に遡る。当時、櫻国の各地で頻発した疫病や天災に対して、ときの朝廷がそれらの鎮静を祈願するための祭りを開いたのが始まりだという。祇音祭りは国内はもちろん世界的にも有名で、毎年この時期になると区外からの観光客で第75行政区は喧騒に包まれる。地元の人々はそれで夏の始まりを感じるらしい。


「北条せんぱいは祇音祭り行ったことあるんですか?」


「大学に入ってすぐのときに一度だけね。でも、人が多すぎてほとんど何も見ずに帰ってきた」


「だったらいいじゃないですかぁ。私、地元だから上手くまわるコツとかわかりますし。それに今年は私にいいアイデアがあるんです」


 それでも渋る北条さんを前にして、松ヶ崎さんは横目でちらりと僕の方を見た。僕は横を歩いていた鞍馬口くんの方に目をやったが、彼は素知らぬ顔をしてどこか別の方を見ていた。僕は内心、やれやれと思いながら、


「僕もせっかく第75行政区に来たんだし、一度くらいは行ってみてもいいかもなぁ」


 と、なるべくわざとらしくならないように呟いた。


「ほら! 渡辺先輩もそう言ってることだし!」


「うーん……、まぁ、そこまで言うなら……」


「やった! もう決まりです! じゃあ、行くのはやっぱり一番盛り上がる宵山の日の夜がいいですね。準備もあるので、また予定が決まったら連絡します!」


 松ヶ崎さんは楽しそうにはしゃいでいた。


 スタッフルームに着いて各々が自分の席につこうとしたとき、松ヶ崎さんがこっそりと僕の方に近づいてきて耳許でこう囁いた。


「『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』。やっぱり、北条せんぱいを落とそうと思ったら、まずは渡辺先輩を落とすのが一番ですね」


 それだけ言うと彼女は僕に向かってにっこりと微笑んだ。



 ************



 祇音祭りの宵山当日。僕と鞍馬口くんは松ヶ崎さんから指定された駅前の待ち合わせ場所に立っていた。烏丸さんと大宮さんはいつもの通り参加せず、参加者は僕と北条さん、鞍馬口くんと松ヶ崎さんの4人になった。


 駅前はすでに祭りに向かう人達でごった返しており、僕たちは人ごみから少し離れたところに移動して、待ち時間になってもやってこない二人の姿を探していた。


「すいません! 着付けに時間がかかっちゃって……」


 15分ほど過ぎた頃、松ヶ崎さんと北条さんが揃ってあらわれた。


 二人は鮮やかな色をした浴衣を着ていた。松ヶ崎さんは淡いピンク色の浴衣に黄色い帯、北条さんは紺色の生地に花をあしらった浴衣に菫色の帯を身に着けていた。


「えっへん。知り合いのお店にお願いしてレンタルしたんです!」


 松ヶ崎さんが得意そうに語った。


「……どうかな?」


 さっきから落ち着かない様子の北条さんが躊躇いがちに僕に尋ねる。


「うん。すごく似合ってるよ」


「そう? ……ありがとう」


 彼女はそれだけ言うと、恥ずかしそうに目を逸した。


 僕はもう一度、彼女の浴衣姿を眺めた。紺色の浴衣は彼女の白い肌によく映えた。また、綺麗に結い上げられた彼女の髪は薄っすらを赤紫色の光を放っていて、それも浴衣の色と美しいコントラストを作っていた。


「それじゃあ、行きましょう!」


 松ヶ崎さんが元気よく声を上げると、僕たちは祭りの会場に向かって歩き出した。


 祇音祭りの宵山では、第75行政区の中心部にあたる古い街並みのあちこちに悪霊退散を祈願した鉾が立てられている。鉾は祭事用に綺麗に飾り付けられ、さらに巫女が込める魔力によって幻想的な光を放っていた。僕たちは松ヶ崎さんの案内でそれらの鉾を見学しながら歩いた。彼女はさすがに生まれも育ちも第75行政区らしく、うまく人通りの多い道を避けて要領よく鉾を巡っていった。


 ちょうど夜の帳が下りきった頃、僕たちは祭りの中でもっとも大きな鉾を眺めていた。鮮やかな装飾を施された大きな山車の上を見上げると、大きな切先を持った雄壮な鉾が魔力を帯びて虹色の光を放っていた。夜の闇を背景に怪しく光るその鉾の姿は、眺めているうちに自分が現実世界にいることを忘れそうになるほどだった。


「……きれい」


 僕の横に立っていた北条さんがぽつりと呟いた。


 そっと彼女の横顔に目を向けると、彼女は恍惚とした表情で鉾を見上げていた。僕は少しの間、そんな彼女の顔を眺めていた。


 鉾を一通り見学し終わると、僕たちは屋台が並ぶ大通りの方へと向かった。大通りはさすがに人で溢れていて、お互い気をつけないとすぐにはぐれそうになった。


「渡辺くん、手をつなぎましょう」


 北条さんの提案に僕は少し驚いたが、そのまま彼女が差し出した手を握った。


「痛っ」


 彼女の手は僕の想像以上に細く柔らかくて、なにげなく握った僕は彼女の声を聞くや慌てて手を離し、もう一度そっと彼女の手を握った。彼女の手はほんのりと温かかった。


 しばらく歩いていくうちに、僕たちは松ヶ崎さんや鞍馬口くんと完全にはぐれてしまった。北条さんが携帯電話を取り出して松ヶ崎さんに連絡を取る。少し話してから、北条さんは僕に向かって頭を振った。


「二人ともだいぶ遠くまで行ってしまってるみたい。しばらくは別行動でいいんじゃないかって。渡辺くん、なにか食べたいものとかある?」


「特にはないかな」


「じゃあ、鴨川の方に行って少し休みましょうか」


 僕たちはふたたび手をつないで混雑の中を川の方へ向かって歩いた。川に近づくにつれて徐々に通りを歩く人々は少なくなっていったが、僕には北条さんの手を離すタイミングが掴めず、北条さんも僕の手を離そうとしなかったので、そのまま二人で手をつないで歩いた。


「何か飲もうか。渡辺くん、お酒は大丈夫?」


 僕が頷くと、北条さんはすっと僕の手を離して近くの屋台へと歩いていった。


 僕たちは大きめの紙コップになみなみと注がれたビールを持って、河川敷の隅にあったベンチに座った。


 河川敷では大勢のカップルが暗がりの中、一定の距離を保って座っていた。夜の鴨川はいつものように穏やかで、ところどころオレンジ色の街灯に照らされ、きらきらとした光を反射していた。


 北条さんは手にしたビールに口をつけると、ふっと息をついた。そして、履いていた下駄を脱いで素足を前に投げ出した。


「やっぱり慣れない履物はだめだね」


 街灯で照らされた彼女の白い足は鼻緒に当たる部分が赤く腫れていた。


「大丈夫?」


「平気。少し痛むくらいだから。……ねぇ、もし、私が『もう歩けない』って言ったら、渡辺くんは私をおぶって帰ってくれる?」


「うん。北条さんがそれでいいなら」


 僕の返事に彼女はくすくすと笑った。


「渡辺くんは優しいね」、そう言って彼女はビールをもう一口飲んだ。


 彼女の顔はアルコールのせいか、少し上気していて、とろんとした目で僕の方を見ていた。


「でもね、女性に対しては優しいだけじゃだめなときもあるんだよ」


 彼女の言葉に僕は応えなければいけないと思った。僕の気持ちを彼女に伝えなければいけないと思った。


 僕は意を決して口を開いた。


 その瞬間、僕の世界から音がなくなった。


 気がつくと僕の横にいたはずの北条さんがいなくなっていた。北条さんだけじゃない。周囲にいたはずの大勢のカップルも全て消え去っていた。


 僕は誰もいない河川敷で一人、ベンチに腰を掛けていた。


 前を見ると、2メートルほど離れたところに人の形をした黒いもやが立っていた。黒い靄には目も口もなかったが、それでもそれが僕を凝視していることはわかった。靄はゆっくりと僕の方へ近づいてくるように思えた。


『……オマエハ誰ダ?』


 黒い靄は僕に話かけてきた。


 僕は声を出そうとして、自分の喉がカラカラに乾いていることに気付いた。

 

『オマエハ誰ダ?』


 僕は叫び声を上げたくなったが、身体がいうことをきかなかった。まるで自分の体が自分のものではなくなってしまったかのようだった。


『答エラレナイナラ……、オマエノ体ハ俺ノ物ダ!』


 黒い靄は突然、真っ白な歯を剥き出しにして大声を上げて笑いだした。その笑い声は僕の耳から頭へと入っていき、頭の中でガンガンと鳴り響いた。僕は固く目を閉じ、胃から何かがこみ上げてくるのを必死になって堪えた。


『モウスグダ……、


 その言葉を聞くとともに僕は意識を失った。


 目を開くと、そこには僕を心配そうに見つめる北条さんの顔があった。


「渡辺くん、大丈夫!?」


 僕は北条さんの膝に頭を載せてベンチに横になっていた。遠くの方からは祭りの喧噪の音が聞こえてきた。


「……あ、ああ。ごめん。もう大丈夫」


「急に気を失って、なにかうなされてたんだよ?」


 北条さんが泣きそうな顔をして僕を睨む。


「……どうやら、祇音の悪霊に当てられたみたいだ」


 僕の言葉を聞いた北条さんは少しほっとした様子で、右手を僕の額に当てた。僕は自分でも気がつかないうちにその手を握っていた。北条さんの体がびくりと動いた。


「……ごめん。少しだけ、このままで」


「……うん」


 北条さんはそれ以上何も言わなかった。


 彼女の体温に触れているうちに、胸の奥にこびりついていた心細さが氷が溶けるように消えていくのを感じた。


「……北条さん」


「なに?」


「もし、僕が起き上がれそうになかったら、僕をおぶって帰ってくれる?」


「ごめん。それは無理」


 北条さんはわざとらしく畏まった口調で言った。それを聞いて僕は思わず吹き出してしまった。


「……でも、体調が戻るまで、ここで一緒にいることくらいならできるから」


 北条さんはそう言うと、もう一方の手を僕の目に被せた。


 僕はしばらくの間、何も言わず彼女の体温を感じていた。


 あの黒い靄はなんだったのだろうか。あの時、僕はあの靄に既視感のようなものを感じた。しかし、それについて考えようとすると頭の奥がずきずきと痛んだ。


 黒い靄は『マクスウェルの悪魔』と言った。マクスウェルの悪魔は神話に出てくるイデア界と現実世界を繋ぐ悪魔の名だ。神話では、マクスウェルの悪魔は本来はお互い干渉できないはずのイデア界と現実世界を繋ぐことで、現実世界の法則を歪め、世に災厄をもたらす。


 なんだかひどく嫌な予感がした。しかし、その正体は最後までわからなかった。

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