ヤムシラの林檎

赤坂 パトリシア

Iamcilla et Antedrig

「あんた、ちょっと。そこのあんたよ」


 鬱蒼と茂った生垣の向こうから声をかけられて、アンテドリグは立ち止まった。年の頃は11歳。土着の子供の常でその手足は伸びやかで、体の運びは軽やかだ。目と髪は暗く、破れた布のチュニックの上から毛皮をまとっている。


「ここよ、見えないの?」

 声は再び、アンテドリグに呼びかける。

「は?」

 思わず間の抜けた声をあげると、

「ああ、もうっ!」と、声の主は苛立ったような口調でガサゴソと茂みをかき分けて顔を突き出した。


 アンテドリグと同じぐらいの年頃の女の子だ。褐色の肌に縮れた髪の毛をしているが、言葉はアンテドリグと同じだった。

(……ローマ兵の妾の子だ……)

 腹の中で何かがきゅっと強く縛られるような感じがした。


 アンテドリグの父は、ローマとの戦いで死んだという。

 実際に戦いの記憶があるわけではないが、母から聞かされる話はどれも恐ろしく、アンテドリグはローマの兵隊たちを信用していない。アンテドリグの家がローマ兵たちが来る前までは、この地域のまとめ役だったのだ、ということもまた、耳にタコができるほど聞かされている。

 戦いの後には、アンテドリグの伯父が、地域のまとめ役としてローマから任命された。そのうちに「王」として市民権を与えられるのではないかとの噂だ。「裏切り者」と、母は罵ったが、伯父がローマについたからこそ、アンテドリグも母も生きているのだと、伯父は少年に説く。部族を救う交渉の最中に反乱を起こそうとしたアンテドリグの父こそが問題の種だったのだと。

 アンテドリグにとってはどうでも良い話だったが、母から聞かされるローマへの憎悪は、しっかりと少年の心の片隅に巣食っていた。

 だから、アンテドリグの返事は素っ気なかった。


「あんたにあんた呼ばわりされるいわれはない」


 よほど口調が不機嫌だったのだろう、少女はひるんだように、口を開けたり閉じたりした。それから、ちょっと泣きそうな顔になった。


「ごめんなさい。でも、今日はだれもここを通らなかったから……」


 アンテドリグはちょっと驚いて、少女の顔をまじまじと見た。

 もう日も斜めになるような時刻だ。


「まさか……朝からここで待っていたのか?」


 少女は、ただ首をこくっと縦に振った。


「誰かにお願いしたかったんだけど、屋敷の中の人には頼めないし……」


 その声の真剣さにアンテドリグは思わず少女の目の前に座り込んだ。



「母さんが、帰ってこないの」と、少女は言った。

「外の村に行ってくるって、林檎が実る頃には帰ってくるって言ったのに、林檎はなったのに、まだ帰ってこない」


 見ると手には真っ赤な果実が握られていた。

 アンテドリグはその大きさに呆れる。


「それ林檎なのか? 途方もない大きさだな」


「ローマの林檎よ」

 少女はつん、と鼻を上にむけた。生意気そうな表情だったが、もう腹は立たなかった。


「お前の母さんは、いつ、いなくなったんだ?」


「今年の頭」


 少女の声は小さくなった。いくらなんでも相当前だということは自分でもわかっているに違いない。 


「私とおなじ、ヤムシラという名前。本当に外の村にいるか、元気にしているかだけでも知りたいの」


 ヤムシラ、という名の女はアンテドリグの村にはいない。そう言うと、目前のヤムシラが目に見えて肩を落としたので、アンテドリグは慌てて付け加えた。近隣の村だったらいるのかもしれない。今日帰ったら母親に聞いておこう。明日の今頃、もしもここに来れるんだったらおいで。来てやるよ。




 「ヤムシラ?」


 アンテドリグの母は眉をひそめた。


 「うん。そういう名前の人を、母さん知っている?」


 アンテドリグは帰りがけに森で拾ってきた小枝を床に落とすと、壺に手をかける。


「知っていたわ」 

 母親はゆっくりと言葉を選ぶように言った。

「ここの、ではなくて、西の部族の人よ」


「西の……」

 戸口でアンテドリグの足が止まった。西の部族はアンテドリグの部族とは異なり、最後まで抵抗を続けた。男の多くが殺され、生き残った者は奴隷として連れて行かれたはずだ。


「——そう」


 西の部族から来たのであれば「ヤムシラ」が奴隷でないはずはなかった。少女の縮れた髪の毛と、褐色の肌が脳裏によみがえる。父親はどう見ても、外国とつくにの者だったが——奴隷の子供は、やはり、奴隷なのだった。父親が誰であるにせよ。



 ヤムシラという名の女が、村に来たという話は——近隣の村も含めて——聞いていない、と母親は言った。




 ヤムシラは、アンテドリグの話を聞いても泣かなかった。

 唇をきゅっと一文字に結んで、ほんのわずかうつむいたかと思うと、「ん」と赤い果実を生垣の向こうから突き出した。


「え」

 アンテドリグは戸惑って少女を見た。


「食べて」

 少女は小さな声で言った。

「母さんが帰ってこないんだったら、いい。それはあんたにあげる」


「——お前が食べたらどうだ?」

 と、アンテドリグが言うと、ヤムシラは呆れたような視線を投げた。


「私はいつでも食べれるもの」


 アンテドリグは改めてヤムシラを見つめる。奴隷の少女は、少なくともアンテドリグよりはずっと小綺麗で、清潔な布のチュニックを身につけていた。見た目だけで言えば、貧しいのはアンテドリグの方だった。

 けれどアンテドリグは自由の身で、母と一緒に暮らすことが許されている。この少女が唇を引き結んで、何かに耐えている時に。


 アンテドリグは素直に林檎を受け取った。ややためらった後、少女の視線に促されるように、赤い実に歯を立てた。


「……!」

 想像もしなかった強烈な甘みと芳香にアンテドリグの目が見開かれた。舌の上を流れる果汁は今までアンテドリグが知っていたどの野生の林檎とも違うものだ。


「……また、お話をしにきてくれる?」

 と小さな声で少女は尋ねた。





 少年と少女はその後幾度も生垣越しに会話を交わした。ヤムシラはアンテドリグにラテン語を教え、アンテドリグはヤムシラに外の話をした。アンテドリグは林檎の種を自分の家の周囲に植えた。出てきた芽は3本の苗になった。そのうち2本がすくすくと育った。

 やがてヤムシラの胸が丸みを帯びてくる頃、少年と少女は自然と遠のいた。アンテドリグは伯父の手伝いをして部族をまとめるようになっていたし、ヤムシラもまた——本人的には遺憾なことに——美しい娘に育ちつつあった。奴隷の娘にとって美しさが呪いなのか祝福なのか、見極めるべき季節が始まっていた。



 次にヤムシラとアンテドリグが出会ったのは、二人が大人へのとば口に立った頃だった。アンテドリグの部族内で反乱の計画が見つかったのだ。近隣の村との連携を図っていたその計画を偶然に見つけてしまったのがアンテドリグだった。生まれて初めて人を殺し首謀者を捕らえて伯父に伝えると、「でかした」と頭をぐしゃぐしゃに撫でられた。

 伯父は、アンテドリグを報告に伴った。この頃にはすでにアンテドリグは「屋敷」が屋敷などではなく兵営であること、やがて宮殿へと建築し直されるであろうことを理解していた。しかし初めて足を踏み入れた「屋敷」の大きさと、そこに存在する文化に青年は圧倒された。絵画、布、果物、音楽、驚くほどの色彩。

 なんだこれは。なんだこの豊かさは。父は——そして自分が捕らえたあの者達は——これだけの力と戦おうとしていたのか。


 「——隊長はもうすぐいらっしゃいます。なんでも必要なものがおありでしたら、お申し付けくださいませ」


 口をぽかんと開けて周囲を見回しているアンテドリグを、低く柔らかい女の声が現実に引き戻した。目前に跪いているのは豊かな縮れ髪を上に結いあげ、扇情的な紅をさし、なめらかな首筋を無防備に露わにしたヤムシラだった。


「今夜の褒美らしい」と、伯父がことも無げに言った。




 「うら若き英雄の誕生だな」

 隊長はことさら上機嫌で杯を口に運んだ。「しかも、ラテン語がなかなか流暢だ。良い甥ごを持たれた。さて、褒賞に何が欲しいかな、英雄殿は?」


 アンテドリグは言葉につまる。そのようなことは伯父が処理してくれるものだと決めてかかっていたのだ。困惑の視線を伯父に投げかけたが、ローマを相手に今まで粘り強く交渉を進めてきた伯父も、宴の席を楽しんでいるのか、今回ばかりは面白そうに、にやにや笑うだけである。困って周囲を見回すアンテドリグの視線を、懇願するようなヤムシラの視線が捕らえた。


 「あの、それでは——奴隷の娘を一人。ヤムシラを、いただけますか」


 「おや、若き英雄殿はお盛んだ」「まあ、まだやりたい盛りだ」

 部屋のどこからか茶化す声があがり、青年は真っ赤になった。自分の要請がそのようにとられるなど、思ってもみなかったのだ。


 「よかろう。そのように」

 隊長は青年の戸惑いを好もしげに眺めた。

 こうして、ヤムシラはアンテドリグの手中におさまった。あたかも、熟れた林檎が木の枝から落ちてくるように。




 ここが俺の家だ、とアンテドリグはヤムシラを自分の小さな小屋へ招き入れた。

 母が他の男の元へ嫁いで2年。一人で暮らしてきた小さな小屋は土床で、屋敷の中を見てしまった後ではなおさら殺風景だった。


 「見ればわかるだろうが、何もない」


 申し訳ない、と思った。奴隷であっても、ここよりはずっとましな場所で暮らしていたヤムシラをこんな小屋に押し込めるのが。


「でも、あなたはいる」


 ヤムシラは一歩近づくとでくのぼうのように突っ立っている青年の両腕を自分の体の周りに回した。だからあなたは、私を抱きしめるといい。

 潤んだ目に背を押されるように娘を抱きしめ、その髪にくちづけると、しなやかな体がアンテドリグにぎゅっと押し付けられた。

 あなたは、このまま私をあの毛皮のしとねに連れて行くといい。そして、私を隅々まで知り、私の中に入ればいい。——大丈夫。私は壊れない。

 耳元で低く囁く声に、鼓動が跳ねる。両手で顔を包み覗き込むと、しかし、妖艶な言葉を囁いていた女は、初めてあった生意気な少女のように精一杯気を張った顔をしていたので、アンテドリグは思わず喉の奥につっかえたような小さな笑いをこぼす。

 「わかった」


 そして、アンテドリグは、ヤムシラが言ったように、した。



 小屋の周りには林檎の果樹園ができた。

 鬱蒼と茂った森は、やがて切り開かれ、なだらかな丘になり、幾度となく戦いに踏みにじられた。ヤムシラの林檎はひっそりとその中を生き延びた。

 十と五世紀を超える時が過ぎた頃、ヤムシラの縮れた髪とアンテドリグの伸びやかな四肢を持った一人の少女が、今はもう誰も知ることのないヤムシラの果樹園跡から大切に2株の林檎の苗を掘り起こす。

 デザイア切望と名付けられた清教徒の少女は、この林檎の苗を新大陸へと持ち運び、褐色の肌の少年の目をその類稀たぐいまれなる甘さで丸くさせる。

 ちょうどかつてアンテドリグが誰一人としてブリトン島に知る人のいなかった林檎の味に目を丸くしたように。


 けれど、それは、ずっとあとのこと。ヤムシラの最初の林檎が枯れてからずっと、ずっと、あとの、おはなし。


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ヤムシラの林檎 赤坂 パトリシア @patricia_giddens

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