アクアリウムマーメイド

侘助ヒマリ

🐡ガラスの向こう。揺蕩う恋心と、滲む人魚。

 竜宮城の乙姫の正体は、きっと人魚なのだと思う。


 なぜなら、目の前の彼女は夕陽を映した海面のように赤い鱗を煌めかせ、確かに魚達と舞い踊っていたのだから。


青白い照明オーシャンブルーに照らし出された大水槽の中を──

 無彩色のエイたちと空を飛ぶように。

 銀色に光るイワシたちと群れるように。

 極彩色の熱帯魚たちと戯れるように。


 ガラスの向こうに青く揺らめく竜宮城。

 そんなあり得ない光景に特別な反応を示さない人々の中、僕だけが開いた口の塞がらないままに彼女の姿を追っていた。


 🐡


 その日、僕は一ヶ月の昼飯代を水族館の年パスに変えた。


 生保レディをしている母親から、月初めに渡される一万円。

 どうせ高校ガッコに行かないなら、好きな場所で好きなだけ過ごせる方がいい。


遙斗はるとはここが大好きなのね』

 小さい頃、両親に手を引かれて通っていた地元の水族館。一年間に三回来れば元が取れる年パスを、我が家はいつも三枚買っていた。

 五回目の年パスを買った翌月に両親が離婚した。僕と僕を引き取った母親がその後この水族館を訪れることはなかった。


 八年ぶりにここに足を運んだのは、年パスがお得だったことを思い出したから。一か月だけ昼飯を抜けば、一年間の居場所を確保できるから。


 それに、学校に行けば……金はどうせあいつらに取られてしまうから。


 そんな理由で訪れた水族館の最奥、メインとなる大水槽で人魚は泳いでいたのだった。


 やがて、僕の視線に彼女が気づいた。

 有り得ない存在と目が合った瞬間、僕は黒く深く澄んだ美しい瞳に吸い込まれてしまった。


 人魚はゆっくりと僕の前まで泳いでくると桜鯛のように鮮やかな尾鰭おびれを揺らし、太刀魚のように体を起こした。


「み・え・る?」


 僕の目の前で、珊瑚色の艶やかな唇が動く。

 それから小首を傾げて僕に答えを促す。


 人魚って、日本語しゃべるんだ。


 そんな間抜けな感想を抱きつつ、こくりと頷いて返事をすると、驚いた表情で目を丸くした。


「な・ま・え」


 人魚は再び唇を動かすと、今度は人差し指を僕の鼻先に向ける。


「は・る・と」


 水槽にへばりついて自分の名前を呟く僕を訝しみ、隣にいた親子連れがそそくさと立ち去った。

 けれど、人魚はそんなこと気にも留めない様子で僕を指さしたまま「は・る・と」と唇を動かした。


 控えめに綻んだ笑顔。

 思わず見惚れた瞬間に、目の前の人魚は消えて見えなくなっていた。


 🐡


 翌日も、家を出た僕は制服のまま水族館へ向かった。


 今日も彼女に会えるだろうか。

 昨日のあれは白昼夢だったのかもしれない。

 期待と不安がさざ波となって僕の胸へと交互に押し寄せる。

 僕は小さな水槽をすべて素通りして、足早に大水槽へと向かった。


「いた……!」


 ほうっと深い息を吐いて水槽の前に立つと、彼女もまた僕に気づいて近づいてくる。

「はると」と形の良い唇がゆっくり滑らかに動き、可憐に微笑む。


 彼女に友好の情を返そうとして、名前をまだ知らなかったことに気づいた。

 今度は僕が指さして「な・ま・え」と尋ねた。


「る・か」


 そう名乗った彼女に「な・ぜ?」と尋ね、水槽のガラスをとんとんと指で叩く。


 どうして水族館の水槽に人魚がいるのだろう。誰かに捕まえられたのだろうか。それにしても、人魚が水族館の水槽の中を泳いでいるというのに、誰も気に留めないのはおかしい。ということは、ルカは僕にしか見えていないのだろうか。


 彼女は瞳をくるりと巡らせて、それから「ゆ・め」と答えた。

 そして、またしても僕の前から突然姿を消した。




 夢でもいい。ルカに会いたい。




 美しい白昼夢を見るために、僕は毎日大水槽に通った。夕方までいてもルカが現れない日もあった。けれども、姿のある日には必ず僕の前まで来て「はると」と呼んで微笑んでくれた。


 ルカが魚たちと戯れている姿を見ていると、時が経つのを忘れてしまう。

 視界いっぱいに広がる、オーシャンブルーに照らし出された水槽の世界。

 僕もその中を揺蕩たゆたうような心地良さを感じていた。


 🐡


「あなた、高校生でしょう?毎日ここへ来ているけれど、学校はどうしたの?」


 水族館のスタッフに、ある日とうとう声をかけられた。学校に知られたら面倒だから、仕方なく翌日は学校に行った。

 一か月ぶりの学校には、やっぱり僕の居場所はなかった。それどころか、やっぱり僕はあいつらの標的ターゲットになった。


 もらったばかりの昼飯代を巻き上げられ、脛を蹴られ、腹を殴られ、遠ざかる笑い声を聞きながら僕は亀のようにうずくまる。


 主犯格の小島は中学時代の同級生で、彼の親父は僕の母さんの顧客だった。

 半年前におじさんが自殺した時、保険会社の免責期間内だったために生命保険が支払われなかった。


「同級生のよしみで保険に入ってやったのに、親父が死んだら一銭も払わないってどういうことだよ!?」

「悪徳保険屋はいい加減この街から出てけよ。目障りなんだよ!」

「親父が払った保険金分はお前にきっちり返してもらうからな!」


 突然父親が自ら命を絶った小島のショックと悲しみ、経済的なストレスのはけ口は僕に向けられた。

 彼の僕への友情は、甘えと憎しみにすり変わった。

 僕は抵抗も寛容も放棄して、彼から逃げることを選んだ。


 僕は弱い。

 自分を守る甲羅もなければ、対峙する勇気もない。

 だから僕は逃げたんだ。

 昼飯代と引き換えに、一人になれる場所を手に入れたんだ。


 それなのに──

 僕は今、ルカの姿を求めてる。

 一人になれる場所よりも、彼女が傍にいる場所を求めるようになっていた。


 🐡


 次の日、僕は大水槽の前に戻ってきた。


「はると」

「ルカ」


 いつものように、唇の動きだけで名前を呼び合う。

 けれども今日の僕はそれだけでは物足りなかった。


 ルカの声が聞きたい。

「はると」と呼ぶ声を聞いてみたい。

 分厚いガラス越しに重ねる手のひら。その柔らかな温もりを確かめたい。

 一人でガラスのこちら側になんかいたくない。

 僕はたまらなくなった。


「な・み・だ?」


 ふいにルカの唇がそう動いた。

 はっとして頬を拭ったけれど、指先に濡れた感触はない。


「泣いてなんかいないよ」

 苦笑いで首を横に振った僕に向かって、ルカの手がすっと伸びてきた。


 ルカの指がゆっくりとガラスの壁をこする。

 涙を拭う彼女の仕草が、心の中に押し留めていた雫を掬い出した。


「う……う……っ」


 僕は声を押し殺して、ルカの前で初めて泣いた。


 🐡


 ルカに触れたい。

 声を聞きたい。

 抱きしめたい。




 息をけないほどに溢れてくるルカへの思いに、僕は溺れそうになっていた。


「ルカ」

「ルカ」

「ルカ」


 彼女に会えた日、僕は何度も何度もガラスの中の人魚を呼んだ。

 魚たちと戯れながら、魚たちと旋回しながら、彼女はゆっくりと僕の目の前に下りてきた。


「はると」と動く薄桃色の珊瑚の唇。

 厚いガラス越しにそっと僕の手に重ねられる白魚の指先。


 ルカのいる場所が竜宮城ならば、僕は浦島太郎になりたい。

 現実に戻る玉手箱なんていらない。

 僕は君とずっと一緒にいたいんだ――


 🐡


 ルカに触れたい。

 声を聞きたい。

 抱きしめたい。



 ルカに触れるためには、僕があのガラスの向こうに行く必要がある。

 それには、時間がかかっても水族館の飼育員になるのが一番確実な方法だ。

 そのためには少なくとも高校は卒業しておかなければならない。

 水槽に潜る仕事に就くためには、昼飯代を貯めてバイトもして、ダイビングライセンスも取らなければ。


 けれども、それは僕が小島と向き合わなければならないことを意味していた。


 ガラスの向こうのルカに会うためには、僕は逃げていた自分とも向き合わなければならない。


 🐡


 僕は毎日学校へ行くようになった。

 放課後から閉館までの僅かな時間が、ルカに会える夢の時間になった。


 オーシャンブルーに照らされた大水槽の前に立つと、殴られた頬の痛みがガラスの向こうの海の中に溶けて遠ざかっていく。


 上空を旋回していたルカが僕を見つけて嬉しそうに下りてきた。


「はると」

「ルカ」


 いつものように名前を呼び合い、ガラス越しに手を重ねる。

 新しい痣のついた僕の顔に気づき、ルカは眉をひそめてその痣に手を伸ばした。


「ああ、これ? 大丈夫だよ。この程度の傷はなんともないさ。

 今日は小島に“俺を殴ればお前の悲しみが癒えるのか?” って言ってやったんだ。

 さらに三発殴られたけど、あいつの顔からにやけ笑いが消えたよ」


 僕の一方的な報告に、ルカは少し首を傾げて僕の唇をじっと見る。


 お互いの声が聞こえない僕たちは、会話ができない。

 けれど、僕の思いをルカはわかってくれたようだった。


「が・ん・ば・っ・て」


 揺らめく瞳を細めて、ルカが微笑んだ。

 その黒い瞳に吸い込まれそうになったとき──



「ルカ……?」



 僕は気づいたんだ。


 ルカの姿が、オーシャンブルーの背景の中に、僅かに滲んで溶けているのを──


 🐡


「くそっ! つまんねぇ!」


 無抵抗ながらも金を渡すことを拒み続けた僕の態度に、とうとう小島が音をあげた。


 毎日つけられていた痣は、その日を境につけられることがなくなった。


 けれども今の僕には、ようやく居ることを許された場所よりも大切にしなければならない場所があった。



 ルカが消えていく。



 卒業してからなんて間に合わない──

 早く会いに行かなくちゃ。

 なんとかルカを引き留めなくちゃ。

 ルカが消えてしまう前に──!


 放課後に急いで水族館に駆け込む僕の目に、入口に掲示されているポスターの「バックヤードツアー」の文字が飛び込んできた。


 🐡


「ここが大水槽の上部になります。 危ないですから手すりから身を乗り出さないでくださいねー」


 週末の定刻に開催されるバックヤードツアー。

 僕はその日、開場前から並んで整理券をもらい、初めてツアーに参加した。


 大きく開いた水槽の上部を、他の参加者と一緒に柵のついた木製の足場から覗き込む。


 いた──!


 オーシャンブルーに半分溶け込みながら泳いでいるルカを見つけた。


「では、皆さんに餌やり体験をしていただきまーす」


 飼育員のお姉さんの声が近くて薄暗い天井や太い配管に反響する。

 皆がお姉さんの配る餌に気を取られていた。


 今だ!!


 僕は手すりに足をかけて身を乗り出し、揺らめく水面に向かって飛び込んだ。



 バシャーン!!



「きゃあっ」という悲鳴は潜るとすぐに遮断された。

 水を吸った服が枷になり、手足の自由を奪う。

 僕は深い水槽の下へ向かって必死にもがいた。


 穏やかな水槽の中で突如起こった異変に気づいて、ルカが顔を上げた。


「ルカ!」

「ルカ!」


 必死に名を呼ぶ僕の声は、気泡となって海面に向かっていく。


 ゴボゴボッ!


 肺の中の酸素を使い切ると、しょっぱい海水が喉の奥に流れ込んできた。


「はると!!」


 焼け付くような鼻と喉の痛みと、呼吸できずに圧迫される胸の苦しみ。


 そんな中で、僕の耳に初めてルカの声が届いた。


 甘く透き通った、鈴の鳴るような美しい声。


「はると! 」


 背景が透けた腕で僕を抱きとめる。


 彼女の声も華奢な腕の感触も、すべては白昼夢の中のものなのに、確かにそれらが僕の感覚神経を刺激していた。


「ルカ!行かないで!

 君が好きだ!」


 呼気を使い切り、声にならないはずの僕の思いが青白い静寂の中で響く。


 必死で腕を伸ばして、ルカを抱きしめる。

 遠のく意識の中、僕は確かにルカに触れている。


「はると。ガ……ら、……てね」


 脳に届くルカの声も途切れ途切れになっていく。


 彼女の唇が僕の唇に触れるのと、救出に来たダイバーが僕の腕を引き上げるのと。

 その感触が脳に伝わった瞬間に、僕の意識はシャットダウンした。







 気がついたときには、僕は病院のベッドに横たわっていた。

 オーシャンブルーの中に溶けてしまったルカを残し、僕はひとり現実の浜辺に押し戻されたのだった。


 🐡


 あれから三ヶ月が経った。


 今日も僕は放課後に大水槽の前に立つ。


 ルカの姿は見えない。

 ガラスの向こうの竜宮城では、乙姫の存在を忘れたかのように魚たちが淡々と泳いでいる。


 僕の手元に残った玉手箱には、目には見えない宝物が入っていた。

 それは、彼女の声、そして彼女の肌と唇が僕の脳に刻んだ感触。

 ルカが確かに存在していたという大切なあかしだ。


「今日はね、初めてクラスの奴と学食に行ったよ。

 ちょっと緊張したけど、それなりに楽しかったし美味かった」


 オーシャンブルーの空虚に向かって話しかける。


「今度の週末は、ダイビングスクールの講習に行くんだ。

 潜れるようになったら君を探しに行くよ」


 広い海のどこかに、君のいる竜宮城がきっとあると信じてる。


「だから待ってて。世界じゅうの海を潜って、君を探すから……」


 いつもルカと手を合わせていた分厚いガラスにそっと手を添えた。





 そのとき──





「はると」



 鈴の鳴るような、軽やかに透き通る声。



 振り向いたその先にいたのは──




「……ルカ?」




 ガラスのこちら側で、二本の足で立って微笑む彼女だった。


「しばらく歩いてなかったから、リハビリに時間がかかっちゃって。

 待たせてごめんなさい」


 ゆっくりとした足取りで、ルカが近づいてくる。


「どうして……?」


 大きな驚きと喜び、そして軽い戸惑いに言葉の出ない僕を察して、ルカがくすりと笑った。


「人魚じゃなくて驚いた?

 私ね。ずっと病院で眠っていたの」


 その言葉がすぐには飲み込めずに聞き返す。

「病院? 入院していたってこと?」


「うん。一年前に家族で交通事故に遭って、私だけが生き残って……。

 現実世界に戻るのが怖くて、意識の海をずっと揺蕩っていたの」


「そんな辛い出来事が……。

 でも、そんな君がどうしてここに?

 しかも……人魚になって……」


 僕が尋ねると、彼女は分厚いガラスにそっと手を添えた。


「マーメイドになるのが夢だったからかな」


 青い光に照らされて揺らめくガラスの向こう側を、ルカがじっと見つめる。


「この水族館が大好きで、小さい時に両親とよく来ていたの。

 気がついたら、この大水槽の中で魚たちと泳ぐようになっていた。

 ずっとこの中で泳いで暮らすのも悪くないって思ってた。

 ……はるとが、私を見つけてくれるまでは」


「ルカ……」


「はるとが私に会いたいって思ってくれたから、現実世界に戻る勇気が持てたんだよ。

 私もガラスのこちら側で、はるとに会いたいって思うようになった」


 はにかむ笑顔に、熱い思いが満ち潮のように静かに心にこみ上げてきた。


「僕もルカに会いたかった。

 会いたいって思ってくれてありがとう」


 ガラスのこちら側に置かれた華奢な手に、僕はそっと手を重ねる。


「おかえり。そして初めまして。

 僕は久住遙斗」


「ただいま。そして初めまして。

 私は山崎瑠花。これからよろしくね」


 重なり合った手の温もりが、柔らかさが、僕の心にゆっくりと染み込んでいく。


「ダイビング、いいね。

 私も一緒に免許取ろうかな。

 本当の海に潜ってみたい」


 瑠花が黒い瞳を輝かせて微笑んだ。


「うん。一緒に潜ろう。

 僕も君と一緒に泳ぎたいって、ずっと願っていたから」


 彼女の手に触れたまま、僕は目の前の人魚に微笑みを返した。




 ガラスの向こうの竜宮城が、オーシャンブルーの光の中で優しく揺らめいていた。




 🐡 fin 🐡

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アクアリウムマーメイド 侘助ヒマリ @ohisamatohimawari

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